月影に濡れる

しらかわからし

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第4章:松谷和永と愛原麻衣子

第3話 前編:弁当の蓋に宿る想い

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私は、オヤジさんの少し年季の入ったノートパソコンを借りた。

キーボードを叩く指先には、自分でも驚くほど力がこもる。和永さんが魂を込めて作る料理に、相応しい「正装」をさせてあげたかった。丁寧なフォントを選び、フランス料理の華やかさと、この島の素朴な手触りが共存するようなラベルを作成していく。



プリントアウトした白い紙を、ひとつひとつお弁当の蓋に貼り付けていく時間は、私にとって密やかな儀式のようだった。蓋を閉めるという行為は、和永さんの情熱を私だけが最後に封じ込める作業のように思えて、胸が震える。

 私のこの手つきが、料理に新しい命を吹き込んでいるのだと、背中越しに和永さんの気配を感じながら、私は独りよがりな優越感に浸っていた。

 和永さんは、かつて東京の店でもこうしてラベルを貼っていたという。

「料理は、味はもちろん、見た目と言葉による説明でその価値の半分が決まる」

彼が語る経営者としての、そして料理人としての揺るぎない美学。その言葉を聞くたび、私は彼という巨大な山の一部を共有している実感を覚え、深い安らぎを得る。

 けれど同時に、その完璧な背中を見つめていると、私の中に潜む康彦への後ろ暗い情念が、白日の下にさらされるような恐怖も感じていた。

 厨房の空気は一変し、和永さんの集中力が鋭い刃のように研ぎ澄まされていく。まずは、漁協で手に入れたばかりの立派な鱸スズキの処理からだ。

 大きな出刃包丁が迷いなく入り、骨や頭が鮮やかに取り除かれていく。その迷いのない手つきは、まるで一流の外科医の執刀を見ているようだった。身を柵取りし、昆布で締める。旨味を凝縮させるためのその執拗なまでの工夫。彼は一滴の水分さえも許さず、食材の命を極限まで引き出そうとしている。

驚いたのは、和永さんが鱸の腸さえも大切に保存していたことだ。

 「魚介の腸は、旨味が詰まっているからね」

そう言って、後で酒の肴にするのだと微かに笑う彼の横顔。食材の命を余すことなく使い切るその姿勢に、私は畏怖に近い尊敬を抱く。都会の贅沢を知り尽くした彼が、この最果ての島で自然への敬意に立ち返っている。

 その気高さに触れるたび、私の心は洗われるようでありながら、一方で、康彦との汚れた記憶を必死に隠そうとする卑屈な自分を意識せずにはいられなかった。

 魚の骨から引かれる「フュメ・ド・ポワソン」。

大きな鍋に玉葱や人参を入れ、オリーブオイルでじっくりと炒める。そこへ魚のアラを加え、白ワインを注いだ瞬間に立ち上がる、ジューッという激しい音と芳醇な香り。厨房の空気が一気に湿度を帯び、和永さんの放つ熱気と混ざり合う。

 私は立ち働く彼の広い背中を見つめながら、その肩越しに漂う黄金色の湯気を肺の奥まで吸い込んだ。この人の助手でいられること、そして夜にはその腕に抱かれること。その幸福は、あまりにも眩しすぎて、時折視界が白く霞むほどだ。

 「和永さん、次はどうしましょうか」

私は、あえて明るい声を出す。自分の内側に沈殿する暗い情念を、この香ばしい出汁の匂いで、今はただ、強引に上書きしてしまいたかった。

 ――つづく。
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