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雨降る窓辺で
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1
外の雨音が静かになり、時折ぴちゃん、ぴちゃんと、どこかから水の滴る音だけが残っていた。 基樹は手にしていた資料を閉じ、ぐーっと背中を反らして伸びをした。 肩と首が重く、目の奥がじわりと痛む。 ビールの空き缶を片手に、キッチンまで歩いていく。 冷蔵庫の前でしばらく立ち尽くしたが、もう一本を取る気にはなれなかった。
「……そろそろ寝るか」
リビングの明かりを落とし、続く和室の襖をそっと開ける。
布団には、娘のすみれが『すう、ぴい』と鼻を鳴らしながら眠っていた。 その隣には、寝かしつけていたはずの修一が、同じように布団に入って眠っている。 ふたりは、手を繋いでいた。
(……一体どうして、こんなことになったのか)
基樹は、ふたりの寝顔を見つめながら、静かに息を吐いた。
*
事の始まりは、三ヶ月前に遡る。
その日も、雨が降っていた。
朝から降り続いていた雨で、道路は濡れて滑りやすくなっていた。 ニュースでは「スリップ事故にご注意を」と繰り返していたが、まさか自分の身に降りかかるとは思っていなかった。
車がスリップして、歩道に突っ込んだ。 巻き添えになったのは、たまたまそこを歩いていた数人。 その中に、基樹の妻――さながいた。
あまりにも突然で、あまりにも理不尽だった。
妙に現実感がないまま、通夜と葬式が終わり、さなの骨壺だけがマンションに戻ってきた。 リビングの片隅に置かれた白い箱が、ただ静かにそこにある。
まだ5歳のすみれが、どこまで理解しているのかはわからない。 「ママは?」と聞かれるたびに、胸が締めつけられた。
何の準備もないまま、いきなり大海原に放り出されたような感覚だった。 しばらくは実家の両親が手伝いに来てくれていた。 「すみれを実家で預かろうか」という話も出たが、保育園のことや引っ越しの手間、そして何より、すみれ自身が「パパと一緒がいい」と言った。
「とにかく、やってみる」
そう言ったものの、家事も子育ても、思うようにはいかなかった。 朝はバタバタ、夜はぐったり。 すみれの髪を結ぶのも、弁当を作るのも、洗濯物を干すのも、全部がぎこちなくて、時間ばかりが過ぎていった。
そんなときだった。 修一から連絡が来たのは。
連絡は、突然だった。 真夜中、スマホの画面に「修一」の名前が表示されたとき、思わず眉をひそめた。
『今、どうしてる…?』
滅多にLIMEなんてしてこないやつが、こんな時間に。 しかも、用件もなく、ただそれだけ。
『どうもしてねえ』
布団の中でそう返すと、すぐに既読がついた。
『眠れてるか?』
『いや…あんま、眠れねえ…』
既読がついて、しばらく経ったあとに、ぽつりと届いた。
『今度、そっちに行ってもいいか…?』
(どうして…?)
『なんもねえぞ』
『酒、持っていってやるよ。ついでに料理も作ってやろうか?』
『それは助かる』
『じゃ、また』
『ああ』
そんなやりとりで、本当に来るとは思っていなかった。
けれど翌日、修一は本当にやってきた。 玄関を開けた瞬間、「うわ! 汚え!!」と叫び、散らかった部屋を勝手に片付け始めた。 料理を作り、すみれの相手までしてくれた。
「何か手伝う…」と声をかけると、
「てめえは邪魔だから座ってろ」
と一蹴され、基樹はただ呆然と見ているしかなかった。 修一は昔から器用だった。 手際よく家事をこなし、すみれの髪を結んでやり、夕飯を整えた。
すみれが眠ったあと、修一は仏壇の前に座り、手を合わせた。 そして、ぽつりとつぶやいた。
「……辛いな」
その一言で、張り詰めていた何かが、ぷつんと切れた。
子どもの前で、親の前で、誰の前でも泣いてはいけないと思っていた。 自分がしっかりしなければと、気を張っていた。 それなのに、どうして――
(よりによって、こいつの前で、泣くのか…?)
高校時代のように喧嘩をすることはなくなったけれど、仲良しというわけでもない。 友達というのも、どこか違う気がする。 こんな姿を見せたら、また何か言われるかもしれない。
それでも、涙は止まらなかった。
「っ……?!」
修一は、何も言わずに基樹の背中を抱きしめた。
(なん、で……?)
言葉にならなかった。 ただ、無言で抱きしめ続けてくれた。 基樹は、いつの間にか修一の背中に縋りつき、その夜は電池が切れたように眠った。
*
それから、修一は週に一度、ふらりとやってくるようになった。 最初は「手伝いに来た」と言っていたが、次第に週の半分はこの家にいるようになり、 最近では、ほとんど“帰ってこない”日がない。
すみれも、すっかり懐いていた。
「しゅうくん、かえっちゃダメ!! すみれといっしょにねんねして!!」
と、修一を玄関で引き留めることもある。
そして今、ふたりは手を繋いで眠っている。その寝顔を見て、基樹はまた、ふっと笑った。
基樹は、すみれの額にそっとキスをして、布団に寝転がった。
(修一が来るようになって、少しだけ眠れるようになった)
そう思いながら、リビングの明かりを落とす。 静かな夜。 雨は、もう止んでいた。
2
修一は、高校時代のライバルだった。
基樹はバスケ部、修一はバレー部。 どちらも背が高く、運動神経も良くて、それぞれのチームのエースだった。 何度となく体育館の使用時間を取り合い、どちらが体育祭でより活躍できるかを競い合い、 50メートル走や持久走のタイムまで張り合った。
とにかく、なんでも勝負。 うっとおしいことこの上なかったが、勝負を挑まれては受けて立つのが男というものだろう。 まんまとその勝負に乗っては、勝ったり負けたりを繰り返していた。
勉強面では、修一が圧倒的だった。 テストのたびに「また俺の勝ちだな」とニヤリと笑われるのが悔しくて、 一度だけ本気で勉強して挑んだことがある。 結果は、やっぱり負けだった。
運動神経では、まだ基樹のほうが分があった。 体育のバスケの試合でダンクを決めたとき、修一が悔しそうに舌打ちしたのを、今でも覚えている。
部活が違ったので、放課後に一緒に過ごすことはほとんどなかった。 ただ、同じクラスになったこともあり、何かの用事で連絡を取ることはあったから、連絡先だけは知っていた。
高校を卒業してからは、自然と疎遠になった。 大学も別々、進路も違う。 それでも、なぜか時々、修一からLIMEが届いた。
『元気か?』
『ああ』
そっけない返事をすると、それっきり。 また数ヶ月経つと、『生きてるか?』とだけ送られてくる。 まるで生存確認のようなメッセージ。
二人だけで話したことなんて、ほとんどなかったんじゃないかと思う。 だから、どうして今さら、こんなふうに世話を焼かれているのか、本当にわからなかった。
高校時代なんて、ほとんど睨まれていた記憶しかない。 体育館の隅で、バスケの練習をしているとき、バレー部の修一が無言でこちらを見ていた。 あの目つきは、どう考えても「てめえには負けねえぞ」ってやつだった。
それが今では、すみれの髪を結んでやり、夕飯を作り、洗濯物を畳んでいる。 「お前、主夫かよ」と言いたくなるくらい、手際がいい。
(何か企んでるんじゃないか?)
そう思わないでもない。 でも、実際、助かっているのも事実だった。
すみれは、すっかり修一に懐いている。 「しゅうくん、また来る?」と、目を輝かせて聞いてくる。
修一が来ると、家の中が少しだけ明るくなる。 すみれが笑う回数が増える。
(……なんなんだ、こいつは)
昔のように張り合うこともない。 でも、仲良しというわけでもない。 友達、という言葉もしっくりこない。
ただ、今、隣にいてくれる。 それだけで、救われている自分がいる。
「お前、ほんとに変わったな」
そう言うと、修一は「そうか?」とだけ返した。 その顔は、あの頃のままなのに、どこかやさしくなっていた。
3
「ただいま…」
「たっだいま~!!」
玄関のドアを開けると、マンションの奥からふわりといい香りが漂ってきた。 それだけで、基樹の胃がきゅうっと鳴る。 すみれは靴を脱ぐのもそこそこに、廊下をダッシュしてキッチンへ向かった。
「いいにおい! しゅうくんのごはん、すっごくおいしそうだねえ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら言う娘に、修一はニヤリと笑い、
「わかってるじゃねえか」
と、得意げに皿におかずを盛りつけた。
何の変哲もない、平日の夜。 けれど、修一がいるのが当たり前になってきていることに、基樹はふと気づく。
料理、洗濯、掃除――家事のほとんどは、今や修一がやってくれていた。 数日前、帰りが遅くなり、修一を待たせてしまったことがあって、合鍵を渡した。 そのとき、修一がほんの少しだけ嬉しそうな顔をしたのは、気のせいだったのだろうか。
「ねえねえ、あしたもつくってくれる?」
「ん~…、パパがいいって言ったらな?」
会話の矛先が基樹に向いて、思わず顔をしかめる。
「あ…?」
「ねえ~! パパ、いいでしょ?」
娘にかわいくおねだりされると、「あ、ああ…」としか言えなかった。
夕食を終え、すみれが眠ったあと。 基樹は、キッチンで洗い物をしている修一に、ふと小声で尋ねた。
「お前、仕事はどうしてんだ…?」
ここ最近、ほぼ毎日のように家にいる修一。 フリーランスと聞いているが、そんなにこちらに時間を割いて大丈夫なのかと、さすがに気になっていた。
「あ~、何? 俺の心配?」
「……あ、ああ」
「ちょっと仕事減らしてもらってるけど。独身だし、心配すんなって。なんとかなるから」
皿をすすぎながら、軽く言ってのける修一に、基樹は眉をひそめた。
「……それは、俺のせいか…?」
「別にてめえのせいじゃねえよ」
「じゃあ、なんでうちのことやってくれるんだ…?」
修一は後片付けを終え、タオルで手を拭きながらエプロンを脱いだ。 その動作はどこか雑で、落ち着きがなかった。
「んなこと、どうでもいいだろ…!」
投げやりな口調で言い、顔を背ける。
「…ここまでしてくれなくても、家や、すみれのことは、俺がなんとかする…」
「はあ?! てめえ一人じゃなんともなってなかったじゃねえか!!」
確かに、修一が来る前は、料理も掃除もろくにできず、家の中は荒れていた。 すみれの笑顔も、今よりずっと少なかった気がする。
「これからは…、ちゃんとやる…」
「ちゃんとって、何を?」
「……あー、料理がんばるとか…、家事代行頼むとか…? だから、お前が無理してここに来なくても…」
言いながら、自分でもどこか苦しい言い訳のように感じていた。
修一はギリ、と奥歯を噛み、基樹を睨みつけた。
「そんなに俺が迷惑かよ…?!」
怒ったような声に、基樹も思わず声を荒げる。
「あ?! んなこと言ってねえだろ…!!」
「そういうことだろうが…!!」
「俺のことより、お前の仕事とか生活を大事にしろっつってんだ…!」
「仕事よりも…!!」
修一が何か言いかけたそのとき――
「パパ…」
寝室からすみれが出てきて、基樹の足にしがみついた。
「わ、悪ぃ、起こしたか…?」
「ケンカ…?」
「ケンカじゃねえよ…」
修一がやさしく言うと、すみれは安心したようにあくびをした。
「もう寝ろ」
「ああ…」
基樹はすみれを抱き上げ、寝室へ向かおうとしたそのとき、修一のスマホが鳴った。 通知音が、やけに大きく響いた気がした。修一は舌打ちをして言った。
「今日は帰る…」
「……あ、ああ」
「また来る…」
「え? お、おい…!」
呼び止める間もなく、修一は玄関のドアを開けて出て行った。
基樹には、修一が何を考えているのか、やっぱりよくわからなかった。
4
少しでも修一の負担を軽くできないかと、基樹は家事代行サービスを調べてみたり、宅配弁当を頼んでみたりした。 けれど、どれもすみれには受け入れてもらえなかった。
「しゅうくんのほうがいい」
「しゅうくんのごはんのほうがおいしい」
「しゅうくんが、しゅうくんが――」
すみれの口から出てくるのは、修一の名前ばかりだった。
基樹も料理や洗濯をがんばってみた。 レシピを見ながら煮物を作り、洗濯物をたたんでみた。 けれど、やっぱり修一のようにはうまくいかない。
だんだんと、腹が立ってきた。
(なんであいつは、あんなになんでもできるんだ?)
「教えてくれ」と頼んでも、
「俺がやった方が早いし、すみれも喜ぶだろ」と言って、修一はまた全部やってしまう。
今日は、すみれの髪をきれいに編み込んでいた。 まるで美容師のような手つきだった。
「お前、美容師か?」
そう聞くと、「ちげーし。ばっかじゃねーの」と鼻で笑われ、基樹はますます憤った。
(なんなんだ、こいつは)
そんなある晩。 すみれが寝てから、ふたりでテレビを見ながら晩酌をしていたとき、修一のスマホが鳴った。 LIMEの通知音。 画面をちらりと見た修一の表情が、ふっと緩んだ。
「……女か?」
思わず聞いてしまった。 修一は、じろりと基樹を睨んだ。
「はぁっ…? 違ぇわ。仕事の連絡だ…!」
「ああ……悪い」
立ち入ったことを聞いてしまったと、少しだけ後悔した。
そういえば、今までこんな話をしたことがなかった。 修一はモテる。 学生時代から、女子にキャーキャー言われていたし、今でもきっと恋愛には困っていないだろう。 けれど、「彼女がいる」と聞いたことは一度もなかった。
「てめえこそ、作らねえのか?」
修一が言った。
「……あ?…何を?」
「女」
「おんな……?」
そんなこと、考えたこともなかった。 日々の生活で手一杯だし、妻は彼女だけだ。 再婚なんて、考えられない。
「なんか、そういうこと考えられねえかも……」
「……あっそ」
修一が安堵したことに、基樹は気づかなかった。
「てめえがいるから……」
「は? 俺が邪魔か?」
また睨まれる。 基樹は慌てて首を横に振った。
「いや、そうじゃねえ……。てめえがいてくれると助かるから……。すみれも懐いてるし……。ムカつくけど、…ありがとな」
素直にそう言うと、修一は目を見開き、そして顔を赤らめた。
「……俺でよければ、いてやるよ」
「や、でも、お前も仕事あるだろ。無理すんな……」
そのとき、和室の襖がゆっくりと開いた。
「しゅうくん、いっしょにねよ……」
寝ぼけまなこのすみれが、ふらふらと出てきて、修一の足にしがみついた。
「ああ、今行く。待ってろ」
修一は言って、布団の上に転がり、すみれの胸をトントンと優しく叩いた。
その姿を見て、基樹は思った。
(この穏やかな時間が、長く続けばいいのに)
それは、願いにも似た、祈りのような気持ちだった。
5
最近、修一が基樹の家に来なくなった。
最初の数日は「仕事が忙しいのかもしれない」と思っていた。 けれど、すみれは日に日に不満を募らせていった。
「しゅうくん、つぎはいつくるの?」
「しゅうくんのホットケーキ食べたい!」
「しゅうくん、なんで来ないの?」
そのたびに、基樹は曖昧に笑ってごまかした。
「あいつも仕事忙しいんだろ。また来てくれるように頼んでみるから、もう今日は寝ろ」
「……はぁい」
すみれは不服そうに返事をして、布団に潜り込んだ。 その背中が、少しだけ寂しそうに見えた。
修一が一週間も顔を見せないなんて、最近ではなかった。 あいつのことだ、何かあれば一言くらい連絡をよこすはずだ。 それが、何の音沙汰もない。
(……体調でも崩してるのか?)
心配になって、基樹はスマホを手に取った。 LIMEの既読はついていない。 思い切って電話をかける。
数回のコールのあと、ようやく繋がった。
『はい……』
修一の声だった。けれど、どこか不機嫌そうで、息が荒い。
「悪い、寝てたか……?」
『んっ……はぁ……だい……じょ、ぶ……』
吐息混じりの声に、基樹は眉をひそめた。
「……調子、悪ぃのか?」
『あ、ぐっ……ちがっ……』
苦しそうな声。 息が乱れていて、言葉になっていない。
「おい、本当に大丈夫か……?」
『うん、んんっ……あ……っ、だいじょ、ぶ、だから……』
「いや、でも……」
『……からっ、切れっ!』
突然、怒鳴るような声。 何かを必死に遮ろうとしているようだった。
「あ……?」
『電話……! 早、くっ……!』
そのとき、スマホの向こうから「ガッ!」という鈍い音が響いた。
『ぐっ……痛っ……! 待て……っ!!』
『もっと聞かせてやれよ!』
修一とは明らかに違う、低くて粗野な男の声がした。
「おい、誰かいるのか……?」
『ひっ……! やあああ゛っ……!!』
「おい、修一?! 修一!!」
叫んだ瞬間、電話はブツリと切れた。
「はぁ……?!」
思わず声が漏れる。 すぐにもう一度かけ直すが、もう出ない。 LIMEも既読がつかない。
(……誰かに殴られてる? 無理やり何かされてる……?)
あの修一が――?
(そんなはずない。あいつが、あんな声を出すなんて……)
修一は弱くはない。 喧嘩もしたことがあるが、自分と互角だった。身長もあるし筋力もある。 それが、あんなふうに苦しそうに、叫ぶような声を出すなんて。
(……何があった? 誰が、あいつに……)
胸の奥が、ぐらぐらと煮えたぎる。
(俺の大事なやつに、何すんだ……?)
怒りが、理性を追い越していく。
拳を握りしめ、立ち上がる。
「ぶっ飛ばしてやる……」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。 ただ、どうしようもない衝動が、口から漏れた。
修一のことを、こんなにも心配している自分に、基樹は気づいていた。 けれど、それをどう言葉にすればいいのかは、まだわからなかった。
6
翌週も、やはり修一は家に来なかった。 電話にも出ず、LIMEにも既読がつかない。 こうなると、基樹にはもう連絡手段がなかった。
修一の今の住まいも知らない――。
「くそっ……!」
イライラが募る。 スマホを握りしめたまま、基樹は深く息を吐いた。
(大体、アイツがうちに来なけりゃ、すみれも懐かなかったし、こんなに心配することもなかったのに……!)
けれど、もう放っておけなかった。 あの電話のあと、何があったのか。 あの声は、明らかにただ事ではなかった。
どうにもできないジレンマを抱えながら、仕事の合間にバスケ部の後輩たちに連絡を取った。
「誰か、バレー部のやつと繋がってないか?」
「修一の家、知らないか?」
何人かに聞いて回った末、ようやく一人の後輩が「知ってるらしいです!」と答えた。その後輩に連絡先を教えてもらうと、すぐに電話をかけた。
『おい、てめえ……修一の家、知ってんのか?!』
『ひっ……! 真田先輩……?!』
後輩は、急な連絡に明らかに怯えていた。
『修一の家、知ってんのか?』
『あ、はい。村瀬先輩の家、知ってます……、えっと、仕事で一緒したときに送ったことがあって……うちの近くで…』
『教えろ』
『え……? いいんですかね、連絡とってから……』
『教えろ! 緊急事態だ!』
『な、なんで……』
『いいから答えろ』
『は、はい……』
後輩は困惑しながらも、しぶしぶ答えた。
*
そんなわけで、基樹は修一の家の前で待ち伏せをしていた。 すみれは、今日は実家に預けてある。
(何があったのか、ちゃんと話を聞かせてもらう……)
そう決めて、じっとマンションの入り口を見つめていた。
やがて、修一が帰ってくる姿が見えた。
「おい、修一」
「……あ……? 基樹……っ?! なんでこんなとこに?!」
修一は目を丸くして立ち止まった。 その顔には、驚きと、どこか焦りのような色が浮かんでいた。
修一の後ろから、スーツ姿の男がマンションに近づいてきた。 一見、ただの住人かと思ったが、その男は足を止めて、低い声で言った。
「修一」
その声に、修一の肩がピクリと揺れた。
男は基樹よりも背が高く、がっしりとした体格で、スーツの上からでも筋肉質なのがわかる。 ただ者ではない雰囲気に、基樹は本能的に眉をひそめた。
「お前か……この前の電話のやつは」
男は薄く笑いながら、首を傾げる。
「なんのことだ?」
「しらばっくれんな!! こいつに何かしただろうが!」
基樹が一歩前に出ようとしたそのとき――
「おい、やめろ!」
修一が慌てて割って入った。 その顔は青ざめていて、どこか怯えているようにも見えた。
「基樹には関係ねえから、早く帰れ!」
「君が基樹か。修一から聞いてるよ」
「……なに?」
突然名前を呼ばれ、基樹は戸惑う。 その意味を理解する前に、修一の悲痛な声が響いた。
「やめろっ!!」
「修一の気持ちに、今でも気づいてないんだろう…? 本当に鈍感だな」
「はあ?」
「基樹、聞くな!」
「君はもう、ずっと前から修一を傷つけているんだ。修一のそばにいる資格なんかない」
「やめっ……!」
修一が必死に止めようとするのを、男は無視して続けた。
「修一は俺のものだ。お前には渡さない」
その言葉に、修一は唇を噛み、泣きそうな顔でうつむいた。
基樹は、何が起きているのか理解できず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
「もうこれ以上、修一につきまとうな」
男はそう言い残し、修一の肩を軽く叩いて、マンションの中へと入っていった。
残された基樹は、愕然としていた。
(傷つけた? 修一の気持ち? どういうことだ?)
頭の中が真っ白になり、何も言葉が出てこなかった。 ただ、修一の背中が遠ざかっていくのを、呆然と見送ることしかできなかった。
7
それから何度も、基樹は修一のマンションを訪ねた。 けれど、あの男が、まるで番犬のように張り付いていて、修一と話すことは一度もできなかった。
インターホンを押しても無視され、エントランスで待っていても追い返される。 ある日には、ついに警察まで呼ばれた。
「ストーカー行為はやめてください」と言われたとき、基樹は思わず声を荒げた。
「ストーカーはあの男だろうが!」
だが、通報された側の言葉など、誰も聞いてはくれなかった。
苛立ちを隠せないまま、それでも基樹は家に戻るしかなかった。 すみれには「しゅうくん、まだ来ないの?」と何度も聞かれたが、答えられなかった。
そんなある日。 スマホが鳴った。
画面に表示されたのは、修一のマンションを教えてくれた後輩の名前だった。
『真田先輩! 大変です!!』
「どうした?!」
『む、村瀬先輩が……、救急車で…!』
「どういうことだ?!」
『警察と救急車が、村瀬先輩のマンションの前に来てて……!』
後輩は動揺を隠せず、言葉が詰まっていた。
「警察と救急車……? おい、何があったんだ?!」
『俺、気になって見に行ったら、村瀬先輩が運ばれてて… とにかく、ぐったりしてて…動かなくて…!』
「どこに運ばれたか、わかるか?!」
『ちょ、ちょっと待ってください……! 確認して、また連絡します!』
後輩のネットワークを頼りに、修一が搬送された病院を突き止めた。
命には別条はないとわかり、後輩と一緒に、ようやく見舞いに行くことができた。
病室には修一以外おらず、ベッドの上に横たわる修一を見た瞬間、基樹は息を呑んだ。
顔には殴られた痕があり、頬は腫れ、口元にはまだかさぶたが残っていた。 手首には、何かで強く縛られていたような赤い痕がくっきりと残っている。 首元には包帯が巻かれていて、そこから覗く肌には、青黒いあざが浮かんでいた。
(……一体、どんな目に遭ったんだ)
怒りと、悔しさと、どうしようもない無力感が、胸の奥でぐらぐらと渦を巻いた。
「修一……」
思わず名前を呼ぶと、修一のまぶたがゆっくりと動いた。
「……あ……もと、き?」
かすれた声だった。 けれど、その声を聞いた瞬間、基樹の目に熱いものがこみ上げた。
「お前……何があったんだよ……」
修一は、何も答えなかった。 ただ、目を伏せて、唇を噛んだ。
後輩は「何か買ってくるものありますか? ちょっと売店行ってきますね」と気を利かせて病室を出て行った。
修一はベッドに横たわったまま、天井を見つめている。 基樹は椅子に腰を下ろしたものの、何から言えばいいのかわからなかった。
けれど、次の瞬間、感情が先に口を突いて出た。
「お前、何やってんだよ?!」
思わず怒鳴ってしまい、廊下を通る看護師に鋭く睨まれた。 基樹は小さく頭を下げ、ため息をついた。
「……いや、悪い。怒鳴るつもりじゃなかった」
修一は、かすかに笑ったような顔をした。
「……いや~、しくじったわ。あんなやつだったなんてな。びっくりだわ」
言葉は軽くても、目の奥には深い疲れがにじんでいた。
聞けば、あの男はすでに警察に捕まっているという。 けれど、証拠や証言の問題で、長くは拘束されないかもしれない。 出てくるのも時間の問題だろう。
「ざまあねえな」
基樹が吐き捨てるように言うと、修一はふっと目を伏せた。
「……俺、ほんと、見る目ねえわ」
ぽつりとこぼしたその言葉に、基樹はふと、あのときのことを思い出した。
(こいつの気持ちって……、俺のことが好きってことか…?)
けれど、高校時代からそんな素振りは一度もなかった。 勘違いだったのかとも思ったが、さなが亡くなってから、修一はずっと自分とすみれを支えてくれていた。 もしそれが「好きだから」だと言われたら――確かに、腑に落ちる。
「……あいつと付き合ってるのか?」
「……あー、うん。てか、別れたから、元カレかな」
言いにくそうに目を逸らす修一。
「……男が好きなのか?」
「……あー、まあ」
また沈黙が落ちた。
「……あの、あいつが言ってたの、ウソだから。気にすんなって。な。もう、お前の家には行かねえから。だから……」
声がかすれる。
「いやだ」
「は?」
「すみれがずっと待ってんだ。また来いよ」
「でも……」
「いいから! 絶対だ。退院したら、俺の家に来い!」
「いや、もう本当に行かねえから」
「なんでだよ?!」
苛立ちが声ににじむ。修一はため息をついた。
「正直、元カレが何するかわかんなくて。お前とは何ともないって言ってんのに、すげえ嫉妬してくるし……お前のとこに行ったら、お前やすみれに何かするって……」
「……脅しじゃねえか?!」
「んー、まあ、そんな感じ。だからさ。もうお前とは会わねえよ」
笑っているけれど、泣いているような顔だった。 そうやって脅されて、暴力を振るわれて、傷ついているのは修一のほうなのに。
「……ダメだ」
「ダメったって、これしか、お前とすみれを守る方法はないから……さ」
そんなことはないと、何か他に良い手はないのかと考える。基樹は先日見たニュースをふと思い出した。
「なあ、俺と、家族にならねえか?」
静かに響いたその言葉に、修一は目を瞬かせた。
「……は?」
何のことかわからず、修一は首を傾げる。
「同性でも、結婚できるやつ、あんだろ……?」
「……パートナーシップ制度のことか……?」
「そう。それだ」
基樹は真剣な顔で言った。 あまりにも突拍子もない提案に、修一は呆れたように息を吐いた。
「はぁ? 何考えてんだよ……? 意味わかってんのか?! 同性の結婚みたいなもんだぞ?!」
「俺たちがパートナーになって、周りに認めてもらえれば、お前を守れるだろ……? 何かあったら連絡が来るし、緊急の時には病院にも付き添いができるって…」
修一はしばらく呆然としていたが、やがて首を横に振って我に返った。
「いやいや、それじゃてめえに迷惑かかんだろうが……! 迷惑かけたくねえんだよ!」
「俺のことなんかどうでもいい……!!」
「どうでもよくねえっ……!!」
修一は食い下がるように言った。
「そんなパートナーになって、てめえが……もしかして、仕事失くしたり、世間から白い目で見られたら……?! すみれも……! 保育園でいじめられたらどうすんだよ?!」
その目には、涙が滲んでいた。
「んなことには、なんねえだろ……」
基樹はそう言いながら、心の中で問いかけていた。
――なんでそこまで心配する?
――なんで迷惑だと思うんだ?
――俺のことが好きだからなのか……?
基樹がじっと修一を見つめると、修一は目を逸らした。
「もう、お前らには関わらねえ……」
「イヤだ」
「しつけー……」
「おい、こっち向け」
修一が顔を背けたままなので、基樹はそっと修一の頬に手を当て、自分の方へ向かせた。
「俺は、もうてめえを犠牲にしてほしくねえし、これからも一緒にいてえ……」
「っ……」
ストレートな言葉に、修一の顔が熱くなる。
「パートナーだって、今までの延長みたいなもんだろ? ずっと一緒に暮らせばいい」
「っ……!! そんな簡単なことじゃ……!」
「簡単なことだ」
修一は、どんな顔をしていいのかわからなかった。
「でも……てめえに、彼女ができたら……?」
「俺はもう、女と付き合う気はない」
基樹がきっぱりと言うと、修一は顔を歪めた。
「いや、でも……そこまでしてもらう義理はねえよ」
「……あ? お前だって、俺とすみれを支えてくれてるじゃねえか。同じだ」
「同じじゃねえだろ…」
「同じことだ」
世間は? 風当たりは? すみれはどう思う? 色んなことが修一の頭をよぎる。
きっと、基樹はあまり深く考えていない。 でも、その無鉄砲さに、救われる自分もいる。
パートナーシップ制度は、結婚とは違い、法的な効力はない。 ただサインするだけのものだ。 それでも―― 形だけでも、例え一瞬でも、修一は嬉しかった。
「絶対、後悔するぞ…」
「しねえよ。今ここで、何もしない方が後悔する」
ああ言えばこう言う。修一はため息をひとつついてから言った。
「今だけだ。てめえに好きな人ができたら……パートナーシップは解消する、から」
「……てめえもな」
そんなことができたら、10年以上も苦労してない。 その言葉は、喉の奥で飲み込んだ。
きっと問題は山積みだ。 あの男がどう出てくるかもわからない。
けれど――
ちょうどそのとき、後輩が売店から戻ってきた。
「ポカリとゼリー、買ってきました」
基樹はそれを受け取り、修一の枕元にそっと置いた。
「……ありがとな」
修一がぽつりとつぶやいたその言葉に、基樹は「当たり前だろ」とだけ返した。
8
すみれと一緒にお見舞いに行くと、病室に入った瞬間、すみれの顔がみるみる真っ青になった。
「しゅうくん、おかお、どうしたの?!」
ベッドに横たわる修一の顔には、まだ腫れと痣が残っていた。
「ああ、ちょっと殴られて……」
「だれに?! すみれがおしおきしてあげる!!」
小さな拳を握りしめて怒るすみれに、修一は苦笑いを浮かべながら天井を見上げた。
「もしかして、パパとケンカしたの……?!」
すみれが驚いて振り返ると、修一が慌ててフォローに入る。
「おい! 違う……! 勘違いすんな、すみれ」
だが、すみれはぷいっと顔を背けて言った。
「パパ、サイテー!! ひどい!! でぃーぶい!! あっちいって……!」
「はあ?!」
一体どこでそんな言葉を覚えたのか、基樹は顔をしかめた。
すみれは修一のそばに駆け寄り、そっと頬を撫でる。
「しゅうくんかわいそう、いたいのいたいのとんでけ~!」
「ありがとな、すみれ」
修一が優しく微笑むと、すみれは満足げにうなずいた。 その様子を見ながら、基樹はしばらくショックを引きずっていた。
*
無事に修一が退院すると、すぐに基樹の家に一緒に帰った。 その夜、基樹はすみれに話したいことがあると声をかけた。
「すみれにも、話しておきたいことがある」
「なに~?」
すみれはきょとんとした顔で、ふたりの前にちょこんと座った。 修一は、どこかそわそわして落ち着かない様子だった。
「パパは、修一と家族になろうと思う。もちろんすみれも一緒に。いいか?」
「かぞく……?」
すみれが首を傾げると、修一は申し訳なさそうに口を開いた。
「イヤだったら、無理すんな……」
「しゅうくん、ママになるの?」
「えっ?!」
修一が思わず声を上げて固まる。
「いいや、ママは一人だけだ。修一は修一だ」
基樹が落ち着いた声で言うと、すみれは「ふうん」と頷いた。
「しゅうくんがかぞくだったら、いっしょのおうちにすめる?」
「ああ」
「お、おい……」
「いっぱいあそべる?」
「ああ」
「まあ……」
「うん、いいよ!」
すみれは満面の笑みで言った。 だが、修一はどこか困ったような顔をして、口を挟んだ。
「すみれ……あのな……」
「なに?」
「男同士で家族になる人って、あんまりいねえっつーか……。もしかしたら、すみれが友達に変なこと言われるかもしれねえんだ……」
「へんなことって……?」
「……変な家族、とか……」
「それってダメなの?」
修一が言い淀んでいると、基樹が静かに言った。
「いや、ダメじゃねえ。お互いがお互いを大切に思っていたら、それは変なことじゃねえ」
「そっか! ならいいよ!」
すみれの笑顔とまっすぐな言葉に、修一の目には静かに涙が滲んだ。
「……ありがとう、すみれ」
その声は、少し震えていた。
9
それから、ふたりはお互いの親に話を通し、役所にパートナーシップ制度の書類を提出した。
最初に話を切り出したとき、両家の親は驚いていた。 けれど、時間をかけて説明すると、意外なほどすんなりと受け入れてくれた。
「お前が決めたことなら、応援するよ」
「すみれちゃんのことも、修一くんがいてくれるなら安心ね」
そんな言葉に、修一は思わず涙ぐんでいた。
もっと世間から批判があるかと思っていた。 けれど、職場でもなぜか祝福ムードで――
「おめでとうございます!」
「なんか、真田さんらしいですね」
「え!すごいイケメンじゃないですか!羨ましい!」
と、思いがけないほど温かい言葉をかけられて拍子抜けした。
*
「しゅうくん、一緒に寝よう~」
すみれの声が響く夜。 修一は、ほとんど基樹と一緒に暮らしている。
最初は、基樹と一緒に修一のマンションへ行き、少しの荷物を持ってきただけだった。 けれど、気づけば生活用品のほとんどが基樹の家に揃っていた。
歯ブラシも、着替えも、調味料も。 冷蔵庫には修一の好きなヨーグルトが並び、玄関には彼のスニーカーが置かれている。仕事も在宅でできるようにしてもらっていた。
もう、帰る必要はないほどだった。
*
あれから、男からのアクションは何もなかった。 しばらくは、すみれの保育園を休ませたり、マンションの周りも警戒していたのに。
なんだか肩透かしを食らったような気もしたが、 修一の怯えが徐々に消えていくのを見て、基樹は心から安堵した。
夜中にうなされることも減り、 すみれと一緒に笑う時間が増えた。
「しゅうくん、きょうのごはんもおいしかった~!」
「おう、ありがとな」
「パパよりじょうず~!」
「おい」
そんな何気ないやりとりが、今では当たり前になっていた。
修一がそこにいること。 すみれが笑っていること。 そして、自分がその隣にいること。
それが、何よりも大切な日常だった。
ある日、すみれが寝静まったあと。 リビングのソファーに並んで座り、ぼんやりとテレビを眺めていた。
画面の内容はほとんど頭に入ってこない。 基樹は、隣にいる修一の横顔ばかりを見ていた。
(……なんか、キスしてえな)
理由なんてなかった。 ただ、そこに修一がいて、隣にいて、安心していて―― その存在が、たまらなく愛おしく思えた。
そっと身体を寄せる。
「おい、ちょ、待て……! な、なんか近くねえか……?!」
修一の身体が、反射的に基樹とは反対方向へ傾く。 けれど、基樹は構わず顔を近づけた。
その瞬間――
「っぶねえな……!」
修一の拳が頬をかすめそうになり、基樹は反射的に身を引いた。
「っ何すんだ……?!」
「こっちのセリフだ! キスはダメなのか?」
修一は目を見開き、腕を顔の前で交差した。
「……?! だ、ダメっつーか、てめえがダメだろうが!」
「別にいいだろ……?」
基樹が修一の腕をそっと退けようとすると、修一の身体がビクリと震えた。
「……っ?! こ、こういう意味の、パ、パートナーじゃ、ねえだろ……?! 無理すんじゃねえよ!」
その言葉に、基樹は少しだけ首を傾げた。
「なんか、こう……急に、てめえに……」
「……あ? んだよ……?」
「キスしたくなったっつーか……」
「……!?!?!」
修一はみるみる赤面した。 嬉しさと恥ずかしさが入り混じった表情で、顔を隠そうとするが、基樹に腕を掴まれていて隠せない。
「てめえに、触ってみてえ……」
その言葉に、修一は瞬時に首を横に振った。
「や……無理、やだ……!」
基樹は顔をしかめる。
「……ああ? なんでだ?」
修一は目に滲んだ涙を隠すように、顔を背けた。 そして、消え入りそうな声で言った。
「俺なんかに、興味ねえだろ…? ちゃんと家事もやるし、すみれの面倒もみる…。てめえが、無理すんじゃねえよ…。無理にくっついたり、キスしたり、色々しなくても…、ちゃんと…するから…」
「そうじゃねえ…。別に、家事やってもらうために、パートナーになったんじゃねえよ…」
「で、でも……それで……もしダメだったら……? てめえの傍にいられなくなる、だろ……?」
その言葉に、基樹は息を呑んだ。
今まで、どんなときも強がっていた修一が、こんなふうに弱音を吐くなんて―― 今にも泣き出しそうなその横顔を、基樹は初めて見た気がした。
基樹は大きくため息を吐いて、修一の胸に顔を埋める。
「んなことはねえ……」
「…?」
「俺が、てめえに触りてえんだ。あいつにも触らせたんだろ…?」
「…あ…?」
基樹は顔を上げて、修一の目を見つめて言った。
「あいつに触らせたとこ、触りてぇ。てめえの全部、俺のもんにしてぇ…」
「…っ?!」
修一は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。だが、基樹の真剣な眼差しに射抜かれ、息を呑む。
「……嫉妬、してんのか?」
基樹は気まずそうに黙ってうなずいた。その仕草に、修一は途端に顔を赤らめ、視線を逸らす。
「お、俺のこと……好きなのか?」
修一は自分の声が上ずっているのがわかる。これは夢か、冗談か――。 基樹は眉間に皺を寄せて、真っ直ぐに言った。
「ああ? 好きでもねえやつと、結婚するわけねえだろ」
修一は目を見開いた。
(まさか……)
こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。 パートナーシップはただのお情けで、基樹が自分を助けるためだけの手段だと、ずっと思っていた。
「……ウソだろ」
「ウソじゃねえよ」
(でも……今だけ。今だけは、俺のもんになってほしい)
たとえ、いつか基樹がまた女性を好きになったとしても―― 修一の目に、涙が滲む。
「……なあ、キスしてもいいか?」
そう言って、基樹はそっと修一の頬に手を添えた。 修一は観念したように、ぎゅっと目を閉じる。 基樹はふっと笑い、そして、優しく、そっと唇を重ねた。
触れたのはほんの一瞬。 けれど、修一の身体が小さく震えたのが、はっきりとわかった。
「……好きだ」
修一は何も言わなかった。基樹は修一の震えを抑えるように抱きしめる。修一はただ、目を閉じたまま、静かに涙をこぼした。 そして、ゆっくりと、基樹の背中に腕を回した。
外の雨音が静かになり、時折ぴちゃん、ぴちゃんと、どこかから水の滴る音だけが残っていた。 基樹は手にしていた資料を閉じ、ぐーっと背中を反らして伸びをした。 肩と首が重く、目の奥がじわりと痛む。 ビールの空き缶を片手に、キッチンまで歩いていく。 冷蔵庫の前でしばらく立ち尽くしたが、もう一本を取る気にはなれなかった。
「……そろそろ寝るか」
リビングの明かりを落とし、続く和室の襖をそっと開ける。
布団には、娘のすみれが『すう、ぴい』と鼻を鳴らしながら眠っていた。 その隣には、寝かしつけていたはずの修一が、同じように布団に入って眠っている。 ふたりは、手を繋いでいた。
(……一体どうして、こんなことになったのか)
基樹は、ふたりの寝顔を見つめながら、静かに息を吐いた。
*
事の始まりは、三ヶ月前に遡る。
その日も、雨が降っていた。
朝から降り続いていた雨で、道路は濡れて滑りやすくなっていた。 ニュースでは「スリップ事故にご注意を」と繰り返していたが、まさか自分の身に降りかかるとは思っていなかった。
車がスリップして、歩道に突っ込んだ。 巻き添えになったのは、たまたまそこを歩いていた数人。 その中に、基樹の妻――さながいた。
あまりにも突然で、あまりにも理不尽だった。
妙に現実感がないまま、通夜と葬式が終わり、さなの骨壺だけがマンションに戻ってきた。 リビングの片隅に置かれた白い箱が、ただ静かにそこにある。
まだ5歳のすみれが、どこまで理解しているのかはわからない。 「ママは?」と聞かれるたびに、胸が締めつけられた。
何の準備もないまま、いきなり大海原に放り出されたような感覚だった。 しばらくは実家の両親が手伝いに来てくれていた。 「すみれを実家で預かろうか」という話も出たが、保育園のことや引っ越しの手間、そして何より、すみれ自身が「パパと一緒がいい」と言った。
「とにかく、やってみる」
そう言ったものの、家事も子育ても、思うようにはいかなかった。 朝はバタバタ、夜はぐったり。 すみれの髪を結ぶのも、弁当を作るのも、洗濯物を干すのも、全部がぎこちなくて、時間ばかりが過ぎていった。
そんなときだった。 修一から連絡が来たのは。
連絡は、突然だった。 真夜中、スマホの画面に「修一」の名前が表示されたとき、思わず眉をひそめた。
『今、どうしてる…?』
滅多にLIMEなんてしてこないやつが、こんな時間に。 しかも、用件もなく、ただそれだけ。
『どうもしてねえ』
布団の中でそう返すと、すぐに既読がついた。
『眠れてるか?』
『いや…あんま、眠れねえ…』
既読がついて、しばらく経ったあとに、ぽつりと届いた。
『今度、そっちに行ってもいいか…?』
(どうして…?)
『なんもねえぞ』
『酒、持っていってやるよ。ついでに料理も作ってやろうか?』
『それは助かる』
『じゃ、また』
『ああ』
そんなやりとりで、本当に来るとは思っていなかった。
けれど翌日、修一は本当にやってきた。 玄関を開けた瞬間、「うわ! 汚え!!」と叫び、散らかった部屋を勝手に片付け始めた。 料理を作り、すみれの相手までしてくれた。
「何か手伝う…」と声をかけると、
「てめえは邪魔だから座ってろ」
と一蹴され、基樹はただ呆然と見ているしかなかった。 修一は昔から器用だった。 手際よく家事をこなし、すみれの髪を結んでやり、夕飯を整えた。
すみれが眠ったあと、修一は仏壇の前に座り、手を合わせた。 そして、ぽつりとつぶやいた。
「……辛いな」
その一言で、張り詰めていた何かが、ぷつんと切れた。
子どもの前で、親の前で、誰の前でも泣いてはいけないと思っていた。 自分がしっかりしなければと、気を張っていた。 それなのに、どうして――
(よりによって、こいつの前で、泣くのか…?)
高校時代のように喧嘩をすることはなくなったけれど、仲良しというわけでもない。 友達というのも、どこか違う気がする。 こんな姿を見せたら、また何か言われるかもしれない。
それでも、涙は止まらなかった。
「っ……?!」
修一は、何も言わずに基樹の背中を抱きしめた。
(なん、で……?)
言葉にならなかった。 ただ、無言で抱きしめ続けてくれた。 基樹は、いつの間にか修一の背中に縋りつき、その夜は電池が切れたように眠った。
*
それから、修一は週に一度、ふらりとやってくるようになった。 最初は「手伝いに来た」と言っていたが、次第に週の半分はこの家にいるようになり、 最近では、ほとんど“帰ってこない”日がない。
すみれも、すっかり懐いていた。
「しゅうくん、かえっちゃダメ!! すみれといっしょにねんねして!!」
と、修一を玄関で引き留めることもある。
そして今、ふたりは手を繋いで眠っている。その寝顔を見て、基樹はまた、ふっと笑った。
基樹は、すみれの額にそっとキスをして、布団に寝転がった。
(修一が来るようになって、少しだけ眠れるようになった)
そう思いながら、リビングの明かりを落とす。 静かな夜。 雨は、もう止んでいた。
2
修一は、高校時代のライバルだった。
基樹はバスケ部、修一はバレー部。 どちらも背が高く、運動神経も良くて、それぞれのチームのエースだった。 何度となく体育館の使用時間を取り合い、どちらが体育祭でより活躍できるかを競い合い、 50メートル走や持久走のタイムまで張り合った。
とにかく、なんでも勝負。 うっとおしいことこの上なかったが、勝負を挑まれては受けて立つのが男というものだろう。 まんまとその勝負に乗っては、勝ったり負けたりを繰り返していた。
勉強面では、修一が圧倒的だった。 テストのたびに「また俺の勝ちだな」とニヤリと笑われるのが悔しくて、 一度だけ本気で勉強して挑んだことがある。 結果は、やっぱり負けだった。
運動神経では、まだ基樹のほうが分があった。 体育のバスケの試合でダンクを決めたとき、修一が悔しそうに舌打ちしたのを、今でも覚えている。
部活が違ったので、放課後に一緒に過ごすことはほとんどなかった。 ただ、同じクラスになったこともあり、何かの用事で連絡を取ることはあったから、連絡先だけは知っていた。
高校を卒業してからは、自然と疎遠になった。 大学も別々、進路も違う。 それでも、なぜか時々、修一からLIMEが届いた。
『元気か?』
『ああ』
そっけない返事をすると、それっきり。 また数ヶ月経つと、『生きてるか?』とだけ送られてくる。 まるで生存確認のようなメッセージ。
二人だけで話したことなんて、ほとんどなかったんじゃないかと思う。 だから、どうして今さら、こんなふうに世話を焼かれているのか、本当にわからなかった。
高校時代なんて、ほとんど睨まれていた記憶しかない。 体育館の隅で、バスケの練習をしているとき、バレー部の修一が無言でこちらを見ていた。 あの目つきは、どう考えても「てめえには負けねえぞ」ってやつだった。
それが今では、すみれの髪を結んでやり、夕飯を作り、洗濯物を畳んでいる。 「お前、主夫かよ」と言いたくなるくらい、手際がいい。
(何か企んでるんじゃないか?)
そう思わないでもない。 でも、実際、助かっているのも事実だった。
すみれは、すっかり修一に懐いている。 「しゅうくん、また来る?」と、目を輝かせて聞いてくる。
修一が来ると、家の中が少しだけ明るくなる。 すみれが笑う回数が増える。
(……なんなんだ、こいつは)
昔のように張り合うこともない。 でも、仲良しというわけでもない。 友達、という言葉もしっくりこない。
ただ、今、隣にいてくれる。 それだけで、救われている自分がいる。
「お前、ほんとに変わったな」
そう言うと、修一は「そうか?」とだけ返した。 その顔は、あの頃のままなのに、どこかやさしくなっていた。
3
「ただいま…」
「たっだいま~!!」
玄関のドアを開けると、マンションの奥からふわりといい香りが漂ってきた。 それだけで、基樹の胃がきゅうっと鳴る。 すみれは靴を脱ぐのもそこそこに、廊下をダッシュしてキッチンへ向かった。
「いいにおい! しゅうくんのごはん、すっごくおいしそうだねえ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら言う娘に、修一はニヤリと笑い、
「わかってるじゃねえか」
と、得意げに皿におかずを盛りつけた。
何の変哲もない、平日の夜。 けれど、修一がいるのが当たり前になってきていることに、基樹はふと気づく。
料理、洗濯、掃除――家事のほとんどは、今や修一がやってくれていた。 数日前、帰りが遅くなり、修一を待たせてしまったことがあって、合鍵を渡した。 そのとき、修一がほんの少しだけ嬉しそうな顔をしたのは、気のせいだったのだろうか。
「ねえねえ、あしたもつくってくれる?」
「ん~…、パパがいいって言ったらな?」
会話の矛先が基樹に向いて、思わず顔をしかめる。
「あ…?」
「ねえ~! パパ、いいでしょ?」
娘にかわいくおねだりされると、「あ、ああ…」としか言えなかった。
夕食を終え、すみれが眠ったあと。 基樹は、キッチンで洗い物をしている修一に、ふと小声で尋ねた。
「お前、仕事はどうしてんだ…?」
ここ最近、ほぼ毎日のように家にいる修一。 フリーランスと聞いているが、そんなにこちらに時間を割いて大丈夫なのかと、さすがに気になっていた。
「あ~、何? 俺の心配?」
「……あ、ああ」
「ちょっと仕事減らしてもらってるけど。独身だし、心配すんなって。なんとかなるから」
皿をすすぎながら、軽く言ってのける修一に、基樹は眉をひそめた。
「……それは、俺のせいか…?」
「別にてめえのせいじゃねえよ」
「じゃあ、なんでうちのことやってくれるんだ…?」
修一は後片付けを終え、タオルで手を拭きながらエプロンを脱いだ。 その動作はどこか雑で、落ち着きがなかった。
「んなこと、どうでもいいだろ…!」
投げやりな口調で言い、顔を背ける。
「…ここまでしてくれなくても、家や、すみれのことは、俺がなんとかする…」
「はあ?! てめえ一人じゃなんともなってなかったじゃねえか!!」
確かに、修一が来る前は、料理も掃除もろくにできず、家の中は荒れていた。 すみれの笑顔も、今よりずっと少なかった気がする。
「これからは…、ちゃんとやる…」
「ちゃんとって、何を?」
「……あー、料理がんばるとか…、家事代行頼むとか…? だから、お前が無理してここに来なくても…」
言いながら、自分でもどこか苦しい言い訳のように感じていた。
修一はギリ、と奥歯を噛み、基樹を睨みつけた。
「そんなに俺が迷惑かよ…?!」
怒ったような声に、基樹も思わず声を荒げる。
「あ?! んなこと言ってねえだろ…!!」
「そういうことだろうが…!!」
「俺のことより、お前の仕事とか生活を大事にしろっつってんだ…!」
「仕事よりも…!!」
修一が何か言いかけたそのとき――
「パパ…」
寝室からすみれが出てきて、基樹の足にしがみついた。
「わ、悪ぃ、起こしたか…?」
「ケンカ…?」
「ケンカじゃねえよ…」
修一がやさしく言うと、すみれは安心したようにあくびをした。
「もう寝ろ」
「ああ…」
基樹はすみれを抱き上げ、寝室へ向かおうとしたそのとき、修一のスマホが鳴った。 通知音が、やけに大きく響いた気がした。修一は舌打ちをして言った。
「今日は帰る…」
「……あ、ああ」
「また来る…」
「え? お、おい…!」
呼び止める間もなく、修一は玄関のドアを開けて出て行った。
基樹には、修一が何を考えているのか、やっぱりよくわからなかった。
4
少しでも修一の負担を軽くできないかと、基樹は家事代行サービスを調べてみたり、宅配弁当を頼んでみたりした。 けれど、どれもすみれには受け入れてもらえなかった。
「しゅうくんのほうがいい」
「しゅうくんのごはんのほうがおいしい」
「しゅうくんが、しゅうくんが――」
すみれの口から出てくるのは、修一の名前ばかりだった。
基樹も料理や洗濯をがんばってみた。 レシピを見ながら煮物を作り、洗濯物をたたんでみた。 けれど、やっぱり修一のようにはうまくいかない。
だんだんと、腹が立ってきた。
(なんであいつは、あんなになんでもできるんだ?)
「教えてくれ」と頼んでも、
「俺がやった方が早いし、すみれも喜ぶだろ」と言って、修一はまた全部やってしまう。
今日は、すみれの髪をきれいに編み込んでいた。 まるで美容師のような手つきだった。
「お前、美容師か?」
そう聞くと、「ちげーし。ばっかじゃねーの」と鼻で笑われ、基樹はますます憤った。
(なんなんだ、こいつは)
そんなある晩。 すみれが寝てから、ふたりでテレビを見ながら晩酌をしていたとき、修一のスマホが鳴った。 LIMEの通知音。 画面をちらりと見た修一の表情が、ふっと緩んだ。
「……女か?」
思わず聞いてしまった。 修一は、じろりと基樹を睨んだ。
「はぁっ…? 違ぇわ。仕事の連絡だ…!」
「ああ……悪い」
立ち入ったことを聞いてしまったと、少しだけ後悔した。
そういえば、今までこんな話をしたことがなかった。 修一はモテる。 学生時代から、女子にキャーキャー言われていたし、今でもきっと恋愛には困っていないだろう。 けれど、「彼女がいる」と聞いたことは一度もなかった。
「てめえこそ、作らねえのか?」
修一が言った。
「……あ?…何を?」
「女」
「おんな……?」
そんなこと、考えたこともなかった。 日々の生活で手一杯だし、妻は彼女だけだ。 再婚なんて、考えられない。
「なんか、そういうこと考えられねえかも……」
「……あっそ」
修一が安堵したことに、基樹は気づかなかった。
「てめえがいるから……」
「は? 俺が邪魔か?」
また睨まれる。 基樹は慌てて首を横に振った。
「いや、そうじゃねえ……。てめえがいてくれると助かるから……。すみれも懐いてるし……。ムカつくけど、…ありがとな」
素直にそう言うと、修一は目を見開き、そして顔を赤らめた。
「……俺でよければ、いてやるよ」
「や、でも、お前も仕事あるだろ。無理すんな……」
そのとき、和室の襖がゆっくりと開いた。
「しゅうくん、いっしょにねよ……」
寝ぼけまなこのすみれが、ふらふらと出てきて、修一の足にしがみついた。
「ああ、今行く。待ってろ」
修一は言って、布団の上に転がり、すみれの胸をトントンと優しく叩いた。
その姿を見て、基樹は思った。
(この穏やかな時間が、長く続けばいいのに)
それは、願いにも似た、祈りのような気持ちだった。
5
最近、修一が基樹の家に来なくなった。
最初の数日は「仕事が忙しいのかもしれない」と思っていた。 けれど、すみれは日に日に不満を募らせていった。
「しゅうくん、つぎはいつくるの?」
「しゅうくんのホットケーキ食べたい!」
「しゅうくん、なんで来ないの?」
そのたびに、基樹は曖昧に笑ってごまかした。
「あいつも仕事忙しいんだろ。また来てくれるように頼んでみるから、もう今日は寝ろ」
「……はぁい」
すみれは不服そうに返事をして、布団に潜り込んだ。 その背中が、少しだけ寂しそうに見えた。
修一が一週間も顔を見せないなんて、最近ではなかった。 あいつのことだ、何かあれば一言くらい連絡をよこすはずだ。 それが、何の音沙汰もない。
(……体調でも崩してるのか?)
心配になって、基樹はスマホを手に取った。 LIMEの既読はついていない。 思い切って電話をかける。
数回のコールのあと、ようやく繋がった。
『はい……』
修一の声だった。けれど、どこか不機嫌そうで、息が荒い。
「悪い、寝てたか……?」
『んっ……はぁ……だい……じょ、ぶ……』
吐息混じりの声に、基樹は眉をひそめた。
「……調子、悪ぃのか?」
『あ、ぐっ……ちがっ……』
苦しそうな声。 息が乱れていて、言葉になっていない。
「おい、本当に大丈夫か……?」
『うん、んんっ……あ……っ、だいじょ、ぶ、だから……』
「いや、でも……」
『……からっ、切れっ!』
突然、怒鳴るような声。 何かを必死に遮ろうとしているようだった。
「あ……?」
『電話……! 早、くっ……!』
そのとき、スマホの向こうから「ガッ!」という鈍い音が響いた。
『ぐっ……痛っ……! 待て……っ!!』
『もっと聞かせてやれよ!』
修一とは明らかに違う、低くて粗野な男の声がした。
「おい、誰かいるのか……?」
『ひっ……! やあああ゛っ……!!』
「おい、修一?! 修一!!」
叫んだ瞬間、電話はブツリと切れた。
「はぁ……?!」
思わず声が漏れる。 すぐにもう一度かけ直すが、もう出ない。 LIMEも既読がつかない。
(……誰かに殴られてる? 無理やり何かされてる……?)
あの修一が――?
(そんなはずない。あいつが、あんな声を出すなんて……)
修一は弱くはない。 喧嘩もしたことがあるが、自分と互角だった。身長もあるし筋力もある。 それが、あんなふうに苦しそうに、叫ぶような声を出すなんて。
(……何があった? 誰が、あいつに……)
胸の奥が、ぐらぐらと煮えたぎる。
(俺の大事なやつに、何すんだ……?)
怒りが、理性を追い越していく。
拳を握りしめ、立ち上がる。
「ぶっ飛ばしてやる……」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。 ただ、どうしようもない衝動が、口から漏れた。
修一のことを、こんなにも心配している自分に、基樹は気づいていた。 けれど、それをどう言葉にすればいいのかは、まだわからなかった。
6
翌週も、やはり修一は家に来なかった。 電話にも出ず、LIMEにも既読がつかない。 こうなると、基樹にはもう連絡手段がなかった。
修一の今の住まいも知らない――。
「くそっ……!」
イライラが募る。 スマホを握りしめたまま、基樹は深く息を吐いた。
(大体、アイツがうちに来なけりゃ、すみれも懐かなかったし、こんなに心配することもなかったのに……!)
けれど、もう放っておけなかった。 あの電話のあと、何があったのか。 あの声は、明らかにただ事ではなかった。
どうにもできないジレンマを抱えながら、仕事の合間にバスケ部の後輩たちに連絡を取った。
「誰か、バレー部のやつと繋がってないか?」
「修一の家、知らないか?」
何人かに聞いて回った末、ようやく一人の後輩が「知ってるらしいです!」と答えた。その後輩に連絡先を教えてもらうと、すぐに電話をかけた。
『おい、てめえ……修一の家、知ってんのか?!』
『ひっ……! 真田先輩……?!』
後輩は、急な連絡に明らかに怯えていた。
『修一の家、知ってんのか?』
『あ、はい。村瀬先輩の家、知ってます……、えっと、仕事で一緒したときに送ったことがあって……うちの近くで…』
『教えろ』
『え……? いいんですかね、連絡とってから……』
『教えろ! 緊急事態だ!』
『な、なんで……』
『いいから答えろ』
『は、はい……』
後輩は困惑しながらも、しぶしぶ答えた。
*
そんなわけで、基樹は修一の家の前で待ち伏せをしていた。 すみれは、今日は実家に預けてある。
(何があったのか、ちゃんと話を聞かせてもらう……)
そう決めて、じっとマンションの入り口を見つめていた。
やがて、修一が帰ってくる姿が見えた。
「おい、修一」
「……あ……? 基樹……っ?! なんでこんなとこに?!」
修一は目を丸くして立ち止まった。 その顔には、驚きと、どこか焦りのような色が浮かんでいた。
修一の後ろから、スーツ姿の男がマンションに近づいてきた。 一見、ただの住人かと思ったが、その男は足を止めて、低い声で言った。
「修一」
その声に、修一の肩がピクリと揺れた。
男は基樹よりも背が高く、がっしりとした体格で、スーツの上からでも筋肉質なのがわかる。 ただ者ではない雰囲気に、基樹は本能的に眉をひそめた。
「お前か……この前の電話のやつは」
男は薄く笑いながら、首を傾げる。
「なんのことだ?」
「しらばっくれんな!! こいつに何かしただろうが!」
基樹が一歩前に出ようとしたそのとき――
「おい、やめろ!」
修一が慌てて割って入った。 その顔は青ざめていて、どこか怯えているようにも見えた。
「基樹には関係ねえから、早く帰れ!」
「君が基樹か。修一から聞いてるよ」
「……なに?」
突然名前を呼ばれ、基樹は戸惑う。 その意味を理解する前に、修一の悲痛な声が響いた。
「やめろっ!!」
「修一の気持ちに、今でも気づいてないんだろう…? 本当に鈍感だな」
「はあ?」
「基樹、聞くな!」
「君はもう、ずっと前から修一を傷つけているんだ。修一のそばにいる資格なんかない」
「やめっ……!」
修一が必死に止めようとするのを、男は無視して続けた。
「修一は俺のものだ。お前には渡さない」
その言葉に、修一は唇を噛み、泣きそうな顔でうつむいた。
基樹は、何が起きているのか理解できず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
「もうこれ以上、修一につきまとうな」
男はそう言い残し、修一の肩を軽く叩いて、マンションの中へと入っていった。
残された基樹は、愕然としていた。
(傷つけた? 修一の気持ち? どういうことだ?)
頭の中が真っ白になり、何も言葉が出てこなかった。 ただ、修一の背中が遠ざかっていくのを、呆然と見送ることしかできなかった。
7
それから何度も、基樹は修一のマンションを訪ねた。 けれど、あの男が、まるで番犬のように張り付いていて、修一と話すことは一度もできなかった。
インターホンを押しても無視され、エントランスで待っていても追い返される。 ある日には、ついに警察まで呼ばれた。
「ストーカー行為はやめてください」と言われたとき、基樹は思わず声を荒げた。
「ストーカーはあの男だろうが!」
だが、通報された側の言葉など、誰も聞いてはくれなかった。
苛立ちを隠せないまま、それでも基樹は家に戻るしかなかった。 すみれには「しゅうくん、まだ来ないの?」と何度も聞かれたが、答えられなかった。
そんなある日。 スマホが鳴った。
画面に表示されたのは、修一のマンションを教えてくれた後輩の名前だった。
『真田先輩! 大変です!!』
「どうした?!」
『む、村瀬先輩が……、救急車で…!』
「どういうことだ?!」
『警察と救急車が、村瀬先輩のマンションの前に来てて……!』
後輩は動揺を隠せず、言葉が詰まっていた。
「警察と救急車……? おい、何があったんだ?!」
『俺、気になって見に行ったら、村瀬先輩が運ばれてて… とにかく、ぐったりしてて…動かなくて…!』
「どこに運ばれたか、わかるか?!」
『ちょ、ちょっと待ってください……! 確認して、また連絡します!』
後輩のネットワークを頼りに、修一が搬送された病院を突き止めた。
命には別条はないとわかり、後輩と一緒に、ようやく見舞いに行くことができた。
病室には修一以外おらず、ベッドの上に横たわる修一を見た瞬間、基樹は息を呑んだ。
顔には殴られた痕があり、頬は腫れ、口元にはまだかさぶたが残っていた。 手首には、何かで強く縛られていたような赤い痕がくっきりと残っている。 首元には包帯が巻かれていて、そこから覗く肌には、青黒いあざが浮かんでいた。
(……一体、どんな目に遭ったんだ)
怒りと、悔しさと、どうしようもない無力感が、胸の奥でぐらぐらと渦を巻いた。
「修一……」
思わず名前を呼ぶと、修一のまぶたがゆっくりと動いた。
「……あ……もと、き?」
かすれた声だった。 けれど、その声を聞いた瞬間、基樹の目に熱いものがこみ上げた。
「お前……何があったんだよ……」
修一は、何も答えなかった。 ただ、目を伏せて、唇を噛んだ。
後輩は「何か買ってくるものありますか? ちょっと売店行ってきますね」と気を利かせて病室を出て行った。
修一はベッドに横たわったまま、天井を見つめている。 基樹は椅子に腰を下ろしたものの、何から言えばいいのかわからなかった。
けれど、次の瞬間、感情が先に口を突いて出た。
「お前、何やってんだよ?!」
思わず怒鳴ってしまい、廊下を通る看護師に鋭く睨まれた。 基樹は小さく頭を下げ、ため息をついた。
「……いや、悪い。怒鳴るつもりじゃなかった」
修一は、かすかに笑ったような顔をした。
「……いや~、しくじったわ。あんなやつだったなんてな。びっくりだわ」
言葉は軽くても、目の奥には深い疲れがにじんでいた。
聞けば、あの男はすでに警察に捕まっているという。 けれど、証拠や証言の問題で、長くは拘束されないかもしれない。 出てくるのも時間の問題だろう。
「ざまあねえな」
基樹が吐き捨てるように言うと、修一はふっと目を伏せた。
「……俺、ほんと、見る目ねえわ」
ぽつりとこぼしたその言葉に、基樹はふと、あのときのことを思い出した。
(こいつの気持ちって……、俺のことが好きってことか…?)
けれど、高校時代からそんな素振りは一度もなかった。 勘違いだったのかとも思ったが、さなが亡くなってから、修一はずっと自分とすみれを支えてくれていた。 もしそれが「好きだから」だと言われたら――確かに、腑に落ちる。
「……あいつと付き合ってるのか?」
「……あー、うん。てか、別れたから、元カレかな」
言いにくそうに目を逸らす修一。
「……男が好きなのか?」
「……あー、まあ」
また沈黙が落ちた。
「……あの、あいつが言ってたの、ウソだから。気にすんなって。な。もう、お前の家には行かねえから。だから……」
声がかすれる。
「いやだ」
「は?」
「すみれがずっと待ってんだ。また来いよ」
「でも……」
「いいから! 絶対だ。退院したら、俺の家に来い!」
「いや、もう本当に行かねえから」
「なんでだよ?!」
苛立ちが声ににじむ。修一はため息をついた。
「正直、元カレが何するかわかんなくて。お前とは何ともないって言ってんのに、すげえ嫉妬してくるし……お前のとこに行ったら、お前やすみれに何かするって……」
「……脅しじゃねえか?!」
「んー、まあ、そんな感じ。だからさ。もうお前とは会わねえよ」
笑っているけれど、泣いているような顔だった。 そうやって脅されて、暴力を振るわれて、傷ついているのは修一のほうなのに。
「……ダメだ」
「ダメったって、これしか、お前とすみれを守る方法はないから……さ」
そんなことはないと、何か他に良い手はないのかと考える。基樹は先日見たニュースをふと思い出した。
「なあ、俺と、家族にならねえか?」
静かに響いたその言葉に、修一は目を瞬かせた。
「……は?」
何のことかわからず、修一は首を傾げる。
「同性でも、結婚できるやつ、あんだろ……?」
「……パートナーシップ制度のことか……?」
「そう。それだ」
基樹は真剣な顔で言った。 あまりにも突拍子もない提案に、修一は呆れたように息を吐いた。
「はぁ? 何考えてんだよ……? 意味わかってんのか?! 同性の結婚みたいなもんだぞ?!」
「俺たちがパートナーになって、周りに認めてもらえれば、お前を守れるだろ……? 何かあったら連絡が来るし、緊急の時には病院にも付き添いができるって…」
修一はしばらく呆然としていたが、やがて首を横に振って我に返った。
「いやいや、それじゃてめえに迷惑かかんだろうが……! 迷惑かけたくねえんだよ!」
「俺のことなんかどうでもいい……!!」
「どうでもよくねえっ……!!」
修一は食い下がるように言った。
「そんなパートナーになって、てめえが……もしかして、仕事失くしたり、世間から白い目で見られたら……?! すみれも……! 保育園でいじめられたらどうすんだよ?!」
その目には、涙が滲んでいた。
「んなことには、なんねえだろ……」
基樹はそう言いながら、心の中で問いかけていた。
――なんでそこまで心配する?
――なんで迷惑だと思うんだ?
――俺のことが好きだからなのか……?
基樹がじっと修一を見つめると、修一は目を逸らした。
「もう、お前らには関わらねえ……」
「イヤだ」
「しつけー……」
「おい、こっち向け」
修一が顔を背けたままなので、基樹はそっと修一の頬に手を当て、自分の方へ向かせた。
「俺は、もうてめえを犠牲にしてほしくねえし、これからも一緒にいてえ……」
「っ……」
ストレートな言葉に、修一の顔が熱くなる。
「パートナーだって、今までの延長みたいなもんだろ? ずっと一緒に暮らせばいい」
「っ……!! そんな簡単なことじゃ……!」
「簡単なことだ」
修一は、どんな顔をしていいのかわからなかった。
「でも……てめえに、彼女ができたら……?」
「俺はもう、女と付き合う気はない」
基樹がきっぱりと言うと、修一は顔を歪めた。
「いや、でも……そこまでしてもらう義理はねえよ」
「……あ? お前だって、俺とすみれを支えてくれてるじゃねえか。同じだ」
「同じじゃねえだろ…」
「同じことだ」
世間は? 風当たりは? すみれはどう思う? 色んなことが修一の頭をよぎる。
きっと、基樹はあまり深く考えていない。 でも、その無鉄砲さに、救われる自分もいる。
パートナーシップ制度は、結婚とは違い、法的な効力はない。 ただサインするだけのものだ。 それでも―― 形だけでも、例え一瞬でも、修一は嬉しかった。
「絶対、後悔するぞ…」
「しねえよ。今ここで、何もしない方が後悔する」
ああ言えばこう言う。修一はため息をひとつついてから言った。
「今だけだ。てめえに好きな人ができたら……パートナーシップは解消する、から」
「……てめえもな」
そんなことができたら、10年以上も苦労してない。 その言葉は、喉の奥で飲み込んだ。
きっと問題は山積みだ。 あの男がどう出てくるかもわからない。
けれど――
ちょうどそのとき、後輩が売店から戻ってきた。
「ポカリとゼリー、買ってきました」
基樹はそれを受け取り、修一の枕元にそっと置いた。
「……ありがとな」
修一がぽつりとつぶやいたその言葉に、基樹は「当たり前だろ」とだけ返した。
8
すみれと一緒にお見舞いに行くと、病室に入った瞬間、すみれの顔がみるみる真っ青になった。
「しゅうくん、おかお、どうしたの?!」
ベッドに横たわる修一の顔には、まだ腫れと痣が残っていた。
「ああ、ちょっと殴られて……」
「だれに?! すみれがおしおきしてあげる!!」
小さな拳を握りしめて怒るすみれに、修一は苦笑いを浮かべながら天井を見上げた。
「もしかして、パパとケンカしたの……?!」
すみれが驚いて振り返ると、修一が慌ててフォローに入る。
「おい! 違う……! 勘違いすんな、すみれ」
だが、すみれはぷいっと顔を背けて言った。
「パパ、サイテー!! ひどい!! でぃーぶい!! あっちいって……!」
「はあ?!」
一体どこでそんな言葉を覚えたのか、基樹は顔をしかめた。
すみれは修一のそばに駆け寄り、そっと頬を撫でる。
「しゅうくんかわいそう、いたいのいたいのとんでけ~!」
「ありがとな、すみれ」
修一が優しく微笑むと、すみれは満足げにうなずいた。 その様子を見ながら、基樹はしばらくショックを引きずっていた。
*
無事に修一が退院すると、すぐに基樹の家に一緒に帰った。 その夜、基樹はすみれに話したいことがあると声をかけた。
「すみれにも、話しておきたいことがある」
「なに~?」
すみれはきょとんとした顔で、ふたりの前にちょこんと座った。 修一は、どこかそわそわして落ち着かない様子だった。
「パパは、修一と家族になろうと思う。もちろんすみれも一緒に。いいか?」
「かぞく……?」
すみれが首を傾げると、修一は申し訳なさそうに口を開いた。
「イヤだったら、無理すんな……」
「しゅうくん、ママになるの?」
「えっ?!」
修一が思わず声を上げて固まる。
「いいや、ママは一人だけだ。修一は修一だ」
基樹が落ち着いた声で言うと、すみれは「ふうん」と頷いた。
「しゅうくんがかぞくだったら、いっしょのおうちにすめる?」
「ああ」
「お、おい……」
「いっぱいあそべる?」
「ああ」
「まあ……」
「うん、いいよ!」
すみれは満面の笑みで言った。 だが、修一はどこか困ったような顔をして、口を挟んだ。
「すみれ……あのな……」
「なに?」
「男同士で家族になる人って、あんまりいねえっつーか……。もしかしたら、すみれが友達に変なこと言われるかもしれねえんだ……」
「へんなことって……?」
「……変な家族、とか……」
「それってダメなの?」
修一が言い淀んでいると、基樹が静かに言った。
「いや、ダメじゃねえ。お互いがお互いを大切に思っていたら、それは変なことじゃねえ」
「そっか! ならいいよ!」
すみれの笑顔とまっすぐな言葉に、修一の目には静かに涙が滲んだ。
「……ありがとう、すみれ」
その声は、少し震えていた。
9
それから、ふたりはお互いの親に話を通し、役所にパートナーシップ制度の書類を提出した。
最初に話を切り出したとき、両家の親は驚いていた。 けれど、時間をかけて説明すると、意外なほどすんなりと受け入れてくれた。
「お前が決めたことなら、応援するよ」
「すみれちゃんのことも、修一くんがいてくれるなら安心ね」
そんな言葉に、修一は思わず涙ぐんでいた。
もっと世間から批判があるかと思っていた。 けれど、職場でもなぜか祝福ムードで――
「おめでとうございます!」
「なんか、真田さんらしいですね」
「え!すごいイケメンじゃないですか!羨ましい!」
と、思いがけないほど温かい言葉をかけられて拍子抜けした。
*
「しゅうくん、一緒に寝よう~」
すみれの声が響く夜。 修一は、ほとんど基樹と一緒に暮らしている。
最初は、基樹と一緒に修一のマンションへ行き、少しの荷物を持ってきただけだった。 けれど、気づけば生活用品のほとんどが基樹の家に揃っていた。
歯ブラシも、着替えも、調味料も。 冷蔵庫には修一の好きなヨーグルトが並び、玄関には彼のスニーカーが置かれている。仕事も在宅でできるようにしてもらっていた。
もう、帰る必要はないほどだった。
*
あれから、男からのアクションは何もなかった。 しばらくは、すみれの保育園を休ませたり、マンションの周りも警戒していたのに。
なんだか肩透かしを食らったような気もしたが、 修一の怯えが徐々に消えていくのを見て、基樹は心から安堵した。
夜中にうなされることも減り、 すみれと一緒に笑う時間が増えた。
「しゅうくん、きょうのごはんもおいしかった~!」
「おう、ありがとな」
「パパよりじょうず~!」
「おい」
そんな何気ないやりとりが、今では当たり前になっていた。
修一がそこにいること。 すみれが笑っていること。 そして、自分がその隣にいること。
それが、何よりも大切な日常だった。
ある日、すみれが寝静まったあと。 リビングのソファーに並んで座り、ぼんやりとテレビを眺めていた。
画面の内容はほとんど頭に入ってこない。 基樹は、隣にいる修一の横顔ばかりを見ていた。
(……なんか、キスしてえな)
理由なんてなかった。 ただ、そこに修一がいて、隣にいて、安心していて―― その存在が、たまらなく愛おしく思えた。
そっと身体を寄せる。
「おい、ちょ、待て……! な、なんか近くねえか……?!」
修一の身体が、反射的に基樹とは反対方向へ傾く。 けれど、基樹は構わず顔を近づけた。
その瞬間――
「っぶねえな……!」
修一の拳が頬をかすめそうになり、基樹は反射的に身を引いた。
「っ何すんだ……?!」
「こっちのセリフだ! キスはダメなのか?」
修一は目を見開き、腕を顔の前で交差した。
「……?! だ、ダメっつーか、てめえがダメだろうが!」
「別にいいだろ……?」
基樹が修一の腕をそっと退けようとすると、修一の身体がビクリと震えた。
「……っ?! こ、こういう意味の、パ、パートナーじゃ、ねえだろ……?! 無理すんじゃねえよ!」
その言葉に、基樹は少しだけ首を傾げた。
「なんか、こう……急に、てめえに……」
「……あ? んだよ……?」
「キスしたくなったっつーか……」
「……!?!?!」
修一はみるみる赤面した。 嬉しさと恥ずかしさが入り混じった表情で、顔を隠そうとするが、基樹に腕を掴まれていて隠せない。
「てめえに、触ってみてえ……」
その言葉に、修一は瞬時に首を横に振った。
「や……無理、やだ……!」
基樹は顔をしかめる。
「……ああ? なんでだ?」
修一は目に滲んだ涙を隠すように、顔を背けた。 そして、消え入りそうな声で言った。
「俺なんかに、興味ねえだろ…? ちゃんと家事もやるし、すみれの面倒もみる…。てめえが、無理すんじゃねえよ…。無理にくっついたり、キスしたり、色々しなくても…、ちゃんと…するから…」
「そうじゃねえ…。別に、家事やってもらうために、パートナーになったんじゃねえよ…」
「で、でも……それで……もしダメだったら……? てめえの傍にいられなくなる、だろ……?」
その言葉に、基樹は息を呑んだ。
今まで、どんなときも強がっていた修一が、こんなふうに弱音を吐くなんて―― 今にも泣き出しそうなその横顔を、基樹は初めて見た気がした。
基樹は大きくため息を吐いて、修一の胸に顔を埋める。
「んなことはねえ……」
「…?」
「俺が、てめえに触りてえんだ。あいつにも触らせたんだろ…?」
「…あ…?」
基樹は顔を上げて、修一の目を見つめて言った。
「あいつに触らせたとこ、触りてぇ。てめえの全部、俺のもんにしてぇ…」
「…っ?!」
修一は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。だが、基樹の真剣な眼差しに射抜かれ、息を呑む。
「……嫉妬、してんのか?」
基樹は気まずそうに黙ってうなずいた。その仕草に、修一は途端に顔を赤らめ、視線を逸らす。
「お、俺のこと……好きなのか?」
修一は自分の声が上ずっているのがわかる。これは夢か、冗談か――。 基樹は眉間に皺を寄せて、真っ直ぐに言った。
「ああ? 好きでもねえやつと、結婚するわけねえだろ」
修一は目を見開いた。
(まさか……)
こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。 パートナーシップはただのお情けで、基樹が自分を助けるためだけの手段だと、ずっと思っていた。
「……ウソだろ」
「ウソじゃねえよ」
(でも……今だけ。今だけは、俺のもんになってほしい)
たとえ、いつか基樹がまた女性を好きになったとしても―― 修一の目に、涙が滲む。
「……なあ、キスしてもいいか?」
そう言って、基樹はそっと修一の頬に手を添えた。 修一は観念したように、ぎゅっと目を閉じる。 基樹はふっと笑い、そして、優しく、そっと唇を重ねた。
触れたのはほんの一瞬。 けれど、修一の身体が小さく震えたのが、はっきりとわかった。
「……好きだ」
修一は何も言わなかった。基樹は修一の震えを抑えるように抱きしめる。修一はただ、目を閉じたまま、静かに涙をこぼした。 そして、ゆっくりと、基樹の背中に腕を回した。
69
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