ランドセルの王子様(仮)

万里

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「おい優太、お前いい加減にしろよ。最近、誘っても誘っても『バイトがある』の一点張りじゃないか」

 大学の学食。安っぽいカレーを口に運ぼうとしていた優太の背中に、友人・高橋の呆れ果てた声が降ってきた。

「……いや、本当に忙しいんだよ。嘘じゃないって」

 優太はカレーの具材を見つめたまま、視線を泳がせて答えた。 実際、多忙を極めているのは事実だった。週に一度の家庭教師という名目で入り込んだはずが、最近では蒼のサッカー練習の送迎を買って出たり、試合のビデオ分析を手伝ったりと、人生のリソースの八割近くを日向蒼という少年に注ぎ込んでいる。

「お前、まだあの小学生に絡んでるのか?ほどほどにしとけよ。俺ら、大学生だぞ? 人生の黄金期なんだぞ。それをガキの相手で全部潰すつもりか?」

 高橋が優太の向かいにドカッと座り、真剣な顔で身を乗り出してきた。

「今週の金曜、工学部の連中と合同で合コンやるんだ。人数が一人足りない。いいか、強制参加だ。お前を『こっち側の世界』に連れ戻すための緊急オペだよ」

「こっち側……?」

「そうだよ。可愛い女の子と酒を飲んで、LIMEを交換して、週末に映画に行く。そういう、大学生がやるべき『普通の幸せ』だよ。お前、このままじゃ本当に手遅れになるぞ」

 高橋の言葉が、鋭い氷の粒のように優太の胸に冷たく突き刺さった。

「普通の幸せ」。

 その言葉の響きに含まれる正論に、優太は反論できなかった。 自分でも痛いほど分かっているのだ。12歳の少年に、人生のすべてを賭けるかのような熱量を注いでいる今の自分は、客観的に見て異常だ。 あの子だって、いつまでも子どものままではない。いつか必ず成長し、本物の大人の男になっていく。その輝かしい未来の過程で、自分のような「家庭教師のお兄さん」なんて存在は、いつか必ず忘れ去られる、あるいは「ああ、そんな人もいたな」と懐かしむ程度の通過点に過ぎないのだ。

(……女の子と付き合うべきなんだろうな。それが、自分のためにも、蒼くんのためにもいいのかもしれない)

 蒼の隣にいることは、麻薬のようなものだ。居心地が良くて、刺激的で、けれど未来がない。 もし、このままあの子が中学生になり、高校生になり、自分から離れていった時。その後に残る自分の手には、一体何が残っているというのだろうか。

「……分かったよ。行くよ、行けばいいんだろ」

 優太は、自分の中に巣食う「重症」な感情に、無理やり重い蓋をして抑え込むように、小さく頷いた。

「よし、決まりだ! 安心しろ、女の子たち、めっちゃ可愛いからな」

 高橋が満足げに自分のカレーを食べ始めるのを眺めながら、優太は冷めかけたカレーを再び口にした。 さっきまであんなに美味そうに見えたはずの学食のカレーが、今はなぜか、砂でも噛んでいるかのように味気なかった。

(……いいんだ。これで。俺だって、ちゃんと『普通』に戻れるはずだ)

 そう自分に言い聞かせながら、優太は思わずため息を漏らした。

 *

 金曜日の夜。駅前にほど近い、間接照明がゆらめく小洒落た個室居酒屋。 優太は、この日のために買ったばかりのシャツの襟を、落ち着かない手つきで何度も直していた。

 木目調のテーブルを挟んで向かい側には、いかにも「今どきの女子大生」といった風貌の三人組が座っている。丁寧に巻かれた髪、トレンドを抑えたパステルカラーのニット、きれいに整えられた肌。 個室の中には、酒の匂いに混じって、甘く華やかな香水の香りが漂っていた。

「優太くんだっけ? 家庭教師してるんだって? すごーい、教育学部とかじゃないのに、偉いね」

 隣に座った女子、ミサトが、カクテルグラスをカチンと合わせて小悪魔的に微笑みかけてきた。 彼女は優太の反応をうかがうように、肩が触れそうで触れない絶妙な距離感で話しかけてくる。

「いや、そんな……。ただ、縁があって小学生を教えてるだけだから」

「えー、でも教えるのって大変じゃない? 私、子ども相手ってどうすればいいのかわからないんだよね。何考えてるか分かんないし、話しが通じないみたいな?」

 ミサトがクスクスと喉を鳴らして笑う。 高橋が待ってましたとばかりに、ビールジョッキを片手に横から援護射撃を送ってきた。

「だよな! 優太、お前も本当はガキの相手に疲れ果ててんだろ? 今日くらいそういうの忘れて、可愛い子と楽しくやろうぜ!」

「……はは、まあね」

 優太は、張り付いたような愛想笑いを浮かべた。 けれど、心の中では、ミサトの放った言葉がトゲのようにチクチクと刺さり、不快なノイズとなってザラついていた。

(子ども……。そう、確かに蒼くんは世間一般で言えば『子ども』だ。でも、蒼くんをその一言で片付けられるのは、なんだか違う気がする)

 脳裏をよぎるのは、土埃にまみれながら必死にフィールドを駆け抜け、ゴールを睨みつけるあの鋭い瞳だ。勝負の世界に身を置き、日々努力している、あの横顔。

(俺が教えているのは、単なる手のかかる子どもじゃない。誰よりも真っ直ぐで、誰よりもプライドが高くて……一人の、完成された意志を持った人間なんだよ)

「……優太くん? どうしたの、急に黙っちゃって。私、何か変なこと言ったかな?」

 ミサトが少し不安げに顔を覗き込んできた。マスカラで綺麗にされた長いまつ毛が瞬く。 

(綺麗だな……)

 至近距離で見つめられ、素直にそう思った。

(ここにいれば、俺は『普通の大学生』に戻れる。ミサトさんと話をして、週末のデートに漕ぎつける……。それが正しいんだ)

 そう自分に言い聞かせるが、指先が覚えている感覚は、冷たいカクテルグラスの感触ではなく、走り疲れて火照った蒼の背中を支えた時の熱い温度だった。

「ねえ、週末空いてる? もし良かったら、今度二人でご飯行かない?」

 ミサトからの、ストレートで純粋な好意の提示。 これこそが、高橋の言う「普通の幸せ」への入り口だ。この手を取れば、自分は「変な大人」にならずに済む。誰に指をさされることもなく、普通の大学生として真っ当な道を歩める。

「週末……」

 優太が震える声で答えようとした、その時。 ポケットの中で、待ち焦がれていたような振動が伝わった。

「ちょっと、ごめん」

 逃げるようにミサトから顔を背け、画面を覗き込む。そこには、待ちわびていたLIMEの通知が届いていた。

『問題の意味が分かんない。食塩水の濃度を混ぜてどうすんだよ。全部捨てていい?』

 それだけの、短くて、ぶっきらぼうで、最高に「蒼らしい」メッセージ。 添えられた写真には、苛立ちのあまりぐちゃぐちゃに消しゴムのカスが散らばった算数のノートと、ペンを折らんばかりに握りしめる少年の、少し節くれだった指先が写っていた。

 その瞬間、優太の頬がどうしようもなく緩んだ。 居酒屋の喧騒も、ミサトの甘い香水の匂いも、目の前の「正しい選択肢」も、すべてが砂嵐のように遠ざかっていく。 血管の中を、沸騰するような温かい熱が駆け巡った。

(……ああ、そうか。俺、もう逃げられないんだ)

 無理やり蓋をしていた感情が、たった一通のメッセージで決壊する。 世間体とか、将来とか、普通とか、そんな「べき論」はどうでもいい。 今の自分にとって、ミサトとのデートより、高橋との友情より、この世のどんな美しいものより、この「めんどくさい食塩水の問題」に頭を抱える少年の隣にいることの方が、何千倍も、何万倍も価値がある。

「……ごめん。週末は、予定があるんだ」

「え、バイト?」

「いや。……大切な『約束』が入ってるんだ」

 一条に突きつけられた「予約」という言葉が、不意に脳裏を掠めた。あいつが未来を予約しているなら、自分は今、この瞬間を誰よりも、あの子と一緒にいたい。

「悪い、高橋。俺、やっぱり『普通』の人間じゃないわ。お代は置いていくから、あとは頼んだ!」

「おい、優太!? どこ行くんだよ?!」

 背後で高橋が呆れ果てた声を上げているが、もう振り返らなかった。 居酒屋を飛び出し、夜の街を、優太は全力で駆け出した。

(『べき』なんて、もうどうだっていい。俺は、今、蒼くんのことが好きなんだ。……どうしようもなく、本気で)

 大学生の男が、小学生に。 そんな理屈や倫理を飛び越えて、心が叫んでいた。 駅に着くと、優太はスマホを取り出し、爆速で返信を打った。

『捨てちゃダメだよ! 混ぜるな危険! もう少し後で、電話で解説するから、起きてて!』

 返信は、数秒で届いた。

『は? これから? うぜぇ。……まあ、起きててやるけど』

 画面の向こうで、少しだけ満足げに口角を上げる蒼の顔が浮かぶ。 その「うぜぇ」という突き放すような四文字が、優太の心を満たしていった。

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