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第1部 第1章 ケース オブ 調香師・鞍馬天狗『盗まれた香り』

一 終電を逃す阿倍野芽依、27歳

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 一、


「え……冗談でしょ?」

 ——東京駅丸の内口改札前。
 その日最後となる電車が発ったことを案内する放送に、阿部野芽依あべのめいは絶望した。
 生まれて二十七年と九ヶ月。神職である実家が嫌で上京して手に入れた念願の東京一人暮らし。五分前行動を基本とし、余裕を持った生き方を心がける大人でいたつもりだったが、まさか終電を逃がす失態を起こそうとは。

「これ私、……帰れないの?」

 芽依は東京駅北口のクラシカルな造形が美しいことで有名な、吹き抜けとなっているドーム天井の真下で、突然突きつけられた現実に肩を落としていた。
 現在、コールセンターで派遣社員として働く芽依。だが十ヶ月前までは、食の卸売をする企業でOLをやっていた。職を変えた理由は、二年前に発生した流行病による経済の悪化で会社が倒産したからである。
感染予防策として打ち出された飲食業界一点集中の制限は、感染の波が起こるたびに繰り返され、芽依の勤める会社はこの荒波に飲まれて船ごと沈んだ。
 そう、これはその感情と似ている。あのときだって、まさか入社三年目で自分が失業するとは思っていなかったのだから。

「はあ、詰んだ……」

 心が折れたかのように、肩にかけていた黒のトートバッグが滑り落ちる。
 バッグの中には飲みかけのペットボトルに愛用のノートパソコン。打ち合わせで使用した資料の束。そして家に帰れないという現実が重みとなって肩にずどんとのし掛かってくる。
 東京の洗礼に降参すべく、芽依は頭上を仰いだ。視線の先には重厚感溢れる芸術的な天井が見える。まるでモダンな万華鏡を覗き込んだような世界だ。レトロな雰囲気を持つ装飾とともに羽を広げた八羽の鷲の姿。芽依は、その景色を眺めながら、昔の記憶を呼び起こした。
 東京駅丸の内口といえば、重要文化財にも指定される赤煉瓦の貴重な建造物であるが、毎日約五十万人が利用する主要駅の一つである。
 北口、中央口、南口と三つの降車口があり、そのうちその美しい天井を持つ改札口は、北口と南口で見ることが出来る。
 改札を出ると、そこは丸く開けており、頭上は吹き抜けとなっている。
 足元に描かれているのは、中央から外へ向かって放射線状に広がる円状の模様。その周りを囲むように、古代建築の神殿にも似た銀色の円柱が八本、建物を支えるべく堂々と伸びている。
 ドーム天井の中心には太陽のように丸い円があり、そこから放射線状に広がる茶色い枠は、それらの点と点を繋いで正八角形となって浮き上がっている。その角を囲むように、二メートル近くのあるといわれる八羽の白い鷲の彫刻は圧巻だった。
 駅舎の優雅な天井、その内側は優しい薄い卵色であり、さらに下に続く白いアーチの彫刻がさらなる造形美を醸し出し、見るものを引きつけるノスタルジックな空間を作り上げている。
 優雅なアーチの間には十二支のレリーフが配置されているのだが、それはかつて干支を時刻や方角として使い生活していた明治以前までの日本人の習慣を踏襲して配置されたという。だが使われている柱が八本であるため、省かれてしまった干支が四つあるというのは少々可哀想でもあった。
(干支でもマウントされるのね)
 これらの歴史を芽依が知っているのは偶然ではなく、大学時代に所属していた文芸サークルで、東京駅を取材したことがあったからだ。まさか、あのときに手に入れた知識を今ここで思い出すとは。これは何かの縁なのだろうか。
 なぜなら今日、芽依がこの街にやってきたのは、まさにサークル仲間からのメッセージがきっかけだったからだ。

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