33 / 49
第7章
三 白紙にしたい
しおりを挟む
三
プリンにかけられたカラメルのような灯りが、店の窓から通りに漏れ、おいしいカフェの雰囲気がただよっているのは、夜カフェ〈金木犀〉であった。
時刻は午前0時を過ぎていた。
物語を執筆する。今の芽依にはそれしかないというのに、今回の企画からは下されるだろうと予感していた。
(きっと、当たっちゃうんだろうな。この予感も)
芽依はカフェの扉を引いて、中へ入っていく。
店内は挽きたての豆のいい香りが広がっていて、すぐに鼻腔が癒された。
そしていつも通り、カウンターには腕まくりをしてカフェラテを作る天童の姿があった。
「いらっしゃいませ」
先日とは対極的な穏やかな声音だった。金木犀はいつもこうであってほしいものだと芽依は思った。
天童は出来たばかりのカフェラテマグを木製のトレーに乗せると、「ごゆっくりどうぞ」と微笑んでお客様へトレーを渡した。
芽依は、その日初めてカウンター席に座ってみた。すると、すかさず、北風のように冷たい声が降りかかってきた。
「お前にはまだその席は早え」
「っ、……やっぱりダメですか?」
芽依は天童を見つめる。
すると何かを察したかのように口ごもると、お客様の入る手前もあるためか、仕方なしにと答えた。
「許可してやるよ。特別だからな」
「ありがとうございます」
ここの秘密を知ってしまってから、愛すべき夜カフェ〈金木犀〉のカフェラテ店主・天童の態度は一変してしまったことが芽依は少し残念であった。
あのまま何も知らなければ、今でも天童は芽依に優しく微笑み、夜の隠れ家のようなこの場所で、夜の狭間をくつろげたかもしれないのに。
それまでの夜カフェ〈金木犀〉の店主・天童という人物は、ミルクのコク深さには優しさがあり、その奥にかくれるエスプレッソのほろ苦さは、まるで金木犀ラテのようである。
だが今は、過去に大罪を犯して何百年にも渡り禊を課せられている大あやかしだといわれても、納得してしまうほど人情が欠けていた。
(顔だって悪くないのに。残念だな……)
芽依は無意識にため息をついていたようで、天童から話を振られた。
「空気が悪くなるだろ? そこに座るならため息はやめてくれ」
「す、すみません……」
「何かあったのかよ?」
きつい言葉をいいながらも、天童は芽依に問いかけた。
「天童さん。あ……、天童さんとお呼びしてもかまいませんか?」
「仕方ねえな。許可してやるよ」
もう一つ付け加えるなら、天童はひねくれている。芽依はそう思った。
「天童さん。多分私、企画を下されると思います」
「は?」
「今日、打ち合わせで代案を提出したんです。けど、やっぱり反応悪くて。先方は、当初の夜カフェをコンセプトにしたいみたいで」
「なにがあろうと、俺は許可しねえぞ」
「はい、わかってます。それに私も例の事情を知ってしまった以上、当初の気持ちで書き続けるのは難しいなと思い始めてしまって。私にとって、夜カフェ〈金木犀〉は大切にしたいと思うお店ですし、着想を頂いたことも含めて、やはりきちんと許可を得た上で書くべきものだと今は思っています。けど、先方は、アイデアが盗まれた調香師のあやかしという部分の変更は譲れないようで」
「これだから業界人ってのは」
「業界人の全員がそうだとは思いません。でも、そういうことなら私はこれ以上の執筆は出来ません……、と言ってしまいました」
すると、そこで天童は心底驚いていた。
「……お前、そんなこと言ったのか?」
「言っちゃいました」
「まじかよ」
「えっ。そんなに驚くことですか?」
「お前。それって辞表を叩きつけたようなもんだろ?」
「そんなつもりはなかったんですけど……」
「そんなつもりなかったらそんな言葉出てこねえよ。怖えぞ、お前」
まさか天童にそんなことを言われるとは。
(なんだろう。ちょっとだけ腑に落ちない……)
「いや、私はもしかしたら、林田さんが私の気持ちを汲んでくれるかなと思わなくもなくて。だって、このままだったら、私が書こうとした調香師のあやかしも、レシピを盗まれたまま、葬られてしまうわけですから」
「何だよそれ。よくわかんねえ、プライド」
「プライドでしょうか」
「プライドだろ。書きたいことを書きたいだなんて。ダダこねだろ」
「そんな言い方……」
いや、確かにそうだ。私は執筆を依頼されたが、そもそもライターでも作家でもなんでもない。無職の二十七歳独身女だ。ただ、学生時代に趣味で書いていた執筆物に興味を持ってくれた林田から依頼をされたまでのこと。自分でなくとも、もっと質の良いいい作品を書ける人はごまんといる。
そう、執筆するにはそもそも自分でなくてもよかった話なのだと、芽依はようやく気付いた。
(私……林田さんに何てこといってしまったんだろう)
期待を向けてくれた人を裏切ってしまった。芽依のしたことはそれであった。
「それにお前、職がねえんじゃなかったっけ?」
「天童さんって、遠慮ないですね」
「俺は東京ファンタジーとかいうコンセプトからして安っぽいと思っている。お前みたいなやつや天みたいなやつがいるがいる東京のどこにファンタジー要素があるっていうんだ。東京は現実を生きる場所だ。人間界は苦行。とくに東京はそれが強い。ファンタジーなんて笑っちまうだけだよ」
「でも、私がこのお店を見つけたときは、とてもわくわくしたんですよ。誰も知らない場所を見つけた優越感があったというか。こういうのがファンタジーなのかもしれないって思ったんです」
「当然だ。この金木犀は、俺がついに見出した究極の形だからな。安易に東京と一緒にされちゃ困る」
(お酒をが飲めないからコーヒー屋をやろうなんて。閻魔様を疑う発想だったけど、それは言わないでおこう)
芽依の傍で、天童は優越に浸っていた。
天童は褒めると気を良くするあやかしのようだ。
けれど、異論はなかった。
ここは特別な場所なのだ。
きっと今、この店で夜を過ごしている人たち皆が思っているに違いない。
そして、勝手に自分が物語にしていいような場所ではないのだ。
店の扉が開いて、外気が流れ込む気配があると、背後から見知らぬ声がした。
「おや、もしかしてあなたが例の女性ですか?」
プリンにかけられたカラメルのような灯りが、店の窓から通りに漏れ、おいしいカフェの雰囲気がただよっているのは、夜カフェ〈金木犀〉であった。
時刻は午前0時を過ぎていた。
物語を執筆する。今の芽依にはそれしかないというのに、今回の企画からは下されるだろうと予感していた。
(きっと、当たっちゃうんだろうな。この予感も)
芽依はカフェの扉を引いて、中へ入っていく。
店内は挽きたての豆のいい香りが広がっていて、すぐに鼻腔が癒された。
そしていつも通り、カウンターには腕まくりをしてカフェラテを作る天童の姿があった。
「いらっしゃいませ」
先日とは対極的な穏やかな声音だった。金木犀はいつもこうであってほしいものだと芽依は思った。
天童は出来たばかりのカフェラテマグを木製のトレーに乗せると、「ごゆっくりどうぞ」と微笑んでお客様へトレーを渡した。
芽依は、その日初めてカウンター席に座ってみた。すると、すかさず、北風のように冷たい声が降りかかってきた。
「お前にはまだその席は早え」
「っ、……やっぱりダメですか?」
芽依は天童を見つめる。
すると何かを察したかのように口ごもると、お客様の入る手前もあるためか、仕方なしにと答えた。
「許可してやるよ。特別だからな」
「ありがとうございます」
ここの秘密を知ってしまってから、愛すべき夜カフェ〈金木犀〉のカフェラテ店主・天童の態度は一変してしまったことが芽依は少し残念であった。
あのまま何も知らなければ、今でも天童は芽依に優しく微笑み、夜の隠れ家のようなこの場所で、夜の狭間をくつろげたかもしれないのに。
それまでの夜カフェ〈金木犀〉の店主・天童という人物は、ミルクのコク深さには優しさがあり、その奥にかくれるエスプレッソのほろ苦さは、まるで金木犀ラテのようである。
だが今は、過去に大罪を犯して何百年にも渡り禊を課せられている大あやかしだといわれても、納得してしまうほど人情が欠けていた。
(顔だって悪くないのに。残念だな……)
芽依は無意識にため息をついていたようで、天童から話を振られた。
「空気が悪くなるだろ? そこに座るならため息はやめてくれ」
「す、すみません……」
「何かあったのかよ?」
きつい言葉をいいながらも、天童は芽依に問いかけた。
「天童さん。あ……、天童さんとお呼びしてもかまいませんか?」
「仕方ねえな。許可してやるよ」
もう一つ付け加えるなら、天童はひねくれている。芽依はそう思った。
「天童さん。多分私、企画を下されると思います」
「は?」
「今日、打ち合わせで代案を提出したんです。けど、やっぱり反応悪くて。先方は、当初の夜カフェをコンセプトにしたいみたいで」
「なにがあろうと、俺は許可しねえぞ」
「はい、わかってます。それに私も例の事情を知ってしまった以上、当初の気持ちで書き続けるのは難しいなと思い始めてしまって。私にとって、夜カフェ〈金木犀〉は大切にしたいと思うお店ですし、着想を頂いたことも含めて、やはりきちんと許可を得た上で書くべきものだと今は思っています。けど、先方は、アイデアが盗まれた調香師のあやかしという部分の変更は譲れないようで」
「これだから業界人ってのは」
「業界人の全員がそうだとは思いません。でも、そういうことなら私はこれ以上の執筆は出来ません……、と言ってしまいました」
すると、そこで天童は心底驚いていた。
「……お前、そんなこと言ったのか?」
「言っちゃいました」
「まじかよ」
「えっ。そんなに驚くことですか?」
「お前。それって辞表を叩きつけたようなもんだろ?」
「そんなつもりはなかったんですけど……」
「そんなつもりなかったらそんな言葉出てこねえよ。怖えぞ、お前」
まさか天童にそんなことを言われるとは。
(なんだろう。ちょっとだけ腑に落ちない……)
「いや、私はもしかしたら、林田さんが私の気持ちを汲んでくれるかなと思わなくもなくて。だって、このままだったら、私が書こうとした調香師のあやかしも、レシピを盗まれたまま、葬られてしまうわけですから」
「何だよそれ。よくわかんねえ、プライド」
「プライドでしょうか」
「プライドだろ。書きたいことを書きたいだなんて。ダダこねだろ」
「そんな言い方……」
いや、確かにそうだ。私は執筆を依頼されたが、そもそもライターでも作家でもなんでもない。無職の二十七歳独身女だ。ただ、学生時代に趣味で書いていた執筆物に興味を持ってくれた林田から依頼をされたまでのこと。自分でなくとも、もっと質の良いいい作品を書ける人はごまんといる。
そう、執筆するにはそもそも自分でなくてもよかった話なのだと、芽依はようやく気付いた。
(私……林田さんに何てこといってしまったんだろう)
期待を向けてくれた人を裏切ってしまった。芽依のしたことはそれであった。
「それにお前、職がねえんじゃなかったっけ?」
「天童さんって、遠慮ないですね」
「俺は東京ファンタジーとかいうコンセプトからして安っぽいと思っている。お前みたいなやつや天みたいなやつがいるがいる東京のどこにファンタジー要素があるっていうんだ。東京は現実を生きる場所だ。人間界は苦行。とくに東京はそれが強い。ファンタジーなんて笑っちまうだけだよ」
「でも、私がこのお店を見つけたときは、とてもわくわくしたんですよ。誰も知らない場所を見つけた優越感があったというか。こういうのがファンタジーなのかもしれないって思ったんです」
「当然だ。この金木犀は、俺がついに見出した究極の形だからな。安易に東京と一緒にされちゃ困る」
(お酒をが飲めないからコーヒー屋をやろうなんて。閻魔様を疑う発想だったけど、それは言わないでおこう)
芽依の傍で、天童は優越に浸っていた。
天童は褒めると気を良くするあやかしのようだ。
けれど、異論はなかった。
ここは特別な場所なのだ。
きっと今、この店で夜を過ごしている人たち皆が思っているに違いない。
そして、勝手に自分が物語にしていいような場所ではないのだ。
店の扉が開いて、外気が流れ込む気配があると、背後から見知らぬ声がした。
「おや、もしかしてあなたが例の女性ですか?」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる