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31エミリア、観劇する
しおりを挟む思いがけない事は突然やってくる。不変だと思っていた事がひっくり返されることは日常茶飯事なのだ。ただみんな、自分にはそんなことは起こらないだろうと高をくくっているだけで。
それはまずアンの身に起こっていた。
私は今朝、アンに報告を受けるまで何も知らなかった。
「えっ、どなたと結婚したのですって?」
確かに私は名前を聞いたけれど、もう一度聞き返さずにはいられない相手だった。アンは少し頬を染めて私から目をそらした。こんな思春期の少女の様に恥じらうアンを見たのは初めてだ。
「ア、アンドーゼ先生です。ロバート・アンドーゼ先生」
いつの間に、どういう縁で、そもそもいつから。質問が頭を駆け巡ったが、まずは「おめでとう、アン」と声を掛けた。
それから、突然の結婚報告だったのでまず頭をよぎった事を質問してみた。
「あの・・もしかしておめでたかしら?」
アンはもう顔から耳から首まで真っ赤にしながら頭を振った。
「い、いえ違います。この年でそんなことは・・」
「そう、じゃあすぐお屋敷を辞めるという訳ではないのね、安心したわ」
アンは今では侍女というより、私の次官のような働きをしてくれている。公爵家を継ぐ予定の私の仕事は、今やお母様並みに多忙を極めていて、私のサポートをしてくれる有能なアンに辞められるのは大きな損害なのだ。
そこはお母様も計算済みだったらしい。屋敷の敷地内に二人で過ごす小ぶりな家を、結婚祝いにプレゼントすると言ったらしいのだ。やはりお母様には適わない。
私も家を一軒とまではいかないが、欲しい物があったら遠慮なく言ってほしい、結婚祝いに何でも贈ると約束した。アンは一刻も早くこの恥ずかしい報告を終わらせたいらしく、お気持ちだけで・・と頭を下げて出て行った。
変化といえばもう一人、微妙な変化を見せているのがお母様だ。最近は公爵家の仕事も私と分担しているせいで、余暇が出来たと喜んでいた。だがそれも初めのうちだけで、長い間仕事漬けだったお母様は急に出来た暇を持て余すようになってしまったのだ。そこで色々考え事をするに至り、その結果、お父様と過ごす時間をもっと作ろうと思ったらしいのだ。
今日も本当ならゴールドスタイン家が投資した劇場のこけら落とし公演に一緒に行くはずだった。それが、お父様の遠征先を見てみたいと突然思い立ち、朝早くから出かけてしまったのだ。
2階のボックス席は2名分となっている。私一人で行っても構わないが、せっかくだからイライザを連れて行こうと思いついた。
イライザは今日は非番だ。だから私の一友人として観劇に誘った。イライザはこの同伴を二つ返事で承諾してくれた。
「嬉しいわぁ、エミリア様と観劇に出掛けるなんて、アカデミー時代に二人でお茶をした時以来でしょうか」
今日はイライザも騎士の制服を脱いでドレスアップしている。短髪だが、エレンが上手く花とウイッグを使ってエレガントに仕上げていた。その華やかなドレススタイルもイライザの気分を盛り上げるのに一役買っているようだ。
こけら落とし公演には多くの人が詰めかけている。ほとんどは招待客だが、それ以外のチケット席は連日完売しているらしい。王族でもないのだから観劇くらいで護衛は必要ないと思っていたが、念のためにとルーカスともう一人の私付きの護衛騎士、スタイルズが同行した。
そして現在、幕間の休憩時間に飲み物を求めてやってきた人でごった返すロビーを見て私は後悔した。
「イライザの言う通り、スタイルズに買ってきて貰うべきだったわね」
「仕方ありませんわ、目的の飲み物だけ買ってすぐ席に戻りましょう」
自分の護衛騎士にお使いまでやらせるのは気が引けたのだ。だが後悔してももう遅い、私とイライザは両手に飲み物を持ち、人混みを縫うようにして2階席へ通じる廊下まで辿り着いた。
「あれ、エミリア?」
振り向くと正装をしてビシッと決めているアレクが立っていた。隣には女性を連れ立っている。
「アレ・・モーガン卿、最近よくお会いするわね」
アレク、といつものように気軽に呼びそうになったが、連れの女性が私を見て明らかに不快な表情を浮かべたので、私は咄嗟に儀礼的な呼び方に変えた。
「本当だね! 君もチケットが取れたんだね。参ったよ、この公演のチケットを取るのに方々手を回してさ。ジュリアが見たいって言うから・・おっ、イライザも一緒だったんだ」
「いつもながら、気づくのが遅すぎますよ。モーガン卿はいつもエミリア様しか眼中にないんですから! ところでお連れの方は紹介してくれませんの?」
「ああ、そうだった。こちらは僕の婚約者のジュリアだ。アカデミーが同じだからもしかして知ってるかな?」
「はじめまして、ジュリア・セドゥと申します。ゴールドスタイン公爵令嬢様のお噂はよく耳にしておりますわ」
随分と含みのある言い方だ。私もイライザもジュリア嬢も、お互いに面識があるとは敢えて口に出さなかった。でもイライザも絶対に忘れていないだろう。アカデミーの寮の門前で父親や自身の家門を、公衆の面前で彼女に侮辱されたあの日の事を。
私自身も他人事に介入したのはあれが初めてだったからよく覚えている。ジュリア嬢も今や優雅なレディになってあの時の面影は僅かに残るだけだが、敵意のこもった眼差しは変わっていない。
それにしてもそんな彼女がアレクの婚約者だなんて意外な気がする。
「アレクサンドル、そろそろ時間ですわ、参りましょう」
「そうだな。それじゃあまた、二人とも!」
アレクと婚約者が背を向けたあと、私達もボックス席へ戻った。飲み物で一息ついた後、後半の舞台が始まるまでずっとイライザはジュリア嬢について喋っていた。
「どうしてモーガン卿はあんな女と婚約したのかしら。あの態度! 我々の事をあからさまに嫌悪してましたよね」
「モーガン卿がいたの?」
イライザの発言にルーカスが反応した。
「ええ、いたわ。とぉ~っても素敵な婚約者さまと一緒にね」
舞台が始まるとイライザの注意もそちらに逸れた。帰るころにはすっかり機嫌も良くなって、今日の舞台は主演女優のお陰で成功したようなものだとほめちぎっている。ジュリア嬢の事はすっかり頭から消えてしまったようで、こういう単純な所は子供の頃と変わっていないのだと微笑ましく思えた。
帰りも幕間と同じで一斉に人が出てくるので、劇場は人がひしめき合っている。ルーカスが先導してくれてなんとか外に出られた。後は長い階段を下りれば馬車が待機している場所まですぐだ。
劇場は正面扉を出ると大きなT字のバルコニーになっていて、そのIの部分が階段になっており、私は横棒部分に居る。イライザは少し後ろ、スタイルズはその横、ルーカスは一人挟んで、私の前の前を進んでいた。
劇場の周囲は美しい庭園になっている。月明かりに照らされて白い花が暗闇に浮かび上がるように咲いていた。そちらに目を向けた時だった。背中を強く押された私は、前のめりになってバルコニーから落ちそうになった。手すりを掴もうとした手は、押された勢いで手すりを軽く超えてしまった。
ああっ、だめだわ。落ちる!
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