シャドウ・ガール

文野さと@書籍化・コミカライズ

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プロローグ

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 ――あれはなんだ?
 眼を逸らす事が出来ない。
 男は知らない街の知らない場所でたった一人だった。

 いや、実際は彼の隣にはよく知る人間がいるはずだったし、傍には老若男女がぎっしりとひしめいていたと記憶している。
 周りはわざとらしい闇に満たされていたが、その程度の闇は訓練を積んだ彼の眼に支障などない。
 しかし、彼の目には今、青い闇の中に浮かび上がる淡い人影しか見えてはいない。

 目の前には女神――ではなく、一人の少女。
 泡沫うたかたの存在などではない、ただの血の通った人間。
 この上なく平凡な存在。
 その筈にちがいない。
 なのに。
 何故こうも目が釘付けになっているのか?
 訳が分からなかった。そして、彼は常日頃からそういう状態が大嫌いだったのだ。
 青い白い顔の中の大きな瞳は彼を映しているようにも見えるが、多分それは錯覚なのだろう。その位は分かる。しかし、娘との距離は結構あるはずなのに、ゆらゆらと長い睫毛が揺れるのすら見えるのは一体どうした訳だろうか。
娘の黒い瞳が揺れ、白く光るものが盛り上がった。
 ああ、泣いている。
 その半身とも言うべき愛しい男を想って――
 腿のあたりまで流れ落ちる黒髪に飾った真珠と同じ、光の粒が娘の頬を流れ落ちた。
 男の心拍数が上がる。
 昔、体術の訓練中に油断をして顎に酷い打撃を喰らった時のように、頭がぐらぐらと揺れた。身体は大量の空気を要求しているのに、呼吸は思うように進まず、肺がすぼまり、息苦しさが募ってゆく。
 耐えかねて男は少しだけ身じろいだ。いつの間にか握りしめていた掌が濡れるほど汗をかいている。
 薄く透ける白い長衣の裾をさやさやと揺らせて少女が歌っている。
 彼女は恋をしている。報われぬ至高の恋を。
 何を歌っているのか、その言葉は男の脳髄には届かない。
 ただ澄んだ純粋な”音”が彼の鼓膜を震わせていた。

 やがて――
 安っぽく、嘘くさい闇が彼の視界を覆った。
 それが当惑の始まる合図。
 幕は上がったのだ。



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