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11 船出
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「まだ信じられない……」
アシュハルトはその日、成り行上、滞在することになったワイエルシュトラウスの屋敷で、当の伯爵を前に呟いた。
「リュミーが俺のものになってくれたなんて」
華やかな結婚式の夜。
リュミーは、その夜滞在客に部屋を提供するために実家には泊まらず、ワイエルシュトラウスの屋敷に戻る事となったのだ。
新たな婚約者を伴って――。
あの後。
新婚の二人を祝う、庭とホールの間のテラスにリュミーを急かして連れ出すと、アシュハルトは膝を突き、祝賀の席の真ん中で結婚の申し込みをした。
「リュドミラベル・マンシェット嬢! どうぞ私、アシュハルト・ヴァイルの妻になっていただきたい!……と言うか、伏してお願い申し上げます!」
皆呆気にとられたが、本人は真剣そのものである。何しろ一度、自分の愚かしさゆえに破談にされているのだ、この上失うものなど何もない。腹を括った男の真剣勝負に、何人かの招待客(多分男性だろう)から、拍手が上がった。
「どうぞご了承を。さもなくば私は、永久にあなたの前から姿を消しましょう!」
「……」
──あれおかしいな。
さっきは柄にもなく小さな挑発をしてしまったリュミーだが、さすがにアシュハルトが両親や新婚夫婦、並びに招待客の真ん前でアシュハルトが自分に求婚するとは思ってもみなかったのだ。ちゃんと「いつかまた」と前置きを入れたはずである。
──それなのに。
突然の事にリュミーが何も言えずにいる間に、兄夫婦やその友人たちにどっと祝福されてしまい、二人の二度目の婚約はあっという間に既成事実になってしまったのだ。
もっともリュミーも、アシュハルトの思いの丈を聞いた時から、彼と仲直りするつもりだったから、少々飛びすぎ過ぎとはいえ、嫌ではなかったのだが。何しろあのアシュハルト・ヴァイルが衆人の真中で跪き、リュミーの両手に額をつけて己の妻となって欲しいと懇願したのだ。
しかし、今回は堂々としていていいはずなのに、やっぱり彼女はひたすら恥ずかしかった。
「やれやれ。本当、相変わらず君は短慮な男だね。見ているこちらが恥ずかしかったよ」
ワイエルシュトラウスの口調は杯に酒を満たすと辛辣に言った。すっかり夜も更け、宴の席は終わった。新婚の二人は今頃甘い夢を見ている事だろう。そして、漸く二人の男たちはお互いに向き合えたのである。
「もっとも、リュミーはまだ君のものになった訳ではないよ。大馬鹿者」
苦りきった伯爵を映す金色の杯が揺れた。
「なんとでも。馬鹿な事なら今まで十分しでかしましたから、今更一つ二つ称号が増えたってかまやしません。それに、思惑がなかったとは今更言いませんが、あくまでもリュミーに決めてもらうつもりだった。あいつが俺を拒否したら、流石の俺でもプロポーズまではできなかったから。でも、結局は良かったんです。性急さは家風だから諦めてもらうけど、なんたってリュミーが俺と結婚してもいいって言ってくれたんですから」
「彼女は君と婚約してもいいと言っただけだよ。婚約なんてのがどんなに不確かなものか、君は十分思い知ったと思うがね。それに、私はまだ君を認めたとは言ってないんだが」
「確かに。ですが、あなたはこれまで俺の代わりにリュミーを守ってくれていたでしょう?」
「……何のことだか」
意味ありげな青年の視線を伯爵はさらりと受け流した。
「社交界の煩い小雀や、浮気な男たちから、今まであの娘を隠してくれていたのはあなただ。そうではないですか?」
「かもしれない。だが、それは別に君の為ではないよ」
「ええ。でも結果俺の為になった。感謝してます」
しゃあしゃあとアシュハルトは頭を下げた。
「この! 生意気な若造め! あと十も若けりゃ、私があの子に求婚していたんだぞ」
「しないでしょ?」
「何?」
初めてワイエルシュトラウスはアシュハルトを真正面から見つめた。
「どういう意味だい?」
「あなたは狼だ。欲しいと思った獲物なら絶対獲る。絶対に俺に遠慮なんかない筈だ。だが、あなたはリュミーに手を出さなかった」
「ふん! 私が我慢したのはあの子の相手が私じゃないって分かっていたからだよ。あの子の涙にはお互い弱いだろう?」
「弱いですね。あれでなかなか泣かないもんだから余計に」
「泣かすんじゃないぞ。そんな事になったら、今度こそ私が奪い取ってやる」
「肝に銘じておきます。あ、でも哭かすかもしれないけれど」
「小僧、調子にのるんじゃないぞ! 君だって十分狼なんだからな! くれぐれも夜這いなどかけぬように」
「それはかけてもいいと言う意味ととっていいですか?」
「くたばれ若造!」
そう言って、伯爵はアシュハルトを部屋から追い出したのだった。
「リュミー……入っていいか?」
不埒な青年がたどり着く先は無論一つだった。
「あ……もう休むところだったのか。悪かった、少しだけ顔を見たかったんだ」
「少しならいいよ。本を見ていただけだから」
そう言ってリュミーはアシュハルトを部屋に入れる。本当に休もうとしていたようで、寝間着の上にガウンを羽織り、髪がまだ湿っていた。
「……いつもこんなに無防備に男を部屋に入れるのか?」
部屋に入るなり、アシュハルトはリュミーを振り返って聞いた。その声が掠れている。上気して艶めく肌、仄かに香る花の香り。
「いつもって、アッシュがここに泊まるの初めてじゃない。ヴィクトルなら何度か一緒に、お話してくれたことあるけど……眠れない時とか」
「う……無邪気な顔してなんちゅうことを……お願いだからもう、そういう事はやめてくれな。本当はここに置いておきたくもない」
「でもだって、家はお兄様夫婦がいるし。私も甘えてはいけないとは思って……」
「わかった!」
論点の相違は埋めようもない。しかも、少しむくれて顎を上げるリュミーから立ち昇る娘らしさに、青年は腰が抜けてしまいそうだった。
「何なら明日にでも俺の下宿に来るか? 少し狭いがお前一人なんとでも……」
「そんな事できないと思う。……えっと、ヨメイリ前だから?」
「嫁入り前の娘が今男を部屋に引き込んでいるんだが……」
「だって、それはアッシュが顔見たいとか……あ、でも、ほんとそうね。出て行ってくれる?」
「つれない事言うなよ……な? キスだけでもさせてくれ」
「キス? ……はい」
そう言ってリュミーは子どもの頃のように、左の頬をアシュハルトに向けた。青年は素直に白桃の頬に唇を近づけ……ふいに顎を攫った。
「え? んんっ」
頬を掠めた唇が、自分の唇にぴったり引っ付いている。驚いて、下がろうとするが体が動かない。いつの間にか、彼の片腕ががっちりと腰に巻きついていたのだ。
「……お前が悪い。あんまり煽るから」
アシュハルトは熱に浮かされたように呟いた。
「へ? 私何か悪い事したの?」
「悪くない。悪いのは俺だ。いつもいつも」
「じゃあ、離れ……」
「もう黙れ」
言うなり再び奪われる。礼装を装る金属が柔らかい部屋着越しに圧迫してきて地味に痛かった。
ん~ん~
体をくねらせてもがいてみても、吸い付いた唇は一向に剥がれない。
思い切り眉を寄せて抗議の意を表しても同じことだ。それはふてぶてしくも増々きつく覆いかぶさってくる。リュミーが苦しがって息を吸い込んだ隙に、あろう事か、濡れた太何かが図々しく侵入し、リュミーの舌にきつく絡んだかと思うと、思い切り扱き上げた。おまけに不埒な指先が、ガウンの合わせから胸元に侵攻を開始している。
──ひゃあ! キモチ悪い!
最後の手段でリュミーは部屋履きを履いた足で、青年の脛を思い切り蹴り上げた。
「……ってぇ~」
ようやく顔が離れる。アシュハルトは本気で痛そうに顔を顰めていた。
「ひでぇや」
「だってキモチ悪い事するから!」
「へ? 気持ち悪い? 気持ちいいの間違いじゃないか?」
「いーえ! とっても気持ち悪かった。もうしないでね」
嫌そうにきっぱり宣言されて若者は涙目である。
大体この部屋に入って湯上りのリュミーを見たときから、若い狼は臨戦態勢だったのだ。さすがにキス以上は(できるだけ)自重しようとは決めていたが、それすら可愛い未来の妻の前に脆くも崩れる直前だったから、むしろこの展開は彼にとっても良かったのかもしれない。
「もうしないでって……お前そんな……殺生な」
「いやよ。キスなら頬か、おでこにして。でないとやっぱり結婚やめる」
「ひ……!」
「さすがは私のリュドミラベルだ。あっぱれだ」
「!」
「ヴィクトル」
「全く、どこまでみっともない男だ君は。少しは自嘲したまえ。婚前に淑女の部屋に忍び込む悪い獣は罰を受けるべきだ」
「あ、いえ、入れてしまったのは私なのですが……」
リュミーは正直に言ったが、伯爵の目は厳しく、腰を引いて俯き加減の若者に据えられた。流石にバツが悪いのかその頬は朱に染まり、まともに宿敵を見られないでいた。
「いいのだ。さ、リュミーはもうお休み? 私は今からもう少し仕事をする義務が生じたからね」
「え? ちょっとリュミー! うわ、なにをする! 離せ! 離してください」
「いやいや、君にぜひとも飲んでもらいたい、とっておきの酒があるのだよ。これを飲むと美味過ぎて、すべての欲が消え去るのだ。遠慮することはない。さぁおいで。今夜はともに酒樽になろうではないか!」
「嫌だ! リュミー! 助けてくれ」
アシュハルトはずるずると引きずられてゆく。
無論、助け手は現れず、青年は、鯨飲と評判の高いワイエルシュトラウス伯爵の秘蔵の酒を、つま先から頭のてっぺんまで仕込まれる羽目になるのだった。
半年後。
「あ~あ、つまらないねぇ。あの子が行ってから世の中ちっとも面白くない」
「それならなぜお許しになったのです」
アルバートが不満そうな表情を隠しもせずに主に茶を渡す。
「私も今まさにそれを後悔していたところなんだ。まったく忌々しい。ヴァイルの小倅なんぞにリュミーを取られてしまった」
「その割には結婚式で一番大きな拍手をされていましたが」
「あれはリュミーの為。ヴァイルの小童の為じゃない」
「リュドミラベル様のお名も既にヴァイルですが」
「あっ! くそ、益々忌々しい。こんな事ならもっと早くリュミーに求婚するんだった。私が紳士でフェアプレイを望んだばっかりに……みすみすヴァイルの小僧にリュミーを持っていかれたんだ。騎士道精神と言うのも考えもんだね、アルバート君」
「そう言う事にしておきましょうね。ああ……今頃お二人はどの波の上を旅してらっしゃるのでしょうねぇ」
アルバートはそう言って遠い空に目を凝らした。
窓の外はすっかり春の色に染まっている。
「リュミー……そろそろ冷えてきたぞ。中に入ったらどうだ」
「もう少しここで風に吹かれていたいわ」
青年の新妻は、潮風に髪をなぶられながら吹きさらしの舷に凭れていた。
空気は澄み渡っているが、そろそろ日が暮れる。海上の風は、都会のそれとは比べ物にならない程、豊かで激しい。舳は東を向いている。
「寒くはない?」
「ちっとも……ああ、このまま鳥になってどこまでも飛んでいけたらいいのに、そしたらあっという間に次の港に着けるわ」
「この船が嫌いか?」
アシュハルトは、今朝妻にしたばかりのリュミーの瞳を覗き込んだ。この瞳に映るものは自分だけでいいと、そう願って。
「いいえ、大好きよ。ヴァイル大尉」
「大尉かぁ……艦長でなくてごめんな」
「へいき」
大きくなった太陽を背にリュミーは笑った。この日の朝、船上で二人は結婚式を挙げた。愛する人々に祝福され、彼らは新天地へと旅立ったのだ。
「……俺はお前の夢を叶えてあげられたのかな?」
「ええ、二つも叶えて貰ったわ」
「二つ? 船に乗って旅する事だけじゃないのか?」
「それは二つ目。一つ目は……」
「うん?」
アシュハルトは強い風から庇うようにリュミーを抱き寄せた。
「あなたのお嫁さんになる事!」
太陽の真中で影が重なる。
旅は始まったばかりだ。
*** *** *** ***
「な? リュミー、そろそろ中へはいろうぜ。流石に冷えてきた」
「もう少し待って、私星が昇るところを見たいの☆」
「は? 星? そんなものこれからいつでも見れるだろう? さ、中へ……」
「なんでそんなに急かすの?」
「だって、そりゃお前……わかんないのか?」
「わかんない。星を見ていてはダメなの?」
「駄目だ……俺はずっとこの日を待ち続けてきたんだ……あいつらのお蔭で俺は自分の忍耐強さを発見したがな」
「あいつら? あいつらって?」
「俺の敵だよ。クソ伯爵は言うに及ばず、あの地獄の看守みたいな執事や、鬼教官も真っ青の女中頭や、お前の兄貴やその嫁や……思い起こしても肝が煮える。くそっ! ことごとく俺の邪魔をしやがって……」
「アッシュ? 何をぶつぶつ言ってるの?」
「いいんだ。それもこれもすべて今夜の為なんだからな……ん……リュミー……もっとこっちへ来いよ」
「んぁ」
「失礼いたします。奥様、天体望遠鏡をお持ちしました。星をご覧になりたいとの仰せでしたので」
「何!?」
「まぁ、キャプテン……すごい! 本格的なものね! 見たいわ、すごく! でもなんで私が星を見たがっているとご存じなの?」
「伯爵様から伺っております」
「まぁ、ヴィクトル……」
「あいつめ、どこまで俺の邪魔を……いや、リュミー、そんなものは置いといて、今夜は俺と……」
「(聞いてない)まぁ、大きな対物レンズ! これなら、クレータだって見えそう!」
「……」
「さぁ、あちら側が南でございますよ、ご案内いたしましょう」
「ありがとう! 流石だなぁ」
「ちょ……まっ、待って……」
「アッシュ? 先に眠ってくれていいわよ」
「眠れるかぁ!(涙目)」
これにて本編完結。ドデシタカ?
ザマァが足りない! もっと制裁を!
などとお叱りを受けそうですが、そういうタグはつけてなくてすみません。
ご意見、ご感想はとってもありがたいです。
アシュハルトはその日、成り行上、滞在することになったワイエルシュトラウスの屋敷で、当の伯爵を前に呟いた。
「リュミーが俺のものになってくれたなんて」
華やかな結婚式の夜。
リュミーは、その夜滞在客に部屋を提供するために実家には泊まらず、ワイエルシュトラウスの屋敷に戻る事となったのだ。
新たな婚約者を伴って――。
あの後。
新婚の二人を祝う、庭とホールの間のテラスにリュミーを急かして連れ出すと、アシュハルトは膝を突き、祝賀の席の真ん中で結婚の申し込みをした。
「リュドミラベル・マンシェット嬢! どうぞ私、アシュハルト・ヴァイルの妻になっていただきたい!……と言うか、伏してお願い申し上げます!」
皆呆気にとられたが、本人は真剣そのものである。何しろ一度、自分の愚かしさゆえに破談にされているのだ、この上失うものなど何もない。腹を括った男の真剣勝負に、何人かの招待客(多分男性だろう)から、拍手が上がった。
「どうぞご了承を。さもなくば私は、永久にあなたの前から姿を消しましょう!」
「……」
──あれおかしいな。
さっきは柄にもなく小さな挑発をしてしまったリュミーだが、さすがにアシュハルトが両親や新婚夫婦、並びに招待客の真ん前でアシュハルトが自分に求婚するとは思ってもみなかったのだ。ちゃんと「いつかまた」と前置きを入れたはずである。
──それなのに。
突然の事にリュミーが何も言えずにいる間に、兄夫婦やその友人たちにどっと祝福されてしまい、二人の二度目の婚約はあっという間に既成事実になってしまったのだ。
もっともリュミーも、アシュハルトの思いの丈を聞いた時から、彼と仲直りするつもりだったから、少々飛びすぎ過ぎとはいえ、嫌ではなかったのだが。何しろあのアシュハルト・ヴァイルが衆人の真中で跪き、リュミーの両手に額をつけて己の妻となって欲しいと懇願したのだ。
しかし、今回は堂々としていていいはずなのに、やっぱり彼女はひたすら恥ずかしかった。
「やれやれ。本当、相変わらず君は短慮な男だね。見ているこちらが恥ずかしかったよ」
ワイエルシュトラウスの口調は杯に酒を満たすと辛辣に言った。すっかり夜も更け、宴の席は終わった。新婚の二人は今頃甘い夢を見ている事だろう。そして、漸く二人の男たちはお互いに向き合えたのである。
「もっとも、リュミーはまだ君のものになった訳ではないよ。大馬鹿者」
苦りきった伯爵を映す金色の杯が揺れた。
「なんとでも。馬鹿な事なら今まで十分しでかしましたから、今更一つ二つ称号が増えたってかまやしません。それに、思惑がなかったとは今更言いませんが、あくまでもリュミーに決めてもらうつもりだった。あいつが俺を拒否したら、流石の俺でもプロポーズまではできなかったから。でも、結局は良かったんです。性急さは家風だから諦めてもらうけど、なんたってリュミーが俺と結婚してもいいって言ってくれたんですから」
「彼女は君と婚約してもいいと言っただけだよ。婚約なんてのがどんなに不確かなものか、君は十分思い知ったと思うがね。それに、私はまだ君を認めたとは言ってないんだが」
「確かに。ですが、あなたはこれまで俺の代わりにリュミーを守ってくれていたでしょう?」
「……何のことだか」
意味ありげな青年の視線を伯爵はさらりと受け流した。
「社交界の煩い小雀や、浮気な男たちから、今まであの娘を隠してくれていたのはあなただ。そうではないですか?」
「かもしれない。だが、それは別に君の為ではないよ」
「ええ。でも結果俺の為になった。感謝してます」
しゃあしゃあとアシュハルトは頭を下げた。
「この! 生意気な若造め! あと十も若けりゃ、私があの子に求婚していたんだぞ」
「しないでしょ?」
「何?」
初めてワイエルシュトラウスはアシュハルトを真正面から見つめた。
「どういう意味だい?」
「あなたは狼だ。欲しいと思った獲物なら絶対獲る。絶対に俺に遠慮なんかない筈だ。だが、あなたはリュミーに手を出さなかった」
「ふん! 私が我慢したのはあの子の相手が私じゃないって分かっていたからだよ。あの子の涙にはお互い弱いだろう?」
「弱いですね。あれでなかなか泣かないもんだから余計に」
「泣かすんじゃないぞ。そんな事になったら、今度こそ私が奪い取ってやる」
「肝に銘じておきます。あ、でも哭かすかもしれないけれど」
「小僧、調子にのるんじゃないぞ! 君だって十分狼なんだからな! くれぐれも夜這いなどかけぬように」
「それはかけてもいいと言う意味ととっていいですか?」
「くたばれ若造!」
そう言って、伯爵はアシュハルトを部屋から追い出したのだった。
「リュミー……入っていいか?」
不埒な青年がたどり着く先は無論一つだった。
「あ……もう休むところだったのか。悪かった、少しだけ顔を見たかったんだ」
「少しならいいよ。本を見ていただけだから」
そう言ってリュミーはアシュハルトを部屋に入れる。本当に休もうとしていたようで、寝間着の上にガウンを羽織り、髪がまだ湿っていた。
「……いつもこんなに無防備に男を部屋に入れるのか?」
部屋に入るなり、アシュハルトはリュミーを振り返って聞いた。その声が掠れている。上気して艶めく肌、仄かに香る花の香り。
「いつもって、アッシュがここに泊まるの初めてじゃない。ヴィクトルなら何度か一緒に、お話してくれたことあるけど……眠れない時とか」
「う……無邪気な顔してなんちゅうことを……お願いだからもう、そういう事はやめてくれな。本当はここに置いておきたくもない」
「でもだって、家はお兄様夫婦がいるし。私も甘えてはいけないとは思って……」
「わかった!」
論点の相違は埋めようもない。しかも、少しむくれて顎を上げるリュミーから立ち昇る娘らしさに、青年は腰が抜けてしまいそうだった。
「何なら明日にでも俺の下宿に来るか? 少し狭いがお前一人なんとでも……」
「そんな事できないと思う。……えっと、ヨメイリ前だから?」
「嫁入り前の娘が今男を部屋に引き込んでいるんだが……」
「だって、それはアッシュが顔見たいとか……あ、でも、ほんとそうね。出て行ってくれる?」
「つれない事言うなよ……な? キスだけでもさせてくれ」
「キス? ……はい」
そう言ってリュミーは子どもの頃のように、左の頬をアシュハルトに向けた。青年は素直に白桃の頬に唇を近づけ……ふいに顎を攫った。
「え? んんっ」
頬を掠めた唇が、自分の唇にぴったり引っ付いている。驚いて、下がろうとするが体が動かない。いつの間にか、彼の片腕ががっちりと腰に巻きついていたのだ。
「……お前が悪い。あんまり煽るから」
アシュハルトは熱に浮かされたように呟いた。
「へ? 私何か悪い事したの?」
「悪くない。悪いのは俺だ。いつもいつも」
「じゃあ、離れ……」
「もう黙れ」
言うなり再び奪われる。礼装を装る金属が柔らかい部屋着越しに圧迫してきて地味に痛かった。
ん~ん~
体をくねらせてもがいてみても、吸い付いた唇は一向に剥がれない。
思い切り眉を寄せて抗議の意を表しても同じことだ。それはふてぶてしくも増々きつく覆いかぶさってくる。リュミーが苦しがって息を吸い込んだ隙に、あろう事か、濡れた太何かが図々しく侵入し、リュミーの舌にきつく絡んだかと思うと、思い切り扱き上げた。おまけに不埒な指先が、ガウンの合わせから胸元に侵攻を開始している。
──ひゃあ! キモチ悪い!
最後の手段でリュミーは部屋履きを履いた足で、青年の脛を思い切り蹴り上げた。
「……ってぇ~」
ようやく顔が離れる。アシュハルトは本気で痛そうに顔を顰めていた。
「ひでぇや」
「だってキモチ悪い事するから!」
「へ? 気持ち悪い? 気持ちいいの間違いじゃないか?」
「いーえ! とっても気持ち悪かった。もうしないでね」
嫌そうにきっぱり宣言されて若者は涙目である。
大体この部屋に入って湯上りのリュミーを見たときから、若い狼は臨戦態勢だったのだ。さすがにキス以上は(できるだけ)自重しようとは決めていたが、それすら可愛い未来の妻の前に脆くも崩れる直前だったから、むしろこの展開は彼にとっても良かったのかもしれない。
「もうしないでって……お前そんな……殺生な」
「いやよ。キスなら頬か、おでこにして。でないとやっぱり結婚やめる」
「ひ……!」
「さすがは私のリュドミラベルだ。あっぱれだ」
「!」
「ヴィクトル」
「全く、どこまでみっともない男だ君は。少しは自嘲したまえ。婚前に淑女の部屋に忍び込む悪い獣は罰を受けるべきだ」
「あ、いえ、入れてしまったのは私なのですが……」
リュミーは正直に言ったが、伯爵の目は厳しく、腰を引いて俯き加減の若者に据えられた。流石にバツが悪いのかその頬は朱に染まり、まともに宿敵を見られないでいた。
「いいのだ。さ、リュミーはもうお休み? 私は今からもう少し仕事をする義務が生じたからね」
「え? ちょっとリュミー! うわ、なにをする! 離せ! 離してください」
「いやいや、君にぜひとも飲んでもらいたい、とっておきの酒があるのだよ。これを飲むと美味過ぎて、すべての欲が消え去るのだ。遠慮することはない。さぁおいで。今夜はともに酒樽になろうではないか!」
「嫌だ! リュミー! 助けてくれ」
アシュハルトはずるずると引きずられてゆく。
無論、助け手は現れず、青年は、鯨飲と評判の高いワイエルシュトラウス伯爵の秘蔵の酒を、つま先から頭のてっぺんまで仕込まれる羽目になるのだった。
半年後。
「あ~あ、つまらないねぇ。あの子が行ってから世の中ちっとも面白くない」
「それならなぜお許しになったのです」
アルバートが不満そうな表情を隠しもせずに主に茶を渡す。
「私も今まさにそれを後悔していたところなんだ。まったく忌々しい。ヴァイルの小倅なんぞにリュミーを取られてしまった」
「その割には結婚式で一番大きな拍手をされていましたが」
「あれはリュミーの為。ヴァイルの小童の為じゃない」
「リュドミラベル様のお名も既にヴァイルですが」
「あっ! くそ、益々忌々しい。こんな事ならもっと早くリュミーに求婚するんだった。私が紳士でフェアプレイを望んだばっかりに……みすみすヴァイルの小僧にリュミーを持っていかれたんだ。騎士道精神と言うのも考えもんだね、アルバート君」
「そう言う事にしておきましょうね。ああ……今頃お二人はどの波の上を旅してらっしゃるのでしょうねぇ」
アルバートはそう言って遠い空に目を凝らした。
窓の外はすっかり春の色に染まっている。
「リュミー……そろそろ冷えてきたぞ。中に入ったらどうだ」
「もう少しここで風に吹かれていたいわ」
青年の新妻は、潮風に髪をなぶられながら吹きさらしの舷に凭れていた。
空気は澄み渡っているが、そろそろ日が暮れる。海上の風は、都会のそれとは比べ物にならない程、豊かで激しい。舳は東を向いている。
「寒くはない?」
「ちっとも……ああ、このまま鳥になってどこまでも飛んでいけたらいいのに、そしたらあっという間に次の港に着けるわ」
「この船が嫌いか?」
アシュハルトは、今朝妻にしたばかりのリュミーの瞳を覗き込んだ。この瞳に映るものは自分だけでいいと、そう願って。
「いいえ、大好きよ。ヴァイル大尉」
「大尉かぁ……艦長でなくてごめんな」
「へいき」
大きくなった太陽を背にリュミーは笑った。この日の朝、船上で二人は結婚式を挙げた。愛する人々に祝福され、彼らは新天地へと旅立ったのだ。
「……俺はお前の夢を叶えてあげられたのかな?」
「ええ、二つも叶えて貰ったわ」
「二つ? 船に乗って旅する事だけじゃないのか?」
「それは二つ目。一つ目は……」
「うん?」
アシュハルトは強い風から庇うようにリュミーを抱き寄せた。
「あなたのお嫁さんになる事!」
太陽の真中で影が重なる。
旅は始まったばかりだ。
*** *** *** ***
「な? リュミー、そろそろ中へはいろうぜ。流石に冷えてきた」
「もう少し待って、私星が昇るところを見たいの☆」
「は? 星? そんなものこれからいつでも見れるだろう? さ、中へ……」
「なんでそんなに急かすの?」
「だって、そりゃお前……わかんないのか?」
「わかんない。星を見ていてはダメなの?」
「駄目だ……俺はずっとこの日を待ち続けてきたんだ……あいつらのお蔭で俺は自分の忍耐強さを発見したがな」
「あいつら? あいつらって?」
「俺の敵だよ。クソ伯爵は言うに及ばず、あの地獄の看守みたいな執事や、鬼教官も真っ青の女中頭や、お前の兄貴やその嫁や……思い起こしても肝が煮える。くそっ! ことごとく俺の邪魔をしやがって……」
「アッシュ? 何をぶつぶつ言ってるの?」
「いいんだ。それもこれもすべて今夜の為なんだからな……ん……リュミー……もっとこっちへ来いよ」
「んぁ」
「失礼いたします。奥様、天体望遠鏡をお持ちしました。星をご覧になりたいとの仰せでしたので」
「何!?」
「まぁ、キャプテン……すごい! 本格的なものね! 見たいわ、すごく! でもなんで私が星を見たがっているとご存じなの?」
「伯爵様から伺っております」
「まぁ、ヴィクトル……」
「あいつめ、どこまで俺の邪魔を……いや、リュミー、そんなものは置いといて、今夜は俺と……」
「(聞いてない)まぁ、大きな対物レンズ! これなら、クレータだって見えそう!」
「……」
「さぁ、あちら側が南でございますよ、ご案内いたしましょう」
「ありがとう! 流石だなぁ」
「ちょ……まっ、待って……」
「アッシュ? 先に眠ってくれていいわよ」
「眠れるかぁ!(涙目)」
これにて本編完結。ドデシタカ?
ザマァが足りない! もっと制裁を!
などとお叱りを受けそうですが、そういうタグはつけてなくてすみません。
ご意見、ご感想はとってもありがたいです。
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なろうの方で読んでました。
久しぶりに再読、やっぱり面白い。
大人で懐深く何をおいてもはるか先に立つ伯爵にいいようにされるヒーロー君。
頑張れ、君の未来はまだまだこれからだ。
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*yu-koさん、いらっしゃいませ。
再読してくださりありがとうございます。
アッシュは私のヒーローの中でも一二を争う、アイタタなやつです。
ま、その分伸び代もあるというわけで・・・。
この作品は「波の音を待ちわびて」というタイトルで電子書籍化され、素晴らしい表紙とたくさんお挿絵があります。また、かなり加筆して、読者様の喜ぶ場面を、大幅に増やしておりますので、是非是非Amazonなどで険悪してみてくださいませ!
最初のアッシュに腹を立てましたが、心の内と後悔をよんで最後にはガンバレ❗️って思うようになりました笑。最後の最後の伯爵の絶妙な嫌がらせに叫ぶアッシュに最高に笑えました。心を傷つけられたリュミーが幸せになってよかったです。花嫁の閨教育がされてないのはきっと伯爵の嫌がらせですよね笑。すてきな作品ありがとうございました❗️。
*izumiruさん、すみません!
ご感想いただけているのに、ちっとも気がつきませんでした。
私はマイナーな作者ですので、完結した作品にお言葉をいただけることが稀なのです。
本当に申し訳なく・・・。
アッシュ、ほんと描いていても腹立ちました。
連載時はアッシュなんか捨てて伯爵と結ばれたらいいのにって何度も言われました。
でも、この作品はロマンスヒルズ様から、電子書籍化され、素晴らしいイラストレーター様に挿絵や表紙を描いていただきました!
タイトルは「波の音を待ちわびて」に変更され、また、内容もかなり加筆していて、萌え萌えの場面が増えていますので、ぜひAmazonなどから検索してください。
面白いのでいっきに読んでしまいました。裏設定、いいですね!文野さとさんの作品大好きです!
*ポン太さん、いらっしゃいませ。
たくさんの嬉しいお言葉ありがとうございます。
旧作に感想をいただけることは、滅多にないので、非常に嬉しいです!
9月から新連載を始めますので、よかたらそっちも見てやってくださいね!