花ふる里に散る雪があなたの心を困らせる

みなみあまね

文字の大きさ
14 / 16

しおりを挟む
 奈良から帰ってきて、もう二週間ほどになるが、斎は普段とあまり変化はない。明るくもないし、優しくもないし、悲しそうでもない。覚悟していた分、そんなに衝撃はなかったようだ。
 あの街では、狂ったものが僕たちを取り囲んでいた。何一つまともじゃなかった。斎と少し離れただけでも、僕は壊れかけた。しかし僕とは反対に、斎は馴染んでいた。

 斎が狂っているのか、僕が狂っているのか。

 僕はこの頃、夜寝る時に斎と話をするようになった。暗い部屋で電気スタンドの明かりを頼りに、小さい頃の話や両親が逝ってしまった時の話、それから今の状況や悩み、将来の夢や希望を。
 斎は静かに隣で頷いてくれた。

 僕が話すから時々、斎も話してくれた。
   ずっと遠くにある不思議な国の話を。

 そこでは誰もが泣いていて、誰もが笑っているのだそうだ。そして、皆で一斉に死に、皆で一斉に生まれるから、そこには生死の概念がないと、斎は言った。
 斎は自分の事を決して話さなかった。注意深く、その要素を削ぎ落としていた。
 柔らかい枕に顔を埋めて、斎は囁くように話す。
「それでね、その国では夜空が下にあって青空は横にあるんだ。上にはずっと、雪雲が待ち構えていて、花を降らすために必死なんだ。だから、花は冷たい。みんなが一斉に死んだ時に誰も生き残らないように、毎日降り続ける。そうして、みんなが一斉に生まれる時には、花雲がどこからともなくやってきて、雪を優しく降らすんだ。だから、雪は温かい。
そこでは誰もが独りで、誰もが一緒に暮らしているんだよ」
 僕は苦笑しながら頷く。
「そんな暮らしをしていて、誰か疑問に思わないのかな?」
「疑問?どうして?」
 斎が顔を上げた。電気スタンドの光が、白い頬をマーマレード色に染めている。
「例えば、『もっと生きていたいんだ』とか」
 斎は少し困ったような顔をした。
「だって、誰かが生き残ってしまえば誰かが泣かなくちゃいけないし、誰かが死んだ時に生まれる誰かがいたら、誰かが笑わなくちゃいけないでしょう?それって、とても辛いよ。だから、雪雲と花雲が交代で空に待ち構えているんだよ」
「そんな事はこの世に溢れてる。今、俺たちは温かいベッドの中にいるけど、どこかで寒さに震えている奴らもいる。裕福なまま死ぬ人や、スラムの片隅で生まれる子供だっている。それにいちいち付き合って、辛いと言っていたんじゃあ身が持たないぜ?」
「それは少し、無感動だね」
「それをいうなら無関心」
「違うよ、そうやって色んな事に無感動になっていくんだね。いつ泣いたりするの?いつ怒るの?いつ笑うの?いつ安心するの?そうやって無感動になるのは良くない」

 そうしなければこの世界では強くなれない。

   わかっているのか、斎。この世界はとんでもなく残虐性に溢れている。その中で、たった一人でも守っていくことは難しいんだ。
「ああ?俺、そんなに無感動じゃないぜ。いつもお前には感情的だろう?」
「…きっと、一歩外に出たら無感動なんでしょう?それが心配なんだ。たしかに、生死も泣き笑いも、そんな事はどこにでもある。今だって横にある。だからって、そんなに無感動にならないで。そんな孤独な人、見た事ないよ」

 僕が、この僕が孤独だって?
   それは斎、君のことだろう。

「全然平気だと思っているでしょう?違うよ、気づかないだけで本当は辛いんだ。だから考える事をしなくなっただけ。それが心配なんだ」
 僕の心配より、自分の心配をしたらどうだろう。そこまで言われると、腹が立ってきた。

   斎は僕の中に自分を見ているのだ。

「別に、それが本当だとしても俺はそんなに弱くない」
「強い弱いの問題じゃないよ、よくわかるんだ。そういう態度は狂っていく」
「よくわかる?じゃあ、斎は狂っているのか?」
「…この頃、それが怖い」
「怖い?」
「…この頃、よく話してくれるよね、自分の事。どうして?」
「それは、斎に聞いて欲しいからだ」
「他に聞いてくれる人はいないの?」
「聞いて欲しい人がいないんだ。あのなあ、俺に何を言わせたいんだ?」
「他の人に話して!もっとたくさん、他の人に話して!」
 斎は強い口調で言った。
 どうしてだ?僕は斎以外の奴らに、自分を知って欲しいなんて思わない。斎だけに知って欲しいんだ。言葉にすらさせてくれないのか。
   さすがに言葉が見つからなかった。このまま話し続ければ、朝まで喧嘩だ。
「…もう寝よう」
 明日になれば、斎も落ち着いてるだろう。
 斎は僕を睨んでいたが、やがて諦めたように小さくため息をついた。
   たとえ、世界に斎一人しかいなくなったとしても、この世界が何十億人という人で混雑しているとしても、僕は何の不自由も感じない。こうして二人で眠る事ができるのなら。そう思うことの、どこがいけないんだ?
 
 僕は斎の言葉を聞くべきだった。

 たぶん、斎は探しても見つからないだろう。そのために全てを置いていったのだから。
 捜索願いを出そうと思ったがやめた。まず犬神の家には知られてしまうし、僕たちの日常を詮索される。それだけはごめんだ。

 僕は斎がいなくなった日から、新聞には事細かに目を通すようになった。もしかしたら、という最悪の想像が何度も暴れ回った。しかし、『犬神斎』の名前はどこにもなかった。

 始めからこの世界には存在しなかったように。

 僕は妄想の中で斎を育て上げ、一人二役を演じていたのではないだろうか。

   こんなにも狂っているのだから。

 斎、一体どこにいるんだ?

 朝起きると最初に呟く。隣を見て一つ、リビングに行って二つ、家を出る前に斎の部屋で三つ、カウントしながらため息をつく。僕の全身から酸素が抜けていく。

 吐息、瞬き、言葉、日常。
 僕の途切れ間を埋めてくれ。

 今日という日の残虐を、鍵を締めて閉じこめる。そして、階段で影を蛇腹に折りながら地上へ降り立つ。東武東上線大山駅に向かい、僕は自分を押し込める。
 ガタンガタンと揺られ行くけれど、僕一人だ。一緒に落ちようとした人は、隣にいない。

 それなのに、どうして僕の周りにはこんなに人が溢れてるんだ?

 僕は、僕がいなくなったら斎は必ず死ぬと思っていた。そうあるべきだとすら思っていた。
   しかし、斎は生きている。この世界のどこかで生きている。
 僕は、僕がいなくなる前に斎を絶対に殺すべきだと思っている。そうあるべきだとすら思っている。
   だから、僕は生きている。この世界のここで生きている。

 君がいなくなったら、僕はいつまでたっても死ねないじゃないか。

 斎、この頃、僕の心に雪が降るんだ。雪がこんなにも温かいなんて思わなかった。
 斎、君の話が聞きたいんだ。君がどれほどの不安を抱えているのか、どれほどの想いを秘めているのか、どれほどの真実があるのか。
 僕は瞳に万物を映し、そして瞳に見えないものを信じようした。

   君の言葉を聞くべきだった。

 斎はいつも話そうとしていた。自分の迷いや想い、昨日の事、これからの事。なのに僕は、その口から出てくる言葉が怖かった。だから、すぐに斎の言葉をかき消してしまった。そして、同じように自分の言葉をかき消した。
 僕たちの日常がかき消されないように。

   現実を知ることが怖かったんだ。ずっと、こうしていたかった。

 池袋駅で降り、丸の内線に僕は自分を押し込める。
   会社に入って、何人かの友人が出来た。僕はその何人かに話す。昔の事や今の状況、これからの事。多くの人々が僕を知っていて、いくつもの答えが返ってくる。僕の堅固な心が溶けていく。強くなったと思ったら、昔に逆戻りだ。ここまで溶けてしまうと、もう自棄に近いのかもしれない。

 それでも僕は、決して斎の事だけは話さない。

 斎、自分自身の暗くて重い問題に結論が出たら帰って来い。いなくなった理由は、根本的にそこにあるんだろう?
   君は言った。『犬神斎』がきちんとした人間だったら、と。
   しかし、正常なんて誰が持っている?僕だって正常とは言いきれないんだ。瞳に映るものに惑わされる奴らが問題にすべきであって、君が問題にすることじゃない。

 瞳に映るもの以外は、それぞれの妄想なんだろう?瞳に映るものしか信じない、斎。

 東京駅で降り、八重洲中央口を出て、僕は社会の足かせをはめて歩く。

 僕はあの家から消えたりしない。だから、自分自身に結論を出したらすぐに帰って来い。
 約束する、僕は瞳に映るものしか信じない。たとえ明日死んでしまっても、僕は後悔しない。

 約束する、僕は二度と凍ったりはしない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

処理中です...