花ふる里に散る雪があなたの心を困らせる

みなみあまね

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   高いビルの群ればかりが、微かに瞳に映った。ここが東京だということだけが判るどこか知らない場所で、何も考えることなく倒れていた。
 嬌態をばらまきながら歩く女と、男か女かわからない人間が、酔っ払いの男に声をかける。笑いながら、『気をつけて』と。しかし、足取りもあやしくなっている男は、そのままゴミの山に倒れこんだ。強烈に下品な笑い声が辺りに響く。

 ああ、今は朝なのか。違う、夕暮れか。猥雑なネオンが天上の星に対抗している。汚い道端で寝返りを打った。こんな体はどうなってもいい。
 常に、男が声をかけてきて誘う。時々、女が声をかけてきて誘う。そんな街だから、こんな体はどうなってもいい。でも誰にも触れさせない。
 もう一度、寝返りを打つ。
「ねえ、ちょっと君。そんな所で寝ていたら風邪を引くよ?」
 うるさい、これは人の勝手。放っておいて欲しい。どうせまた誘うだけだろう?
 無言でいると、抱き起こされた。

 一瞬、見間違えた。
   平然としている顔、無表情の顔。

 でも違った。ただ、雰囲気だけは同じ。
「あのねえ、君みたいな子がこういう所で寝てたら、強姦されるよ?」
「…別に」
「まあ、君の信念はどうでもいいのだけれどね。一応、私は警察官なんだ。だから、保護責任があるわけ。わかる?職務質問もできる。君、家はどこ?」

 美しいアルトの声、とても音楽的。
   顔の凛々しい女、美人といえなくもない。
   厭世的な細い体、全てを圧倒している。

 この世界に生きている人間には見えない。

「…家はない」
「なんだ、ホームレス?」
「違う、『乞食』だ」
 凛々しい顔が笑った。
「相当捻くれているね。まあ、わかった。とにかく立ちなさい。君は人間だ、歩く権利があり同時に義務がある。わかる?」
 普通に言えないものなんだろうか。残る力を込めて立ちあがる。
 女は時計を見て、首を傾げた。
「君、『乞食』というからにはお腹空いてるよね?」
「…少し」
「良かった!それなら、どこかに食べに行こう。その前に、その服もどうにかしよう。食欲があれば生きていけるからね。さ、早く!」
 女はそう言うと、足早に歩き出した。仕方なくついて行くことにした。
「よくわからないよ、その論法」
「そう?つまりは世の中に執着があるってこと。私には食欲がない、睡眠欲もない」
「性欲もない?」
「そう。だから世の中に執着できない」
「じゃあ、どうして生きているの?」
「それは簡単。生きていて欲しいって言ってくれる人がいるから。私が執着しているわけじゃない、あっちが執着している。だから、私には生きる義務がある」
「おかしいよ、なんだか屁理屈だ。権利は?」
「権利は放棄した、あげちゃった。だから、私には生きる義務しかない」
「変な人!」
 可笑しくて大声で笑った。こんなに感情を表に出したのは何ヶ月ぶりだろう。

 女も笑った。その笑い方が、儚い。

「よく言われるよ。ああ、そこの店でいい。君の好きなのでいいから、服を買ってきなよ」
 当り前のように、当り前じゃない事をさらりと言う女だ。
 誘っているのだろうか?でも、警察官だと言った。それも嘘だという可能性はある。
「…どうして、そんなに優しくするの?」
 思いきって訊ねてみた。いつもと同じ台詞を言われたら、引っ叩いて逃げよう。
「人に優しくするのに理由がいるの?」
 女は首を傾げて、不思議そうにこちらを見た。本気でそう思っているらしい。真剣に見つめる灰色の瞳が、瞬いて揺れている。
「でも…」
「じゃあ、こうしよう。私は警察官だ。君、税金は払ったことあるよね?私の給料は税金から構成されているから、私は君からお金を既にもらっているんだ。わかる?だから、君が私のお金で何を買おうといいんだ。これぞ正当な理由!納得した?」
 なんて荒唐無稽な人なんだろう。だんだんと呆れてきた。
「はい、財布。早く行かないと、ご飯を食べそびれちゃうよ。お店が混むからね」
「うん」
 財布を受け取る時に触れた手が、驚くほど冷たかった。
 急いで走る。人を丸っきり信用しているのか、追いかけてくる様子もない。このまま財布を持ち逃げされたらどうするつもりなんだろう。
   実体が追いかけてくる代わりに、後ろから美しいアルトの声が追いかけてきた。
「君!名前は?私は石塚銀子!い、し、づ、か、ぎ、ん、こ!聞こえてる?」
 何も今、訊かなくてもいいのに。
   吹き出しそうになりながらも、振り返って叫んだ。
「犬神斎!い、ぬ、が、み、い、つ、き!聞こえてる?」
 細い腕が天に伸びて揺れた。
「聞こえた!イヌガミイツキ!早く帰っておいで!」
「了解!なるべく早くに戻るよ!」
 久しぶりに呼ばれた自分の名前に、思わず泣きそうになった。

   この人となら、生きていけるかもしれない。

   同じ体温を持った人。これ以上、互いに凍ることがないだろう。
   同じ瞳を持った人。これ以上、互いに何も映さずに済むだろう。

 あの家に二度と戻れないように、全てを手放して閉じ込めよう。これ以上、あの人を凍らせたくはない。

 そして、あの人が死なないように生きなければならない。


                             完
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