爪を剥ぐ

みなみあまね

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【十三歳現在・過去 嗤う男、再び】

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 近くまで来て、バイクを止める。これからの山道は二人乗りでは危険だということで、歩くことになった。
   サンダルで林道を歩くのは大変だ。土が足に巻かれた包帯を茶色にする。力を入れて歩くために、爪の剥がれた足では拷問に近かった。痛みが波打つ。それに、風が止んでいるので、溶けてしまいそうなほど暑い。汗が服に、包帯に、染みこんでいく。
 智広兄さんは、途中で私が爪を失っているという事にやっと気づいたらしく、歩かせることになったことをしきりに謝り、申し訳なさそうに「背負ってやろうか?」と言った。
   私は当然、断った。つい最近、腕に傷を負った人が私を背負うなんて無茶なことだ。それに、智広兄さんの腕の皮膚が、私の体重で剥がれてしまいそうで、怖い。
 
 二十分ぐらい歩いただろうか、右手に白い看板が見えてきた。
「ここから、上り坂だから覚悟しろよ」
 どうやら目的地はまだらしい。私は手を伸ばし、暑さにだるくなった体に気合いを入れた。大籠川から離れて、坂を登る。途中、枝分かれした道があったが、智広兄さんは迷わずに進んだ。
   鬱蒼とした寂しい林の中を、時に蜘蛛の巣に引っかかりながらひたすらに歩いた。「以前来た時は、もっとすごかったぜ」と、智広兄さんは蜘蛛の巣の多さを語ったが、私が「前に進めなくなるから、やめて」と言うと、頭をかいて苦笑した。
 看板を見てから十分ほど歩いただろうか。智広兄さんが「もうすぐ着くぞ」と前方を指差すと、その先に林の開けた所が見えてきた。

 私達以外の人はいない、そう思っていたが、開けた空間の中央に水色のTシャツを着た男が立っていた。顔まではよくわからない。私たちがやって来たことにも、気づいていないようだ。

 こんな寂しい所に来る人なんて、私達だけだと思っていた。智広兄さんも、遠くに立つ人物を訝しげに見つめている。
「蜘蛛の巣が少なかったのは、先客がいたからか・・・。珍奇な奴がいるもんだな」
「ここって、礼拝所跡でしょ?史跡の中ではけっこうメジャーじゃないのかなあ?」
「いいや。礼拝所跡といっても、ただの穴だ。地元の人でも滅多に来ないよ。それに、だいたいこのくそ暑い日に、わざわざ山の中に隠れキリシタンの史跡なんて、見に―――」
 急に、智広兄さんは表情を強張らせ、前にいる男を凝視した。
「もしかして、知っている人なの?」
「・・・母方の従兄弟だよ」
「藤蔓家の人なんだ?」
「ああ。あいつ、今頃何やってんだ?」
 そう言うと、智広兄さんは足早に近づいていった。私も出来る限り足を早めた。近づいてよく見ると、男は智広兄さんと同年齢―――。

 あの時、『たたら』にいた男だ。

 頼りなさそうな細い体が、ゆらゆらと風もないのに揺れている。今にも倒れそうだ。
「おい、保都!何してんだよ、こんな所で?」
 呼び声に振り向いた男は、神経質そうな顔に形容しがたい表情を浮かべてこちらを見た。

 何だろう、あの顔は。

   前に見た時よりおかしい。口元はだらしなく笑みを浮かべ、目は曲線を描いて半開きになっている。
 もっと近づいてみると、雨も降っていないのに、髪が不自然に濡れているのがわかった。よく見ると、服にも濡れたような染みがある。

 なぜだか息苦しい。

 智広兄さんは、顔をしかめて立ち止まった。
「・・・臭わないか?」
「え?私?」
 私は、汗の染みこんでいる手の包帯を嗅いでみた。しかし、薬臭いだけだ。
「馬鹿、違うよ。これ、ガソリンの臭いだぜ?」
 そう言われてみれば、ガソリンスタンド特有の臭いが微かにするようだ。風が止んでいるし、暑さで朦朧としているために、よくわからないが。
「うん。そかもしれない」
「あ・・・そうか!しまった!やめろ、やめるんだ!」
 智広兄さんは叫ぶと、凄い勢いで走り出した。その線上にいる男の手がゆっくりと上がったかと思うと、握っていたのであろうライターに火を点けた。

 ガソリンの臭い・・・火・・・!

「智広兄さん!」
 私は、先程までつかまっていた背中に叫んだ。それでも、智広兄さんは立ち止まらなかった。

 怖い、これから行われようとしていることが怖い。

 しかし、男は何のためらいもなく自分に火を点けた。

 その瞬間、ゴウっと燃え上がる音が私の耳を殴った。急激な発光に目を潰される。すぐに視界を開くと、太陽が落ちてきたと思うくらいに赤い熱い炎が、人型となって楽しげに踊っていた。

「保都っ!」

 果敢に飛びかかったもう一つの人型が、その炎を引きずる。すると、導火線を付けたように、その炎が徐々に燃え広がっていった。

「きゃあああ!智広兄―――」
「百合!消防署に連絡しろ!力の限り走れ!」
 炎に呑みこまれそうな智広兄さんを置いてはいけない!
「消さなきゃ!火!火!あ、携帯があったんだ!」
 急いで、スカートのポケットから携帯電話を取り出す。
「馬鹿!こんな田舎の山の中じゃ、電波がないんだよ!早く行ってこい!」
「でも・・・!」
「いいから、早く!僕まで死ぬぞ!」

 これが、私たちにかかった『呪い』なの?

 私は迷いながら後退りし、最終的に来た道を逆走した。もう痛みなど気にしている暇はない。力の限り走った。
   ここから、一番近い民家で歩いて三十分もかかるのだ。早くても辿り着くのは十五分後だ。真面目に体育の授業を受けておけばよかった。

 メロスより速く、林道を走り抜けなければならない。

 処刑された人達の恨みか、私の足は地に捕まって遅くなる。何百人もの魂が絡み付いているのか、体が重い。

 来る時に民家の近くにあった、背の高い不思議な石が見えてくる。

 やっと辿り着いた!

 息苦しい体を引きずって、民家の戸を叩いた。
「すみません!消防車を早く!火事なんです!洞窟で火事です!」
 大声で叫ぶと、バタバタと足音が近づいてきて、戸が開いた。老婦人が慌てたように、何事があったのかと、私に訊いた。
「火事なんです!洞窟の前で人が、人が燃えてるんです!早く、消防車!」
 老婦人はわけがわからぬといった表情をしていたが、私がもう一度懇願すると、玄関先の電話を取り、消防署に連絡してくれた。
 しかし、消防車がすぐにくるわけはないし、山の中まで入れるかどうかも怪しい。
 消火器はないかと訊くと、台所にあるものを持ってきてくれた。私は老婦人にもう一度、火事の現場の説明をすると、消火器を抱えて走り出した。

 地上に落ちそうな太陽は、全てを赤く染めようとしている。私の手も足も赤く、まるで自分を傷つけた時の情景を再現しているかのように感じる。 

 辛いけれど、走らなければならない。怖いけれど、行かなければならない。

 整備不足の林道が、坂道が、私の心臓を破ろうとしても、手足を千切ろうとしても、ただその一心で前だけを見て走った。

 洞窟前まで何とか辿り着くと、急に力が抜けて倒れこんだ。それでも、気を失うわけにはいかない。土だらけになった顔を上げて、前を見た。

 誰もいない。

 何かが燃えた臭いと、ガソリンの強烈な臭いが地面から立ち上がっていた。
「智広兄さん!」
 残る限りの力で叫んだが、返事はなかった。二人はどこにいったのだろう。燃え尽きるには早すぎる。しかし、まるであの燃え盛る炎が幻であったかのように、忽然と姿がない。
「智広兄さあーん!」
 もう一度叫んでみたが、上手く声が出なかった。
 しかし、その後に微かな声がした。私を呼ぶ声にも思えるが、呻き声のようにも聞こえた。どこから聞こえてくるのか、見当がつかない。じっと耳を澄ませてみたが、もう聞こえてこなかった。

 ゆっくりと立ち上がり、洞窟の正面まで歩いていった。それは、智広兄さんが言うように小さな穴にしか見えなかった。黄土色の土が剥き出しになった入口付近の地面に、石がいくつも転がっている。穴の上から草が垂れ下がり、それが礼拝所跡だとは思えないくらい無気味に思えた。
 ふと下を見ると、争った跡だろうか、地面が不自然に乱れていた。振り返ると、その近くにも乱れはあった。その向こう側にも、奥にも。乱れの連打は、洞窟と反対方向に続いていた。たった今、登ってきたばかりの坂道を下っている。

 私はシャーロック=ホームズのように、夢中で地面の乱れを追った。不安と恐怖が私を怯ませようするが、体を無理やりに進ませた。
   大籠川まで乱れは続いていた。林から顔を出し、右を見る。上流には誰もいない。反対側の左を見ると、少し離れた川辺に誰かがいた。

 倒れこみ身動きをしない人型と、体を起こしてはいるが疲れ果てたように俯いて座っている人型。

   あの赤く熱い炎は消えていた。

 そうか、智広兄さんが炎を川に引きずり込んで消したのだ。
「智広兄さん!」
 智広兄さんがこちらを見た。私は無事でいたことが嬉しくて、駆け寄ろうとした。しかし、鋭い声が鼓膜を殴った。
「来るな!」
 走り疲れた足が、命令通り立ち止まる。
「でも・・・」
「僕は大丈夫だ!だから、こっちに来るんじゃない」
「あ・・・その人は?その人は、無事なの?」
 私の問いかけに、智広兄さんは返事をしなかった。ただ、頭を横に振っただけだった。

 消防隊員と一緒に、救急隊員も駆けつけて、夕闇の山は急に騒々しくなった。
 まず、藤蔓保都が担架で運ばれていった。私の横を通り過ぎた時、その体全体がはっきりと目に入った。焼けたその体は微かに動いていたが、服はもちろん、皮膚は焼けただれ、所々に肉が直に見えて赤黒い色をしていた。

 『呪い』にかかっていたのは私たちも同じなのに、どうしてこの人だけがこんなにも酷い目に遭わなければならないのか。

 茫然としながらも、痛々しい体を見つめていると、次の瞬間に目が合った。
 私はすぐに目を逸らした。一秒も見ていられなかった。この胸の締め付け方は、良心の呵責とはまた違うのだ。

 次に、智広兄さんが担架で運ばれていく。私はすぐさま駆け寄った。
「智広兄さん!」
「やあ。どうも、僕の腕は今年が厄年らしいね」
 智広兄さんは前髪が焼けてなくなり、顔にいくつかの水脹れがあった。そして、その両腕は焼けただれた赤黒い肌に、焼け溶けた包帯がへばり付いた。
「どうして・・・」

 何でもいい、泣きわめきたかった。

   「『呪い』は一回きりだ」、それもこれで否定された。私にもいつかまた、自分の体を傷つけずにはいられなくなるのだ。

 それでも、智広兄さんは痛みに顔をしかめながらも微笑んだ。
「大丈夫。これは『呪い』じゃない。保都を止めに入っただけなんだからさ」

 私は、何を信じたら良いのかわからなくなった。イエス様も、マリア様も、私たちを救ってはくれない。

 『たたら』の神様は?

 三日月が暗い夜に昇り、辺りをぼんやりと照らし出したが、闇をかき消すことはできなかった。
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