アイリスこぼれ話

小田マキ

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月下の密事・1

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 月の明るい宵のことだった。

「今宵は月が本当に綺麗ですね」
「貴女ほどではない」
「えっ……?」

 煌々と降り注ぐ青白い光に照らされたガラス張りの東屋に響いたのは、この美しい月夜に交わされるに相応しい甘く密やかな告白。
 透明な壁一枚を隔てて、彼の宮廷医は胸の中で安堵の吐息を漏らした。ここまで長かったが、ようやく一年掛かりの努力が実を結んだようだ。それぞれが一筋縄ではいかぬ事情持ちゆえ、予想外に長引いた月夜の茶会から、ようやく自分はお役御免となったのだ。

 * * *

 漆国アイリスで国民から絶大なる人気を誇る王妃の策略によって、宮廷医シェブローは見合いをする羽目になった。
 死んだり生き返ったりを何度も繰り返したややこしい身の上だが、今の彼は何の遜色もない成人男性だ。青年期の長いオルガイム人であるとともに、幾度となく神に最も近い聖獣ガングラーズを身に宿してきた聖獣使いでもある。お陰でシェブローは、極端に老いるのが遅い。今や肉体年齢は最愛の姪よりも若いのではなかろうか。
 第一子が生まれてからというもの、責任感からか一層貫禄が増した元帥閣下と並べば、中性的な物腰も相俟って、確実に若輩に見られるだろう。彼のつむじを見下ろし、青二才、朴念仁と揶揄していた頃が懐かしい。
「申し訳ございません、シェブロー様。わたくし、こんなつもりでこちらに参ったのではっ……いえ、貴方様に非があると申しているのではございませんわ! 神に誓って、何も存じ上げなかったのです」
 漆黒の喪装姿で傍らに立つアビゲイル姫は、黒い面紗の下の瞳を泳がせ、忙しなく謝罪の言葉を紡ぐ。
「いえ、申し訳ないのは余所事を考えていた私の方です。姫の御前で不躾でした」
 つい現実逃避し、かつて見下ろしていた若造に見下げられる嘆かわしい空想に耽っていたシェブローは、酷く取り乱した彼女に首を横に振る。
「いいえ、悪いのは今日のこの日を回避できなかったわたくしです。満面の笑みで送り出す父の姿に、疑問を覚えるべきでしたわ……シェブロー様を巻き込んでしまって、不甲斐ないです」
 縁組の顔合わせという華やかさとまさに真逆の姿のアビゲイルもまた、アムリット王妃の被害者である。
 ここは辺境近いリドル村にあるアブルサム館。遥か昔、八人の夫に先立たれたさる貴婦人が建立したこの館は、素行不良子女更生施設を謳い、一度入館すればほぼ還俗が叶わない修道院だ。先だって魔法大国ガルシュの宰相補佐官だった夫を病で亡くしたばかりの彼女は、亡夫を悼んで修道女になる決意を固めていた。近々身を寄せるこの施設に、アビゲイルは下見のつもりで訪れただけなのだ。年若い彼女はまだやり直せるはずと、父である公爵は王妃の策に乗ったに違いない。
 修道女に案内された中庭で、(自分で言うのも難だが)ど派手な出で立ちのオルガイム人が待ち受けているのを目の当たりにした彼女の衝撃は如何ばかりか……その心中、察して余りある。斯く言う彼自身も、宮廷医の職務である慈善活動の一環として訪れていたのだ。訳知り顔の修道女達は二人を引き合わせるや否や、その場からそそくさといなくなってしまった。
 二人揃って、まんまと謀られたのである。
「どちらが悪いという話はもう終わりで……これから下働きの者達を見舞いたいのですが、姫君さえよろしければ、一緒にいらして頂けますか?」
 さらに謝罪を重ねる彼女を制止し、シェブローは背後を振り返りながら、そう誘いの言葉を付け加える。
 雷災害によって崩落したとされる、切り立った断崖の上に建っていた尖塔はトゥリース伯爵家の出資により建て直されていた。上半分は特に問題児が入れられる懲罰部屋があり、下半分は下働きの者達の居住区に充てられているため、常に全ての窓には閂が下りている。
 アブルサム館の下働きの者達は皆、近隣の村から雇い入れられた盲人や聾唖者だった。身寄りがなかったり、確固たる生活基盤を持たなかったりする彼らは、それぞれが出来る範囲で館の作業を負担する代わりに、衣食住と医療を提供されている。医療を担当する医師は、神殿組織が派遣したり、入館した貴族の子女達の実家から紹介だったりがほとんどだが、たまにシェブローのように善意で引き受けることもあった。
 基本的な防衛処置は講じているものの、身体の不自由な人々と女所帯の施設であるので、医師達には厳正な身元調査が行われる。それは下働きの者達も同じだった。視覚、聴覚障害者を騙り、不当に施設内への侵入を試みる不届きな輩もまた後を絶たないらしい。実に残念な話である。
「アムリット様の思惑はどうあれ、私は医療行為のために来ているわけですし、二人でさえ行動していれば文句も付けられないでしょう。修道女を志しておられるなら、このような慈善活動を経験しておくのも損はないですよ」
 嵌められたことを今更嘆いても仕方ない。
 これでもシェブローは、何かと忙しい身の上だ。偶然を装ったこの会合は、あくまで非公式。急用が入ったと切り上げて帰っても然して差し障りはないだろうが、この生真面目な姫君には後味が悪かろう。
 これから自分が飛び込もうとしている世界がどんなものか、シェブローに付き合うという形で体験することは、お互いにとって最も有意義な時間の使い方に違いない。
「……似てらっしゃる」
「はい?」
 パチパチと数回瞬きした後、彼女が無意識というように呟いた言葉に、シェブローは小首を傾げる。
「ブルース様に」
「ああ、甥ですね。どうも生家は母方の血が濃く出る家系のようで、皆気持ち悪いほど似ているらしい……親戚が少ないので、生きている間に一度も会えなかったのが残念ですよ」
 アビゲイルが『彼』とも面識があったことを思い出したシェブローは、得心がいった様子で頷く。同時に、彼女の酷い動揺の仕方にも納得する。かつて淡い恋心を抱いた相手によく似た顔に、これでもかと化粧を施した自分を何の前触れもなく目の当たりにしたのだ。
 また、早世した初恋の君がダグリード侯爵夫人として、彼の鬼元帥の寵愛を一身に受けて生きていると知れば、どれだけの衝撃を受けるだろうか……想像するだに不憫だ。
「似てらっしゃるのは、容姿だけではございませんわ。そのお心まで……結婚の顔合わせでガルシュ国へ発つ時に護衛を務めて頂いたのですが、見知らぬ地に不安を覚えるわたくしに、ブルース様はとても優しいお言葉を掛けてくださいました。その時の微笑みと、先ほどシェブロー様が浮かべられた表情が本当にそっくりでしたわ」
「それは、それは……」
 アビゲイルの熱の籠った言葉を受けたシェブローは、常に饒舌な彼としては珍しく返答に詰まる。
 潰えたはずの恋心に、自分は余計な火種を投げ込んでしまったのかもしれない。愛する夫を失って寡婦となり、一人祖国に戻ったまだ二十歳にも満たない姫君に肩入れし過ぎたようだ。不幸を経験した彼女の決心は分からなくはないが、かつて神に身を捧げた生活を送り、実情を知るシェブローとしては、できるなら思い留まってもらいたい。
 何よりもアビゲイルは、主であり唯一の友人であるサザールのお気に入りの従姉だ。サザールは修道女となって彼女と滅多と会えなくなるのを寂しがっている。だからと言って、シェブローにアビゲイルと結婚してそれを阻止しろととまでは言わないが、考え直してほしいと思っていることだろう。
 シェブローが彼女には修道女になってほしくない理由の三分の一は本人への同情だが、残り三分の二はサザールのため……そんな失礼な考え方をする自分に、アビゲイルを幸せにできようはずがなかった。
 サザールとの友情を守るためにも、今後は特に言動に注意せねばなるまい。修道女になりたいと言うアビゲイルの決意はきっと本物だろうが、年若い乙女の傷付いた心が脆く移ろい易いのも事実なのだ。
「シェブロー様? どうかなさいまして?」
 不意に黙り込んでしまうと、面紗の向こうから、小動物のような円らな瞳が不思議そうに彼を見上げてくる。丁度考えていたばかりの相手のそれに似た双眸に、サザールとの血縁関係を彼に意識させる。

『できれば貴方にも、いつか唯一と言える誰かを愛する幸せを知ってほしいよ』

 以前、サザールから告げられた言葉だ。
 今もってその約束は果たされていないし、果たせる気がしないのが本音だった。血縁者以外への愛情を抱く方法がわからないシェブローにとっての唯一であり、最愛……そんな人間に最も近い存在が、当の王子なのだから笑えない。
「いえ、何でも……失礼ながら姫君、食事はきちんと取られていますか?」
 薄ら寒い妄想を振り切り、彼はアビゲイルへ逆に尋ねる。その顔から迷いは消え、完全に医師のそれになっていた。
「えっ……?」
 思ってもみなかっただろう問い掛けに、彼女は短い驚きの声を上げた。
 シェブローとしては今日が初対面だったが、アビゲイルとは前任者ヒダルゴ・ブロウルとして何度か接見している。王弟公爵の一人娘である彼女が、サザール王子のお気に入りの従姉だったのは前述の通りだ。当時のアビゲイルは福々しい父と伯父に似通った体型で、乙女らしくそれを気にして何度か相談も受けている。色々と助言はしたものの、遺伝というよりも心的な原因が大きかったために、芳しい結果は得られなかった。
 そして、今は恐らく夫を亡くした心痛が原因で、驚くほどの変身を遂げていた……喪装に包まれたほっそりとした肢体は、当時の彼女の三分の一もないのではなかろうか?
「痩せ過ぎです、もっと太りなさい。神に仕えるには、重労働を伴うことも少なくありません。体力をつけねば、やっていけませんよ」
「まあっ……!」
 敢えて不躾な物言いを選んだために、面紗越しにも彼女の頬が仄赤く染まったのがわかった。優しい言葉を言い添えたいのを、口角を上げることで我慢する。伝えた言葉に嘘はないのだし。
 エリアスルート随一の聖獣使いであるシェブローは、神殿組織の頂点に君臨していてもおかしくはなかった。ただ、人種的な様々なしがらみによって組織には籍を置かず、宮廷医という立場に身を置いている。別段権力にも神学にも然したる興味はないので、シェブローに文句などなかった。
 下手な権力や地位は、いざという時に足枷となる。彼の内乱も今では完全に過去のことになっているが、いまだ陰では後遺症に喘いでいる者達がいる。彼ら一人ひとりの人生に責任が持てない立場など必要なかった。まだ長い残りの人生、後悔ではなく償いに生きると決めているのだ。
 そうすることで、ようやくこの世界で息をすることを許される気がしていた。贖罪こそ自らに与えられた心の平安であり、至福であるとさえ思っている。
 だからこそ、シェブローにはアイリスの地を去るつもりなど毛頭ないのだ。国家機密並みに特秘されるべき己の事情を知るのは、この国ではごく一握りだ。その一握りに含まれる王妃とて、真に自らの決意を疑うつもりはないだろう。事情を知らせることのできない家臣達の反感を抑えるためだ。前の戦争終結によって同盟関係になったとはいえ、もともと反りの合わないオルガイム人を国の中枢に置くことに、いまだに難色を示している者は多い。シェブローの忠誠心など付け焼刃にしか感じられないだろう。
 だからこそ、自分とこの国を公に縛る鎖……王族との結婚をどうしても推し進めたいのだ。そこに自分に対する配慮が含まれていることも理解しているが、頭でわかっていても、反発心を覚えるのは仕方なかった。何度死んで生き返っても、自分はそこまで聖人にはなれない。

「さあ、参りましょうか。アビゲイル姫」

 わざと意地悪を言ったことを詫びるように、シェブローは立ち竦む彼女に向かってその手を差し出した。
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