至急、君との交際を望む

小田マキ

文字の大きさ
1 / 15

しおりを挟む
 ミュラーリヤ第三弓騎兵隊隊長であるクラリス・ヴィアッカは疲労困憊した身体に鞭打ち、騎兵隊本部の廊下を足早に進んでいた。疲れ果てていてもそこは武官、足音をほとんど立てない彼女の若干砂塵で汚れた白い顔、洞窟のような黒い双眸からは、常よりも二割増しで表情が欠落している。起毛の赤絨毯の上を音もなしに進む漆黒の軍服姿、その背に負った緩く弧を描く白銀の長弓は、大鎌の刃を携えた死神さながら。すれ違う同僚達は、その姿を認めると総じて一瞬足を止め、振り返っていた。
 クラリスの部隊が五日前から就いていた任務は、第一級殺人罪に問われる咎人の護送だった。初めて経験する任務ではない。マコーニー砂漠のど真ん中に位置するボーンズ収容所への経路、地形も熟知していた。単独での犯行に及んだ咎人には、奪還のために奇襲をかけるような仲間も存在しない。任務自体には、何ら問題が起ころうはずもなかったのだ。
 ゆえに、彼女の疲労の原因は身内に引き起こされたものだった。此度の任務の指揮官はクラリスではなく、色ボケ少将……失敬、チュモニック少将が往復十日の工程を、愛人会いたさで半分に繰り上げたせいだ。
 大幅な迂回になると言って、立ち寄るはずだった中継地点のオアシスは三つ削られ、砂漠の足である砂蜥蜴達さえ暑さに疲弊していた。その背に据えられた砂防テントで三日揺られた咎人は、熱中症に罹ったらしく目を回して泡を吹いた。収容所に到着して息を吹き返すと、不当待遇で訴えるだなんだと喚いていた……随分元気なことだ。ろくに休みも取れず、同じ経路を取って返すクラリス達は半分も聞いていなかったし、知ったことではなかった。
 とにかく、何ら変哲のない任務は思い掛けない死の行軍となったのだ。職権乱用も甚だしく氷と飲料水を独り占めした色ボケ少将は、一度も砂蜥蜴の背から下りず、多少日焼けしたものの、健康そのもの転がるように愛人宅へと向かった。クラリスは熱中症すれすれに参っている部下達を有無を言わさず兵舎医務室へ連行した後、くたびれ切った身体で作成した報告書(色ボケに押し付けられた)を手に、本部へ一人戻ってきたという訳である。
 一刻も早く提出して休みたい。クラリスはその一心で、赤絨毯の上をふかりふかりと進んだ。

「クラリス・ヴィアッカ少尉」

 消耗著しい彼女の気も知らず、背中から呼び止める声がする。
 耳慣れるほどではないが、一度聞けばそうそう忘れられない低音の調べをクラリスは振り返った。表情のなかった顔には、胡乱な色が乗っていた。
「……シャトリン大佐」
 その名を確認するように舌に乗せ、クラリスは蟀谷の横に手を上げ、敬礼する。右眉を僅かに跳ね上げ、同じように敬礼を返しながら、彼は大股で近付いてくる。目の前に立ち、首を傾げて見下ろされると、体格差が際立った。
 女だてらに部隊長を務めるクラリスは決して小柄ではなかったのだが、あくまで女性としてはの話である。一般男性よりも頭一つ抜きん出たシャトリンの前では、まるで非力な小娘のような心持ちになる。両腕を背中で組み、精一杯背筋を反らして暗灰色の目を見返していると、虚勢を張っているようで、どうにも極まりが悪かった。
「本部から、こちらへの帰還はまだ五日先だと聞いていたが」
 決して血色が悪い訳ではないが、サリュート人特有の仄かに青味がかった眦に小さく皺を寄せ、彼は丁寧に問うてくる。末は大将、はたまた元帥かとの呼び声も高い彼は竜騎兵隊きっての選良。サリュート人である母親譲りの恵まれた体格だけでなく、恐ろしく頭も切れるという噂は事実のようだ。他部隊の士官の任務まで頭に入っているらしい。
「チュモニック少将の指示で、工程が半分に繰り上がったんです」
 丁寧だが、どこか威圧感を感じる口調に、クラリスは慎重に言葉を選んだ。まるでこちらの事情の全てを見透かされているようにまっすぐな視線に、鼓動が駆け足を始める。
 もしや、すでに囚人からの苦情が本部に届いていたのだろうか?
「そこまで急がせる必要はなかったはず、それでは砂蜥蜴達も暫く使い物にならない」
 予想とは違っていたが、咎めるような指摘をされて、クラリスは舌打ちをしたくなる。シャトリンの言った通り、自分だって何度も色ボケを諫めようとしたのだ。疲れによる苛立ちで、いつもより幾分沸点が低くなっていた彼女は、挑むように彼を見返した。
「どこの馬の骨とも知れない下賤な商家の女の分際で、上官に楯突くとは何事だ。戻れば不敬罪で訴えてやる」
「ヴィアッカ少尉?」
 感情を一切挟まず発した台詞に、シャトリンが右眉を小さく跳ね上げる。
「今仰ったのと同じことを進言して、少将から頂戴した言葉です。また、護送中に暑さで参った囚人が熱中症で倒れました。収容所から本部に苦情が届くやもしれません。それも、下士官の分際で少将に意見した私の責任です。全てはこの報告書の認めております。確認されますか?」
 八つ当たりに違いない言葉をぶつけられても、彼はそれ以上表情を崩さなかったが……。
「了解した、その報告書は私から本部に提出しておこう。君は一刻も早く休むといい」
 クラリスの手から書類をもぎ取るように奪うと、もう一方の手で血色の悪い彼女の頬を撫でる。こびりついていた砂塵を払われたのだと気付いた時には、彼はすでに踵を返していた。
「……ああ、そうだった」
 ただし、数歩進んだ後、シャトリンは呼び止めた当初の目的を思い出したと言うように、瞠目して固まる彼女を振り返った。
「クラリス・ヴィアッカ少尉。至急、君との交際を望む。返事は五日後、またこちらから伺う……では、ゆっくり休むように」
 まるで事務連絡を下すように、とんでもない爆弾発言を投げて寄越したシャトリンは、現れた時と同じように唐突に去っていく。

 一人取り残されたクラリスは、帰りの遅い彼女を心配して探しにきた部下達が発見するまで、石像の如くその場に立ち尽していた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

てめぇの所為だよ

章槻雅希
ファンタジー
王太子ウルリコは政略によって結ばれた婚約が気に食わなかった。それを隠そうともせずに臨んだ婚約者エウフェミアとの茶会で彼は自分ばかりが貧乏くじを引いたと彼女を責める。しかし、見事に返り討ちに遭うのだった。 『小説家になろう』様・『アルファポリス』様の重複投稿、自サイトにも掲載。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

義弟の婚約者が私の婚約者の番でした

五珠 izumi
ファンタジー
「ー…姉さん…ごめん…」 金の髪に碧瞳の美しい私の義弟が、一筋の涙を流しながら言った。 自分も辛いだろうに、この優しい義弟は、こんな時にも私を気遣ってくれているのだ。 視界の先には 私の婚約者と義弟の婚約者が見つめ合っている姿があった。

処理中です...