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ミュラーリヤ第三弓騎兵隊隊長であるクラリス・ヴィアッカは、国内の繊維工業を一手に引き受けるヴィアッカ商会を一代で築いたレナード・ヴィアッカの娘だ。七回の再婚を繰り返した父には他にまだ十三人の子供がいて、クラリスは四人目の妻が生んだ九番目の六女……実にややこしい。
父にとって最愛の子とは言えないまでも、別れた後も母は健在で毎月の父からの手当ても途切れたことはなく、虐待もされなければ貧困に喘いだ経験もない。
レナードは病的な女好きだったが、女の趣味はすこぶる良かったのだ。ある種誠実とも言える父親は、それぞれの妻との関係が重なったことは一度としてなかった。クラリスも面識のある七人の夫人達は、皆美しく聡明な女性で、財産狙いで浅ましく争ったりはしない。内心はどうであれ、現状に満足して多くを望まない賢き淑女達なのだ。
半分の血しか繋がらない兄弟姉妹達も皆現実的で、時折集まって食事をする程度には仲がいい。金持ち喧嘩せずを地で行くヴィアッカ一族を束ねる父は、世の男性陣から「あんなちびデブ不細工のどこがいいんだ」と随分な陰口を叩かれつつも、大層羨ましがられているらしい。
幼い頃は悩んだこともあったクラリスだが、切っても切れない親の七光りとともに複雑な家族事情を、今では受け入れている。それは父母二人ともが、子供の自由を出来る限り尊重する人達だったからかもしれない。十四歳の誕生日、軍人として身を立てたいと訴えた彼女にも、彼らは強く反対しなかった。告白する前の緊張は何だったのかと思うほど、至極呆気なくクラリスの希望は受け入れられたのだ。
その理由は、クラリスが町で評判の美人だった母モニカの娘であると知ると、必ず驚かれる容姿にあると理解している。
生まれ落ちたその時から、クラリスは産声を上げているにもかかわらず死産を疑われた。まず表情筋が硬く、常に無表情だったのだ。色白と言えば聞こえがいいが、著しく血色が悪い肌は蝋人形を通り越して向こう側の景色が透けそうだとか、黒目がちの瞳が隈が出来易い体質とも相俟って髑髏じみて見えるとか、それらに反して人の生き血を啜ったが如く生々しく赤い唇が色気よりも死臭を放ってそうだとか……あだ名は直球で「死人顔」、または「死神」。間違っても闇夜に出くわしたくない墓場臭い容姿なのである。
それゆえに父母は、クラリスが男所帯の職場に飛び込もうと、襲われる危険は恐ろしく低いと踏んだに違いない。
しかし、両親すら憂慮する容姿を含め、クラリスは自分が嫌いではない。着痩せするひょろ高い体躯に反し、本当に女かと疑われる程に彼女の身体は頑強で、一族が一堂に集う鷹狩りでは、その中の誰よりも弓矢の腕前に秀でていた。同年代の少女達が恋愛に夢中になっている頃、漆黒の軍服を纏い、馬上で颯爽と弓矢を構える弓騎兵に憧れる奇特な娘だったのだ。
入隊する前から相当なものだったと自負する長弓の腕は、十一年経った今さらに磨きがかかり、騎兵隊の中でも上位に食い込むまでに命中率を上げている。それでも、女の自分が二十六のこの年で第三弓騎兵隊の隊長職を得られたのが、自分一人の実力だと自惚れはしない。不本意ながら、その八割は父の力だ。軍部に大層な寄付をしていて、この軍服だってヴィアッカ商会から無償で提供されているものだ。
やっかみも十一年もすれば慣れたもので、極力恨みを買わないように事務処理はきっちりを心掛けている。そこは針の穴を射抜く精度の自分の弓に文句が付けられないからだと割り切れるし、あら捜しに負けない程の書類作成技術も努力で身に着けていた。細々とした不都合はあるものの、クラリスの騎兵隊生活は概ね充実していた。階級が上がれば現場任務が減るため、今以上の出世も望んでいない。
そんな彼女の慎ましい充実感が、今や脆くも崩れ去ろうとしていた。
「アーチャー、私と交際したい殿方の目的とは何だと思います?」
「そりゃ、オヤジさんのコネと金だろ。なんだ、後ろの犬ッコロはまだ逆玉諦めてないのか!」
「あイィーーー、ジンシュサベツ反対っ! ヒドいヨよ、センセ! ボクの隊長への愛はホンモノだヨっ……そりゃあ、コネもお金もスッゴク魅力的だけどネっ?」
「これだけ分かり易けりゃ、可愛いもんだがな。ほら、これ噛んでろ。顔色がいつにも増して死神じみてる」
「うぁっ……苦いです!」
背中から左肩口にぐりぐりと押し付けられる濡れて尖った鼻先や、フカフカのケモ耳に完全無視を決め込みつつ、クラリスは口の中に突っ込まれた葉っぱの苦さに呻く。
「よく効く薬ってのは、どれも苦いもんだ。我がまま言うな」
突っ込んだ張本人は、涼しい顔で鼻を鳴らす。
ここは第三弓騎兵隊に宛がわれた兵舎の医務室だった。診療台に座るクラリスの口の中の葉っぱは滋養強壮作用のある薬草、背後からまとわりついているのは「犬ッコロ」に非ず狼人の部下スーリで、目の前の口の悪い中年男は医官のアーチャーだ。騎兵隊本部の廊下で石化していた彼女を心配したスーリによって、有無を言わさず引っ張ってこられていた。
元々疲れ切っていた上に、シャトリンからの交際申し込みで完全にとどめを刺されたクラリスは、親以上に口煩いアーチャーの診察にされるまま……上司を上司と思わぬ部下スーリの馴れ馴れしさも通常運行だった。
「真面目な話、寄ってくる奴ぁみんな金の亡者と思ってて間違いないぞ、クラリス。なんたって、お前のオヤジさんは目ん玉飛び出るほどの金持ちだからな」
「……ですよねー」
真面目な顔で忠告してきたアーチャーに、クラリスは素直に頷く。彼の言葉はもっともだ。
けれど、彼女の脳裏には厳めしくも整った竜騎兵の顔が蘇っていた。
『至急、君との交際を望む』
いまだ生々しく鼓膜にこびりついた生真面目な低音は、決して聞き間違いでも、ましてや幻聴でもない。
金の亡者……他の誰よりも規律を重んじ、騎兵隊の理性とも揶揄されるシャトリンには、あまりに遠い言葉に思えるのに。冗談どころか笑みを浮かべたところを見た人間さえ誰もいないと聞くが、それはあくまで任務中の顔だ。一度仕事を離れると、全く違った一面を見せる人間だっているだろう。
ただ、どうにも釈然としない。
「大佐の方々のお給料って、そんなに安いんでしょうか?」
「そりゃ金持ち特有の冗談か、クラリス。世間知らずも大概にしろよ、まったく笑えないぞ。あいつら、下手すりゃひと月で町医者の年収くらい余裕で稼ぐだろ」
クラリスがふと零した独り言に、アーチャーは大げさに顔を顰めて吐き捨てた。
「ですよねー、済みません」
クラリスは謝罪とともに、頭を縦に振る。
一般庶民のアーチャーが仕官したのは三十代半ばと随分遅く、親子ほど年の違うクラリスとも軍歴は三年しか違わない。十五年前まで、彼は王都で小さな診療所を開いていた。
そんなある日のこと、妻が診療所の金を持ち出し、患者と駆け落ちしたと言う。逃げた妻は賭博で作った借金もあり、診療所を差し押さえられたアーチャーは、帰る場所さえ失ってしまった。幸い医師としての腕は良かったために、衣食住を保証してくれる騎兵隊へ入団し、軍医となったそうだ。
医官となった動機は複雑だが、意外と職務熱心な彼は死人顔のクラリスに会う度に問診をし、半ば無理矢理滋養強壮剤を押し付けてくる。
そんな二人の出会いは、十一年前まで遡る。
入隊したばかりだったクラリスはまだ実働任務に就けず、ひたすら訓練に明け暮れていた。その日も通常訓練終了後に演習場に居残り、自主練をしていたところ、誤って弓の弦で指先を切ってしまう。簡単に応急処置を済ませ、そのまま木陰に座って小休止をしているうちに、いつしか寝入っていたクラリス……連日の厳しい通常訓練だけでなく、自主的に課した補習訓練で、我知らず疲労が蓄積していたのだ。
そして、そこを偶然通り掛かったアーチャーが、ぐったりと木にもたれ掛かり、微動だにしない恐ろしく顔色の悪い彼女を発見。それがクラリスの通常の顔色だと知らない彼は血相を変え、全く必要のない救命処置を取ろうとしたというのが馴れ初めである。
今でも当時のことは時折話題に上り、心臓が止まるほど心配したと言ってくれるアーチャー……医療の腕も然ることながら、その人柄も尊敬している。
ちょっぴり辛口だが、大人の余裕溢れた彼に、それまで弓矢一筋だった少女はうっかりキュンとし、一時期淡い憧れを抱いていた。結婚に苦い思い出のあるアーチャーは、もう二度と恋などしないと公言しているし、娘のように気に掛けてくれている現状に不満もない。その気持ちに偽りはなかった。
「……ですよねー」
再び噛み締めるように呟いたクラリスは、過ぎ去りし初恋から目を上げる。
次いで、現在の自分を根底から揺さぶってくれた彼の人物の面影をかき消すように、小さく溜息を吐いた。
「隊長! ため息つくと、シアワセ逃げちゃうヨー……メっ!」
そんなクラリスの背中を、スーリが尖った鼻先で勢いよく小突いて言う。
振り向いた先に見えたのは、軍服を着た二足歩行の狼人が可愛らしく小首を傾げる姿。純白の毛並みは雪のようで、尖った耳を垂らしたフカフカな顔は、アーチャーの言った通り、狼というよりも犬に見える。つぶらな青い瞳は潤んで揺れていて、つい頭を撫でたくなるが……。
「スーリ君、君こそメっ! です。そんなにグリグリしないでください。君の毛はただでさえ取れにくいんですよ、おまけに今は換毛期でしょう」
本能的衝動をグッと抑え込み、クラリスは度重なる部下の狼藉を切々と窘める。
「……クラリス、叱るべきところはそこじゃないだろう」
そこへ、白髪交じりの短髪をガシガシと搔きながらアーチャーが口を挟んできた。
「そんなことありませんよ、アーチャー。今年は水不足だし、限られた水で綺麗に洗濯するのはとても大変なんですから」
「おいおい、ヴィアッカ商会のお嬢様とは思えない台詞だな」
「それは偏見というものです、アーチャー。商人にとって無駄遣いは最大の敵。父の屋敷で暮らしていた時でも出来る限り自分の面倒は自分で見ていましたし、もう騎兵隊の兵舎生活の方が長いのです。私は貴男方と何ら変わらぬ一武官ですよ」
まるで貴族のように何不自由なく暮らしていたと思われるのは、アーチャーであっても……否、信頼を置く彼だからこそ不愉快だ。クラリスの眉間に微細な皺が寄る。
「済まん、悪かったよ。だから、そんな八代祟るってな顔はやめてくれ」
「いくらセンセでも、隊長に向って失礼ヨ!」
ここぞ名誉挽回の機会だとばかりに、アーチャーとクラリスの間に割って入ったスーリが吠えた。
二倍に膨らんだ尻尾もブンブンと左右に振れ、診療台に腰掛けたクラリスのトラウザーズの膝にも抜け毛が飛んでくる。
「スーリ君、いいから落ち着いてください。抜け毛が酷いですよ」
「そんな、ダメだヨ! 未来のおヨメさん馬鹿にされたら、黙ってなんてられなイ!」
制止する彼女を振り返ったスーリは、バチンと音がしそうなウィンクを送ってくる。「決まった!」とでも言いたげに尻尾が振られ、綿毛のような毛はさらに盛大に宙を舞った。
「上官を口説く前にまず敬語を覚えましょうね、スーリ君。それに抜け毛、本当に酷いですよ」
クラリスがそんな彼の三文芝居をサラッと流すと、ピンと張った大きな耳が物悲しげに垂れ下がる。思わず漏れそうになった笑みを、彼女は慌てて噛み殺した。
山奥に住んでおり、あまり人と交わらない警戒心の強い狼人には珍しく、人間の生活に強い憧れを抱き、手っ取り早く稼ぐために軍隊に入ったという彼は、クラリスの容姿に頓着しない唯一の他人だ。
彼女の実家が裕福だと知るや否や口説きにかかったが、御覧の通り真剣みは皆無……欲望に忠実で「楽して金儲け」が信条の俗物を称するスーリだったが、人間よりも遥かに優れた身体能力で犯罪に走らない分別はある。つまりはその人柄(狼柄?)を信用していた。
「では、アーチャー。そろそろ戻ります」
クラリスはアーチャーに向き直ると、暇を告げる。
気心が知れた彼の医務室は、疲れている時ほど長居し過ぎていけない。
「ああ、今日くらいゆっくり休め。どうせお前のことだ、明日の休暇は部下達に譲ってんだろ?」
「隊長として当然の務めです。それに、私は頑丈に出来ていて……」
「馬鹿、そうやって過信してる奴ほど無茶やって早死にするんだよ」
後に続く言葉を遮って言ったアーチャーに、クラリスは口を噤む。
掛け値なしに心配されることが、言葉を失うほど嬉しかった。普通ではない出自や外見のせいで、普通な経験が著しく少ない彼女だけに。
苦笑を口元に滲ませたアーチャーが大きな掌で頭をポンポンと撫でてくるので、クラリスはさらに胸が詰まる。今更恋心が再燃する訳ではないが、一時は異性として意識した相手からの不意の接触は心臓に悪い。
それもこれも、全てシャトリンのせいだ……涼しい顔で自分一人を動揺の坩堝に叩き落した彼に、クラリスは仄かな怒りを覚えた。
父にとって最愛の子とは言えないまでも、別れた後も母は健在で毎月の父からの手当ても途切れたことはなく、虐待もされなければ貧困に喘いだ経験もない。
レナードは病的な女好きだったが、女の趣味はすこぶる良かったのだ。ある種誠実とも言える父親は、それぞれの妻との関係が重なったことは一度としてなかった。クラリスも面識のある七人の夫人達は、皆美しく聡明な女性で、財産狙いで浅ましく争ったりはしない。内心はどうであれ、現状に満足して多くを望まない賢き淑女達なのだ。
半分の血しか繋がらない兄弟姉妹達も皆現実的で、時折集まって食事をする程度には仲がいい。金持ち喧嘩せずを地で行くヴィアッカ一族を束ねる父は、世の男性陣から「あんなちびデブ不細工のどこがいいんだ」と随分な陰口を叩かれつつも、大層羨ましがられているらしい。
幼い頃は悩んだこともあったクラリスだが、切っても切れない親の七光りとともに複雑な家族事情を、今では受け入れている。それは父母二人ともが、子供の自由を出来る限り尊重する人達だったからかもしれない。十四歳の誕生日、軍人として身を立てたいと訴えた彼女にも、彼らは強く反対しなかった。告白する前の緊張は何だったのかと思うほど、至極呆気なくクラリスの希望は受け入れられたのだ。
その理由は、クラリスが町で評判の美人だった母モニカの娘であると知ると、必ず驚かれる容姿にあると理解している。
生まれ落ちたその時から、クラリスは産声を上げているにもかかわらず死産を疑われた。まず表情筋が硬く、常に無表情だったのだ。色白と言えば聞こえがいいが、著しく血色が悪い肌は蝋人形を通り越して向こう側の景色が透けそうだとか、黒目がちの瞳が隈が出来易い体質とも相俟って髑髏じみて見えるとか、それらに反して人の生き血を啜ったが如く生々しく赤い唇が色気よりも死臭を放ってそうだとか……あだ名は直球で「死人顔」、または「死神」。間違っても闇夜に出くわしたくない墓場臭い容姿なのである。
それゆえに父母は、クラリスが男所帯の職場に飛び込もうと、襲われる危険は恐ろしく低いと踏んだに違いない。
しかし、両親すら憂慮する容姿を含め、クラリスは自分が嫌いではない。着痩せするひょろ高い体躯に反し、本当に女かと疑われる程に彼女の身体は頑強で、一族が一堂に集う鷹狩りでは、その中の誰よりも弓矢の腕前に秀でていた。同年代の少女達が恋愛に夢中になっている頃、漆黒の軍服を纏い、馬上で颯爽と弓矢を構える弓騎兵に憧れる奇特な娘だったのだ。
入隊する前から相当なものだったと自負する長弓の腕は、十一年経った今さらに磨きがかかり、騎兵隊の中でも上位に食い込むまでに命中率を上げている。それでも、女の自分が二十六のこの年で第三弓騎兵隊の隊長職を得られたのが、自分一人の実力だと自惚れはしない。不本意ながら、その八割は父の力だ。軍部に大層な寄付をしていて、この軍服だってヴィアッカ商会から無償で提供されているものだ。
やっかみも十一年もすれば慣れたもので、極力恨みを買わないように事務処理はきっちりを心掛けている。そこは針の穴を射抜く精度の自分の弓に文句が付けられないからだと割り切れるし、あら捜しに負けない程の書類作成技術も努力で身に着けていた。細々とした不都合はあるものの、クラリスの騎兵隊生活は概ね充実していた。階級が上がれば現場任務が減るため、今以上の出世も望んでいない。
そんな彼女の慎ましい充実感が、今や脆くも崩れ去ろうとしていた。
「アーチャー、私と交際したい殿方の目的とは何だと思います?」
「そりゃ、オヤジさんのコネと金だろ。なんだ、後ろの犬ッコロはまだ逆玉諦めてないのか!」
「あイィーーー、ジンシュサベツ反対っ! ヒドいヨよ、センセ! ボクの隊長への愛はホンモノだヨっ……そりゃあ、コネもお金もスッゴク魅力的だけどネっ?」
「これだけ分かり易けりゃ、可愛いもんだがな。ほら、これ噛んでろ。顔色がいつにも増して死神じみてる」
「うぁっ……苦いです!」
背中から左肩口にぐりぐりと押し付けられる濡れて尖った鼻先や、フカフカのケモ耳に完全無視を決め込みつつ、クラリスは口の中に突っ込まれた葉っぱの苦さに呻く。
「よく効く薬ってのは、どれも苦いもんだ。我がまま言うな」
突っ込んだ張本人は、涼しい顔で鼻を鳴らす。
ここは第三弓騎兵隊に宛がわれた兵舎の医務室だった。診療台に座るクラリスの口の中の葉っぱは滋養強壮作用のある薬草、背後からまとわりついているのは「犬ッコロ」に非ず狼人の部下スーリで、目の前の口の悪い中年男は医官のアーチャーだ。騎兵隊本部の廊下で石化していた彼女を心配したスーリによって、有無を言わさず引っ張ってこられていた。
元々疲れ切っていた上に、シャトリンからの交際申し込みで完全にとどめを刺されたクラリスは、親以上に口煩いアーチャーの診察にされるまま……上司を上司と思わぬ部下スーリの馴れ馴れしさも通常運行だった。
「真面目な話、寄ってくる奴ぁみんな金の亡者と思ってて間違いないぞ、クラリス。なんたって、お前のオヤジさんは目ん玉飛び出るほどの金持ちだからな」
「……ですよねー」
真面目な顔で忠告してきたアーチャーに、クラリスは素直に頷く。彼の言葉はもっともだ。
けれど、彼女の脳裏には厳めしくも整った竜騎兵の顔が蘇っていた。
『至急、君との交際を望む』
いまだ生々しく鼓膜にこびりついた生真面目な低音は、決して聞き間違いでも、ましてや幻聴でもない。
金の亡者……他の誰よりも規律を重んじ、騎兵隊の理性とも揶揄されるシャトリンには、あまりに遠い言葉に思えるのに。冗談どころか笑みを浮かべたところを見た人間さえ誰もいないと聞くが、それはあくまで任務中の顔だ。一度仕事を離れると、全く違った一面を見せる人間だっているだろう。
ただ、どうにも釈然としない。
「大佐の方々のお給料って、そんなに安いんでしょうか?」
「そりゃ金持ち特有の冗談か、クラリス。世間知らずも大概にしろよ、まったく笑えないぞ。あいつら、下手すりゃひと月で町医者の年収くらい余裕で稼ぐだろ」
クラリスがふと零した独り言に、アーチャーは大げさに顔を顰めて吐き捨てた。
「ですよねー、済みません」
クラリスは謝罪とともに、頭を縦に振る。
一般庶民のアーチャーが仕官したのは三十代半ばと随分遅く、親子ほど年の違うクラリスとも軍歴は三年しか違わない。十五年前まで、彼は王都で小さな診療所を開いていた。
そんなある日のこと、妻が診療所の金を持ち出し、患者と駆け落ちしたと言う。逃げた妻は賭博で作った借金もあり、診療所を差し押さえられたアーチャーは、帰る場所さえ失ってしまった。幸い医師としての腕は良かったために、衣食住を保証してくれる騎兵隊へ入団し、軍医となったそうだ。
医官となった動機は複雑だが、意外と職務熱心な彼は死人顔のクラリスに会う度に問診をし、半ば無理矢理滋養強壮剤を押し付けてくる。
そんな二人の出会いは、十一年前まで遡る。
入隊したばかりだったクラリスはまだ実働任務に就けず、ひたすら訓練に明け暮れていた。その日も通常訓練終了後に演習場に居残り、自主練をしていたところ、誤って弓の弦で指先を切ってしまう。簡単に応急処置を済ませ、そのまま木陰に座って小休止をしているうちに、いつしか寝入っていたクラリス……連日の厳しい通常訓練だけでなく、自主的に課した補習訓練で、我知らず疲労が蓄積していたのだ。
そして、そこを偶然通り掛かったアーチャーが、ぐったりと木にもたれ掛かり、微動だにしない恐ろしく顔色の悪い彼女を発見。それがクラリスの通常の顔色だと知らない彼は血相を変え、全く必要のない救命処置を取ろうとしたというのが馴れ初めである。
今でも当時のことは時折話題に上り、心臓が止まるほど心配したと言ってくれるアーチャー……医療の腕も然ることながら、その人柄も尊敬している。
ちょっぴり辛口だが、大人の余裕溢れた彼に、それまで弓矢一筋だった少女はうっかりキュンとし、一時期淡い憧れを抱いていた。結婚に苦い思い出のあるアーチャーは、もう二度と恋などしないと公言しているし、娘のように気に掛けてくれている現状に不満もない。その気持ちに偽りはなかった。
「……ですよねー」
再び噛み締めるように呟いたクラリスは、過ぎ去りし初恋から目を上げる。
次いで、現在の自分を根底から揺さぶってくれた彼の人物の面影をかき消すように、小さく溜息を吐いた。
「隊長! ため息つくと、シアワセ逃げちゃうヨー……メっ!」
そんなクラリスの背中を、スーリが尖った鼻先で勢いよく小突いて言う。
振り向いた先に見えたのは、軍服を着た二足歩行の狼人が可愛らしく小首を傾げる姿。純白の毛並みは雪のようで、尖った耳を垂らしたフカフカな顔は、アーチャーの言った通り、狼というよりも犬に見える。つぶらな青い瞳は潤んで揺れていて、つい頭を撫でたくなるが……。
「スーリ君、君こそメっ! です。そんなにグリグリしないでください。君の毛はただでさえ取れにくいんですよ、おまけに今は換毛期でしょう」
本能的衝動をグッと抑え込み、クラリスは度重なる部下の狼藉を切々と窘める。
「……クラリス、叱るべきところはそこじゃないだろう」
そこへ、白髪交じりの短髪をガシガシと搔きながらアーチャーが口を挟んできた。
「そんなことありませんよ、アーチャー。今年は水不足だし、限られた水で綺麗に洗濯するのはとても大変なんですから」
「おいおい、ヴィアッカ商会のお嬢様とは思えない台詞だな」
「それは偏見というものです、アーチャー。商人にとって無駄遣いは最大の敵。父の屋敷で暮らしていた時でも出来る限り自分の面倒は自分で見ていましたし、もう騎兵隊の兵舎生活の方が長いのです。私は貴男方と何ら変わらぬ一武官ですよ」
まるで貴族のように何不自由なく暮らしていたと思われるのは、アーチャーであっても……否、信頼を置く彼だからこそ不愉快だ。クラリスの眉間に微細な皺が寄る。
「済まん、悪かったよ。だから、そんな八代祟るってな顔はやめてくれ」
「いくらセンセでも、隊長に向って失礼ヨ!」
ここぞ名誉挽回の機会だとばかりに、アーチャーとクラリスの間に割って入ったスーリが吠えた。
二倍に膨らんだ尻尾もブンブンと左右に振れ、診療台に腰掛けたクラリスのトラウザーズの膝にも抜け毛が飛んでくる。
「スーリ君、いいから落ち着いてください。抜け毛が酷いですよ」
「そんな、ダメだヨ! 未来のおヨメさん馬鹿にされたら、黙ってなんてられなイ!」
制止する彼女を振り返ったスーリは、バチンと音がしそうなウィンクを送ってくる。「決まった!」とでも言いたげに尻尾が振られ、綿毛のような毛はさらに盛大に宙を舞った。
「上官を口説く前にまず敬語を覚えましょうね、スーリ君。それに抜け毛、本当に酷いですよ」
クラリスがそんな彼の三文芝居をサラッと流すと、ピンと張った大きな耳が物悲しげに垂れ下がる。思わず漏れそうになった笑みを、彼女は慌てて噛み殺した。
山奥に住んでおり、あまり人と交わらない警戒心の強い狼人には珍しく、人間の生活に強い憧れを抱き、手っ取り早く稼ぐために軍隊に入ったという彼は、クラリスの容姿に頓着しない唯一の他人だ。
彼女の実家が裕福だと知るや否や口説きにかかったが、御覧の通り真剣みは皆無……欲望に忠実で「楽して金儲け」が信条の俗物を称するスーリだったが、人間よりも遥かに優れた身体能力で犯罪に走らない分別はある。つまりはその人柄(狼柄?)を信用していた。
「では、アーチャー。そろそろ戻ります」
クラリスはアーチャーに向き直ると、暇を告げる。
気心が知れた彼の医務室は、疲れている時ほど長居し過ぎていけない。
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「馬鹿、そうやって過信してる奴ほど無茶やって早死にするんだよ」
後に続く言葉を遮って言ったアーチャーに、クラリスは口を噤む。
掛け値なしに心配されることが、言葉を失うほど嬉しかった。普通ではない出自や外見のせいで、普通な経験が著しく少ない彼女だけに。
苦笑を口元に滲ませたアーチャーが大きな掌で頭をポンポンと撫でてくるので、クラリスはさらに胸が詰まる。今更恋心が再燃する訳ではないが、一時は異性として意識した相手からの不意の接触は心臓に悪い。
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