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第一話 ウルフミーツガール
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「風が弱い。今日は飛べそうにないな。どうするよ、鳥さんよ?」
誰もいないビルの螺旋階段を登りながら、男は空を見て言った。黒く塗装されたビルの内部は時折外部と繋がる空間があり、太い柱が幾つもそこを埋めるように覗いている。
男のおかしな問いに答える者はなかった。もうかなりの段数登っていたが、疲労を知らないような表情で黙々と歩を進める。先日適当に市場で買ったスニーカーが地を噛む孤独な足音だけが響く。
「くはっ。しかし遅えなあ。ちんたらちんたら、あいつらは誰を捕まえようとしてんのかねえ」
生憎自動昇降機はない。セキュリティの関係で廃止したのだろう。螺旋階段とその中心のがらんどうをみながら、下に向け、
「おーい! 生きてるかあ!」
軽いジョークのつもりだったが遥か下から男に向けて悔しそうな奇声が聞こえてきた。
やべえやべえ遊び過ぎたか。
男は思いまた階段を登る。
階段の途中にあるそれぞれの階層にはこの街を管理するハイテク機構があり、貴族でも買えないようなスーパーテクノロジーがごろごろしているらしいが、生憎と今の彼には興味がなかった。
薄暗いビル内部はしばらく歩いていると、外の空に佇む黒雲に飲まれるように更に闇に染まる。
「チッ。電池切れすんなよ」
男はライトをつけた。足元だけを照らす淡く長細い光だ。
誘蛾灯のように光が先行し、程なくすると男の行く末を暗示するようにフッと消える。
いや消した。男が消したのだ。
B2959と掘られた鉄扉の前で男は止まる。
早速手にしたカードキーを数字が並ぶコンソールの横のソケットに差し込んだ。
【認証しました。管理者No.199警備員の方です。お入り下さいませ】
電子錠が開く音がすると、中にいたと思しきこのビルの管理者がごついパイプ椅子から立ち上がる音がした。
「ん、なんだ? だれかいるのか? そこに隠れているのか? おい! 答えろ!」
男はみた。話に聞いていた特徴とも一致する。ビルの管理者と思わしき60過ぎの初老は古めかしいアンティークの机に札束をいくつも並べて金勘定していたところだった。
着ている服もアンティークというか、要するに古臭いが成金が好んで着るような黄金が散りばめられた上等な服で、大層贅沢している事が伺い知れる。
「おい、貴様。分からんとでも思うか。ドアの裏側に隠れているのだろう。出てこい。警備員ではないな? さては貴様先程報告にあった!」
息を殺して初老の管理者をみつめる男。
男からは初老の管理者が見えているが彼からは何故か男がみえていない。
男はドアの裏側などでなく、正面に立っているのにだ。
「くっ、貴様。警備を何人かのしてきたな。このままでは……くっくっなんてな。先程貴様に倒された警備員が自動警報を鳴らした。昏倒と同時にな。とうに応援を呼んでいるわ。因みに来るのはヤワな警備員ではないぞ?」
にたにたしながらゆっくりと歩み寄る初老の管理者。その手には巻きタバコが握られている。タバコも今では希少価値が高く、箱一つで家が一軒建つ代物である。
「うちはこれでも一流のシステム制御機構として館内にいくつもの戦闘アンドロイドを飼っている。貴様が隠れてようが恐怖に体が震えて逃げ出していようが、逃げられはしないさ。せいぜい」
そろそろ黙らせる必要がある。男はそう判断した。足音を鳴らし初老に近づく。
ようよう初老は反応した。目が大きく開く。目の前に居るはずのない者がいる。何せ足音はそこから聞こえるのだ。
「な、なんだ、貴様。どこだ! どこにいる!」
そう初老には男が見えていない。目の前にいても。初老が言い終わる頃には男の足音は初老の後ろにいた。わぁっと尻餅をついて退く初老。
脂汗を浮かべながら、出口に走る。
しかし、出入り口のドアは非情にも行く手を封じた。
「これか。おいおい。操作用のリモコンをデスクに置くなよ。まあ追いかける必要がなくて助かったけどな。階段からうっかり落ちて死なれでもしたら俺の給料が減るんだ。気をつけてくれよご老体」
汗が吹き出して床に垂れていた。
すぐに思い出したように初老がまさかお前、と。
「そうだよ。残念ながら名前は名乗らねえ主義だが、俺が噂の殺し屋さ。普通の殺しは請け負わねえ。お前さんのような、特に凶悪な悪漢だけを専門にしている」
初老は何かを悟った顔で懐から拳銃を取り出したが、打つ直前で何かに弾かれて拳銃が宙を舞った。
男が拳銃で拳銃を撃ったのだ。取りに行こうともがく初老に、止まれと告げるとそこで初老は静かになった。
デスクに山と積まれた札束。そこにある書類の1番上に、並んだ名簿とバツがつけられた名前たち。そして管理者の言う優秀なアンドロイド。もはや述べるまでもない。
奴こそはこの世界の悪の権化。
この世界には無数の歪みがある。
歪みからは化け物が出てきてたちまちのうちに人々を食い殺す。
その歪みを塞ぐには生贄として人間を一人謙譲するだけでいい。
奴は、
「お前さんも同業者だな? ただし、元は真っ当な街の電子システム系統の管理人だった。金に目が眩んだな。餌用に目を付けた奴隷を豪華な接待で目眩し、大きな部屋で集団薬殺する。死んだばかりの奴等はまだ餌として機能するからな」
「貴様!」
「残念ながら贄で金稼ぎするのはご法度だ。無論殺しで生計を立てるのもな。同じ犯罪者同士仲良くしようじゃないか。なあ」
ヌッと姿を現した男を見て、初老は恐怖に慄いた。
「獣人……! やはり貴様、ヤクか!」
太い灰色の剛毛が無数に生えた全身は筋肉の塊で、何よりでかい。手には爪が黒光りし口には鋭い歯がついている。狼人間。
刃物のような両眼に手元にも刃物が光る。黒鉄のサバイバルナイフを手にヒュンッと初老に一振りする。
あっという間もなかった。初老は首を押さえるが、鮮血が止まらず吹き出して、床に撒かれる。
「おの……れ」
「残念ながら、これも運命だ。呪うなら自分の蛮行とこんな事になった世界を呪うんだな」
リモコンを開にすると、また扉が開く。
その前にと、さっきから見えていた部屋の隅の機械に手をつける。
素早い手つきで数字とアルファベットを打ち込んで、次の瞬間。
【認証しました。メインコンソールより全システムをオフにします。お疲れ様でした。これよりプログラムは数分間休止します】
「よし、じゃあ行くか」
最後に対象を撮影し、証拠だけ押さえると颯爽と立ち去る。
右に折れると階下から無数の人の声と機械のような声がした。
「戦闘アンドロイドと警備員。わりに遅いな。かち合うかと思ったら。まあ120階まであるからなここ。人間の方は力尽きるのは仕方ないか」
ため息をついて見上げるとまだ数階ほど上がある。駆け出すと、今度は上のほうが騒がしくなってきた。気にせず登っていると、上から幾人もの人々が駆け下りてきた。咄嗟に飛び退くがすぐに気付く。
「こいつら、まさか囚われていた?」
聞くまでもなかった。男を無視して駆け下りていくその様はこの世界では見慣れた光景だ。奴隷の逃げ足はそこらの兵士よりはやく鍛えられている。
「チッ」
彼らが降りていけば捕まるか殺されるかするだろう。でもアンドロイドとかち合えば男もただですまない事は分かっている。
舌打ちをもう一度して、男は叫んだ。
「そいつらは関係ねえ! 俺はもっと上にいるぞノロマ野郎ども!」
叫びながら駆け上がる。囮として機能するかは謎だった。
何人かは螺旋階段の柵を乗り越えて脱出をはかっていたが、まもなく鈍い悲鳴が聞こえた。
「チッ」
最上部。重圧な開閉音が響く。
鉄扉を開けた先は広さ十畳程の屋上だった。
まともな柵はなく、まるで飛び降り用と言わんばかりの申し訳程度の膝までの柵はある。
しかし誰かがよじ登ろうとしていた。言い方を変えるなら飛び降りようとしていた。
「あ」
目を開く少女。
ブロンドの滑らかな長い髪。グリーンの瞳。
流れるような流行り物のワンピースは星のような装飾が散っている。
しかしその表情はいまさっき逃げてきた感じがしない何となくボケっとしたようなオーラ。
「お前、さっきの奴隷達の仲間か?」
その割には服装がしっかりしているし、見方によっては貴族にみえなくもない。
くりっとした瞳が男をロックオンする。
「貴方はどちら……あっ!」
気づいたようで、一瞬迷ったあと応える。
「そうだよ。警報鳴らされてた奴さ。お前は、なんだ。捕まっていたのか?」
頷く少女。
「そうか上へ逃げたのか」
またこくりこくりと頷く。
「まさか上に逃げたのお前一人かよ。チッ。だから奴隷は嫌なんだ。確かに下に全員でもみくちゃになりながら逃げる方が利口さ。上には空以外なんもねえからな」
奴隷は生き汚く安直で、安直すぎるが故に馬鹿だと言われている。
「はい。そうなんですよ。だから困っちゃってまして」
オロオロしながらも何故か表情には余裕がある。
「まさかお前飛び降りる前に俺が?」
「はい! くるくる絶対来ると思っていたら、貴方がきました。私はピンときたんです。ここに囚われてだいぶ経ちますが、警報が来た瞬間ピンときたんです。誰かが助けに来たんだって! だから私はその人に賭ける事にしたんです」
「賭けるねえ」
「戦闘アンドロイドに勝てる人間はいません。ここに乗り込んでくる政府もいまは……」
言葉に困っていた。政府は確かにあの管理者と癒着している。黙っていると言葉をおもいだしたのか、
「そう、政府の人も癒着状態らしいし来ないと思いました。つまり来るなら民間の誰かつまり」
幼い身空で色々と勘がいいらしい。
「俺か。いやここに来ると何故思った?」
「逆にここ以外で生還の術がないと思ったんです。でも」
いうまでもない。少女が柵から下を見やる。
俺も釣られてそっちを見る。遥か下に地上がある。
地上120階以上あるここの標高は、ゆうに500メートル近い。逃げ場はない。
正気では降りられないだろうと男は思った。仮にもこの状況で正気なわけもないけれど。
囚われた時点で死が確定していた。針穴のような希望だろうが、塵のような妄想だろうが、縋りたくもなるだろう。
「どうせここを逃げ果せても、また何処かで捕まって同じ目に遭います。ならばこんなところに警報鳴らしてまで助けに来るような」
解説するように言い、
「そうです!」
と自分で言って自分で頷く。忙しない奴だなと男は少女をみて鼻でため息をつく。少女が振り返る。にこり。満面の笑み。
「そんな人がいい人でないわけがない。ついでに助けてくれないわけはないんです。だから私は下に行かずに上を目指したわけです」
呆れて何も言えなかった。
さっき自力で飛び降りようとしてたが多分待ちかねたのか、賭けに自信をなくしたかしたのだろう。
初めて見た瞬間何となく感じた。
あの天然じみたオーラはこれかと。
外は風が強くなっていた。空気が水っぽいが、まだ乾いている方だ。行きは弱く、湿気が酷かった。これなら、と男は小さく笑む。
一方で少女が何かをしようとしてか、さっきからソワソワしている。
見ればカネを持っていた。小さな鞄から覗いていたやつだ。手品じゃないならここのどこかで盗んできた代物だろう。例のターゲットの金はうっかりとり忘れていたから割に合わない仕事ではあった。
「あの、お尋ねしますが、ここから貴方はどうやって逃げるんです?」
そこが肝心だ。勿論アンドロイドとは戦わない。奴等の火力に太刀打ちできる保証はない。
だから抜け出すには方法は一つ。さっき少女がやろうとしていた方法だ。
普通にやれば即死だ。でも即死じゃない方法がある。だから来たのだ。何かを察した少女が言った。
「なら、依頼させてください!」
【はっ?】
と、いう言葉が言葉の代わりに顔に浮かぶ。
「とりあえず今これだけあります!」
札束はしばらく仕事がいらない額だ。さっき食いっぱぐれたから輝いて見えた。
「私を安全な場所に」
少女がそう言った直後、鉄扉の裏側がざわつきだした。
追いついたのは恐らく警備員じゃない。アンドロイドは殺害対象として捕捉されるとプログラムを止めるか対象が死ぬかするまでついてくる。
男は考えつつ、空を見た。薄暗い雲の向こうに歪みがみえる。あれが開けばまた地獄が始まる。飛んでいると、たまにあれにかち合う事がある。そうすると漏れなく面倒くさい事になる。
「チッ」
少女をみた。
にっこり。営業スマイルみたいに、思わず金を払いたくなる笑顔だった。もう一度舌打ちした。
「わかった。引き受けた。一応仕事のついでだ。報酬はいらねえ。腰か足に掴まれ」
掴まれというと少女がちまちまと片手で掴まるので仕方なく片手で少女の腰を持ち上げた。
「わは! すごいお力ですね! で、これからどうするので?」
そう。こんな場所で何をどうやって逃げるのか。でもほとんどの奴は知っている。こんな状況でさえ、どうにかできる奴らがいる事を。
いや、どんな状況でさえ白を黒にも天使にもできる異能力者の存在を。
「俺は名前は無えよ。ノーネームで通してる。しがないヤクの便利屋さ! お前は!?」
ヤクというのはこの世界の属性みたいなものだ。
風が強いので声を大きくした。
「私はミルミです! 多分ネイチャーです! それ以外には、あ。今はまだやめときます!」
ネイチャーも属性だ。
ノーネームは最後まで聞いていなかった。
一層強い風が吹いてくると鳥が呼応しているなとぼやき、手から瞬間、手品のように取り出したる何か。
「え、それ? え? 飛び降りるんじゃないんですか!? え?」
ハンググライダーだった。しかし通常の物とは違う奇異をまとっていた。鳥の羽が覆っていて辛うじてそれだとわかる程度に基部が覗いている。
「これで飛ぶんですか? あの飛べるんですか? 貴方ヤクですよね? なんかないんですか? 壁面に蜘蛛のように張り付ける手足とか……」
「アホかよ。飛ぶぞ! 掴まれ!」
少女がえええと動揺しつつも目を閉じると、男はまたも予備動作もなくパッと消えた。少女とハンググライダーとともに。姿を消した。
ただしまだそこにはいた。
姿を見られないように文字通り姿を消しただけだ。能力インビジブルにより。
タイミングよく鉄扉が開く。
直後、男は今度こそその場から姿を消した。少女とともに。
奇跡なんて起こらないと信じられていた、その時代。その世界。
第十次世界大戦時、核兵器に優る新兵器の有害物質や未知物質など戦争の副作用により世界は歪み、歪みからカオス空間と後に呼称される異次元がうまれた。世界は変革した。
原理と物理法則と環境が変革した変革後の世界では人々は異能持ちと無能力またはなんらかの力のある無能力に分かれた。
また変革前の記憶が能力の成否を分けるため、それを保有しているヤクと変革後の記憶しか持たないネイチャーと、記憶を買った奴らに分かれ、異能なしのネイチャー(弱者)はヤクの奴隷になって、人間、獣人、他あらゆる変革により生まれた生物との世界戦争に血を流していた。
全ての因子は数年前、世界の変革として起きたとある事象にある。そして現れたカオス空間と歪みからやってきた使者。そして奴等との駆け引きに世界中が狂っていた。
変革を作りしカオス空間の使者らは歪みの扉が開くとやってきて腹がいっぱいになるまでこの世界の住民を食うと満足して帰っていく。
今のところそれ以外で奴らを退却させるには定期的に餌を与えるしかない。
その餌【高い知能を有した生命】の確保と国力増強に各国が奪い合い殺し合いをしている。
変革後も戦争は終わらない。
そんな醜い世界の空の下、一人の男が乱立する高層ビル群を逃げている。
彼の名前はノーネーム。記憶があるのにあえて名無しを称する彼には事情がある。
主に殺しを仕事でする彼だが、本職は便利屋である。
殺しは単なる思想信条と趣味だった。
イレギュラーとインビジブルの異能を持つ彼は今日も稼業に奮闘し、逃亡劇を繰り広げていたが、かのビルで一緒に逃げていた彼女と出会った。
彼女は貴族めいて見える。貴族は奴隷を遣いあらゆる生活面で守られているから通常外には出ないのに何故捕まったのか、理由はまあよくわからない。
ノーネームは広げたハンググライダーで空を飛びながら少女に問うが、少女はただ怖くて目を閉じながら叫んでいた。
「は、は、は、早く下ろしてください! 死にます! 死にたくない!」
声が震えて顔が歪んでいる。
「知るか」
ノーネームは気にもせずに飛び続ける。いつも仕事を済ませた後は大抵の場合屋上に逃げ、手品のように取り出したハンググライダーを開きインビジブルで姿を消して誰にも悟られずに空を逃げる。
これが彼の殺しのスタイルである。
少女の叫び声が木霊する。空は生憎の曇り空。
いつ歪みが飛び出してくるかはわからない。
嫌な気配がすれば、勘でわかる。ノーネームは目線をゆっくり地上に降ろす。
高度が高すぎて視界の先にモヤが発生していた。
世界は静かに終わり、そして終わりの先の世界が始まろうとしている。
誰もいないビルの螺旋階段を登りながら、男は空を見て言った。黒く塗装されたビルの内部は時折外部と繋がる空間があり、太い柱が幾つもそこを埋めるように覗いている。
男のおかしな問いに答える者はなかった。もうかなりの段数登っていたが、疲労を知らないような表情で黙々と歩を進める。先日適当に市場で買ったスニーカーが地を噛む孤独な足音だけが響く。
「くはっ。しかし遅えなあ。ちんたらちんたら、あいつらは誰を捕まえようとしてんのかねえ」
生憎自動昇降機はない。セキュリティの関係で廃止したのだろう。螺旋階段とその中心のがらんどうをみながら、下に向け、
「おーい! 生きてるかあ!」
軽いジョークのつもりだったが遥か下から男に向けて悔しそうな奇声が聞こえてきた。
やべえやべえ遊び過ぎたか。
男は思いまた階段を登る。
階段の途中にあるそれぞれの階層にはこの街を管理するハイテク機構があり、貴族でも買えないようなスーパーテクノロジーがごろごろしているらしいが、生憎と今の彼には興味がなかった。
薄暗いビル内部はしばらく歩いていると、外の空に佇む黒雲に飲まれるように更に闇に染まる。
「チッ。電池切れすんなよ」
男はライトをつけた。足元だけを照らす淡く長細い光だ。
誘蛾灯のように光が先行し、程なくすると男の行く末を暗示するようにフッと消える。
いや消した。男が消したのだ。
B2959と掘られた鉄扉の前で男は止まる。
早速手にしたカードキーを数字が並ぶコンソールの横のソケットに差し込んだ。
【認証しました。管理者No.199警備員の方です。お入り下さいませ】
電子錠が開く音がすると、中にいたと思しきこのビルの管理者がごついパイプ椅子から立ち上がる音がした。
「ん、なんだ? だれかいるのか? そこに隠れているのか? おい! 答えろ!」
男はみた。話に聞いていた特徴とも一致する。ビルの管理者と思わしき60過ぎの初老は古めかしいアンティークの机に札束をいくつも並べて金勘定していたところだった。
着ている服もアンティークというか、要するに古臭いが成金が好んで着るような黄金が散りばめられた上等な服で、大層贅沢している事が伺い知れる。
「おい、貴様。分からんとでも思うか。ドアの裏側に隠れているのだろう。出てこい。警備員ではないな? さては貴様先程報告にあった!」
息を殺して初老の管理者をみつめる男。
男からは初老の管理者が見えているが彼からは何故か男がみえていない。
男はドアの裏側などでなく、正面に立っているのにだ。
「くっ、貴様。警備を何人かのしてきたな。このままでは……くっくっなんてな。先程貴様に倒された警備員が自動警報を鳴らした。昏倒と同時にな。とうに応援を呼んでいるわ。因みに来るのはヤワな警備員ではないぞ?」
にたにたしながらゆっくりと歩み寄る初老の管理者。その手には巻きタバコが握られている。タバコも今では希少価値が高く、箱一つで家が一軒建つ代物である。
「うちはこれでも一流のシステム制御機構として館内にいくつもの戦闘アンドロイドを飼っている。貴様が隠れてようが恐怖に体が震えて逃げ出していようが、逃げられはしないさ。せいぜい」
そろそろ黙らせる必要がある。男はそう判断した。足音を鳴らし初老に近づく。
ようよう初老は反応した。目が大きく開く。目の前に居るはずのない者がいる。何せ足音はそこから聞こえるのだ。
「な、なんだ、貴様。どこだ! どこにいる!」
そう初老には男が見えていない。目の前にいても。初老が言い終わる頃には男の足音は初老の後ろにいた。わぁっと尻餅をついて退く初老。
脂汗を浮かべながら、出口に走る。
しかし、出入り口のドアは非情にも行く手を封じた。
「これか。おいおい。操作用のリモコンをデスクに置くなよ。まあ追いかける必要がなくて助かったけどな。階段からうっかり落ちて死なれでもしたら俺の給料が減るんだ。気をつけてくれよご老体」
汗が吹き出して床に垂れていた。
すぐに思い出したように初老がまさかお前、と。
「そうだよ。残念ながら名前は名乗らねえ主義だが、俺が噂の殺し屋さ。普通の殺しは請け負わねえ。お前さんのような、特に凶悪な悪漢だけを専門にしている」
初老は何かを悟った顔で懐から拳銃を取り出したが、打つ直前で何かに弾かれて拳銃が宙を舞った。
男が拳銃で拳銃を撃ったのだ。取りに行こうともがく初老に、止まれと告げるとそこで初老は静かになった。
デスクに山と積まれた札束。そこにある書類の1番上に、並んだ名簿とバツがつけられた名前たち。そして管理者の言う優秀なアンドロイド。もはや述べるまでもない。
奴こそはこの世界の悪の権化。
この世界には無数の歪みがある。
歪みからは化け物が出てきてたちまちのうちに人々を食い殺す。
その歪みを塞ぐには生贄として人間を一人謙譲するだけでいい。
奴は、
「お前さんも同業者だな? ただし、元は真っ当な街の電子システム系統の管理人だった。金に目が眩んだな。餌用に目を付けた奴隷を豪華な接待で目眩し、大きな部屋で集団薬殺する。死んだばかりの奴等はまだ餌として機能するからな」
「貴様!」
「残念ながら贄で金稼ぎするのはご法度だ。無論殺しで生計を立てるのもな。同じ犯罪者同士仲良くしようじゃないか。なあ」
ヌッと姿を現した男を見て、初老は恐怖に慄いた。
「獣人……! やはり貴様、ヤクか!」
太い灰色の剛毛が無数に生えた全身は筋肉の塊で、何よりでかい。手には爪が黒光りし口には鋭い歯がついている。狼人間。
刃物のような両眼に手元にも刃物が光る。黒鉄のサバイバルナイフを手にヒュンッと初老に一振りする。
あっという間もなかった。初老は首を押さえるが、鮮血が止まらず吹き出して、床に撒かれる。
「おの……れ」
「残念ながら、これも運命だ。呪うなら自分の蛮行とこんな事になった世界を呪うんだな」
リモコンを開にすると、また扉が開く。
その前にと、さっきから見えていた部屋の隅の機械に手をつける。
素早い手つきで数字とアルファベットを打ち込んで、次の瞬間。
【認証しました。メインコンソールより全システムをオフにします。お疲れ様でした。これよりプログラムは数分間休止します】
「よし、じゃあ行くか」
最後に対象を撮影し、証拠だけ押さえると颯爽と立ち去る。
右に折れると階下から無数の人の声と機械のような声がした。
「戦闘アンドロイドと警備員。わりに遅いな。かち合うかと思ったら。まあ120階まであるからなここ。人間の方は力尽きるのは仕方ないか」
ため息をついて見上げるとまだ数階ほど上がある。駆け出すと、今度は上のほうが騒がしくなってきた。気にせず登っていると、上から幾人もの人々が駆け下りてきた。咄嗟に飛び退くがすぐに気付く。
「こいつら、まさか囚われていた?」
聞くまでもなかった。男を無視して駆け下りていくその様はこの世界では見慣れた光景だ。奴隷の逃げ足はそこらの兵士よりはやく鍛えられている。
「チッ」
彼らが降りていけば捕まるか殺されるかするだろう。でもアンドロイドとかち合えば男もただですまない事は分かっている。
舌打ちをもう一度して、男は叫んだ。
「そいつらは関係ねえ! 俺はもっと上にいるぞノロマ野郎ども!」
叫びながら駆け上がる。囮として機能するかは謎だった。
何人かは螺旋階段の柵を乗り越えて脱出をはかっていたが、まもなく鈍い悲鳴が聞こえた。
「チッ」
最上部。重圧な開閉音が響く。
鉄扉を開けた先は広さ十畳程の屋上だった。
まともな柵はなく、まるで飛び降り用と言わんばかりの申し訳程度の膝までの柵はある。
しかし誰かがよじ登ろうとしていた。言い方を変えるなら飛び降りようとしていた。
「あ」
目を開く少女。
ブロンドの滑らかな長い髪。グリーンの瞳。
流れるような流行り物のワンピースは星のような装飾が散っている。
しかしその表情はいまさっき逃げてきた感じがしない何となくボケっとしたようなオーラ。
「お前、さっきの奴隷達の仲間か?」
その割には服装がしっかりしているし、見方によっては貴族にみえなくもない。
くりっとした瞳が男をロックオンする。
「貴方はどちら……あっ!」
気づいたようで、一瞬迷ったあと応える。
「そうだよ。警報鳴らされてた奴さ。お前は、なんだ。捕まっていたのか?」
頷く少女。
「そうか上へ逃げたのか」
またこくりこくりと頷く。
「まさか上に逃げたのお前一人かよ。チッ。だから奴隷は嫌なんだ。確かに下に全員でもみくちゃになりながら逃げる方が利口さ。上には空以外なんもねえからな」
奴隷は生き汚く安直で、安直すぎるが故に馬鹿だと言われている。
「はい。そうなんですよ。だから困っちゃってまして」
オロオロしながらも何故か表情には余裕がある。
「まさかお前飛び降りる前に俺が?」
「はい! くるくる絶対来ると思っていたら、貴方がきました。私はピンときたんです。ここに囚われてだいぶ経ちますが、警報が来た瞬間ピンときたんです。誰かが助けに来たんだって! だから私はその人に賭ける事にしたんです」
「賭けるねえ」
「戦闘アンドロイドに勝てる人間はいません。ここに乗り込んでくる政府もいまは……」
言葉に困っていた。政府は確かにあの管理者と癒着している。黙っていると言葉をおもいだしたのか、
「そう、政府の人も癒着状態らしいし来ないと思いました。つまり来るなら民間の誰かつまり」
幼い身空で色々と勘がいいらしい。
「俺か。いやここに来ると何故思った?」
「逆にここ以外で生還の術がないと思ったんです。でも」
いうまでもない。少女が柵から下を見やる。
俺も釣られてそっちを見る。遥か下に地上がある。
地上120階以上あるここの標高は、ゆうに500メートル近い。逃げ場はない。
正気では降りられないだろうと男は思った。仮にもこの状況で正気なわけもないけれど。
囚われた時点で死が確定していた。針穴のような希望だろうが、塵のような妄想だろうが、縋りたくもなるだろう。
「どうせここを逃げ果せても、また何処かで捕まって同じ目に遭います。ならばこんなところに警報鳴らしてまで助けに来るような」
解説するように言い、
「そうです!」
と自分で言って自分で頷く。忙しない奴だなと男は少女をみて鼻でため息をつく。少女が振り返る。にこり。満面の笑み。
「そんな人がいい人でないわけがない。ついでに助けてくれないわけはないんです。だから私は下に行かずに上を目指したわけです」
呆れて何も言えなかった。
さっき自力で飛び降りようとしてたが多分待ちかねたのか、賭けに自信をなくしたかしたのだろう。
初めて見た瞬間何となく感じた。
あの天然じみたオーラはこれかと。
外は風が強くなっていた。空気が水っぽいが、まだ乾いている方だ。行きは弱く、湿気が酷かった。これなら、と男は小さく笑む。
一方で少女が何かをしようとしてか、さっきからソワソワしている。
見ればカネを持っていた。小さな鞄から覗いていたやつだ。手品じゃないならここのどこかで盗んできた代物だろう。例のターゲットの金はうっかりとり忘れていたから割に合わない仕事ではあった。
「あの、お尋ねしますが、ここから貴方はどうやって逃げるんです?」
そこが肝心だ。勿論アンドロイドとは戦わない。奴等の火力に太刀打ちできる保証はない。
だから抜け出すには方法は一つ。さっき少女がやろうとしていた方法だ。
普通にやれば即死だ。でも即死じゃない方法がある。だから来たのだ。何かを察した少女が言った。
「なら、依頼させてください!」
【はっ?】
と、いう言葉が言葉の代わりに顔に浮かぶ。
「とりあえず今これだけあります!」
札束はしばらく仕事がいらない額だ。さっき食いっぱぐれたから輝いて見えた。
「私を安全な場所に」
少女がそう言った直後、鉄扉の裏側がざわつきだした。
追いついたのは恐らく警備員じゃない。アンドロイドは殺害対象として捕捉されるとプログラムを止めるか対象が死ぬかするまでついてくる。
男は考えつつ、空を見た。薄暗い雲の向こうに歪みがみえる。あれが開けばまた地獄が始まる。飛んでいると、たまにあれにかち合う事がある。そうすると漏れなく面倒くさい事になる。
「チッ」
少女をみた。
にっこり。営業スマイルみたいに、思わず金を払いたくなる笑顔だった。もう一度舌打ちした。
「わかった。引き受けた。一応仕事のついでだ。報酬はいらねえ。腰か足に掴まれ」
掴まれというと少女がちまちまと片手で掴まるので仕方なく片手で少女の腰を持ち上げた。
「わは! すごいお力ですね! で、これからどうするので?」
そう。こんな場所で何をどうやって逃げるのか。でもほとんどの奴は知っている。こんな状況でさえ、どうにかできる奴らがいる事を。
いや、どんな状況でさえ白を黒にも天使にもできる異能力者の存在を。
「俺は名前は無えよ。ノーネームで通してる。しがないヤクの便利屋さ! お前は!?」
ヤクというのはこの世界の属性みたいなものだ。
風が強いので声を大きくした。
「私はミルミです! 多分ネイチャーです! それ以外には、あ。今はまだやめときます!」
ネイチャーも属性だ。
ノーネームは最後まで聞いていなかった。
一層強い風が吹いてくると鳥が呼応しているなとぼやき、手から瞬間、手品のように取り出したる何か。
「え、それ? え? 飛び降りるんじゃないんですか!? え?」
ハンググライダーだった。しかし通常の物とは違う奇異をまとっていた。鳥の羽が覆っていて辛うじてそれだとわかる程度に基部が覗いている。
「これで飛ぶんですか? あの飛べるんですか? 貴方ヤクですよね? なんかないんですか? 壁面に蜘蛛のように張り付ける手足とか……」
「アホかよ。飛ぶぞ! 掴まれ!」
少女がえええと動揺しつつも目を閉じると、男はまたも予備動作もなくパッと消えた。少女とハンググライダーとともに。姿を消した。
ただしまだそこにはいた。
姿を見られないように文字通り姿を消しただけだ。能力インビジブルにより。
タイミングよく鉄扉が開く。
直後、男は今度こそその場から姿を消した。少女とともに。
奇跡なんて起こらないと信じられていた、その時代。その世界。
第十次世界大戦時、核兵器に優る新兵器の有害物質や未知物質など戦争の副作用により世界は歪み、歪みからカオス空間と後に呼称される異次元がうまれた。世界は変革した。
原理と物理法則と環境が変革した変革後の世界では人々は異能持ちと無能力またはなんらかの力のある無能力に分かれた。
また変革前の記憶が能力の成否を分けるため、それを保有しているヤクと変革後の記憶しか持たないネイチャーと、記憶を買った奴らに分かれ、異能なしのネイチャー(弱者)はヤクの奴隷になって、人間、獣人、他あらゆる変革により生まれた生物との世界戦争に血を流していた。
全ての因子は数年前、世界の変革として起きたとある事象にある。そして現れたカオス空間と歪みからやってきた使者。そして奴等との駆け引きに世界中が狂っていた。
変革を作りしカオス空間の使者らは歪みの扉が開くとやってきて腹がいっぱいになるまでこの世界の住民を食うと満足して帰っていく。
今のところそれ以外で奴らを退却させるには定期的に餌を与えるしかない。
その餌【高い知能を有した生命】の確保と国力増強に各国が奪い合い殺し合いをしている。
変革後も戦争は終わらない。
そんな醜い世界の空の下、一人の男が乱立する高層ビル群を逃げている。
彼の名前はノーネーム。記憶があるのにあえて名無しを称する彼には事情がある。
主に殺しを仕事でする彼だが、本職は便利屋である。
殺しは単なる思想信条と趣味だった。
イレギュラーとインビジブルの異能を持つ彼は今日も稼業に奮闘し、逃亡劇を繰り広げていたが、かのビルで一緒に逃げていた彼女と出会った。
彼女は貴族めいて見える。貴族は奴隷を遣いあらゆる生活面で守られているから通常外には出ないのに何故捕まったのか、理由はまあよくわからない。
ノーネームは広げたハンググライダーで空を飛びながら少女に問うが、少女はただ怖くて目を閉じながら叫んでいた。
「は、は、は、早く下ろしてください! 死にます! 死にたくない!」
声が震えて顔が歪んでいる。
「知るか」
ノーネームは気にもせずに飛び続ける。いつも仕事を済ませた後は大抵の場合屋上に逃げ、手品のように取り出したハンググライダーを開きインビジブルで姿を消して誰にも悟られずに空を逃げる。
これが彼の殺しのスタイルである。
少女の叫び声が木霊する。空は生憎の曇り空。
いつ歪みが飛び出してくるかはわからない。
嫌な気配がすれば、勘でわかる。ノーネームは目線をゆっくり地上に降ろす。
高度が高すぎて視界の先にモヤが発生していた。
世界は静かに終わり、そして終わりの先の世界が始まろうとしている。
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