僕の神様

矢栗 龍

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第三章 堀田浩介

僕の神様

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       プロローグ
ビート板を持ち派手な水しぶきを上げて泳ぐ子供の胴体を私は必死で支えている。
その子は五メートルほどで泳ぎを止め、足をつけると顔を両手で執拗に拭い始めた。
「凄いぞ、健太君。よく頑張ったな。でも水で濡れても顔は拭わない。言っただろ、怖いと思っちゃだめだ、水とお友達にならなくちゃ」
 私はその子に泳ぎ方を教えている。一ヶ月前に私が所属するスイミングクラブに入会してきた小学生である。異常に水を怖がり、泳ぐことも出来ないのを見るに見かねた母親が強引に入会させたらしい。
初心者コースのインストラクターの女性では手に負えず、私がマンツーマンで教えることになった。頑固なまでに水を拒否する健太は、幼少時溺れた経験が有り、それがトラウマになっているようだ。それでも一週間でここまで漕ぎ着けた。
 私、河合伸二の本来の仕事は、スイミングクラブの選手育成コーチである。自分自身、オリンピックを目標に全国大会で活躍していた時期もあったが、私の能力ではそこまでが限界であった。引退した私は目下若手育成に力を注いでいる。
 そんな私が初心者を教えているのには訳が有る。実は私も溺れかけた経験があり、水恐怖症だったからだ。同様の経験を持つ浩太を是非自分が教えてみたかった。
「水と友達になるんだ」どこかで聞いたようなセリフだがキャプテン翼ではない。これは私が神様と信じていた或る男性が私に教えてくれた言葉だった。
 水恐怖症だった私が、まがりなりにもオリンピックを目指そうとするほどの選手になれたのは、その神様のお陰である。
 神様と初めて出会ったのは、もう二十数年前、丁度今日のように暑い夏の日のことであった。当時四年生の私は、中学生の兄と昆虫採集に出かけたのだった。
 
         第一章 河合伸二
 林の手前は、背の高い草花がうっそうと生い茂り、まるで人の侵入を拒むように立ちはだかっていた。既に先を進む兄の姿は、セイタカアワダチソウの茂みに視線をさえぎられ、既に見えなくなっていた。
ランニングシャツに短ズボン、足元は素足にサンダルといった格好で、いつの間にか腕や足は葉っぱによる切り傷だらけだ。そこに汗が沁みてヒリヒリと痛む。
頭上には強烈な午後の日差しと、近くの林で鳴く油蝉の大合唱が容赦なく降り注ぐ。
 背丈ほどにも伸びたセイダカアワダチソウのむせるような草いきれにまみれながら、僕は泣きたくなってきた。
「お兄ちゃん、待ってよ」叫ぶと同時に涙が溢れてくる。
駄目だ、こんな処で泣いていても兄は助けには戻ってこない。いつもそうなのだ、母に弟の面倒を見なさいと言われて渋々僕を連れてくるが、本当は足手まといなのだ。
つい、一週間前にもわざと僕が登ることの出来ない石垣をよじ登り行方をくらましたのだから。
 やはり大人しく家で本を読んだり童話を作っていれば良かったと思った。
読書家の父親は僕が本好きなのを喜び、童話全集や文学全集を買い与えてくれた。僕はそれらを貪るように読んだ。空想の世界に浸り、それだけでは飽きたらず自分で拙い創作童話も作ったりしていたのだ。
 こんな処でまごまごしていたら日が暮れてしまう。急に不安に駆られた僕は、走り出したい衝動に駆られる。だが、実際はみっしりと生い茂る草むらを手で掻き分け、足で踏んづけながらのろのろとしか進めない。方向を見失い、ただ闇雲に進む。
 出かける前に、母から「瓢箪池は危ないから近づいたらあかんで」と言われていた事は完全に僕の脳裏から消え失せていた。
 瓢箪池というのは林の傍にある池で、水面はさほど大きくは無いが、底に行くほど広がっており、逆すり鉢のような形をしている。そのため落ちたら最後浮かび上がって来れずに、ここで溺れ死んだ幼児や小学生が数人いるらしい。
 僕には難しいことは判らないが、市民が嘆願書というお願いを出し、市もようやく重い腰を上げ、埋め立てを計画していると母から聞いたことが有った。勿論池の周辺には柵が設けられ、注意の立て札も立てられているのだが、林へと続く西側は鬱蒼とした茂みで誰も近づけないため柵も途切れていた。
少し茂みがまばらになったところで駆け出した。林の方向を大きくそれていたが、一刻も早く茂みから脱出したかった。大きな向日葵の群生を抜けると、目の前の展望が少し開けてきた。もう少しで茂みを抜けられる。そう思うと駆け出すスピードも増した。
又、母の注意を思い出す。
「判ってるな、絶対走ったらあかんで。あんたは普通の子やあれへんねんからな」
 普通の子や無い、何回も繰り返し聞かされる注意。普通の子や無いなら僕は一体何者なんや。心で叫びながら構わず走る。最後の茂みを掻き分け足を踏み出したとたん、足を滑らした。
 地面が急な下り坂になっていて、その先に水面が見えた。しまった瓢箪池に落ちる。夢中で葉っぱを掴むが、体重を支えきれるわけも無く葉っぱはプチッと軽い音を立てて千切れた。
池に真っ逆さまに落ちた。僕は泳げない、必死で手足をばたつかせるが、それもはかない努力だった。もがきながらもどんどんと池の底へと沈んでいった。
 
「気がついたかい?」
 声のするほうを見やる。無精ひげを生やした男性が僕の顔を覗きこんでいた。
 見知った顔では無い。驚いて起き上がり、逃げるように後ずさりした。
「怖がらなくてもいいよ、もう大丈夫だ。私が通りかからなければ君は池で溺れ死ぬところだった」
 そうだ思い出した。兄を見失って闇雲に駆け出した途端、足を滑らして池に落ちたのだった。そこまで思い出してやっと自分が裸なのに気がついた。
 その様子を見て男性は微笑み、やおら立ち上がると外へ出て行った。
 その隙に、僕は周りを見渡した。
そこは粗末な小屋で家具らしきものも無く、明かりさえも無かった。寝かされていたのは粗末な煎餅布団で所々綿がはみ出していた。
 暫くして男性が戻ってきた。手には僕の服を携えている。
「この天気だからな、もう大体乾いたよ。少し湿っているがその格好じゃ恥ずかしいだろ。 着なさい」
 そう言って微笑む。その笑顔を見て、悪い人じゃ無さそうだと幾分安堵した。
「幾分池の水を飲んだようだけど、すべて吐き出したから大丈夫。もう池に近寄っちゃ駄目だよ」
 黙って、こくんと頷いた。
「よし、そろそろ夕立が来るからおうちに帰ったほうがいい。家には一人で帰れそうかい、道のあるところまで送ってあげるよ」
 男性の問いかけにも僕は口を利けずただ黙っていた。
 男性は僕を伴って池の淵を歩き、柵の有る東側まで連れて行ってくれた。
「ここまで来ればあとは一人で帰れるね」
 やはり黙りこくって首だけ傾けると僕は後ろも振り返らずに一目散に駆け出した。
 原っぱを抜け漸く人家の立ち並ぶ町並みに差し掛かると、空が急に暗くなり大粒の雨が降り出した。家まではあと少し、何とかびしょ濡れにならずに家に着いた。
 兄はまだ帰っていなかった。母親も働きに出ていて誰もいない家で窓から土砂降りの雨をぼんやり見詰めていた。
 僕はその夜、熱を出した。熱にうなされながら奇妙な夢を見た。
             
 ボクはお兄ちゃんとはぐれ、林の中をあてもなく歩いてました。やっと林をぬける場所までたどりつき、かけだそうと思ったとたん足をすべらし池におちてしまいました。その池は地元の人たちが底なし沼と呼んでいるとてもおそろしい池です。今まで落ちて助かった人はいないのです。
ボクは泳げないので、ひっしでもがいても、体はずんずんと沈んでいきます。もうだめだ、誰か助けてと心の中で叫びました。覚えているのはそこまでです。
気がつくとボクはベッドに寝かされていました。とびおきたボクの目の前には神さまがいました。
「おや、気がついたかい?」
とてもやさしい声でボクに聞きます。そうだ、ボクは池に落ちたのでした。
「神さまがボクを助けてくれたん?」
神さまはゆっくりうなずくとこう言いました。
「そうですよ、私が助けなければ君は死ぬところでした。もう池に近づいてはいけませんよ」
神さまはやさしくボクに言うと植木ばちの花にジョウロで水をやりはじめました。
「今から雨を降らせます、早くおうちにお帰りなさい」
よく見ると植木ばちのおかれている床は 町の地図になっているではありませんか。
「私の力がおよぶのはこの地図のはんいなのです。ヤオヨロズといって神は八百万いるのです。日本には八百あまりの市があり、えらい神さまが見ておられます。私たちふつうの神はその下で、町や村をそれぞれ手分けして動かしているのです。そして、きょうはこのあたりに夕立をふらせる予定になっているのです。さあ、早くお帰りなさい」
神さまがそう言い終わらないうちに空がみるまに暗くなり、雨雲があたりいちめんをおおいはじめました。ボクはいそいで家に帰りました。
 
 翌日、すっかり元気を取り戻した僕は昨夜見た夢を童話にしようと思った。瓢箪池で溺れているところを助けてくれた男性が神様のように思えたのだ。
 事実とは異なるが、男性を神様とした話を書き始めた。
書いているうちに、男性に助けてもらったお礼も言わずに帰ってきたことを思い出した。そのことが今度は気になり始め、気がつくと僕は、男性のいる小屋に向かっていた。
 池で溺れたことは母には黙っていた。話すと叱られるに決まっている。ただ、命を助けてもらったおじさんに礼も言わず帰ってしまった事が気になっていた。
命を救ってくれたばかりか、夕立が来ると予想した不思議なおじさん。
 臆病な僕は、見知らぬ男性に会いに行こうとしている事自体、自分でも驚きだった。しかし、何故だかあの男性に惹かれるものを感じていた。
 池のそばの淵を注意しながら歩を進め、漸く僕は小屋へ辿り着いた。
「おや、昨日の子じゃないか。危ないからここへは二度と来ないように言っただろ」
 怒られると思って首をすくめたが、男性はそれ以上小言めいたことは言わなかった。
「僕、おじさんに助けてもろたのに、お礼も言わんと帰ってしもたから」
「それでわざわざ今日来てくれたのか。お礼を言われるほどの事じゃないよ。それより、お母さんは心配してなかったかい」
「ううん、お母さんは働いているから何も知れへん。昼間はおにいちゃんと二人きりやねん」
「そうか共働きなんだ」
 それを聞いて伸二は激しく首を振った。
「違う、うちはお父ちゃんおれへん。死んでしもた」
 男性はそれを聞いて顔を曇らせる。
「ごめん、悪いこと言っちゃったな」
「ううん、かめへんよ。お父ちゃんは二年前に突然病院で死んだんや」
「二年前」
「そうや、そのときは僕らK市に住んどったんや」
「君、名前は」
「河合伸二ってゆうんや」
 心なしか男性の顔が微かに歪んだように見えた。可哀想に思ったのか男性は僕を優しく抱きしめた。ふと父親の匂いを嗅いだような気がした。
 
 次の日も僕は男性に会いに池へと向かった。
だが、僕が目にしたのは、昨日の男性では無く、この辺りをねぐらにしている浮浪者だった。
 怖くてそっと踵を返そうとすると背後から浮浪者が声を掛けた。
「おい、坊主。逃げることはあれへん。一人でこんなとこへ何しに来たんや。気いつけんと瓢箪池に落ちんど」
「おととい、落ちてしもた」
 浮浪者が驚いて目を大きく見開くのがわかった。
「何やて、それはほんまか。よう助かったな」
「この小屋のおじさんに助けてもろたんや」
「おじさん。ははあ、それは赤ひげ先生のこっちゃな」
「赤ひげ?」
「そや、勿論あの先生に髭はあらへん。けど、ああいう貧乏人にも優しく診てくれる医者を赤ひげて言うんや」
「知ってるよ、山本周五郎の小説や」
「へえ、坊主よう知ってるやんけ」
「そやけどあの人は神様なんや」
「そやな、それはええ。あの人は神様や。儂も命を助けられた」
 その時だった、噂の本人が姿を見せた。
「やっぱり君か、さっき池の淵を歩く男の子を見かけたので、もしやと思ってきてみたんだ。危ないから近づいちゃいけないと言っただろ」
「赤ひげ先生が助けたそうやな、この坊主」
「おいおい、源さん。その赤ひげ先生は勘弁してくれよ」
「ううん、神様や」思いがけず僕の口から言葉が飛び出た。
「この坊主は、先生を神様やいいよる」
  神様が、そんな二人のやり取りを呆れながら眺める。
「ところで源さんはまた胃薬か。いい加減残飯あさりは止したほうがいいよ、この暑さじゃ余計腐りやすくなっているから」
 源と呼ばれた男が頭を掻きながら矛先を変えるように僕に話しかけてきた。
「面目ない。あのなあ、坊主。俺がきずし(しめさば)を食べて食中毒になって苦しんでるのを神様に助けてもろたんや」
「おっちゃん、そら危ないわ。きずしはあたると死んでしまうんやで」
「ほう、坊主。よう知ってるな」
「うん、山本周五郎の『季節のない街』で読んだんや。父親が食通ぶって子供に痛みかけのきずしを食べさせる話やねんけど、それがあたって子供が死んでしまう悲しい話や」
 二人のやり取りを聞いていた神様が驚いたように僕に聞いてきた。
「君は幼いのにもうそんな本を読んでいるのかい?」
「うん、童話は読み飽きて今は文学全集とかを読んでる」
「そうか、本が好きなんだね」
 そう言うと神様は浮浪者に向き直る。
「それより源さんどんな具合なんだ、胃が痛むのか。ちょっとそこに横になって」
 暫く触診を行った後、神様は薬を源さんに渡しながら言った。
「おそらく食中りだ。もういい加減懲りたらどうなんだ、源さん」
「へへ、そうだね。もう金輪際と言いたいとこやけど、仕事がないとおまんまも食い上げや。残飯漁らなしゃあない。そやけど儂には神様がついとるさかい……いや儂だけやないで、みんな神様が来てから安心して暮らしてんねんや。神様にはほんまごっつう感謝してますねん。なんせ儂ら日雇い労務者は健康保険にも入ってへんさかい」
 そういい残して源さんは小屋を出て行った。
 神様は一つため息をつき、僕に向き直る。
「さてと、君にはお礼をしてもらった。もうここへは来ちゃ駄目だよ。このあたりは危険だからね。君はいつも何をして遊んでいるんだい」
「たいてい家で本を読んでる。お父ちゃんは良く本を買うてくれたけど……いまは図書館で借りてくるねん」
 母親が働いているとはいえ一家の大黒柱を失ってからは、経済的に本を購入する余裕も無い。
「公園に行けば友達がいるんじゃないか。みんなはどこで遊んでいるのかな」
「僕はみんなとは一緒に遊ばれへんねん」
「ん、どうしてだい」
「僕は普通の子供とちゃうねん」
 その言葉に神様が眉を顰める。
「普通じゃない。何が」
「僕、心臓が悪いねん。おかしな音がするらしいんや」
「誰が言ったの」
「学校の校医さん。入学するときの検査で、そう言われた」
「そうか、おそらく校医さんは大事をとってそう言ったのだろう。でも成長と共に君の心臓は丈夫になっているようだ。その後大きな病院で看てもらったかい」
 僕は首を横に振った。
 神様は僕の顔を見つめその後ベッドに寝るように彼に言った。
 しばらく脈を取ったり聴診器を体のあちらこちらにあてて音を聞いたりしたあと心臓の辺りを更に念入りに聴診器をあてはじめた。随分長い間神様はそうしていた。そしてそれを終えた後もやや暫く考え込んでいた。
「大丈夫だ、君の体は何ともないと思う。今度設備の整ったK市の大きな病院で看てもらうよう、お母さんにお願いしてみなさい」
「え、本当。ほんじゃ友達と一緒に遊べるの、鬼ごっこや野球も出来るの」
「出来るとも、もう誰に気兼ねすることなく走り回っても大丈夫さ。でもそれにはお母さんを安心させてあげるためにも大きい病院で精密検査を受けたほうがいい。ただし私が診察したと言ってはいけないよ」
「うん。判った。お母ちゃんに話してみる」
 僕はその日の母の帰りを今か今かと待ち受けていた。そして母親がかえってくるなり話を切り出した。
「お母ちゃん、お願いがあるんや」伸二は母の手を取り、ぶらぶら振り回す。
「どうしたん、伸ちゃんのその仕草は、お父ちゃんに甘えたい時に出るんや。お母ちゃんよう覚えてるわ。本を買うてもらうときに、いつもそうしてたやろ。本が欲しいんか」
「ううん、違う。あのな、僕な……」
 おそるおそる話を切り出す。
「何やのん、変な子やなあ。早う言い」
「いっぺん大きい病院で検査したいんやけど」
 その言葉を聞いて、母の目が大きく見開かれた。
「やっとその気になったんか、よっしゃ行こ。お母ちゃんは前からそう思てたんや、そやけど伸ちゃんが検査を嫌がってたやろ。お母ちゃんな、伸ちゃんがそう言い出すの待ってたんやで」
 母親はそう言って僕を抱きしめた。
 
 次の週の朝早く、僕は母に連れられて前もって検査予約を済ましておいたK市立病院へと向かった。
今住んでいるH町からは私鉄で小一時間程度を要する。K市駅は大きなターミナルビルでデパートやレストランが入居している。行き交う人の混雑ぶりは以前と変わらず、僕は無性に懐かしさを覚えた。
そう二年前までは僕たち一家も市の住人だった。あの不幸な事件が起きるまでは……。その後、一家は近隣の町に引っ越したのだった。
 検査服に着替えさせられた僕は、レントゲン撮影に始まり、心電図などを次々と受けさせられた。すべての検査を終えたのは、三時近かった。
 検査のため、朝から飲まず喰わずだった僕は無性に空腹を覚えた。
「伸ちゃん、今日はえらかったな。お腹が空いたやろ、いっぱいお食べ」
 K市駅前の蕎麦屋で遅い昼食を取りながら、母の景子が言う。いつもより心なしか優しい口調だ。
「お母ちゃんはな、伸ちゃんは絶対なんとも無いて、ずっと前から思うてたんや。そやさかい結果が楽しみや。絶対なんとも無い。そしたらプールにも行けるで」
 そう言いながら、大きな口を開けていなり寿司を頬張る僕を見詰めた。
 
 検査結果は一週間後に出た。やはり僕の心臓には何の問題もなかった。
 医者の話によると一万人に一人の確率で僕のような心音異常の症例が見られる事。心身の成長とともに異音は小さくなっていくらしい事。聴診器だけに頼っていた昔と違い、現在では心電図で正確な動きが把握でき、誤診は飛躍的に改善されたという。ではやはり校医による誤診という事ではないか。
「いやいや、個人の開業医では仕方がないですよ、奥さん。もっと早く設備の整った病院で精密検査を受けていれば良かったのです」
 同業者を庇うかのような医師の説明を聞いて母は腹立たしかったようだ。
             
 次の日、神さまに会いに行くと、見知らぬおじさんがいました。おじさんはおなかが痛いのですが、貧しくてお医者さまにみてもらうお金がないのです。それで神さまになおしてもらいにやってきたのです。
神さまがおじさんのおなかに右手をあて、何か口の中でモゴモゴと念じました。おじさんのおなかがいっしゅん、 ぼうっと光ったようにみえました。
「おお、これはどうしたこっちゃ。おなかがぬくうなってきたぞ」
 おじさんがおどろいて声をあげます。
「はいこれでもうだいじょうぶ」
 神さまがおじさんにやさしく言いました。おじさんは神さまに礼を言うとよろこんで帰って行きました。
「君も病気をわずらっているのだね。どれ、なおしてあげよう。そこに横になってごらん」
 神さまは何でもおみとおしなのです。
 ボクの左むねに右手のてのひらをおき、神さまは何事かを口の中でつぶやきました。
「さあ、これで君の病気はなおったよ。もう走ってもどうきやいきぎれはしないよ」
 ボクはうれしくなってそこらじゅうを走り回りました。気のせいか思い切り走ってもつかれず、まるで羽根が生えたように体もかろやかです。
「神さま、ありがとう」
 ボクは何度も何度も神さまにお礼を言いました。
 やっぱり神さまはすごい力をお持ちなのです。またたく間にボクの病気を治してくださったのですから。
 
その日はプール開放日だった。僕は念願であったプールに生まれて初めて入った。
「良かったな伸ちゃん。これからは僕らとプールで遊べるんやろ。ほら、潜るで」
 勢いよく水中に潜る友達の守に続いて水中に潜る。途端に目や鼻、耳そして口にまで水が襲ってくる。その感覚に僕の脳裏に池に溺れた記憶が甦る。慌てて息を吸い込もうとして水を大量に飲みむせかえる。
 幸いプールは足が立つ深さだったので事なきを得たが、僕はあらためて水の怖さを知った。すぐにプールサイドにあがり二度とプールに入ろうと思わなかった。
 担任の教師が再三促して無理に入れても湯に浸かるようにしゃがむだけで、二度と顔を水に浸けようとはしなかった。友達がふざけて顔に水をかけると急いで両手で水滴を拭った。
 あんなにプールに入りたい、みんなと水遊びをしたいと思っていた気持ちが急速に萎え、僕はプールが嫌いになった。
 そんな様子を見て同級生はからかうようになった。
「なんや、お前。心臓治ってもそんなんやったら意味あれへんやろ。あかんたれやなあ」
「そやそや、伸二のあかんたれ」
それを耳にした担任の教師が近寄ってくる。寄ってたかってはやしたてるみんなを諫めるてくれるのかと思いきや、教師が発した言葉に僕は我が耳を疑った。
「そうやぞ、伸二。もうお前の体は何とも無いんや。いつまでも特別扱いしてもらえると思うたらあかんぞ」
「そんな事言うたって生まれて初めてプールに入るんやし、ついこの前溺れたから怖いんや」と声に出して言いたかったが、実際は口の中でもごもご言っただけだった。
「ほら、怖がらんと飛び込め」
 教師はそう言うと僕の背中をどんと押した。
 不意をつかれたまらずプールに真っ逆さまに落ちた。もがく僕の姿を見て、教師や同級生たちがゲラゲラ笑っていた。
 
「ふうん、そんな事があったのか」
 神様は今日の出来事をポツリポツリ話すのを辛抱強く聞いてくれた。
「そやからお願いです、明日雨を降らせて下さい」
「うーん、困ったな、私は何度も言ってるように神様なんかじゃ無いんだよ。それにプール開放は明日だけじゃないだろ? 明日も明後日も、毎日雨を降らせるつもりかい。じゃあこうしないか。君が泳げるようになる手助けは出来るよ」
「ほんまに。お願いします」
 神様は水を張った洗面器を持ってきた。
「ここに顔をつけてみなさい」
 嫌だったが神様が大丈夫と励ましてくれた。恐る恐る顔を洗面器に浸ける。
「目を閉じちゃ駄目だよ、大きく見開いて」
 水中で目を開ける。途端に水が襲ってきて伸二はたまらず顔を上げた。
「水を怖がっちゃだめだ。目だけでなく口もぎゅっとつむっていないで口の中に水を含んでご覧」
 神様が話している間も伸二は顔の水を拭う。拭いても次から次へと額から水滴が伝ってくる。
「顔も拭かなくて大丈夫。水と仲良しにならなくちゃ。さあ、もう一度」
 こうして、その日は夕方まで練習を繰り返した。
 
 次の日、神様と町営プールで待ち合わせをした。
 幸い、同級生たちは学校のプールに行っており、見知った顔には出くわさなかった。
「さあ、昨日練習したように潜ってご覧、私の足の親指に触れれば合格だ」
 僕はゆっくりと腰を落とし、顔を水中に入れる。そのまま大きく目を開けて、傍に立つ神様の右足の親指に触れ、直ぐに立ち上がる。
「ようし、出来たじゃないか。もう水は怖くないだろ。今度はビート板を持って体を浮かせてみよう。大丈夫、私がお腹を支えているから」
 神様はそう言うと、ビート板を持った僕を小脇に抱えるようにして水面に浮かせる。
「そのままバタ足をしてご覧」
 昨日やり方を教わったバタ足を実際に試してみる。体がゆっくりと前に進む。面白くなって息が苦しくなるまで夢中で足を動かした。
息をするため泳ぎを止め立ち上がる。神様がいない。周りを見渡す。五メートルほど後ろに神様が立っていた。こちらを見て、手を叩く。
「凄いじゃないか。支えていなくても君は一人で泳げた。これで自信がついただろう」
 こんなに簡単な事やったんか……努力すれば出来るのだ。いや違う、やっぱり神様のお陰なんや。僕はそう考えた。
 それから毎日、都合のつく限り神様は僕に泳ぎを教えてくれた。
 最初の一週間で息継ぎは出来ないが、バタ足で十メートルを泳げるようになっていた。
 基本を会得した僕の成長は早かった。息継ぎを覚えるのに三日間、次にビート板を持たずに平泳ぎを教わる。足の掻き方を注意され何とかマスターするのに一週間を要した。そして、今はクロールを教わっている。
「クロールは出来るだけ前の水を掴むつもりで手のひらを水に入れるんだ。そして入れたら真下に水を掻くんじゃなくて、手前に引き寄せ素早く体の脇に持っていく。息継ぎは顔を真上に上げなくとも口が半分以上水面に出ていれば大丈夫。常に口を開けて水を含んでいれば、息をしても水を飲む心配はないよ。さあ、今の事に注意してもう一度」
神様の的確なアドバイスと地道な努力で、泳ぎは見る間に上達していった。
 
 ボクは泳ぐことが出来ません。みんながばかにしたようにからかいます。ボクは悔しくて神さまに泳げるようにして下さいとおねがいをしました。
 神さまはちょっと小首をかしげて考えているようすでした。でもすぐに「わかった」とおっしゃって例のようにおまじないをとなえ始めました。
「よし、これで君は泳げるようになったよ。前の池でためしてごらん」
「え、あんなきたない池で」思わずボクはさけびました。
「池を見てごらん」
 外へ出て池を見わたしたボクは「アッ!」と声を上げてしまいました。
 何ということでしょう、いつものきたないひょうたん池では無く、底までみとおせるようなきれいな池が目の前に広がっているではありませんか。
 ボクはうれしくなって池に飛び込みました。おどろいたことにボクの体は水面に浮かび、すいすいとまるでミズスマシのように泳げるのでした。これも神さまのおかげです。
 
 うきうきして家に帰ると母が声を掛けてきた。
「伸ちゃん、毎日熱心にプールに通ってるんやね」
「うん、あのな、お母ちゃん。僕な、すごい泳げるようになったんやで」
「そうか、よかったな。そやけど伸ちゃん、あんた学校のプールやのうて町営プールに行ってるのんか?」
「え、なんで?」
「守君のお母さんが、町営プールであんたを見かけたって言うてはったよ。それにコーチみたいな男の人が――」
「コーチちゃうで、あの人は神様やねん。僕が神様に泳げるようにお願いしたんや」
「神様って……伸ちゃん、あんた何をアホなこと言うてんねん」
「そやかてほんまやもん。アホなこととちゃう」
 僕が尚も言い募るので母はもうそれ以上何も言わなかった。
 次の日、僕は初めてクロールで二十五メートルプールを泳ぎ切った。
「よく頑張った、伸二君。もう私が教えることは無いよ」
 そう神様が誉めてくれた。しかし僕はその言葉が気になった。もうこれで終わりってことなのだろうか?
「どうしたんだい、元気ないね」
「もう神様は会ってくれへんの」
「もう私がいなくても君は大丈夫。これから苦しいときやへこたれそうになったらこの練習で頑張ったことを思い出すんだ」
「いやや、神様これからも会うてくれんと、いやや。そんな事言うんやったら、その代わりにお父ちゃんを生き返らして。僕の最後のお願いや」
 思わずそんな言葉が口をついて出た。父さえ戻ってくるなら何もいらない。泳げなくってもいい、心臓が悪いままでもいい、そう思った。
「伸二君……」
「お父ちゃんを生き返らせてくれるんやったら、僕の心臓は悪いままでええから、そやからお願いや神様――」そう言い募る僕の顔を困惑して見詰める神様だった。
 
 結局、神様は僕に何も答えないまま練習を終えると帰ってしまった。
 僕が肩を落として家に帰るなり母が話しかけてきた。
「伸ちゃん、お母ちゃん大事な話があるねん。ちょっとこっちに来て」
 今は余り話をしたくない気分であったが仕方なく母の傍に寝そべった。
「どないしたん」
「あんたがプールで話しとった男の人は誰や」
「何や、お母ちゃん見とったんか」
 僕は嬉しくなって、飛び起きるとクロールで泳ぐ真似をし始めた。
「僕だいぶ泳げるようになったやろ」
 だが、そんな僕の様子を見ても母は喜ばない。どうしたのだろうか、僕が泳げるようになったと聞けば何をおいても大喜びをしてくれると思ったのに……そう思って母の顔を見る。いつも柔和な母の表情が強張っている。
「そんな事より男の人の話や」
「あの人が神様や、おかげで泳げるようになったんやで」
 神様の凄さを少しでも判ってもらおうと僕は一生懸命説明をし始めた。
「何が神様や、アホなこと言わんとき。伸二、あの男の顔を覚えてへんか。前にどっかで見覚えあるやろ」
 何を言い出すのかとキョトンとしてしまった。
「伏見クリニックの堀田という医者やがな」
「伏見クリニックいうたら あの……」
「そや、その病院におった堀田や。お父ちゃんを死なせてしもうた奴やないか。お父ちゃんの仇なんやで」
 冷静に話そうと思いつつも昂ぶる感情を抑えきれない母は最後には怒鳴っていた。
「嘘や、そんなん嘘や」
 なんてことを言い出すのだろう、母は気が狂ったとしか思えなかった。黙って神様に泳ぎを教えてもらったことが気に食わないのだろうか? それにしても大好きだった父を神様が死なせただなんて、母は何を言っているのか。そんな馬鹿なことを神様がするはずがないではないか。
「あの人は神様なんや。僕、神様にお父ちゃんを生き返らせてくれるよう頼んだんやで。お母ちゃんの嘘つき」
そう怒鳴って家を飛び出した。背後で母の声がするが、構わずに振り切って走りだした。
 
 泣きながら走る。一所懸命走る。ほら、こんなに走れるんや。神様がおらんかったら、
 僕はこんなに走られへんかった。
一気に瓢箪池まで走った。だが、行く手を阻むように金網の衝立が池の手前に張り巡らされていた。土砂を積んだダンプカーを警備員が誘導している。
その男の顔を見て僕は声を掛けた。
「源さん」
 警備のユニフォームを着た男性が振り返る。
「おっ、こないだ(この前)の坊主か。どや似合うやろ、おっちゃんもやっと職にありつけたんや」
 ヘルメットを被り、ユニフォーム姿の源さんは、たしかに先日とは見違えるようにりりしかった。
「源さん、ここ通して。神様に会いに行くんや」
「神様か……坊主、もう神様はおらん。一昨日から池の埋め立て工事が始まったんや。あの小屋ももう取り潰された。もともとあの小屋は儂のような宿無しやら日雇い人夫が、ねぐらにしとった場所や。神様が住んでたわけや無い。ほら、危ないからもういに(行け)」 
 そうか、この一週間は神様とはプールでしか会っていなかった。知らない間に埋め立て工事が始まっていたのだ。源さんに追い立てられるようにしてその場を後にするしかなかった。
 
 あくる日、母から厳命を受けた兄に連れられ、僕は学校のプールに連れて行かれた。
 いつの間にか泳げる僕を見て、友人たちは驚き、先生も満足そうに目を細めて見詰めていた。しかし、心は一向に晴れる事は無かった。
 夕方になって僕は、兄の眼を盗みこっそりと家を抜け出した。
 町営プールに行き、見学室から神様の姿を探す。六時の終了のチャイムが鳴り、プールから人影がなくなるまで、僕は神様を探し続けた。しかしとうとう神様を見つける事は出来なかった。
 神様、どこへ行ってしもたんや、神様がお父ちゃんを死なせたなんて嘘やろ。お父ちゃんは何も悪いことしとらん。そやのに何でバチが当たるねん。なあ神様、それだけでも教えて欲しい。そう心の中で叫んだ。
 こうなれば、もう一度小屋に行くしかない。プール以外に神様と会える場所はそこしか
思いつかない。僕はどうしても神様と会って話を聞きたかった。
 昨日同様、池には金網の衝立の周りにダンプカーが停まっていたが、今日は他にもパトカー数台と救急車が停められ、大勢の大人たちが行き来し騒然とした異様な雰囲気に包まれていた。
 大型のダンプカーの運転手と源さんが、手持ち無沙汰な様子で煙草を吸いながら、立ち話をしている。
「しかし、ほんまにえらい迷惑や。現場検証が終わるまで工事はストップやろ」
「儂が昼休み過ぎに発見したのや。そやからさっきまで警察にさんざん事情を聞かれたで」
 そんな内容の話が耳に聞こえてきた。
「何かあったん」
 源さんが振り返って僕を見下ろす。
「おや、坊主又来たんか。ここに来たらあかん言うたやろ。何遍ここに来たかて、もう神様には会われへん。今日は怖いお巡りさんが仰山おるさかいに、うろちょろしてると捕まんぞ」
 昨日同様に追い立てられるようにしてしぶしぶ池を後にした。
「源さん、あの子、赤ひげ先生になついてた子やろ。ええんか、ほんまの事言わんで」
 警備の同僚がうな垂れてトボトボと帰る後姿を見送りながら言う。
「そんなもん、どない言えばええんや。先生が水死体で見つかったって言うんか。あの子は先生をほんまに神様やと思うとったんやで。先生はあの子の心の中にずっと生きとる、それでええやないか。それでこそほんまもんの神様になったんや。死んだんは儂らが世話になっとった医者の先生や、普通の人間や」
「しっ、聞こえるぞ」
 慌てて同僚が源さんを注意したが、僕の耳にはしっかりと届いていた。でも僕はもう振り返らなかった。
 
 ある日、ボクはずっと心に持ち続けていた事を神さまにお願いしました。それは、お父ちゃんを生き返らせて欲しいというお願いです。
 何といっても神さまはおぼれたボクを助け、病気をなおし、おまけに泳げるようにしてくださったのです。
神さまならきっと、願いをかなえて下さる。そう思ってボクはひっしに神さまにお願いをしました。せっかく、神さまになおしてもらった体ですが、お父ちゃんさえ生きて返れるのなら、ボクの体は悪いままでもかまわない。そう思ったのです。
すると神さまは悲しそうな顔でこう言いました。
「神は人々にびょうどうにするのが決まり事なのです。しかし私は君にだけとくべつの力を使ってしまいました。そのことで偉い神さまに叱られました。私にはばつが下されます。もう君のねがいをかなえてあげることはできませんし、会うこともむりなのです」
「神さまもばつを受けるの? そんな……そんなんやったらボクはこの池でおぼれ死んだほうが良かったんか?」
 泣きさけぶボクを神さまは困ったような顔でやさしく抱きしめました。その目はさみしげに見えました。 
 
           第二章 河合景子
 私は夫、政重との間に二人の男の子をもうけました。
 当時、敗戦から驚異的なスピードで立ち直る我国は、池田内閣の所得倍増計画のもと公共事業を中心に景気が上昇しつつあったのです。
 夫が勤務する包装資材の会社も、ご多分に漏れず景気の追い風を受け年商を伸ばしていました。夫も異例の速さで昇給、昇格を果たし、小さいながらもマイホームを持てるまでになっていたのです。戦時の食糧不足や困窮した生活が嘘のような環境に幸せを感じていたものでした。
 平和で安全で、そしてささやかながらも愛する夫と二人の子供に囲まれ幸福感に浸っていました。でも、このまま幸せな生活が続けばよいが、そんなに世の中は甘くない、きっと何か良くないことが起きるのではないか、そんな不安な心情を夫に吐露していました。
「もう戦争は終わったんや、これからようやっと人間らしい生活ができんねや。これが普通の暮らしなんや」と夫は笑って答えたものでした。
ですが、やはり順風満帆とはいかなかったのです。それは、次男の伸二が小学校に入学したときに起きました。
 伸二が学校で受けた健康診断の結果、心臓弁膜症と判明したのです。伸二は生まれたときから虚弱体質でした。原因は、乳飲み子の頃に度々幽門痙攣を起こし乳を吐き、そのため必要な栄養が摂れず成長が遅れたのです。それからは毎年大きな病気に罹り、何度深夜に小児科の門を叩いたでしょう。それでも、そんなことは苦ではなかったし不幸だとも思いもしませんでした。逆に親としては、手のかかる子ほど可愛いく、その子が小学生にまで成長したことに喜びを感じていたのです。だからその診断を聞いたときにはショックでした。これまで大小に関わらず様々な病気に罹いましたが、何れも治療を受け治癒していました。しかし、心臓弁膜症となると話は別です。校医であるお医者様の話によると心臓はポンプであり、体内に血液を循環させるときに逆流しないために弁がある。その弁が巧く機能していないらしい。治すには弁を人工弁に取り替える大手術を行うしかない、しかし子供では体力的に無理があるというのです。
成人して手術が可能となるまでは心臓に負担を掛けず、激しい運動は厳禁だと宣告されました。当然走ることも駄目だというのです。
 そんな馬鹿な…・・・伸二は基本的には大人しい子ではありますが、それでも駆けっこはするし、兄弟で暴れたりもしているのです。心臓が悪いなど、到底信じられない。そう校医に訴えると「だったら念のため大きな病院で心電図検査を受けたらどうか」と言われました。
 当時は心電図の機械はそれほど普及していなくて、県立病院や市立病院に行かなければ検査が受けられなかったのです。
 私は伸二に検査を受けようと再三説得しましたが、伸二は行くことを拒みました。
「僕な、外で遊ぶより家で本読んでるほうが好きやから別にかまへん」そう言うのでした。
 夫は読書家で子供達のためにこれまでにも世界童話全集を購入していました。月一回の配本で伸二はその本が届くのを心待ちにしていたものです。伸二も夫の血を受け継いだようで、小学校に上がる前には全巻を読破していました。そんな伸二に夫は次に少年少女世界名作全集を買い与えました。
「いくら何でも伸二には早すぎるでしょ」と私は夫に言ったものです。小学校に上がる前に読み書きが出来たのは本のお陰ですが、童話ならまだしもその本の対象年齢は高学年なのですから。
 ですが、伸二はそれらも貪るように読んだのです。「十五少年漂流記」「ああ無情」「小公女」「クオレ」「ハムレット」「名犬ラッシー」「宝島」「ロビンフッド」「三銃士」等々。
 この子はみんなと野球が出来なくても、鬼ごっこが出来なくても本があれば幸せなのだわ、そう思った私はもう心電図検査のことは口にしなくなりました。
 それから二年が経過しました。会社の秋の定期健康診断で今度は夫の浩介が引っ掛かってしまいました。血尿が出ているため再検査を受けることとなったのです。結果は膀胱癌。
 幸い発見が早いため入院することなく通院治療で治癒できると先生は仰いました。会社が所属する健康保険団体からの紹介する伏見クリニックという病院に通うこととなりました。
「ご主人の場合は、表在性膀胱癌といって膀胱の粘膜に留まっていますので、他への移転や浸潤の恐れはありません。手術で患部の切除を行いますが、内視鏡を使用した経尿道的膀胱腫瘍切除術(TUR-Bt)ですから、開腹する必要もありませんので、比較的早く退院出来ます。但し、再発の恐れがありますので、退院後も暫く通院をしてもらうことになります」
 私の心情を慮るように医師が穏やかに判りやすく説明してくれました。その誠実な印象から、堀田というこの医者に全幅の信頼を寄せても良いと思ったのです。
 後々聞いたところによると、堀田医師は以前大学病院に勤務、将来を嘱望されていましたが、先輩である伏見誠一の娘、由美子との交際がきっかけで、当医院「伏見クリニック」に招聘されたと聞きました。彼の腕を高く評価する誠一は、将来入り婿として堀田医師を跡継ぎにと考えているらしいのです。
手術も無事終え、今後の再発防止のため週一回患部にBCGを投入、これを八回繰り返すと説明を受けました。最初聞いたときに私は少なからず驚きました。BCGといえば結核菌であること位は、貧弱な医療知識しか持ち合わせていない私にだって判ります。子供の頃ツベルクリン反応で陰性と判定され、あの痛いBCGを注射された思い出が甦ります。あのBCGを膀胱に注入すると聞いただけで寒気がしました。
 最初のBCG注入を終えて家に帰って来た夫が「カテーテルを通すのに麻酔をすんねんけど、それでも途中で痛い箇所が有るんや。それと済んだ後が変な具合で、シッコするときに空気が抜けるような何とも気色悪い感じがするんや」そうぼやくのでした。それでも癌を広がらせないために渋々ながらも夫は通い続けたのです。
 二回目、三回目と終え、四回目のときでした。その日も副作用の苦しみを愚痴る主人の背中を押して、病院に送り出したのですが、帰りが遅いのです。いつもならもうとっくに病院から帰ってきているはずなのに、どうしたのだろう? 洗濯物を取り込みながら私は嫌な予感に襲われました。そろそろ夕飯の支度も始めなければと思いつつも、一向に帰ってくる気配の無い夫のことが気に掛かり何も手につかないでいました。
 突然電話のベルが鳴り響きました。心臓が飛び出しそうなほど驚いたと同時に不吉な予感が当たらないことを祈って、大きく深呼吸をして受話器を取り上げました。
 名乗る間ももどかしそうに相手が喋っています。伏見クリニックからでした。主人が突然意識不明に陥ったというのです。
 すぐさま学校に連絡して息子たちを早退させると、取るものもとりあえず病院に急行しました。
 ベッドに横たわり人工呼吸器を付けられた主人の姿が目に飛び込んできました。目は閉じられ時折大きく全身を痙攣させています。
「あなた、しっかりして」すがりつくようにして叫ぶ私の声に反応がありません。
「お父ちゃん、起きて」子供たちも口々に呼びかけました。
 断続的に痙攣が起きるようです。数分後、小康状態になったのを見計らって、堀田医師が私を廊下に連れ出しました。
「ご主人は投与前の尿の排泄を終えた後、いつものように治療を受けられました。その後少しソファーで休まれていたそうです。突然気分が悪いと言われたかと思うと、ソファーから崩れ落ちるように床に突っ伏したそうです。急を聞いた私が駆けつけた時には既に意識がありませんでした」
 堀田医師の説明を受けていると看護士が廊下に顔を出しました。
「先生」
 急いで病室に入る堀田医師の後に私も続く。今までに無い激しい痙攣が起こっている。
「お父ちゃん、死んでしまう」伸二が私にすがりついてきました。
 慌しく処置を行う医師と看護士。それでも痙攣は益々激しくなっています。私はなすすべも無く、夫の手を握り締めるのみでした。
 突如、痙攣が治まり全ての動きが止まりました。まるでぜんまいの切れた人形のように。
 主人の脈を取った堀田医師が腕時計を見ました。
「二十三時六分、ご臨終です」
 伸二が声を上げて泣きじゃくります。兄の栄一は泣くまいと、唇を噛み堪えていました。
 頬を涙が伝います。悲しみと共に困惑、不条理、猛烈な怒り、様々な感情がこみあげてきました。
「どうして……先生、主人は元気に家を出ましたんや。なんでこんな事に」
「それが私たちにも判らないのです。これまでにも行っている通常の治療ですから。一体ご主人の身に何が起こったのか」
 困惑した様子で説明を行う堀田医師の端正な顔をぼんやりと眺めるだけで、話の内容はまるで遠くから聞こえてくるように思えました。
 
 その後、原因究明のために是非解剖させて欲しいと切望する堀田医師。私は迷った挙句承諾しました。
 夫の体が切り刻まれるなんてとんでもない。最初はそう思ったのです。しかし元気に病院に行った夫が、その数時間後にあっけなく亡くなったことがどうしても納得出来なかったのです。原因が判らない限り、夫の死を受け入れることなんて出来ない、そう思ったのです。
しかしその反面、それは自分が納得したいだけで、夫はそのために解剖されるのです。果たして夫はそんなことを望んでいるのだろうかとも考えました。
 でも各局私は胸のうちの葛藤と闘い、悩んだ末にやはり解剖することを選んだのでした。
 だが、願いも空しく、結局原因は判明しなかったのです。
「主人は元気に出かけたんです。それが何で死にましたん。一体原因は何です。先生はそのため解剖しはったんですやろ。何で判らしませんの」
 私は毎日のように病院に押しかけては、執拗に食い下がって堀田医師を追及しました。彼は目を逸らしうなだれるだけでした。
 そこに院長の伏見誠一がやってきて堀田のかわりに私を宥め始めたのです。
 まだまだ医師にも判らない症例が数多く存在する事。ご主人の死因は今後も引き続き調査する事。それを解明する事が、今後の同症例に活かす事が出来る事云々。そして遠回しにこれ以上病院で騒がれるのは迷惑だと付け加えるのを忘れなかったのです。
 夫の勤務する会社や健康保険組合にも訴えました。ですが、会社も組合も事務的に見舞金を出すだけで親身に相談には乗ってくれなかったのです。
 その時はっきりと悟りました。解剖は別の大きな病院で行うべきだったと。しかし悔やんでみても既に後の祭りでしだ。伸二の心臓の一件も有り、それ以降私は開業医を信用しなくなったのです。
 
 夫の死後、一家の生活は一変しました。社宅を出て行かざるを得なくなり、私は嫌な思い出を断ち切る意味もあって、家賃の安いこのH町に引っ越してきたのです。夫の保険金は問題なく支払われたのですが、これは子供達の将来の教育資金として手をつけるわけには行きません。
 家計を支えるために私はパートで働き口を探しました。
 丁度その当時、スーパーマーケットと呼ぶ新しい業態が誕生した頃でした。商品の値段が安く爆発的に人気を集めていました。H町でも新規スーパーが出店し、品出しやレジ係を大量募集していたのです。私はパートタイマーではなく社員として働かしてもらえないかと願い出ました。ですが、スーパーマーケットというのはお客様にセルフサービスで品物を選んでもらい、レジまで足を運んでもらう。精算後も自分で商品を袋に入れて持ち帰ってもらう。従って従業員は商品を補充することとレジ打ちだけとし、極力人件費を抑え、その分を商品の値引きに還元しているのだと店長から説明を受けました。だから正社員は必要ないというのです。但し、半年働きぶりを見させてもらったうえで店長判断で社員昇格のチャンスがあるといわれました。
 私は必死に働きました。当時はPOS(Point of sale system)レジなどは未だ無い時代で、レジには大雑把な分類コードと値段を入力するだけでした。それでも大挙して詰め掛ける客を捌ききれず、キャッシャーはてんてこ舞いでした。
 閉店してからも私は社員の手伝いを志願して当日売り上げた商品のチェックを行いました。今ならレジの入力情報が売上、品目、客数、客単価など詳細に分析され、本部のホストコンピューターに吸い上げられるのでしょうが、当時のレジでは点数、売上のほかは自分たちで入力した大雑把な分類でしか内容が判らなかったのです。大雑把な分類と言いましたが、その内訳は日配、デリカ(惣菜)、生鮮野菜、乾物、鮮魚、精肉、酒類、飲料、菓子といった具合です。日配と一口に言っても売れたものの中には牛乳もあれば豆腐もある、漬物や納豆かも判らない。それらを閉店時の残った在庫から逆算するのです。
 なにしろ専門店ではない、此処に来れば何でも揃うというのが謳い文句であり、その品揃えの豊富さは尋常では無いのです。それを一品一品調べ、明日からの品揃えに欠品が出ないようにするのであるから大変な労力を伴います。確かに店長が説明したように接客はしないし、セルフサービスではあるものの人件費が大きく浮いているとは思えません。でも確かに売り上げは相当なもので、私が想像していた金額とは一桁違っていて大いに驚いたものでした。
 パートタイマーとは名ばかりで、私は朝から夜まで身を粉にして働きました。
 すべては、二人の子供たちを元気に逞しく育て上げたい、愛する者を亡くす悲しみは一度で充分だ、少々勉強が出来なくとも元気でいてさえくれれば良いとの一念からでした。
それだけに伸二が自分から精密検査を受けたいと言った時は大層嬉しかったものです。
 それは伸二が小学三年の夏でした。あんなに検査を嫌がっていた子が、自分から検査を受けると言い出したのです。どういった心境の変化か有ったのか判るはずも無い、けれどもうそれだけで私は嬉しかったのです。
「お母ちゃん、お願いがあるんや」伸二が私の手を取り、ぶらぶら振り回します。
「どうしたん、伸ちゃんのその仕草は、お父ちゃんに甘えたい時に出るんや。お母ちゃんよう覚えてるわ。本を買うてもらうときに、いつもそうしてたやろ。本が欲しいんか」
 主人が死んでから伸二は決して甘えませんでした。子供心にも我儘を言ってはいけないと、欲しいものを我慢していたのでしょう。読みたい本も学校の図書館で借りて来るようになっていたのです。健気な気持ちに涙がこぼれそうになりました。
「ううん、違う。あのな、僕な……」
おそるおそる話を切り出す伸二でした。
「何やのん、変な子やなあ。早う言い」
「いっぺん大きい病院で検査したいんやけど」
その言葉を聞いて、私は目を大きく見開いてしまいました。
「やっとその気になったんか、よっしゃ行こ。お母ちゃんは前からそう思てたんや、そやけど伸ちゃんが検査を嫌がってたやろ。お母ちゃんな、伸ちゃんがそう言い出すの待ってたんやで」
 そう言って私は伸二を抱きしめました。
 次の週の朝早く、伸二と前もって検査予約を済ましておいたK市立病院へと向かいました。
 今住んでいるH町からは私鉄で小一時間程度を要します。K市駅は大きなターミナルビルでデパートやレストランが入居しています。行き交う人の混雑ぶりは以前と変わらず、伸二も無性に懐かしさを覚えているようでした。そう二年前までは私たち一家も市の住人だったのです。あの不幸な事件が起きるまでは……。その後、一家は近隣の町に引っ越したのです。
 検査服に着替えさせられた伸二は、レントゲン撮影に始まり、心電図やエコー検査など
を次々と受けさせられました。すべての検査を終えたのは、三時近かったと覚えています。
 検査のため、朝から飲まず喰わずだった伸二は空腹を訴えてきます。
「伸ちゃん、今日はえらかったな。お腹が空いたやろ、いっぱいお食べ」
 K市駅前の蕎麦屋で遅い昼食を取りながら、私は伸二を褒めました。いつもより心なしか優しい口調になっているのが自分でもわかります。
「お母ちゃんはな、伸ちゃんは絶対なんとも無いて、ずっと前から思うてたんや。そやさかい結果が楽しみや。絶対なんとも無い。そしたらプールにも行けるで」
 そう言いながら、大きな口を開けていなり寿司を頬張る伸二を見詰めました。
この子は一体どうしたのでしょう。あんなに嫌がっていた心臓の精密検査を受けると自分から言い出した。気弱で引っ込み思案な子だとばかり思っていましたが、少し成長したのかしら。それとも、心臓が悪いから友達とも遊べず、家で大人しく本を読んだり、自作の童話や絵を描いているのを見て、私が勝手にそういう性格だと思いこんでいただけなのかしら。そうであれば、検査結果次第では、活発な男の子になってくれるかも……。
 そう、絶対にこの子は何でもない。でなければこの世に神も仏も無い。どうしてうちの家族ばかりが、不幸に見舞われなければならないのでしょう。
 検査結果は一週間後に出ました。やはり伸二の心臓には何の問題もなかったのです。
 医者の話によると一万人に一人の確率で伸二のような心音異常の症例が見られる事。心身の成長とともに異音は小さくなっていくらしい事。聴診器に頼っていた昔と違い、現在では新しい機器の開発で、誤診は飛躍的に改善されたといいます。ではやはり校医による誤診という事ではないのでしょうか。
「いやいや、個人の開業医では仕方がないですよ、奥さん。もっと早く設備の整った病院で精密検査を受けていれば良かったのです」
 同業者を庇うかのような医師の説明を聞いて私は無性に腹立たしさを覚えました。
 勿論科学の発達は目覚ましいものがあり、それによる医学の進歩もあるだろうし、それでも尚解明できない病も存在するであろう事は理解出来ます。しかし、夫と子供、二人もが医療や診断ミスに見舞われた私は運が悪いでは済まされない。そう思うとやるせなくなるのでした。伸二の場合は、心臓に異常が無い事がはっきりしました。でも、夫の場合は本当の処どうだったのでしょうか。
 今でもはっきり覚えています、詰問したときの目を逸らした堀田医師の申し訳なさそうな、困惑したような表情を。
 あれは絶対何事かを隠している、そう私は信じて疑わなかったのです。
 
 いつものようにスーパーで働く私の元に近所の奥さんが買い物に現れました。伸二と同級生の守君の母親です。
「今晩は、奥さん。伸ちゃんの体、なんでものうて良かったねえ」
「おおきに、ほんまに一安心ですわ」
「今日も元気に町営プールで泳いでたわ。熱心にコーチの人のいうこと聞いて。うちの子と違うて伸ちゃんは頑張り屋さんやなあ」
「そんなこと……守君はしっかりしてはるし、何をやらせても一番やないですか」
 にこやかに受け答えをしながら、私の頭の中には疑問が渦巻いていました。
 町営プールに行ったなんて初耳です。ここのところ毎日プールに出かけているのは、物干しに水着が干してあるので知ってはいましたが、学校のプールだとばかり思っていました。町営プールは有料です。毎日通えるほど小遣いを渡していません。
 それにコーチが教えているとはどういう事でしょう。
 あの子は一体私に何を隠しているのかしら。戻ったら伸二を問い詰めなければ、そう思いました。
 
 伸二が家に帰るなり、私は、はやる心を抑え、さりげなく声を掛けた。
「伸ちゃん、毎日熱心にプールに通ってるんやね」
「うん、あのな、お母ちゃん。僕な、すごい泳げるようになったんやで」
「そうか、よかったな。そやけど伸ちゃん、あんた学校のプールやのうて町営プールに行ってるのんか?」
「え、なんで?」
「守君のお母さんが、町営プールであんたを見かけたって言うてはったよ。それにコーチみたいな男の人が――」
「コーチちゃうで、あの人は神様やねん。僕が神様に泳げるようにお願いしたんや」
「神様って……伸ちゃん、あんた何をアホなこと言うてんねん」
 しかし伸二があまりにも真剣に話すので、私はそれ以上問いつめることができませんでした。
まあいいわ、明日仕事を早退して町営プールへこっそり様子を見に行けばいい。そう考えたのです。
 翌日、私は無理を言って仕事を早退させてもらい町営プールを訪れました。建物の二
階に見学室が設えており全面ガラス貼りの窓からプールが一望の下に見渡せます。私はその最前列のシートに腰を落ち着けると我が子の姿を目で追いました。
 こちら側に顔を向けている子供たちのなかにはそれらしき人物はいません。プールで泳ぐ子供たちは頭からせいぜい肩までしか見えないため、後ろ姿で見分ける事は思った以上に困難でした。
 窓に顔をくっつけるようにして足下である、手前側のプールサイドを見下ろしました。
 いました、男性と何か話しています。あの男性がコーチ、否、伸二が神様だと言い張る人物なのでしょうか。目を凝らして、その男を凝視し続けました。伸二が何事かを話し、その男性が困ったようにふと天を見上げました。
 はっきりと男性の顔を確認した私は思わず「あっ」と声を上げました。
 隣で見学していた主婦が何事かとこちらを見ます。
 動揺を抑え、心を落ち着けようと努力しました。あの男、決して忘れはしないあの顔。あいつは神様なんかじゃない、騙されるんじゃない伸二。その男こそお前の父親の命を奪った悪魔だ。
しかし、一体あの男は何を企んでるのでしょう。夫のみならず子供にまで……いや、危害を加えるつもりはないようです。子供をてなずけようとしているのでしょうか。
伸二が男に必死で何かを訴えています。相手の手を持ちぶらぶら振っているのを見て、更に私はショックを受けました。
 伸二が父親に甘える時にする例の仕草ではありませんか。あの男は、それほどまでに伸二の心を掴んでいるというのでしょうか。一体いつの間に。
 夫を亡くした私には子供たちが唯一の宝であり、生きがいなのです。その可愛い子供が、こともあろうにあの男に甘えているのです。
 わが子を盗られたような気持ちが、激しい怒りとなって頭に血が上りました。今すぐプールに乗り込み、子供を連れて帰ろう。一瞬そう思って立ち上がったものの、再び坐りなおしました。
 どうも様子が変なのです。男が機嫌をとっているのではなく、伸二のほうが懐いているように見えます。冷静になって伸二から詳しく話を聞いてみよう、そう思いなおしました。
 私はのろのろと立ち上がると、もう一度プールを覗き込みました。男が伸二を抱きしめています。
「伸二のアホ」思わず私は呟いていました。
 二人の親密さを目の当たりにして、胸に渦巻く複雑な感情を抑えきれないのでした。
 
「ただいま」
 伸二が帰ってきました。
「伸ちゃん、お母ちゃん大事な話があるねん。ちょっとこっちに来て」
「どないしたん」怪訝そうに伸二が傍にきて畳にねそべります。
「あんたがプールで話しとった男の人は誰や」
「何や、お母ちゃん見とったんか。僕だいぶ泳げるようになったやろ」
 伸二は飛び起きてクロールで泳ぐ真似をし始めました。
「そんな事より男の人の話や」
「あの人が神様や、おかげで泳げるようになったんやで」
「何が神様や、アホなこと言わんとき。伸二、あの男の顔を覚えてへんのか。前にどっかで見覚えあるやろ」
 何を言い出すのかとキョトンとする伸二。
「伏見クリニックの堀田という医者やがな」
「伏見クリニックいうたら あの……」
「そや、その堀田や。お父ちゃんを死なせてしもうた憎い奴やないか。お父ちゃんの仇なんやで、それがなんで神様やねん」
 冷静に話そうと思いつつ、高ぶる感情を抑えきれず最後は怒鳴っていました。
「嘘や、そんなん嘘や。あの人は神様なんや。僕、神様にお父ちゃんを生き返らせてくれるよう頼んだんやで。お母ちゃんの嘘つき」
 そう怒鳴って伸二は家を飛び出していきました。 
             
 私の下に、一通の手紙が届いたのは、それから二日後の午後のことでした。
 宛先を記した几帳面な文字を一瞥し、はて、誰からの手紙であろうかと私は封筒を裏返し差出人を確認しました。そこには住所は書かれておらず名前のみが記されていました、堀田武雄と。
 急いで開封し立ったまま手紙に目を通しました。最後まで読み終え、再び今度はじっくりと一語一語をかみ締めるように読み直しました。
 やがて虚脱したかのように便箋を掴んだ手をだらりと下げ、私はその場にうずくまってしまいました。
 この男は馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。今更そんなことをして何になるというのでしょう……。こんな事で罪を償えると本当に思っているのでしょうか。哀れみを施せばそれで済むものではない。そのような発想自体が理解できないと思いました。結局独りよがりの自己満足でしかない。だから伸二に父親を生き返らせろなどと無茶な要求をされてどうしようもなくなったのではないのでしょうか。
 さまざまな思いが頭を過ぎます。ふと気がつくと夕方になろうとしていました。手紙を破り捨てようと両手で持ち直しましたが急に気が変わり、便箋をもとのように折りたたみ封筒に戻しました。
 手紙が来たことは当分自分だけの秘密にしておこう。そう考えて私は手紙を自分の箪笥の奥底に隠したのでした。
 
            第三章 堀田浩介
 私はJ大学医学部卒業しインターンを経て医師免許を取得(現在はインターン制度は廃止)、そのままJ大病院の外科の医者を務めていた。世間では医者は高収入だと羨ましがられるが、それは個人経営の民間診療所の場合、もしくは大学病院でも教授、助教授(現在は準教授)辺りの地位に登った者に限られる。薄給だし、その上長時間労働を強いられ、決して楽な職場環境ではない。
 私は現在将来を約束している女性がいる。その女性、由美子の父親は伏見誠一といって私と同じ大学病院の内科の医師であったが大学を退職し個人でクリニックを開いていた。東京オリンピックを翌年に控え好景気に沸く当時の日本は、医療分野でも民間の診療所がぞくぞくと開業していた。
 ある日、伏見から連絡があり折り入って相談があるという。酒でも飲みながら話したいというのであった。
 約束の場所である割烹料理屋に出向くと伏見が既に到着し手酌で杯を傾けていた。
「遅くなり、申し訳ありません」
 私が詫びると伏見はにこやかに頷き私に杯を持たせると日本酒を注いだ。
「まあ、とりあえず乾杯しよう」
 軽く杯をあわせ飲み干す。
「どうだ、大学病院も医師が足りなくて大変だろ?」
「ええ、仰るとおり最近は患者が増えて国立病院や大学病院だけではとても回りません。大企業も独自に病院を開設しているようですがそれでも焼け石に水です」
「そうだろうな。良いか、浩介君。これからの日本は医療も重要なビジネスになる。数年前のベビーブームで人口は爆発的に増加した。更に戦争が終わったお陰で戦死者がなくなる分、平均寿命も延びる。長寿王国となるのだよ。小児科や内科だけじゃない、歯科や眼科、外科、どの科も不足し患者が殺到するだろう。何故なら食糧事情の改善と共に生活習慣病が増加する。車も増え、モータリゼーションの発達と共に交通事故も増加する。これからは個人診療が絶対に流行る」
 伏見が私の杯に日本酒を注ぎながら話す。
「君もいつまでも給料が安く労働環境の良くない大学病院でくすぶっていないで、私の処に来ないか? 私は親バカかも判らないが由美子には苦労させたくないのだよ。医者も人間だ、理想だけでは食っていけないし家庭も築けない。君が私の右腕となってクリニックを盛り立ててくれればこんな安心なことは無い。ゆくゆくは私の跡を次いでもらう心積もりもしている。どうだ、じっくりと考えて見てはくれんか?」
 会食が終わり別れ際に伏見が念を押すように言った。
「今夜の話を真剣に考えてくれ。君にとっても良い話だと思うぞ」そういい残して伏見はタクシーに乗り込んだ。
 私は考えた。大学病院でこのまま勤めていても先が見えない。教授はおろか助教授予備軍も上がつかえている状態であり、そんな現状を見限った同期は次々と大学を去っている。
当然残された医師に更なる負担が圧し掛かり、悪循環に陥っていた。そんな現状をみるにつけ、去っていく同期に腹を立てていたものだ。だが大学病院だけが病院では無い。野に下って民間診療所で活動することも悪いことではない、そう考えた。
「良い話じゃないですか、先輩が羨ましいですよ。俺にもそんな話が舞い込まないかなあ」
 後輩の坂下がそう言って羨ましそうな顔をした。
 私が大学病院に辞表を提出すると噂はあっという間に広がった。おそらく坂下は教授から知らされたのだろう。私は心の中で舌打ちした。彼だけには知られたくなかったからだ。
 坂下は仲間内での評判が良くない。医師としての技量は高いのだが、態度に表裏があるのだ。目上の者にこびへつらい目下の者には満足な指導もせず威張り散らす。教授の腰巾着と不名誉な綽名を付けられていた。
 思ったとおり坂下は、それ以降何かというと私を妬み当てこすりを吐き続けたものだ。
 
 結局、私は伏見の思い通り大学病院を辞め伏見クリニックに勤めることに決めた。クリニックでは私を暖かく迎えいれてくれた。看護婦たちは私を若先生と呼んだ。
 クリニックに勤務して一年ほど経過した頃、一人の患者が当クリニックに来院した。
 勤務先の健康診断で小水からの潜血が判明したというのだ。その保険組合から当クリニックを紹介され精密検査を受けにやってきたのであった。
 検査の結果、初期の膀胱癌であることが判明した。結果を聞きに来院した河合という患者には妻も付き添っていた。心配で一緒についてきたのだろう。癌と聞かされて大いにショックを受けた様子であったが、私が初期であること、又入院して手術するという訳でなく通院治療で済むと説明をしてやっと安堵した様子であった。
ただ治療の具体的な説明として、ペニスの先端からカテーテルを通しBCG溶液を挿入すると話すと、再び不安な表情を浮かべた。
「BCGって……結核ワクチンですよね? そんなものを体内に入れて大丈夫なんですか?」
「ご安心下さい。投入するのはBCGをそのままという訳ではなく、生理食塩水で薄めた溶液です。初期の膀胱癌には現状この治療がもっとも有効です。尤も絶対に完治するとは言い切れません。過去の症例では八割程度の完治率です。残りの二割の患者さんは病巣の摘出手術を受けられています」
 そう説明して漸く納得してもらった。但し、治療を受ける本人にとっては結構辛い体験となる。まず看護婦に恥ずかしい姿を晒さなければならないし、カテーテルを挿入する際潤滑と痛み緩和のためにキシロカインゼリーを塗布するが、それでもカテーテルが前立腺を通過するときには多少の抵抗があり痛みを伴うのだ。そして薬剤を投入後、二時間程度は排尿を我慢してもらう。第一回目だけは半日入院をしてもらい措置後の経過を見させてもらった。特段の問題も無く無事終了した。
 本人も口には出さないものの最初不安そうな表情を見せていたが、投薬を済ませ二時間後に排尿を済ませると安堵したような表情を浮かべていた。
「小便をするときちょっと不思議な感覚がしますなあ。ポンッテ空気が抜けるようなけったいな感じがしましたわ」そう笑って言っていた。
 それは四度目の治療のことであった。その日,BCGを水溶液にする準備をしていたとき、急患が救急車で運び込まれた。交通事故で足を怪我しているという。バイクに乗っていて車と接触事故を起こしたらしい。怪我の程度はそれほどでもないのだが、裂傷の範囲が広く縫合手術の必要があった。外科は私しかいないため、河合さんの処理は病院長と看護婦に任せ、私は急患の手術をするために席を外した。
 縫合手術を終え、河合さんの様子を窺うため診察室に向かった。だがそこには誰もいなかった。既に河合さんは帰られたのかなと思ったとき、真っ青な顔をして看護婦が入ってきた。
「あ、若先生こちらでしたか。大変です、河合さんが……」
 ただならぬ切迫した看護婦の様子に私は嫌な予感を覚えた。
「河合さんがどうかしたのか?」
「治療を終えた途端に気分が悪いって仰って、そのままソファに蹲るように倒れられたんです」
「何だって……それで河合さんは今どこにいる?」
「院長が救急処置室に運ばれて――」
 私は看護婦の言葉を最後まで聞かずに部屋を飛び出した。慌てて看護婦もついてくる。
 救急処置室に入ると、伏見病院長と看護婦が何やら言い争っていた。
「私は院長がお作りになったとばかり思って……」
「だから儂はやっとらん。加納君、君が水溶液を作るはずだったんじゃ無いのかね」
 そんな事を言い争っている。ベッドに寝かされた河合さんは酸素マスクをつけ点滴を受けているが、まぶたは閉じられ激しく痙攣を起こしていた。
「一体どうしたんです? まさかBCGをそのまま注入したとでも言うんですか?」
 私の言葉に二人が沈黙する。
「まさか……」
「浩介君、治療は何の問題も無く終えた。だが、河合さんが体調異変を起こしてしまったんだ。我々は出来るだけの処置を行っている。だが昏睡状態に陥っており痙攣も治まらない。ご家族の方を呼んだほうが良いかもしれん」
「ですが……」
「いいか、我々はいつもどおりの治療を行ったんだ。何の問題も無い。こうなったのは患者の体調が悪かったとしか言いようが無いんだ。ご家族にもそう説明したまえ」
 そういい残すと院長は処置室を出て行った。
「加納さん、本当のことを教えてください」
 激しく問い詰めるが、看護婦は俯いたまま何も答えない。
「判りました、先ほどの様子で大体の事情は察してます。お二方はどちらも水溶液を作ってはいないのですね? しかし相手が作ったものだと思い込んでしまった、そういうことですね」
 途端に加納看護婦が肩を震わせ泣き出す。
「院長先生は酷い。私は院長にお願いしたんです。院長も頷いてらっしゃったくせに、今になって私に責任を押し付けるなんて……」涙ながらにそう訴える。
 困ったことになった、これは明らかに治療ミスだ。だが院長の先ほどの言葉は、それを隠蔽しようと言外に匂わせていた。今更問い詰めたところでそんな事実は無いと突っぱねるだろう。クリニックを開設以来、評判もよく患者も増えている。ミスをしたことが公になればこのクリニックは終わりだ。患者が意識を回復できれば良いのだが、その可能性は薄い。点滴で体液を薄めても、既に結核菌は体内を冒し始めている。何もしないよりはましという程度であろうか。これ以上手の打ちようが無いのも事実であった。
 暫くして河合さんのご家族が病院にやってきた。奥さんと幼い二人の息子たち。
 激しく痙攣するご主人の様子を驚きの眼差しで注視する。
「あなた、しっかりして」すがりつくようにして叫ぶ奥さん。
「お父ちゃん、起きて」子供たちも口々に呼びかける。
「先生、主人はどないしたんです? なんでこんな状態に……」
 私は奥さんを廊下に連れ出した。
「ご主人は投与前の尿の排泄を終えた後、いつものように治療を受けられました。その後少しソファーで休まれていたそうです。突然気分が悪いと言われたかと思うと、ソファーから崩れ落ちるように床に突っ伏したそうです。急を聞いた私が駆けつけた時には既に意識がありませんでした」
奥さんに説明を行っていると看護婦が廊下に顔を出した。
「先生」
 急いで病室に入る。今までに無い激しい痙攣が起こっている。
「お父ちゃん、死んでしまう」息子さんが泣き出す。
 慌しく処置を行うが、それでも痙攣は益々激しくなっている。
と、突如痙攣が収まり全ての動きが止まる。まるでぜんまいの切れた人形のように。
 私は患者の脈を取り腕時計を見る。
「二十三時六分、ご臨終です」
「どうして……先生、主人は元気に家を出ましたんや。なんでこんな事に」
「それが私たちにも判らないのです。これまでにも行っている通常の治療ですから。一体ご主人の身に何が起こったのか」私は嘘を吐いた。嘘を吐いてしまった。更に私は言葉を続けた。
「それで、大変言いにくいお願いなんですが……原因究明のためにご主人を解剖させては頂けないでしょうか? 何故こんな事態に陥ってしまったのか。奥様もこのままでは納得頂けないでしょ」
「そりゃそうです。なんで主人がこんな目に遭わないかんのです? そやけど解剖やなんて、体を切り刻むんですのやろ? そこまでして原因は判りますのんか」
「勿論解剖後は再び縫合して、ご遺体は綺麗な体でお渡しいたします」
 暫く躊躇していた夫人であったが、決心をしたようだ。
「そんならお願いします。そやけど原因が判ったら、ちゃんと報告してもらえますか」
 返事を聞いて私はやっと安堵した。
「勿論、ご報告させて頂きます」力強くそう答えた。
 だが実際には解剖など行わなかった。いや、行えなかった。
 私は即座に院長室へ向かい解剖したい旨を話した。
「君は正気か? 解剖すれば治療ミスであることが明白だ。そんな証拠を残すわけにはいかん。君の気持ちは判るし、考えも正しい。しかし、そんなことが明白になればこのクリニックはおしまいだ。以前にも言ったが、私は将来の日本の高齢化に備えて多くの老人たちを救いたいという大きな理想を持っている。こんなことでその計画を台無しには出来ん。いいか、これは大事の前の小事だ。な、判ってくれるだろ?」
 こんなこと? 大事の前の小事? 患者を医療ミスで死なせた、そんな大きな責任問題をそれで済まそうというのだろうか。
「浩介君、このとおりだ」院長が私に土下座をして懇願するのであった。
 おろおろしながら額を床に擦り付けんばかりにして懇願する院長の、そんな無様な姿が直視できず私は目を逸らした。
「そんなことは出来ません。院長の意に背くようで申し訳ないのですが私は大学病院に解剖を依頼するつもりです」
 その言葉を聞いた途端、それまでおろおろとして困り果てたような表情を見せていた院長の表情が一変した。
「君がそこまで言うなら勝手にすれば良い。しかしあの患者は君の担当だ。医療ミスとなればその責任は君が問われるんだぞ。私が治療した証拠は無い。ミスをした加納君とその管理指導を怠った君の責任だ。当クリニックとしてはそんな人物を在籍させておくわけにはいかん。君は此処におれなくなるし由美子との婚約も解消だぞ。それを承知で言っているのか? 良く考えろ」
 そう吐き捨てるように言うと院長は背を向けてしまった。
 
 院長室を辞して廊下を歩きながら私は憤懣やるかたない気分であった。
院長は汚い、総ての責任を私になすりつけようというのだ。だが、冷静に考えてみれば院長の言うとおりである。私が初診から河合さんを担当しているのは事実である。事情を知らない第三者からみれば処置をミスした加納看護婦と共に私の責任だと判断するだろう。
冗談じゃない、こんなことなら急患の診察などするのじゃなかった。だが、悔やんでも遅い。どうするか……。迷う必要など無かった。
 しかし私は既に遺族に対し嘘を吐いてしまっている。そう思うと、今更院長の反対を押し切ってまで解剖を決断する勇気や熱意が湧いてこなかった。もうこのまま流れに身を委ねたほうが楽だ。ぼんやりとそんなことを思った。
 婚約者である由美子は「貴方の思うようにすればいいわ。私はそんなことで貴方を嫌いにはならない」といってくれた。
 決断を下せないまま数日が過ぎた。
 そうこうするうちに、河合政重の葬儀が行われた。不謹慎であるが私は正直安堵した。これで終わる、そう思った。しかし、現実はそんなに甘くは無かった。
 河合夫人である景子が毎日のように病院に押しかけてきたのである。
「主人は元気に出かけたんです。それが何で死にましたん。一体原因は何です。先生はそのため解剖しはったんですやろ。何で判らしませんの」
 執拗に食い下がって私を攻め立てた。私は返す言葉も無く、ただ目を逸らしうなだれるだけであった。
 そこに院長の伏見誠一がやってきて景子夫人を宥め始めた。
 まだまだ医師にも判らない症例が数多く存在する事。ご主人の死因は今後も引き続き調査する事。それを解明する事が、今後の同症例に活かす事が出来る事云々。そして遠回しにこれ以上病院で騒がれるのは迷惑だと付け加えるのを忘れなかった。
 不承不承引き上げる夫人の後姿を見やりながら院長が私に言うのだった。
「浩介君、気持ちはわかるが君ももう少しうまく立ち回る術を身に付けたほうが良い。あの夫人は明らかに度を越している。これ以上騒ぐと営業妨害だといって追い返せば良いんだ。君のようにおどおどしていると変に勘ぐられる。堂々としていなさい」
 そう言う院長。先日のおろおろとして土下座までしたあの姿はどこにも無かった。遺体が灰になって証拠が消滅したとたん院長の態度は大きく様変わりした。私は自分たちの落ち度を反省もしないで、河合夫人を悪し様に言う院長の豹変した態度に面食らうと同時に不信感を抱いた。
 院長は自分たちのミスで死に追いやった患者のことなど何とも感じてはいないのだろうか? これまでの治療は効果も出てきており、あと一回の治療で終わるはずであった。そしてその後半年経過しても癌が再発しなければ治癒の見込みもあったのだ。そんな患者の生命を奪ってしまったというのに何の反省も罪悪感もない。
やはり解剖を行って子音を明らかにすべきであった。そしてその事実を正直に婦人に言うべきであったのではないかと悔やんだ。
 それ以降、私は今までのように多くの住民の命を救うために頑張るという意欲と情熱が薄らいでいった。いや、そうではない。意欲も情熱も有るのだが此処のクリニックにいる限り院長の金儲けの片棒を担いでいるといった思いが純粋な医療行為を妨げるのであった。
 結局私はクリニックを辞することにした。勿論由美子との婚約は破談となった。そればかりか大学病院に戻ることも出来なくなった。伏見が裏から手を回したのは明白であった。わたしにとっては当然予測していたことではあった。というのも私が退職を申し出たとき伏見は慰留もせず「好きにするがいい」と吐き捨てるように言った。そして続けてこうも言った。「それは医者をも辞めることになるぞ」
 そう言い終って私の顔を見詰めて薄く笑ったのであった。
 伏見がどんな手を使ったのか知らないが、何れにしろ私はもう医者を続ける意思は無かった。
 私が気がかりだったのは一家の大黒柱を失った河合一家のことであった。そのため一家が引っ越したH町に私も移住することにした。その町で働きながら陰ながら一家を見守ろう、そう考えたのだ。幸いマンション管理人の仕事にありつけたのは幸運であった。
 休みの日の度に河合家を見つけるため、町中を歩き回るのが習慣となった。しかし中々見つけられずにいた。
そんなある日、管理人の仕事の一つである朝のゴミ出しを行っているときに背後から声を掛けられた。
「そのダンボール、貰ってもいいかね」
 振り替えると薄汚れた服を纏った男が佇んでいた。顔に見覚えがあった。自宅からマンションまでの通勤途中に通る公園でよく見かける男性であった。公園の奥にある池の傍の掘立て小屋で寝起きしている浮浪者だ。
「別に捨てるものだから持って行ってもいいですよ」
「そうかい、じゃ遠慮なく」そう言って男は機嫌よくダンボールを担いで去っていった。
 それが源サンとの出会いであった。
 それからもちょくちょく源さんはダンボールを貰いに来るのであった。
 ある日、仕事が終わりいつものように公園を突っ切って帰り道を歩いていたときであった。草むらの中から呻くような声が聞こえる。気になって草むらを掻き分け覗き込むと男が一人倒れてもがき苦しんでいるではないか。
「どうしました?」無視して通り過ぎも出来ず、声をかける。
 男が顔を上げた。
「源さんじゃないですか、どうしたんです?」私は慌てて源さんを抱き起こした。
 源さんは喘ぎながらも途切れ途切れに話をする。どうやら残飯のしめ鯖を食べ、食あたりを起こしたらしい。
 既に嘔吐と下痢を幾度か繰り返し脱水症状を起こしていた。悪い菌は既に体外に排出され重篤な症状には陥っていなかった。
 私は直ぐに源さんを掘っ立て小屋へと運び入れ、急いで自宅から必要なものを携え取って返した。点滴用具やブドウ糖など簡単な医療用具を持っていたことが役に立った。
 点滴のお陰で夜明け前には源さんの症状も良くなり起きれるようになった。
「あんたのお陰で助かった。まるで医者みたいに手際よかったぜ」
「以前は医者だった」
 源さんが目を見開いて大げさに驚いてみせる。
「こりゃあ驚きだ。それがどうしてマンションの管理人なんかやってんだい?」
 今度は探るような目つきで見詰めてきた。
「それより空腹じゃないですか?」話題を逸らす。
「そういや、腹の中のもん全部吐いちまったからなあ」
「お粥を用意しておきましたからゆっくりと食べてください。それともう残飯は漁らないほうがいいですよ。特にこれからの季節は痛むのが早いですから。じゃあ、これで」
 それだけ言って小屋を出る。
「おい、ちょっと待ってくれ。礼もまだ言ってなかった。ありがとうよ、それに……こんな俺に食事まで用意してくれて……なんて言っていいか。本当に助かったよ。あんた、神様だ」
 その声を聞きながら私は職場へと急いだ。
この出来事をきっかけに、掘っ立て小屋は浮浪者のための診療所と化した。私は源さんやその仲間たちから赤ひげ先生と呼ばれるようになった。
 そんなある日、私は休みを利用していつものように町中を探索していた。だがやはり河合家を見つけることは出来なかった。真夏の強烈な日差しを浴びて少し気分が悪くなった私は諦めて帰宅しようと池のそばを通りかかった。その時、池で溺れかけている少年を発見した。すぐに助け出して水を吐かせ人工呼吸を施した。ずぶ濡れになった服を脱がせると小屋の粗末なベッドに寝かせた。
 程なく気がついた少年に乾かしておいた服を着せ、池の周りで遊ばないよう注意を与えるとその子は逃げるように帰っていった。
 翌日仕事帰りに公園を突っ切ろうと池の傍を通りかかると昨日の少年が私を待ち受けていた、
「おや、昨日の子じゃないか。危ないからここへは二度と来ないように言っただろ」
 怒られると思ったのか、少年は首をすくめた。
「僕、おじさんに助けてもろたのにお礼も言わんと帰ってしもたから」と恐る恐る言う。
「それでわざわざ今日来てくれたのか。お礼を言われるほどの事じゃないよ。それより、お母さんは心配してなかったかい」
「ううん、お母さんは働いているから何も知れへん。昼間はおにいちゃんと二人きりやねん」
「そうか共働きなんだ」
 私が言うと少年は激しく首を振った。
「違う、うちはお父ちゃんおれへん。死んでしもた」
「ごめん、悪いこと言っちゃったな」
「ううん、かめへんよ。お父ちゃんは二年前に突然病院で死んだんや」
「二年前」
「そうや、そのときは僕らK市に住んどったんや」
「君、名前は」
「河合伸二ってゆうんや」
 何という偶然なのだろうか。目の前の子供が捜し求めていた河合家の子供だったのだ。私は思わず少年を抱きしめていた。
 
 次の日も少年はやってきた。私がその場所を通りかかった時、少年と源さんが仲良く話しているところであった。
「やっぱり君か、この場所は危ないから近づいちゃいけないと言っただろ」
 私がそう言うと源さんが庇うように口を差し挟んできた。
「赤ひげ先生が助けたそうやな、この坊主」
「おいおい、源さん。その赤ひげ先生は勘弁してくれよ」
「ううん、神様や」少年が突然叫ぶ。
「この坊主、先生を神様やて、いいよる」
 私は複雑な気持ちでそれを聞いた。神様どころではない、私はこの子の父親を死なせたのだ。こうして偶然出会えたことこそ、罪を償わせる機会を与ようとする神様のお導きかもしれない。
胃の調子が悪いと訴える源さんに薬を与えて返すと、私は少年に向き直る。
「さてと、君にはお礼をしてもらった。もうここへは来ちゃ駄目だよ。このあたりは危険だからね。君はいつも何をして遊んでいるんだい」
「たいてい家で本を読んでる。お父ちゃんは良く本を買うてくれたけど……いまは図書館で借りてくるねん」
 母親が働いているとはいえ一家の大黒柱を失ってからは、経済的に本を購入する余裕も無いのだろう……私は胸が疼いた。
「公園に行けば友達がいるんじゃないか。みんなはどこで遊んでいるのかな」
「僕はみんなとは一緒に遊ばれへんねん」
「ん、どうしてだい」
「僕は普通の子供とちゃうねん」
「普通じゃない。何が」
「僕、心臓が悪いねん。おかしな音がするらしいんや」
「誰が言ったの」
「学校の校医さん。入学するときの検査で、そう言われた」
「そうか、その後大きな病院で看てもらったかい」
 少年は首を横に振った。
 私は少年にベッドに寝るように言った。
 脈を取り聴診器をあてて心音を聞く。さらに心臓の辺りを更に念入りに聴診器をあてた。
 確かに微かながら異音が認められるが、心臓の活動自体は規則正しくて力強い鼓動を伝えてきている。幼少期に虚弱体質であっても成長と共に内臓も鍛えられ強くなっていく。
この少年の場合もそうに違いない。心電図で検査すればたちどころに明確になるはずだ。
「おそらく校医さんは大事をとってそう言ったのだろう。でも成長と共に君の心臓は丈夫になっているようだ。大丈夫だ、君の体は何ともないと思う。今度設備の整ったK市の大きな病院で看てもらうよう、お母さんにお願いしてみなさい」
「え、本当。ほんじゃ友達と一緒に遊べるの、鬼ごっこや野球も出来るの」
「出来るとも、もう誰に気兼ねすることなく走り回っても大丈夫さ。でもそれにはお母さんを安心させてあげるためにも大きい病院で精密検査を受けたほうがいい。ただし私が診察したと言ってはいけないよ」
「うん。判った。お母ちゃんに話してみる」そういうと少年は喜び勇んで駆けていった。
 
 やはり少年の体は何ともなかったようだ。あれから大学病院で心電図の検査を受けた結果を喜んで報告しに来た。彼にとってはプールに入って友達と遊ぶことが出来ることが一番の喜びだったようだ。
 だが、その喜びも長くは続かなかった。あんなに心待ちにしていたプールだったのに水に入った途端怖くなったという。顔を水面につけるだけでぎゅっと目を瞑って体に力が入るそうなのだ。原因は恐らく池で溺れた記憶が蘇ったためだろう。そのため同級生に馬鹿にされるのだと肩を落として伸二少年が語った。
「ふうん、そんな事があったのか」
「そやからお願いです、明日雨を降らせて下さい」
「うーん、困ったな、私は何度も言ってるように神様なんかじゃ無いんだよ。それにプール開放は明日だけじゃないだろ? 明日も明後日も、毎日雨を降らせるつもりかい。じゃあこうしないか。君が泳げるようになる手助けは出来るよ」
「ほんまに。お願いします」
 私は水を張った洗面器を持ってきた。
「ここに顔をつけてみなさい」
 恐る恐る少年は顔を洗面器に浸ける。
「目を閉じちゃ駄目だよ、大きく見開いて」
 言われたとおり水中で目をあけたようだが慌てて顔を上げる。
「水を怖がっちゃだめだ。目だけでなく口もぎゅっとつむっていないで口の中に水を含んでご覧」
 話している間も少年は顔の水を拭う。拭いても次から次へと額から水滴が伝ってくる。
「顔も拭かなくて大丈夫。水と仲良しにならなくちゃ。さあ、もう一度」
 こうして、その日は夕方まで練習を繰り返した。
 彼が帰ってから私は或る決心をした。彼ら一家のために何かをしたいと常々考えていた私は、彼に泳ぎを教えることを思いついたのである。
水への恐怖心を取除きみんなと一緒に泳げるように手助けをする。きっと父親が生きていればそうしたであろうと私は考えた。それが父親を失くした彼にできるせめてもの償いであるように私には思えたのである。
 次の休みから市民プールで私と少年との水泳教室が始まった。
 最初怖がっていた伸二君であったが、私は根気良く彼に付き合った。最初は水の中で目を開ける練習。次に水中で口の中に水を含む練習。これが出来ると体の余計な力みが抜けるのである。それから体を支えてのバタ足。
 もうその頃には既に彼の水への恐怖心は無くなっていた。
 夏休みが終わる頃にはクロールを正しいフォームで泳げるようになっていた。
私は彼にクロールで二十五メートルプールを泳いでみるように提案した。
彼は自信がなさそうにしていたが、それでも勇気を奮ってそれに挑戦した。
私は彼の進路を妨害する人がいないように先導する形で様子を見続けた。
プールの半分ほど進んだところで水を飲んだのか少年の息継ぎが乱れる。此処までかと思ったが彼はそれでも泳ぎ続ける。あと五メートルのラインにまで辿り着いた。
「あと五メートルだ、頑張れ」私は思わず叫んでいた。
 とうとう伸二君の手がプールの縁に届いた。
「よく頑張った、伸二君。もう私が教えることは無いよ」
そう私が誉めても伸二は余り嬉しそうな表情を浮かべず、何か浮かない様子だ。
「どうしたんだい、元気ないね」
「もう神様は会ってくれへんの」
「もう私がいなくても君は大丈夫。これから苦しいときやへこたれそうになったらこの練習で頑張ったことを思い出すんだ」
「いやや、神様これからも会うてくれんと、いやや。そんな事言うんやったら、その代わりにお父ちゃんを生き返らして。僕の最後のお願いや」
「伸二君……」
「お父ちゃんを生き返らせてくれるんやったら、僕の心臓は悪いままでええから、そやからお願いや神様――」
 そう哀願する少年の顔を見詰めながら私には返す言葉がなかった。
 
 私は自分の浅はかさがつくづく嫌になった。彼の父親代わりになろうなんてお笑い種だ。そんなことで埋め合わせが出来ると考えるほうが馬鹿だった。
 あの子の父親を医療ミスで死なせてしまった。幾ら償おうとしても償いきれるものではない。悩んだ末に考え付いたのは、あの子の父親代わりになることだと思った。あの子は心臓が悪いと診断されたがゆえに、激しい運動を控え家にこもる子供になっている。もっと自分の体に自信を持たせ、明るく元気に育って欲しい。それは彼の母親だけでなく亡くなった父親の願いでもあったはずだ。それに手を貸すことなら私にも出来る。それが唯一私に出来る償いなのではないだろうか。そう考え彼の水泳のコーチをかってでた。
 あの子は私のことを神様のように思い、私のお陰で泳げるようになったと思い込んでいる。だが実際は自分自身の努力があればこそだし、それが今後の自信になるだろう。だからもう私は役目を果たしたと勝手に思い込んでいた。
 だが、そんなことで許されると考えた私が甘かった。神様なら父親を生き返らせてくれと懇願された。結局、彼には一生許されないのだ。私はその十字架を背負って生き続けなければならない。彼の父親は今でも彼の心の中に生きている。彼にとって私は父親代わりではなく、全知全能の神様なのだ。だからこそ父親を生き返らせてくれと哀願するのだ。
 私は痛切に己の無力さを思い知らされた。と、共に彼にとって、否、河合家の家族全員にとって父親がかけがえの無い存在であることを、そんな父親を死なせてしまった己の責任の重大さを痛感するのだった。そんなことは判っていたはずだった、だがそうじゃない。頭では理解していたつもりでもやはりそれは他人事だった。同情、慈悲、正義感。自分が感じていたものはそれとは比較にならない程薄っぺらなものだったのだ。
 結局私は彼等に対して何の力にもなってやれないのだ。私の命と引き換えに父親が生き返るなら悪魔に魂を捧げてもいいとさえ思う。だがこれは現実なのだ。現実問題としてどうするのが一番ベストな選択なのだろうか。私は悩み続けた。そして無性に由美子に会いたくなった。婚約破棄となったものの彼女は私が迎えに行くのを待っている。
「新しい土地で落ち着いたら私を呼んで。そのときは父が幾ら反対しても駆け落ちを覚悟で家を出るわ」そう約してくれていたのだ。彼女に話を聞いてもらいたい、そう思った。
 気がつくと私は電車に乗りK市に降り立っていた。自然と伏見クリニックの方角へと足を向けた。クリニックの見える街角まで近付くと私は物影から様子を窺った。午後の診療時間を待つ患者が数人外で並んでいる。私が告発を断念したため今でも評判を落とすことなく賑わっているようだ。
 ふと看板を見て私は驚愕した。私が去った後も診療科目に内科と並んで外科と表示されていた。しかも担当医として副医院長坂下修とあるではないか。私はフラフラとクリニックに近付いていった。診療を待ちながらお喋りをしていた子供連れの主婦たちに尋ねてみる。
「ここは今でも外科を扱っているのですか?」
 突然声を掛けられた主婦は、訝しげな態度を取りながらも答えてくれた。
「ええ、前にいらした先生はどちらかに移られたみたいですけど直ぐに若い先生がいらして」
 そこまで言ったとき横にいた中年の主婦が口を挟んだ。
「ここの娘さんが婿をお取りになったのよ。外科はその娘婿の坂下先生がおやりになってんのよ」
 お喋り好きな女性のようでこちらが聞きもしないことをベラベラ話しだすので、隣の子連れ主婦が遮るように言った。
「あの……それが何か?」
「いえ、有難う御座いました」私はそう言葉を返すのが精一杯であった。
 どこをどう歩いたのかも判らぬまま私は電車に乗っていた。
 まさか由美子だけは私を理解してくれていると思っていたのに、あろうことか坂下と……。あの男のことだ、うまく伏見に取り入って私の後釜を狙ったに違いない。だが父親に背いて駆け落ちしても良いと言っていた由美子だったのに……何故? 判りきったことだ、私を見限った。愛想を尽かしたのだ。そう、それだけのことなのだ。
 私はもう総てがどうでも良くなってきた。生きる気力を失ってしまったといってもいい。天職だと思っていた医師の道を閉ざされ、被害者家族の力にもなれない。その上、唯一の理解者だと思っていた女性に裏切られた。これから何を目標に生きていけば良いのか。いや、それよりこんな自分が生きていく価値は有るのだろうか。
 夜も眠れず考え続けた。そして漸く私なりの結論を見出した。決してベストな案ではないが、もう私にはこれしか残された道は無いように思えた。
 私は、早速行動に移すことにした。
 
          第四章 堀田浩介の手紙
 前略、突然このような手紙を送りつけるご無礼、平にご容赦をお願い申し上げます。
 今更何の用件だとお怒りになるのはご尤もですが、この手紙を破棄される事無く、最後までお読み頂けますよう切にお願い申し上げます。
私は二年前のあの一件以来、伏見クリニックを退職し医療の世界からもきっぱりと身を引きました。ですが、どうしても主を突然失われた河合様のご一家が気になり、K市を離れH町に移り住まれた際に、私も後を追ってやってきたのです。
 マンションの管理員という職を得、このまま陰ながらご一家を見守り続けようと思っていた矢先、私は偶然にも伸二君と出会ってしまいました。
 私の仕事は夕刻から朝までの勤務で、一眠りした後、瓢箪池の周辺を散策することを日課としておりました。ある日、池の近くの現在使用されてない管理小屋で、一人の浮浪者が食中毒に苦しんでいるのを発見しました。医療の世界から身を引いたとは言え、医者としてこのまま見過ごすことは出来ませんでした。話を聞くと腐ったしめ鯖を食したというのです。鯖による食中毒は時として死に至ることもあります。当然健康保険もないと言うので、救急車を呼ばず私が手当てを行いました。私の適切な処置のお陰か浮浪者は無事元気を取り戻しました。
それからは、浮浪者仲間や日雇い労務者の間で私の噂が広がり、あの小屋が診療所代わりとしてみんながやってくるようになりました。
 その日も小屋に向かうと、瓢箪池で子供が溺れているのに出くわしました。私はすぐに少年を池から助けだし、飲んだ水を吐かせ、人工呼吸を施しました。暫くして気がついた少年から名前を聞いて驚きました。何という皮肉な巡り会わせだろう。と同時に私には神が与えた贖罪のように思えました。
 二年前のあの日、私は急患の緊急対応に手が放せませんでした。ご主人にはいつもの処置を行うだけなので、病院長である伏見先生にお任せし、実際の処置はベテランの看護士に行ってもらいました。
 私が急患の処置を終え戻って来たときにはBCGの投与を終えたご主人が既に意識不明の状態に陥ってました。直ぐに院長と看護士に確認を取りましたが要領を得ません。処置記録にもBCGの水溶液としるされていました。が、私は嫌な予感に襲われました。
 もしかして、水溶液を誰が作ったのか問いつめました。結果は誰も作ってはいなかったのです。院長は看護士が行うものと考え、看護士は既に院長が作ったものと思いこんでいました。ご主人の体内にはBCG菌の原液が注入されたのです。
 その時にはもう処置の施しようがありませんでした。私は直ぐにご家族を呼ぶとともに病院側のミスを正直に打ち明けるべきだと主張しました。
 しかし、院長のみならず病院のスタッフ全員が猛反対したのです。院長は私に土下座までして秘密にしてくれと懇願するのです。勿論私といえども当クリニックの後継者として将来を約束されておりましたので、それを棒に振りたくないという気持ちが有ったのは否めません。それを見透かした院長に泣きつかれたのです。いや、他人のせいにしたくはありません。私自身が弱かったのです。
 そこから先はご承知のとおりです。私が解剖の許可を頂けるようお願いしたのも、奥様のご推察どおり証拠隠滅を画策したからです。
 私はそれ以来自分の犯した罪の重さに恐れおののく毎日でした。院長は早く忘れろと言いますが、私は奥様やお子さんの悲嘆にくれた姿を忘れようにも目に焼き付いて離れません。私は程なくクリニックを辞めました。
 伸二君との出会いは、ただ遠くで見守るのではなく、積極的に贖罪の行動を取るよう神が与えた試練なのだと捉えました。伸二君の心臓に関してもこれまでに似た症例が有り、精密検査を受けるようアドバイスを行いました。
結果何事もなく、それを伸二君は私が奇跡を起こしたものと思いこんだようです。
 毎日プールに一緒に出掛け、泳ぎを教えました。そうした伸二君と共有する時間を持つ事で私は徐々に精神が穏やかになるのを感じました。
 勿論こんな事で許されるとは考えておりません。しかし遠くからただ見守るよりは、勇気を出して伸二君との距離を縮められた事に私は次第に満足し始めていました。父親の代理は務まらなくても、せめて私に出来る事があるのなら微力ながら今後とも彼の力になろう。それこそ神が私に課した贖罪だと考えたのです。
 しかし、そのような考えが全く甘かったのだと早晩思い知らされました。
 伸二君が父親を生き返らせてくれと私に頼んできたのです。彼にとって私は奇跡を起こす神の存在だったのです。
 彼は父親が生きて戻るのであれば自分の心臓は悪いままで良い、あのまま瓢箪池で溺れ死んでも構わないとさえ訴えてきました。
 私は、伸二君の幼い心の中に未だ父親が生き続けているのだと思い知りました。そしてそんな大事な父親を奪った私たちは永遠に許されない罪を背負って生きていかねばならないのだという事を。
 私はご主人の解剖を行った際の本当の解剖所見やその他のデータをクリニックからこっそりと持ち出し大事に保管をしております。
 知り合いの木村という弁護士に全てを打ち明け、その一切の証拠物件を委ねました。後日河合様のお宅に連絡が入る手はずになっております。もし河合様に真実を白日の下に晒したいとのお考えがございましたら、木村弁護士が全ての裁判手続きを行うよう依頼してあります。その費用として私の全財産を預託してあります。
 但し、裁判沙汰を好まないとお考えでしたら、その旨を木村弁護士に申し出て頂きますようお願いいたします。その際には失礼とは存じますが、預託金を二人のお子様の奨学金としてお役立て頂けるよう取り計らう所存です。
 今後、伸二君があの時溺死すれば良かったと思わぬよう、元気に成長される事を心から祈っております。
                                             草々
  
           エピローグ
 私がこの手紙の存在を知ったのはつい昨年の事である。
 母も父同様、癌に身体を蝕まれ昨年の秋に他界した。死期が間近に迫っているのを悟ったのか、病床の母が兄と私に打ち明けたのだった。
 母は私たち兄弟に謝った、二十年間も堀田浩介からの手紙を隠していたことを。
そして自分の一存で訴訟に葉持ち込まずに預託金を受け取り、私たち兄弟の養育費に使
ったことを。
 本当はそんな金は受け取りたくは無かった。そんな男の金など突っ返してやりたかった。
でも幼子二人を抱えた母子家庭ではそれが無ければ生活が成り立たなかったのも事実
であった。
 そのように無念さを涙ながらに話すのだった。
 何故もっと早く医療ミスだと打ち明けてくれなかったのだろうか。裁判だの訴訟だの、そんなことを望んでいたのではない。ただ、死の原因を知りたかった、唯それだけなのに。
 大事な夫の体を切り刻んででも真実を知りたいと願う家族の気持ちを少しも理解してやしない。
 この男は勝手だ。贖罪といいながら伸二に父親を生き返らせろと頼まれ、どうしようもなくなり、挙句に池でおぼれて死んでしまった。何て勝手で卑怯な男なんだろうと。
 話を聞き終えた兄は、何もかも忘れたほうが良いと手紙を破り捨てようとしたが、私が慌てて止めた。
 勿論、私も母の判断に異存は無かったし、いまさら騒ぎたてようと考えたわけでもない。
 だが、私には堀田浩介が自分勝手で卑怯な男だとはどうしても思えないのだ。あのまま何事も無かったようにクリニックに勤務しておれば将来も安泰であったろうし、幸せな結婚もできたのである。それなのに職を辞し、社会的な名誉も地位も、婚約者さえ捨てて、二年間我々一家を遠くから見守り続けたのだ。しかし、何も出来ない自分自身が情けなく、腹立たしくもあり、相当悩み苦しんだのであろう。
 そんな折、偶然とはいえ私の命を救う事になった。彼がいなければ私はあの時、確実に瓢箪池で溺死していた。そして泳ぎを教えることで、気弱で引っ込み思案だった私に、自信と勇気を与えたくれた。もう充分に贖罪は果たしたのではないか。
 それなのに私が父を生き返らせろと邪気のない願望を訴えたために、自ら死を選ぶ道しか残されていないと思いつめた。有ろう事か、私が彼を追い詰めてしまったのだ。
それに預託金……医師を辞めた彼にそんな高額な貯金が有ったとは思えない。
警察は彼の水死体を事故死として処理した。だが、恐らく彼は自ら命を絶って、その保険金を預託したのではないだろうか。
 もし、母が訴訟を起こしたとすれば、当然彼の恩師である伏見誠一氏や氏のご息女であり元婚約者の由美子をはじめ伏見クリニックの全スタッフを裏切る行為である事は否めない。そのために事件に関わった者は、何らかの社会的制裁を受けていただろう。
 彼のことだから、自分だけがこのまま平然と生きていく事など到底許されないと考えたのではないだろうか。
 彼もまた私たち遺族同様、自分が犯しもしない医療ミスに巻き込まれ、一生重い十字架を背負わされてしまった哀れな犠牲者なのだと思う。
 現在、瓢箪池は埋められ植物公園となり、四季折々美しい花が市民の目を楽しませてくれている。小屋の在った場所には紫やピンクの紫陽花が綺麗に花を咲かせていた。
 私はしばらくそこに佇み、心の中で手を合わせた。おそらくこれからも、夏になれば毎年この場所を訪れるであろう。
 件の手紙は今も私の手文庫に大事に保管してある。
           完
 
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