Relief of ruin

poppo

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遠くで花火の音が聞こえます。笛や太鼓の音色もかすかに届きます。
 視線を天井に彷徨わせながら夫は寝床から起き上がりました。夫は隣で寝ていた私に気づかれないように、寝室を幽霊のような足取りで抜け出し化粧箪笥のある部屋に向かいました。すると廊下を挟んだその部屋からカサコソと夫が引き出しの底を掻き毟るような音が聞こえてきます。
 私は太鼓の音よりもはるかにちいさなそのカサコソという音を胸が割けるような思いで聞いていました。そこには恐怖ではなく憎悪などでもない、深い哀れみだけがありました。夫はそんな私のことなど知ってか知らずか、いえ、知っているのだろうけど、ありたけの紙幣を懐へ忍ばせいつものように書置きを残して外へ飛び出していくのでありました。

ずるい人。夫は賢くずるい人。私はいつも夫をそう思います。
 私は昔、夫を愛していました。ほんの少し昔、でもとても昔のような気がします。

私たちには一人、四歳になる息子がいます。体が弱く発育も遅く他所の子よりもずっと小さく知恵遅れのようなところがあるけれど、そんな息子を見捨てたりせず、風邪を引いたりすれば慌てて病院まで抱きかかえてくれたりしてくれる、美談でもなく当たり前の話しではあるけれど私には十分に良い夫でした。また、畳が窪んでいたり窓の建付けがおかしくなり冬には隙間風が辛い、お金持ちとは真反対の家に三人で住んでいて、掃除や洗濯や洗い物などの家事を私に代わってしてくれることもあり、家庭内での夫に(結婚はしていないが)何も不満はありませんでした。
 籍を入れていないからか外へは滅多に息子や私と歩くことはなく、公園で遊んでいる息子と目が合っても「やあ、僕ちゃん。」とどこか他人行儀な声をかけるのですが、家では我が子を名前で呼びますし一度も大声で怒鳴ったり引っ叩いたりしたことがありません。外での夫の対応に、息子は笑顔の絶えない半ば阿呆のように無垢な子ですから、特にはなにも違和感を覚えていないようでした。


夫は昼間は寝て夜に往来を行動する生活を続けています。出会った頃は学校の教師をしており規則正しい生活を送っていました。夫がこんな生活に転落したのは教師を辞めてからです。夫の働いている学校で汚職事件がありその巻き添えとして退職を強いられたのです。
 それからは働きもせず日が沈みはじめる頃に家から出て街を徘徊するようになりました。子煩悩とまではいかずとも人並みに息子と接してくれていた夫はだんだんと私や息子に興味を失くし、家に居ても煙草をせわしなく吸っているか安酒で酩酊して横になっているかでした。
 一度家を出て行くと夫は何日帰ってくるかわかりませんでした。書置きは「少し出てくる」とだけで、いつ帰ってくるとかそういったことは書かれていません。「いつ頃帰ってこられるか、それだけは書いてくれませんか。」と私は控えめに頼みますが、「それは僕にもわからないのです、すいません。」と決まって言うのです。翌朝には帰っている時もあればひと月も帰ってこない時もありました。
さすがにその時は私も心配になり聞いたことがありました。
「何をしていたのですか?」
私は血の気の失せた青い顔をしている夫に苛立ちを交えた語気で聞きました。
「何をしているんでしょうね、僕は・・・。」
その時の夫の顔。悲壮に満ちた顔。青白く痩せこけた顔。涙をいっぱいに溜めて引き攣らせて笑う顔。私は大変なものを見てしまった気がしました。そして二度と聞くまいと心に決めたのでした。

私は夫の収入がないばかりか、家のお金を散財してしまうので生計を立て直すために働きに出ています。まだ夫の浪費が酷くなく貯金があった頃には内職だけでまかなっていけましたが、最近はこれだけでは子供の服さえ躊躇するようになったりとまともな生活が送れなくなってきました。だから子供を寝かしつけた後、スナックで働くようになりました。夫には話しておらず後ろめたさは少なからずあったのですが、毎日おはようおやすみと交わす普通の家庭とは違う私たちは顔を会わす機会も多くなく、そういう報告はおざなりになっていたのです。


 今夜はもう子供はぐっすり寝ていました。遊び疲れたというよりは泣き疲れたのでしょう。
 夕方私は子供を連れて近所のお祭りのお囃子が賑やかな露店を回っていました。そこで向かいの家の谷山さんという家族連れと会いました。息子の一つ年上だというお子さんは、頭にお面を乗せ楽しそうに歩いていました。父親の手に綿菓子、母親の手にはりんご飴。私たちに気づいた谷山さんたちは会釈をして別段会話もせず通り過ぎました。いつも息子と二人だけの私に気を使っている、もしくわ関わらないでおこうといった印象です。
 私は地区の清掃に参加できなかったことをお詫びしなければならないことを思い出し、息子の手を引き谷山さん達を追いました。ちょうどお子さんが父親に肩車をねだり、それが叶い、満面の笑みを浮かべている所を見つけた時、息子は急に立ち止まりました。「どうしたの。」と聞くと、「ないよ。トト、ないよ。」と言うのです。そしてその家族が人ごみに消えて行くのを見ながら、顔を歪ませて、えっえっ、としゃっくりをするように泣き始めました。その瞬間私の体は火のついたように熱くなり、私も泣きたくなりました。
 息子は言葉の覚えも遅れており普段ほとんど喋りませんが、心の中では寂しいと思っていたのでしょう。外での夫の対応に何も感じていないと思っていましたが、本当は父親とあのように外を歩きたいと思ったのでしょう。私は涙を堪えながら、オモチャ買ってお家に帰ろう、となだめて夫のいる家に帰りました。
 家に帰り珍しく家にいる夫の横で私たちは寝ました。最初、息子はトト、トトと言って寝息を立てている夫にしがみつきシクシクと元気なく泣いていましたが、乳を吸わせてやるとようやく泣き止んで小さな体をさらに小さく丸めて眠りました。私の胸からはもう母乳は出ませんがそれでも未だに乳飲み子なのです。
 この世にこの子が生まれた時、私はこの子を幸せにしようと決めていたのに。この子をとても幸せだとは思えず不憫に思ってしまい、それをどうにもできない自分が悔しくて今夜は泣いてしまいました。小さく丸まった息子を抱きしめて本当に久しぶりに泣きました。しかし睡魔が泣くことさえ邪魔をし、私は目の奥に鈍痛を感じながら息子と同じ恰好のままあっという間に眠りにつきました。

そして二時間もしないうちにあの寂しく哀しいカサコソという音を聞き起きるのです。私はこんな酷く辛い寝起きをしているのです。ずっとここで息子と横たわっていたい、なんの感動もなくその代わりなんの不安もない植物のような心でいれたら少しはましかもしれないと最近はいつも思います。しかし沈んでいるわけにはいきません。私たちは生きなければならないのです。私の人生が悪かろうと息子を巻き込むわけにはいかないのです。
 しかし。しかし、私の幸せはどうしたら訪れるのですか?

私はやはり暗い気持ちのまま子供の寝顔を見て少しだけ元気をもらい、スナックへ行く仕度を整えて重い頭のまま深夜の卑猥なネオン街へ向かいました。
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