Relief of ruin

poppo

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次の日の夜、スナックに昨日より大分早く夫が来ました。女や連れはいなく一人でした。
「昨日は息子の寝顔を見てくれましたか。」
注文を取った後、私は昨日よりいくらか親しげに夫に話しかけました。
「はい。」
「そうですか。そのまま家にいるかと思っていたので。」
「すいません。」
夫は短く返すだけでした。
「今日は無口ですね。」
私は言いました。夫は少しだけ周りに視線を走らせたあと口を開きました。
「まだお客がいるじゃないですか。あまり仲良く喋っていると他の客に焼餅を焼かれますから。」
笑みを浮かべて言いました。
「いいんです。夫と名乗ってわたしを守ってほしいくらいです。しつこいお客が多くて、ちょっと怖い時もあるんです。」
私も微笑んで言います。
「まあまあ、他の客のところへ行ってください。僕はあなたを見ているだけでいいのですから。ここでの君はとても素敵に見えるのです。」
「嬉しいこと言ってくださいますね。他に取られてしまっても知りませんよ。」
夫とこのように冗談話をするのはいつぶりでしょうか。思い出すこともできないくらいです。私は会話を終えると夫を目の端で意識しながらいつもより晴れやかな気分で立ち回りました。閉店前まで夫は焼酎を飲み煙草をふかしていました。そして、「そろそろ行きます。」と言うと店を出ようとしました。
「お客さん、お勘定はどうします。」
ママが特に慌てる様子もなく言いました。夫は一人で来るときは大体がつけ払いにしていくようです。そして連れがいる時に昨日のようにお金を勝手に支払ったり、一人だけうまく店を逃げ出て支払いを誤魔化したりしているようでした。
「つけはできますか?」
夫は静かに言いました。苦笑して何かを言いだそうとしているママに「わたしが払いますから。」と言い夫にできるだけの笑顔で私は見送りました。



 それから夫は週に必ず一度、多い時は三日ほど来るようになりました。閉店間際まで居座って、雨が降っている時は私と傘をさして一緒に帰ってくれることもありました。どういう知り合いか知りませんが男同士で来ることもあれば、美しい女の人を連れてくる時もありました。少しは嫌な気分になります。酒代だって私が立て替えることが多いです。しかしそんなことはどうだっていいのです。頻繁に会えるようになっただけでも十分です。



 ある日夫が珍しく泥酔して店に入ってきました。足取りも怪しくテーブルに酒を零しながら何かにぶつぶつと文句を言ったりしています。自分は任侠映画さながらの修羅場を潜ってきたとか名門学校の教師だったとか、過去を誇大して他のお客に自慢をしたりしています。そして今の日本を散々けなしたあと、深々とソファに身を沈めて項垂れ始めました。
 お客がまばらになった頃、夫のいるボックス席に行ってみると一万円の札束がテーブルに投げ出されていました。五十枚はありそうでした。
「どうしたのです、それ。」
私はなにか嫌な予感を感じながら小さく聞きました。
「いえ、今日は君の誕生日だからちょっと貰ってきたのです。この店のつけもありますし。」
無邪気な顔で夫は言いました。
「どこから貰ってきたんです。」
「友達の居酒屋から、くすねて来たんですよ。」
夫は悪びれる様子もなく笑い声を上げて言いました。私は眩暈を感じました。酔っているとはいえこのままでは夫は捕まってしまいます。私はそれとなくその居酒屋の場所を聞いてからその大金を貰い受けました。下手に、要らないから返してきてくださいなどと言ってしまうと夫はこのお金で何をするかわからなかったからです。
「びっくりしたでしょう。君の嬉しがる顔を見たくてやったんです。」
私はちっとも嬉しくありませんでした。軽蔑を隠せず、困った顔を隠せず返事を探していました。それを見て夫はため息を深くつき言いました。
「ごめんなさいね。僕は大事な人を喜ばせるどころか迷惑ばかりかけていますね。真剣に死んでしまおうかとこの頃毎日考えています。死に魅入られているというか付き纏われているというか。何をしていても死を意識してしまうんです。これをすると死ぬんじゃないだろうかとか、ここを乗り切らないと死ぬんじゃないかとか。そんな風に全ての行動の結果に死が付いている気がするんです。あみだくじのゴールが全て死のような気がするのです。そしてこれは破滅の一歩だろうと考えているにもかかわらず、頭に警告音が響いているにも関わらず僕はその一歩を踏み出してしまうのです。私はエゴイストは悪だと思うから今はまだ生きていられるのですが、これは信じてください。罪がどうのこうのじゃなく、生きる資格とかそんなキザなことじゃなくて、シンプルに生きていては周りの人間を不幸にしてしまうんです。だから、本当に死ななきゃいけない気がするんです。」
ああ、まただ。また暗い話だわ。私は思いました。どうしてこうなるのでしょう。最近は楽しく笑い合えたのに。なぜでしょう。
「僕は本気ですよ。ねえ。君はどう思いますか。ねえ。」



 私は血の気が引き倒れそうになるくらいの眩暈の中で、今まで生きてきた中で一番の大きな怒りを覚えて思い切り夫を手の平で打ちました。
「くだらないことはもう言わないでください。生きていいに決まってます。」
と私は怒鳴るとはいかないまでも怒りの抑えられないといった震える声を、なんとかあっさりと言い放ちました。人生で初めて人様に手を上げた瞬間でした。



 十月下旬、うろこ雲が綺麗な空の下、電車に乗り息子と海まで来ました。温かい牛乳を水筒に入れてそれを肩から下げて二人、潮風に当たりました。息子は初めて見る海に興味を惹かれながらも恐れていました。
 日本海は遠目で見ると美しいのですが近づいてみると荒々しく、わがままで力強い自然の一部でした。酷く落ち込んでいる時にこんなところへ来てしまうと吸い込まれてしまうんじゃないかと思いました。有無を言わさない強制力を感じました。
 海を見に行ったのは、夫の事を頭から消し去りたいと思ったからなのか、これからのことを考えようとしたからなのか、はたまたそういうことを一切合切考えない為にきたのかわかりません。ただ、砂浜のサラサラした砂の感触を楽しんでいる息子を見ると来てよかったと思えました。



 あれ以来、夫は姿を消していました。家にはもうすぐ三ヶ月帰ってきていないことになります。
 私は今度ばかりはどこかで野垂れ死んでしまったのかと思いましたが、夫から茶封筒が届きました。何が書かれているのか。中には三万円と短い手紙が入っていました。



「生きます いつか ましな人間になったら あなたと僕ちゃんとまた一緒に暮らしたいです それまでは会いません それまでは想うだけで我慢します」
 私はそのいつものメモ書きのような手紙を目で追ったあとに声を上げて笑いました。嘲笑や侮辱を込めた笑いじゃなく、呆れたわけでもなく、喜びに似た笑い声を上げました。笑い続ける私を見て、不思議そうな顔をしていた息子も笑い始めます。
 夫はなんて不器用な人間なのでしょう。それでもやっと夫は強い想いを手に入れ救われたのです。そう信じています。



 昔、夫はこんなことを言っていました。当時流行っていた人間愛をテーマにした映画を見た後のまだお客がざわつく薄暗い館内でこう言ったのを覚えています。
「感情なんてまやかしなのです。そんなものに心を動かされてなるものか。大切なのは意志です。強い想いです。」



 私は昼間の内職をやめて、今はスナックだけをしています。朝は七時に起き、ご飯を作って息子と食べます。保育園に馴染めない息子と家で絵を書いたり音楽を聞いたり言葉の勉強をして昼ご飯を食べ、掃除と洗濯をして散歩がてらに二人で買い物に行き夕食を作って食べ、一緒にお風呂に入り八時には布団に入ります。そして息子を寝かしつけ、私もちょっとだけ寝て十時過ぎに起きて準備をして十一時にスナックで働き三時半に家に帰ります。
 目の回るような忙しい毎日です。それでも私は夫が帰ってくるのを楽しみにして日々を息子と過ごしています。
 昔のような暗い気持ちが嘘のように今はありません。夫もきっとそうでしょう。そしてこの青い空の下のどこかで不器用でも生きていることでしょう。強い想いを手に入れたようですから。
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