グレープフルーツを食べなさい

美森 萠

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予感

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 七月に入り、私は上村と共にオアシスタウン事業部に異動した。
 オアシスタウン事業部、通称オアシス部は総勢30名。
土地買収の段階からこのプロジェクトに関わってきた社員が6割、今回各部から選抜され、異動してきた人が4割で構成されている。
 新しくオアシス部部長に就任した館山たてやま部長をはじめ、数名の管理職を除き、ほとんどが若手社員。
さすが皆、その仕事ぶりを買われて来ているだけに、業務は滑り出しから順調だった。

 オアシス部が立ち上がって一週間、今日は親睦会も兼ねて街中のデパートの屋上ビアガーデンで暑気払いの会が行われている。
日はとっくに暮れたというのに、まだ辺りには昼間の熱気がこもっていて蒸し暑い。私は汗をかいたジョッキを手に取り、冷えたビールで渇いた喉を潤した。
「三谷さん、どうです。オアシス部には慣れました?」
 そう私に話しかけるのは、エネルギー部から異動してきた岩井田いわいださんだ。
彼は私より4つ年上の32歳。さらりとした黒髪に黒いセルフレームの眼鏡を掛けた温厚な印象の男性だ。
 オアシス部立ち上げの前から、エリート揃いのエネルギー部からわざわざ異動を志願した男性社員がいると、社内でも話題になっていた。どうやらそれが岩井田さんらしい。
部長からの指示で、私は来週から岩井田さんの補佐に付くよう言われていた。
「はい、おかげさまで。皆さん仕事ができる方ばかりなので、見ていてとても勉強になります」
「そう、それは良かった」
 私がそう答えると、岩井田さんは満足そうに微笑んだ。
「岩井田さんはいかがです? エネルギー部とは勝手が違って大変なんじゃないですか」
「確かに扱うものから違いますからね。でも僕には夢があって」
「夢、ですか?」
「友人に設計をやってるやつがいましてね。そいつといつか古民家や古い商店のリノベーションの仕事をやりたいんですよ」
「……それはまた、随分これまでとは違うお仕事ですよね」
 コクコクと頷きながら岩井田さんはビールを飲む。彼の話はなかなか興味深い。
「ここでの仕事も直接は関係ないかもしれないけど、色んな現場を見ておきたくて。三谷さんはないんですか、そういうの」
「と言いますと?」
「将来やりたいこととか夢とか」
「私は……そういうの考えたことなかったです」
 正直なところ、今は移ったばかりのオアシス部の仕事を着実にこなしていくこと、そして母のことで頭は一杯だ。
「なんだかもったいないですね。三谷さんなら、どんな分野でもやっていけそうだけど」
「そんな、買い被りすぎですよ」
 私が謙遜すると、岩井田さんは「そうかなあ」と首を傾けた。
 ほぼ初対面にしては、ずいぶんと持ち上げてくれる。今までの経験上、誰かの縁の下の力持ちにはなれるかもしれないが、私には自分から率先して新しいことを切り開くような力はない。
「まあ、ここで色んな可能性を探ってみるのもいいんじゃないんですか」
 そう言って、また岩井田さんはビールをちびちびと口に運ぶ。結構な時間をかけて、彼はなんとか一杯目のジョッキを空けた。ひょっとして、お酒はそう得意ではないのだろうか。
「岩井田さん、よければ別のものを頼みましょうか? お茶かソフトドリンクでも」
 少し声をひそめて話しかけると、岩井田さんは目を見開いた。
「……ばれちゃいました? 実は僕、アルコールはあまり好きではなくて」
「それは、大変ですね」
 営業と言う仕事柄、接待も多いはず。酒席で全く飲まないというわけにもいかないだろう。
「まあね。でも仕事のときは、なんとかうまくやってますよ」
 片手を上げて、店員さんに声をかける。周りの人に聞こえないよう、岩井田さんは抑えた声で自分ようにウーロン茶を、私用にビールのおかわりを頼んだ。
「でも、顔には出ないんですね」
「いや、すぐ赤くなりますよ。今はまだなんとか大丈夫なだけで」
岩井田さんの言うとおり、今のところ顔色に変化はない。
飲めなくはないが、そう強くもない。ただし、お酒に飲まれることもない。ちゃんと自分で、コントロールができる人なんだろう。
「今まであまり気づかれなかったんだけどな。三谷さんは、人のことよく見てるんですね」
 岩井田さんが、私を見て目を細める。
「いや、そんなことは……」
彼が纏う雰囲気がわずかに変わったような気がして、戸惑った私は曖昧に返事をした。
 そうこうしていると、別のテーブルから「二次会はカラオケだぞー」と誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
「そろそろ終わりかな。三谷さんは二次会どうされるんですか?」
「あー、私はカラオケとか苦手なんで遠慮しておきます」
「そうですか、それは残念」
 そう言って岩井田さんはにこにこと笑っている。気を遣ってか、無理やり二次会に誘ってくる人もいるけれど、岩井田さんはそんな風に押しの強い人ではないらしい。安心した私は自然と笑みを浮かべていた。
 岩井田さんと連れ立ち、デパートのエレベーターを下る。
 外に出ると、シャッターが閉じた店の前で、私たちよりも先に降りたグループが賑やかに二次会の相談をしていた。
「それじゃあ、僕は二次会に行きますね」
「はい、お先に失礼します」
 私は岩井田さんに一言お詫びをして、ちょうど停まったタクシーに乗り込んだ。

 週末の間に、ようやく気象庁が梅雨明けを発表した。今日は朝から抜けるような青空が広がっている。
 バスから降りると、通りの木々から長く降り続いた雨の代わりにクマゼミのやかましい声が降り注ぐ。
黒い日傘でそれを受け、私は母が待つ病院を目指した。
日傘で日差しはかわせても、アスファルトからの照り返しが眩しい。あまりの暑さに病院のエントランスに着く頃には、額から汗が吹き出ていた。
「母さん、どう?」
「香奈、いらっしゃい」
 ヘッドボードにもたれたまま、母は私を出迎えた。私を見て、途端に顔を綻ばせる。
口には決して出さないけれど、私が来るのをずっと待っていたのだろう。
元気そうな母を見て、今日は体を起こしていられるほどには気分がいいんだな、と安堵する。
「気分良さそうね、よかった」
「やっとお天気になったからね。窓からの景色が気持ちいいわ」
 湾を挟んで対岸に美しい山々を臨むこのホスピスは、晴れてさえいれば病室からの眺めもとても素晴らしい。窓から入り込む潮の香りが、病院特有の消毒液の匂いを消してくれるようだ。
どうか母が日々心穏やかに過ごせますように。その一心で私が探し出した。
「もうすっかり夏ね。そういえば浴衣はちゃんと虫干ししてる? 今日みたいによく晴れた日にするといいわよ」
「そうね、帰ったらやっておくわ。……今年も着る機会があるかはわからないけど」
 私の返事に母は少しだけ視線を落とした。紫の生地に薄い黄色から白のグラデーションの百合を散らした浴衣は、和裁師である母からの結婚祝いの品だった。
『これを着て鳴沢さんとデートに行くところ、母さんにも見せてね』
 そう言って母から浴衣を送られた時は、私も幸せの絶頂にいた。
ずっと私を女で一つで育ててくれた母は、私の結婚を心から喜んでくれた。でも母に浴衣を送られてすぐに鳴沢さんの浮気が発覚し、そのまま私は彼と別れてしまった。
結局私は、浴衣に一度も袖を通していない。
  
 病院から帰ってすぐ、私は母に言われたとおり箪笥から浴衣を出した。ベランダのサッシを開け、カーテンレールにハンガーに掛けた浴衣をつるす。
 このところ晴れの日が続いていたので、外からからりと乾いた爽やかな風が入ってくる。私はソファに腰掛け、随分長い時間、風に煽られ時折ひらりと舞う浴衣を見つめていた。
 浴衣の向こうに、病室の母の顔が浮かび、心が塞ぐ。
母もあんなに喜んだ結婚を、相手に否があるとはいえダメにした。かといって母が元気にしている間に花嫁姿なんて到底見せられそうにない。
たぶん母は、自分の病気のせいで私が今の会社で仕事を続けなくてはならなかったことを私よりも気にしている。そして心の中では、安心して娘である私を託すことのできる誰かを、ずっと待ち望んでいるはずだ。
 私が選んだ過去は、本当に正しかったのだろうか? あの時、自分を曲げてでも鳴沢さんを受け入れるべきだったの?
本当は私だって、母の望みを叶えてあげたかった。
愛する人と結ばれて幸せな自分を見せてあげたかった。
母のことになると私は、どうしようもないくらい心が揺らぐ。滲んできた涙を指で拭ったその時だった。
控えめに玄関のドアを叩く音がする。立ち上がりドアフォンの画面を確認すると、ドアの向こう側に仏頂面で佇む上村がいた。
ため息を吐き、ドアを開ける。
「……なあに、突然」
「飯食いに来ました」
「また?」
 顔をしかめる私を無視して、上村はずかずかと部屋に上がり込んでくる。
「はい、おみやげ」
 そう言ってスーパーの袋を私に押し付けた。
「なによ、またグレープフルーツ?」
「案外うまいんだなと思って」
「ふうん。まあ、ありがとう」
 前回、うちの部屋で食べてみて、そんなに気に入ったのだろうか。
ガサゴソと袋から取り出し、とりあえず冷蔵庫にしまうと同時に、冷蔵庫の中味をチェックする。
……上村の胃袋を満たすことができるようなもの、入ってたかな。
「飯って言ったって、まだ私なんの準備もしてないわよ」
「これから作るんだ? じゃあ俺、食べたいものリクエストできますよね?」
「はあ、あんた何様!?」
 私の言葉に、上村はぶはっ! と盛大に吹き出した。
「やっぱ先輩おもしれえ」
 私の何がそんなに面白いのかわからないけれど、二人でいるとき、上村はよく笑う。
まあ、会社で見せる澄ました作り笑いよりはよっぽどいいんだけど。
「それで、リクエストは何。唐揚げ? ハンバーグ?」
「ちょっと。何ですか、その子供メニュー」
 そう言うと上村はまたケタケタ笑う。
「だって、上村よく食べるから」
「そういうのもいいけど、たまには和食が食いたいっすね」
「和食ねえ。でもそんなので、上村はお腹膨れるの?」
 上村からのリクエストを受けて、もう一度冷蔵庫を開けたみた。
……うん。和食なら有り合わせのものでなんとか作れるかも。
「家庭の味に飢えてるんですよ」
「それなら、実家にでも帰ればいいのに」
 上村の返事がない。不思議に思い一旦冷蔵庫を閉め振り向くと、上村は黙って風に揺れる浴衣を見つめていた。
「……先輩、浴衣着て祭りにでも行くの?」
 私は窓辺へ行き、浴衣をハンガーから下ろした。あまり遅くまで干していると、湿気が入ってしまう。
「まさか、ただの虫干しよ」
「虫干し?」
「1年に数回こうやって浴衣を風に当てるの。こうすると長持ちするのよ」
 床に広げた風呂敷の上で、丁寧に浴衣を畳む。新しいたとう紙を取り出し、浴衣を仕舞った。上村はその様子を興味深そうに見ている。
「先輩って年齢のわりに色んなこと知ってますよね」
「これは……母が和裁師をやってたから、教わったの」
「ああ、それで」
「この浴衣、母からの結婚祝いだったの。母はこれを着て私が鳴沢さんとデートに行くの楽しみにしてた」
「……叶わなかったわけですね」
「まあね」
 それきり、上村はもう何も言わず、ソファから外の景色を眺めていた。
私の苦い過去の話に気を遣って黙っていてくれたのか、それとも端から興味などないのか。
無表情の上村からは、何も窺い知ることは出来なかった。


 部内でオアシスタウンへ誘致するテナントの選定も終わり、営業社員たちは出店交渉へと乗り出した。
中には関東、関西まで商談をしに行く社員もいる。ここ数日のオアシス部は、部長と女性事務が数名残っているくらいで、静かなものだった。
「三谷さん、10時から隣のミーティングルームでコンサルとの打ち合わせやるから、お茶出し頼めますか?」
「わかりました。何名分ですか?」
「えーと、3名かな」
 よろしくね、と館山部長は軽く頭を下げると、自席へ帰っていった。
豪快で頼りになる父親タイプの野々村部長と比べ、ずいぶん物腰の柔らかい人だ。女子社員たちからも「仕事がしやすい」と人気がある。
 10分前に給湯室へ行き、お茶出しの用意を始めた。3人分の湯呑みを出し、急須とともに熱湯で温める。
「あ、先輩。お茶ですか? お疲れ様です」
 突然後ろから声をかけられて、肩がピクリと跳ねた。
この声は上村だ。びっくりしたことを知られたら、たぶんまたからかわれる。
私は、一呼吸おいてから、上村に返事を返した。
「お疲れ様。今日は外出じゃなかったの?」
「10時からの打ち合わせ、俺も同席することになったんです」
 そう言って上村は、入れたばかりの緑茶に勝手に口をつけてしまう。
「ん、うまい!」
「もうっ、うまいじゃないでしょう。やり直しじゃないの」
「スムーズな会話はうまいお茶から。うまいかどうかチェックしてあげたんですよ」
 上村の調子のいい言葉に、つい苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そういうことなら、他の子たちにもしてあげたら? 上村がチェックしてあげたら、みんな喜んでお茶出しするわよ」
「嫌ですよ。そんなことしたら、先輩の仕事が減っちゃうじゃないですか。ごちそうさまでした」
 私に湯呑みを手渡すと、さっさと給湯室から出て行く。
「何よあれ」
 どうしてみんな、あいつの本性に気づかないんだろう。
私は戸棚から新しい湯呑みを取り出すと、また一からお茶を入れなおした。

「失礼します」
 全員が席に着いたのを確認して、静かに小会議室に入る。入ってすぐに、コンサル側のテーブルの右端に座る、綺麗な顔立ちの女性に目が行った。
打ち合わせに同席しているということは、彼女も営業職なんだろう。熱心に手元の資料に目を通している。
 私は打ち合わせの邪魔にならないよう黙礼だけして、それぞれのスペースにお茶を置いていった。
 打ち合わせに集中して誰もがスルーするなか、彼女だけが小さく「ありがとうございます」と笑顔で言ってくれた。私もそれに笑顔を返す。
彼女が微笑むと、大輪の花が咲いたように周りの空気が明るくなった。女性の私から見ても、とても素敵な人だと思った。
  
 オアシス部に戻ると、エネルギー部から異動してきた女の子が話しかけてきた。彼女は今、上村の補佐をしている。
「三谷さん、見ました? コンサルの麻倉あさくらさん」
「麻倉さんって?」
「女性が一人同席してませんでした?」
「ああ、あの方麻倉さんっておっしゃるの? 凄く素敵な人だったわ」
「でしょう? 私も前回の打ち合わせのときにお見かけしたんですけど、美人だし、女性で第一線で働いてるなんて格好いいですよね」
「本当ね」
 麻倉さんは男性ばかりの中にいても、女性だからと変に気負うことなく、とても自然だった。
ああいう風に男性に混じって仕事をする人もいるんだ。
長年、ここの保守的な環境に染まってしまった私には、彼女の姿はとても新鮮に映った。
「それにあの美貌。上村さんがグラッと来ちゃったらどうしようー」
 この子も上村がいいのか。会社での上村は本当にモテる。
「三谷さんって、ここに来る前は上村さんと同じ外食部でしたよね? 上村さん、今フリーなんですか?」
「さあ。プライベートなことはほとんど話したことないし」
 これは嘘ではない。よく考えてみたら、私は上村の個人的な話は何一つ聞いたことがなかった。
「そうなんだー、残念!!」
「三谷さんも知らないんだってー」と他の女の子たちに言いながら、彼女は自分の席に戻って行った。

 一緒に食事をするだけとはいえ、最近家では上村と二人で過ごすことも多い。だから、なんとなく親しくなったつもりになっていた。
でも、私は上村の家族だとか恋人だとか、そういうことは何も知らない。私は鳴沢さんや母のことを話しているのにだ。
 何だか私ばかりが自分のことを話していて、不公平に感じる。上村だって、もうちょっと自分のことを話してくれてもいいのいに。
上村にいいように乗せられているみたいで、なんだか悔しい。
私は机に置きっぱなしにしていた書き損じのメモをくしゃくしゃにして、勢いよくゴミ箱に投げ捨てた。
  
 珍しく定時で帰ることが出来た水曜日。私は会社の帰りに母を見舞ってから帰宅した。
 今日の母は気分が良かったらしく、体を起こして私と話をしてくれた。
でも、途中で出された食事は半分も食べられなかった。病室を訪れるたびに、確実に母の病気は進行しているのだと実感させられる。
 病院からの帰り道はずっと、気分が塞いだままだった。家に帰って、自分一人のために料理をする気にはなれなくて、今夜は惣菜で済まそうとスーパーに立ち寄った。
かごを手に、惣菜売り場を目指す。途中の野菜売り場で、ふとじゃがいもの山が目に入った。
 やっぱり惣菜なんてやめて、今夜は母が好きなコロッケでも作ろうか。
コロッケは、まだ小学生だった私が、初めて自分一人で作った料理だ。美味しい美味しいと言って、母がほとんど食べてしまった。私と母の、思い出の一品だ。
予定外だけど、余分に作って明日会社の帰りに持っていってみようか。母も昔を思い出して、喜んで食べてくれるかもしれない。
 家でコロッケを揚げながら、明日も残業せずに帰るにはどうしたらいいかを考えた。
ああ、やっぱりあの仕事は持ち帰ればよかった。それとも、明日少し早めに出勤して片付てしまおうか。
そんなことを考えながら、最後の一個を揚げ終えた時だった。また、コツコツと玄関のドアを叩く音がする。
……ああ、このノックは上村だ。
「何?」
 上村の顔を見ると、昼間の会社の女の子との会話が蘇ってくる。今日は私が仏頂面でドアを開けた。
「何って、俺が来たら飯に決まってるでしょう。お邪魔します」
 むすっとした私などには一切構わず、上村はいつものように、勝手に部屋に上がりこむ。今日もまた、グレープフルーツが入った袋を押し付けられた。
「ラッキー、今日はコロッケだ」
「何がラッキー? あんたにも食べさせるなんて、まだ言ってないわよ」
「先輩、何そんなにぷんすかしてるんですか」
「別にぷんすかなんてしてないわよ」
「だったらいいけど。あー、腹へった」
 ドカッとソファに座りネクタイを緩める上村を見ると、いつもよりも疲れた顔をしているように見えた。
「……上村、何かあった?」
「何がです」
「なんか疲れた顔してるから」
「……わかるんですか?」
「そうね、なんとなく」
 上村はまじまじと私の顔を見ると、観念したように息を吐き出した。
「実は、仕事がうまくいってません」
「へえ、上村でも手こずることあるのね」
「当たり前でしょう。いいときばっかりじゃありませんよ」
 なんて言いながら、上村は揚げたてのコロッケに手を伸ばす。その手のひらを、私はピシャリと叩いた。
「まだ食べていいって言ってないわよ」
「まだ、ってことは、後で食べていいってことですよね」
 口元をニヤリと歪ませる。
「まったく! 小学生じゃあるまいし」
「俺、皿取ってきますね」
 上村は私の返事も待たずに、勝手に食器棚を開けている。ため息をつきながら皿を受け取り、コロッケとサラダを二人分盛り付けた。
明日母へ持って行く分は、上村が見てない隙にタッパーに入れて冷蔵庫の奥に隠しておいた。
「ただ食いするんだから、運ぶのも手伝いなさいよ」
 皿を出すと、上村は自分の仕事は終わったとばかりに、再びソファーに腰を下ろしていた。面倒くさそうに腰を上げ、「あー、マジで腹減ったなー」と言いながらこちらにやってくる。
お茶碗にご飯をよそっていると、カウンターに置いていた私のスマホが流行りの男性ダンスグループの曲を奏でた。
「え、先輩こいつら好きなの?」
「別にいいでしょ。いちいちうるさいわね!」
「意外すぎる」
 ぷっと吹き出す上村を睨みつけて、スマホを手に取った。上村はまだ口を押さえて笑いを必死に堪えている。
 私は視線を手元のスマホに戻し、画面をタップしようとして息を呑んだ。
「……先輩、どうかしたの?」
 着信は、母の病院からだった。スマホを見つめたまま微動だにしない私を、上村が訝しげに覗きこんでくる。
「先輩?」
 目の前を上村の手のひらがひらひらと舞って、我に返った。
「電話、母さんの病院から。……どうしよう上村」
 発した声が震えていた。スマホを片手に固まったまま、早く電話に出なきゃと思うのに、どうしても指を動かすことが出来ない。
「どうしよう、母さんに何かあったんだ。どうしよう、どうしよう……」
「貸して!」
 取り乱す私からスマホを奪うと、上村は私の代わりに電話に出た。
「はい、三谷です。はい……、はい、わかりました。すぐにうかがいます」
「上村、……母さんは?」
 電話を切り、座り込む私の両肩をしっかりと掴むと、上村は私の目を見て、一つ一つ言い聞かせるように電話の内容を話した。
「お母さんの容態が急変したそうです。急いで病院に来るようにって。先輩、大丈夫ですか?」
「かっ、母さんがっ。どうしよう上村―――」
 その時、動揺して涙が止まらない私を上村がきつく抱きしめた。
「大丈夫だから、しっかりしてください。俺がついてますから」
 幼い頃、なかなか泣き止まない私に母がそうしたように、上村はトントンと優しく私の背中を叩く。上村の体温に包まれ、少しずつ心が落ち着きを取り戻していった。
 目を閉じて、何度も深呼吸を繰り返す。大丈夫、きっと母さんは大丈夫。呪文のように心の中で何度もそう唱えた。
「ご、ごめん上村。大丈夫だからもう離して」
 冷静さを取り戻すと、上村に縋りついていることが急に恥ずかしくなった。両手で上村の胸を押して、自分から距離を取る。
「本当に大丈夫?」
「うん」
「よかった。俺、車回してきますから、用意できたらすぐ降りてきてください」
「わかったわ、ありがとう」
 上村を見送り、鞄に財布とスマホだけ投げ込むと、私もすぐに後を追いかけた。

 病院へ到着するとすぐ、時間外の受付へと走った。
車を駐車場に停めに行った上村を待たずに、母の病室がある階へと急ぐ。エレベーターから降りると、すでに廊下の照明は消えていた。ナースステーションだけが、煌々と灯りを放っている。シンと静まり返った廊下を、音を立てないように早足で歩いてそこに向かった。
「すっ、すみません! お電話いただいた三谷ですっ」
 ずっと走ってきたせいで、息が上がっていた。片手で胸を押さえ、どうにか声を出す。
「ああ、三谷 好江よしえさんのご家族の方ですね。ご案内しますのでこちらにどうぞ」
 焦りのあまり声が上擦ってしまった私とは対照的な、ずいぶんのんびりとした看護師さんの声に力が抜けそうになった。
 この分なら、母は大したことないんじゃないだろうか? かかってきた電話も、実は病院の間違いだったとか……。
そんな期待を持ちながら看護師さんの後を追う。
しかし私が案内されたのは、普段母が過ごしている病室ではなく、ナースステーションのすぐ隣にあるICUだった。
 入り口からベッド回りに聳えるように医療機器が並んでいるのが見える。断続的に聞こえる機械音に足が竦んだ。
 母を、母の顔を見るのが怖い。
もしもこのまま目を覚まさなかったら……
体が恐怖感で一杯になり、どうしても足を前に動かせない。
「入っていただいて大丈夫ですよ、三谷さん」
 中に入っていいものか迷っているとでも思ったのか、看護師さんが私に優しく声をかけてくれた。それでもどうしても体が動かず入り口で立ち竦んでいると、誰かが優しく私の肩に触れた。
「大丈夫ですよ、先輩。俺も一緒に入ります」
 遅れてきた上村がそっと私の肩を押す。私は彼と一緒に、おそるおそる病室の中に足を踏み入れた。
 ベッド脇の機械の照明が母の顔を青白く照らしている。
母は、眠っていた。数秒毎に白く濁る酸素マスクと、微かに上下する胸元が母は確かに生きているということを教えてくれる。安心して、思わずため息がこぼれた。
「処置が早かったので、今容態は安定してます。後で医師からご説明いたしますので、こちらでしばらくお待ちくださいね」
 にこやかにそう告げると、看護師さんは病室を出て行った。
 そっと手を伸ばし、点滴に繋がれた母の手を握った。骨ばった母の手の甲を何度も何度も撫でさする。
手のひらに母のぬくもりを感じ、生きていてくれた母に心の中で『ありがとう』と何度も囁いた。
「先輩、俺外で待ってます。もう一人でも大丈夫ですよね」
「……うん、大丈夫」
「じゃあ、俺……」
「……上村!」
 ドアの前で上村が立ち止まり、私を振り向いた。
「……ありがとう、上村がいてくれて助かった。本当に、ありがとう」
 上村は私の言葉に目を細めると、静かに病室から出て行った。

 ドアが閉まったことを確認して、ベッドの母へと視線を戻す。母の寝顔を見つめ、はあっと大きく息を吐いた。
 今まで何でも一人でやってこれたのに、母の病状が急変したと聞いた途端、私はぼろぼろになった。私に冷静さを取り戻してくれたのは、たまたま側にいた上村だ。
 でもこれ以上。上村のことを頼りにしてはダメだ。
私には、誰もいない。この不安を打ち明けられる人なんて、誰も。
死んだように眠る母と二人きりのこの病室で、母を失うことへの恐怖が再び波のように押し寄せてきた。不安に押し潰されそうになる。
両手できつく握り締めた母の手を額にあて、私は祈るように目蓋を閉じた。
 ―――その時、握り締めた母の人差し指が、微かに動いた気がした。
「……母さん?」
 呼びかけると、今度は閉じたままの母の目蓋がピクッと反応した。
「母さん、わかる? 私よ。香奈!!」
 うっすらと母の目蓋が開く。
「か……な?」
「よかった……、母さん。本当によかった……」
 私は繋いでいた母の手を、更に強く握り締めた。母はそれに応えるように、ゆっくりと指の腹で私の手を撫でてくれた。              
 触れ合ううちに安心したのか、私の手に触れたまま母は再び眠りに落ちた。
眠りに落ちる寸前、私に見せた微笑はいつもの穏やかさに満ちていた。普段の母に戻ったようで、ようやく私も肩の力が抜けた。
 それでもやはり医師からの説明は、決して安心できるものではなかった。
覚悟をしておいてくださいと言われ、呆然としたまま夜間外来のドアを押し、上村と二人で病院を後にした。
  
 もう真夜中だというのに、外はまだ蒸し暑い。暗闇の中から、この時季特有の木々や草花の濃い香りが押し寄せてくる。
 母はきっと、来年の夏にはここにはいないだろう。そう思うだけで後から涙が溢れてくる。
「先輩」
 後ろから声を掛けられたけれど、振り向くことはできなかった。
今日は酷い姿ばかり見せてしまった。もうこれ以上、上村に泣き顔を見られたくない。
「先輩、帰ろう」
 上村がそっと私の手を取った。
「……離して上村、ちゃんと一人で歩けるから」
 そう言ったのは、自分から上村の手を振りほどく勇気がなかったからだ。今日は何度、この手に救われたかわからない。
「帰ろう先輩」
 上村は私の言うことなど聞かず、握る手にさらに力を込めた。私は、今日だけだ、と強く自分に言い聞かせた。
 この手に縋ってもいいのは今日だけ。明日からはまた、いつもの強い自分に戻る。
 こぼれる涙もそのままに、私は上村に手を引かれ夜の闇を歩いた。
――上村の手は、温かかった。



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