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すれ違う心

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 あんなことがあった後も、上村は相変らずだった。
これまで通り、時々ふらりとやって来てはご飯を食べて帰っていく。手土産にグレープフルーツを持ってくるのも変わらない。
 あの日私は、上村への想いを自覚した。
何を考えているのかわからない、でも人の痛みに敏感で、優しい。
上村がそうなのは、たぶんひどく傷ついたことがあるからだ。私には決して話してはくれないけれど。
そして私は、そんな上村のことをどうしても放っておけずにいる。
                                    
「三谷さんごめん、朝頼んだ資料できてる?」
あさひ書店の分ですね。はい、できてます」
「よかった! じゃあ、行って来ます」
「がんばってくださいね、岩井田さん」
慌しく外出する岩井田さんを、笑顔で見送った。
 仕事は忙しさを増していた。オアシスタウンの開業が、正式に再来年の春に決まり、部内はますます活気づいている。
 岩井田さんがオフィスを出たのを確認して自席に戻ると、デスクの外線が鳴り響いた。私は一度呼吸を整えて、目の前の受話器を取った。
「はい、オアシスタウン事業部三谷でございます」
「あの……私、土井どい祥子しょうこと申します。上村達哉に取り次いでいただきたいんですけど……」
 若い女性の声だった。会社名を名乗らないことを不思議に思った。
「申し訳ございません。ただいま上村は外出しております。戻り次第、折り返させましょうか?」
「そうですか……。それならば結構です。お忙しいところ、失礼しました」
「いえ」
 連絡先を聞く前に、電話は切られてしまった。仕方がないので、名前だけを書いた付箋を上村のデスクに張り付けておく。
「三谷さん」
 顔を上げると、入り口のドアから、さっき出て行ったはずの岩井田さんが顔を覗かせていた。
「あれ岩井田さん、忘れ物ですか?」
「そうじゃなくて……。いや、忘れ物って言ったらそうかな」
 ここまで走って戻ってきたのだろうか。少しだけ息が上がっている。
ふーっと息を吐くと、岩井田さんは黒いセルフレームの眼鏡のブリッジを持ち上げた。……ああこれは、ちょっとやっかいな頼み事をする時の岩井田さんの癖だ。
「仕事ですか?」
 私の問いに岩井田さんは周囲をさっとうかがうと、体をかがめて私の耳元に顔を寄せた。
「その……三谷さん、この後時間ありませんか」
「それは……就業時間内ですか?それとも……」
「就業時間外、です」
 私はデスクの上のカレンダーにさっと目を走らせた。今日は金曜日。ひょっとしたら上村が部屋に来るかもしれない。でも、私たちに確かな約束があるわけではない。
「わかりました。少し遅い時間なら……20時以降なら大丈夫です」
「良かった。また後で連絡入れますね」
 一体何なんだろう? 仕事の相談事だろうか。今のところ岩井田さんが抱えている仕事はスムーズに進んでいるはずだし、これといって思い当たることもない。
 「行って来ます」と手を振る岩井田さんをもう一度見送って、私は視線をパソコンの画面に戻した。
  
「三谷さん、ここです。お呼び立てしてすみません」
「岩井田さん、お待たせしました」
 終業時間を少し過ぎて、岩井田さんは直接私の携帯に連絡してきた。
 岩井田さんが指定したのは、落ち着いた雰囲気の居酒屋だった。棚にずらりと地元の焼酎や日本各地の日本酒の瓶が並んでいる。
「ここで良かったかな。三谷さんの好みに合えばいいんだけど」
「焼酎も日本酒も好きですよ。お料理もおいしそうだし、楽しみです」
 料理はお店のお任せにして、私と岩井田さんはとりあえずのビールで乾杯した。岩井田さんに勧められるまま、運ばれてくる料理に箸を伸ばす。どれも美味しくて、つい夢中になった。
「それで、本題なんだけど」
 料理の半分ほどに箸をつけたところで、岩井田さんが話を切り出した。
「三谷さん、僕が将来独立を考えてるって話、覚えてるかな?」
「はい、建築家のお友達と……って話ですよね。それがどうかしたんですか?」
「実は資金面の目途が立って、早ければ来年にでも開業しようかと思ってるんだ。……そこで相談なんだけど、三谷さん僕について来る気はない?」
「わ、私がですか!?」
 岩井田さんの唐突な話にびっくりした私は、口に含んでいたビールが喉でつかえ咳こんでしまった。
「大丈夫?」
「びっくりして……すみません。でも、どうして私を?」
 驚く私に、少し目を細めて微笑むと、岩井田さんは口を開いた。
「オアシス部で三谷さんとご一緒させていただいて、あなただと思ったんです。考えてみていただけませんか? 僕たちには即戦力になる人間が必要なんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。突然すぎて何がなんだか……」
「もちろん今すぐ返事が欲しいわけじゃない。ゆっくり考えてくださって結構ですよ。正直言って僕達はゼロからのスタートだし、給料だってどれくらい払えるかまだわからない。でも、やりがいのある仕事であることは間違いないし、自分が頑張った分だけ見返りはあります」
 いきいきとした表情で話をする岩井田さんのことが、とても眩しく思え、私は視線を落とした。
私だって、今の仕事にはそれなりのプライドを持って取り組んでいる。でも、仕事に対して、岩井田さんのような情熱を持っているかと問われると自信がない。
「ちなみに、今三谷さんを躊躇させているものは何?」
「それは……」
「よかったら、聞かせてもらえませんか」
 岩井田さんにも、話した方がいいのだろうか。母のことは、まだ館山部長と上村にしか話してはいない。
「絶対に口外はしませんので、三谷さんさえ良かったら。何か力になれるかもしれないし」
 岩井田さんの人柄は、私もよくわかっている。私は誰にも口外しないと言う彼を信用することにした。
「実は、母が入院していまして」
「ご病気ですか?」
「末期の癌で、お医者様には長くはないと言われています。家族は私しかいないので、できる限り母のそばについていてあげたいし。あとは金銭的な面でも……」
「なるほど、今の会社にいれば安定はしていますもんね」
「そうなんです」
 私の話を聞き終えると、岩井田さんは組んだ両手にあごを載せ、しばらく考え込んだ。
 いくら岩井田さんだって、こんな厄介な事情を抱えた人間を引き抜こうとは思わないだろう。私は話を無かったことにされても仕方がないと思っていた。
「……わかりました。何か困ったことがあったらいつでもおっしゃってくださいね。お返事はまた後で構いませんので」
 それなのに岩井田さんは、私の話に全く動じる様子がない。
「あの、このお話無かったことにしてくださって大丈夫ですよ? 私なら構いませんので」
「どうして? 僕の話に何か気に食わないことでもありました?」
「いえ、そんなんじゃないです。そうじゃなくて……こんな事情があったら、普通はお断りされるんじゃありませんか?」
 岩井田さんはまた眼鏡のブリッジを持ち上げ、ふっと微笑んだ。
「僕が? まさか。そんなことはしませんよ。僕は三谷さんがいいのに」
「え?」
 ストレートな言葉に、私は思わず岩井田さんの顔をじっと見返した。
「言ったでしょう、僕はあなたを買ってるんです。あなたは常に僕の状況を把握していて、先回りをして僕が動きやすいようにお膳立てしてくれている」
「でもそれって特別なことではないですよ? 補佐なら営業が仕事をしやすいように環境を整えるのは当然ですし……」
 あまり褒められ慣れてないせいか、岩井田さんの言葉がこそばゆくて仕方ない。
「そうかな? 何でもカバーできるなんて、そうそうできることじゃないですよ。それに三谷さん、得意先のことも独自に調べていらっしゃるでしょう。あなたがさりげなく示してくれる情報に、僕はどれだけ助けられているかわからない。あなたを手に入れられるなら、僕はいくらでも待ちます」
「岩井田さん……」
 こんな風に面と向かって自分の仕事ぶりを褒められるなんてこと、今まであっただろうか。鳴沢さんとのことがあってから、会社での私はずっと厚かましいお局としか思われてなかった。
感激して言葉がうまく出てこない。何よりも岩井田さんは私の仕事振りを評価してくれている。そのことに大きく心を動かされた。
 ……それでも、やはり母のことが脳裏によぎる。
「そんな風に言っていただけるなんて嬉しいです。でも、やっぱり母のことを考えると……」
「三谷さんはお母さんのことをとっても大事に思っていらっしゃるんですね。でも、三谷さんの人生は他の誰のものでもない、三谷さんのものです。もう少し、自分のために生きることを考えてもいいんじゃないですか」
「私のため……」
「そんなに結論を急がなくても。しばらく考えてみてください。ね?」
 岩井田さんは、まだ最初のビールが残ったグラスを持ち上げ、再び乾杯をするようなポーズをした。私も、彼に合わせてグラスを持つ。
 ――心が揺さ振られる。
 その日、岩井田さんの言葉が、いつまでもいつまでも私のなかでリフレインしていた。

 翌日の土曜日は、午前中に母を見舞い、午後は家でゆっくりと過ごすことにした。
何をしていても、気がつけば頭の中で岩井田さんの言葉が回っていて、結局手を止めて考え込んでしまう。
それで私は、週末に残していた家事も持ち帰った仕事もいったん止めて、一人でよく考えてみることにした。
 実際、岩井田さんの話にはとても惹かれるものがあった。今まで裏方ばかりしてきた私が、あんなふうに率直に、しかも名指しで求められることなんて、今までほとんどなかったから。
 岩井田さんに応える自分も想像してみた。しかし最後にはどうしても、母の顔が頭を過ぎってしまう。
 新しい仕事を始めれば、慣れるまではきっとそちらにかかりきりになってしまうだろう。しかも岩井田さんは、私にこれまでのようなアシスタント業務だけを求めているわけではない。小さな会社だから、一人ひとりに与えられる仕事量だって、今の比ではないだろう。
だからといって、母のことを放っておくわけにはいかない。母との残りわずかな大事な時間を、これ以上削りたくはない。
 結局、私はここで諦めてしまうのだ。どう考えても、今優先すべきは母のことだ。でもこんなチャンス、もう二度とないんだろう……。
 淹れていた珈琲を飲むのも忘れ、一人堂々巡りを繰り返していると、コツコツと玄関のドアを叩く音がした。
「はい?」
「俺」
 ドアフォン越しに上村の声がする。ドアの鍵を外すと、スーツ姿の上村が入ってきた。
「あれ、今日仕事だったの?」
「そう」
 そう言って、いつものように無表情でスーパーの袋を渡す。
「ありがと。上村ほんとに好きね、グレープフルーツ。家でも食べてるの?」
「食べないよ。剥くの面倒くさいし」
 ネクタイを緩めながら、上村は勝手にリビングのソファーに腰を下ろす。その姿も、すっかりこの部屋に馴染んでしまった。
 「面倒くさいから、私のところで食べてくのね」
 私はキッチンに向かい、包丁とまな板を取り出した。上村がこの部屋に来るようになった頃は、もらったグレープフルーツを半分に切ってスプーンで掬って食べていたけど、今では一房ずつ綺麗に切り分けられるようになった。
瑞々しい果肉の欠片を一つだけつまみ、上村に気付かれないようにこっそり口に含む。口の中一杯に、今はもう食べ慣れた酸味が広がった。
「先輩、昨日いなかった」
 いきなり後ろから声がして驚いた。慌てて口の中の果肉を飲み込む。
「昨日来たの? ……ごめん、病院から帰るの遅くなって」
 上村に、嘘をついてしまった。岩井田さんからの引き抜きの件は、いくら上村でも話すわけにはいかない。
「嘘つくなよ。俺がここに来たとき9時過ぎてたよ。面会時間なら、とっくに終わってるだろ」
「えっ、と……」
あっさり嘘がばれてしまい、焦っていると。
「ココにいなきゃダメでしょ、先輩は」
「……え?」
 突然、背後から上村の腕が伸びてきた。顎を持ち上げ、上村は親指で下唇をさっと撫でる。すぐに私を解放すると、上村は親指の先をぺろりと舐めた。
「……すっぱ。先輩、つまみ食いしたでしょ」
「ちょ、ちょっと上村!」
 急に触れられて、心臓が音を立てた。赤面した私が睨みつけても、上村は何食わぬ顔でリビングに戻っていく。
 ……からかってるつもり? 冗談じゃない。
 動揺しているのを誤魔化したくて、必死で話題を探した。そういえば、昨日の電話のことを確認していなかった。上村は私が残したメモに気付いてくれただろうか。
「ねえ上村、昨日のメモ見てくれた?」
「なんのことですか?」
「私が受けた電話のメモがデスクに置いてあったでしょう。確か……土井さんって女性からだった」
「……ああ」
「ちゃんとコールバックしてくれた?」
「忘れてた」
 上村の返事はやけに素っ気無かった。今までこの部屋にかすかに漂っていた淡く甘い空気が、上村の一言で一気に消え去った気がした。
「仕事関係じゃないの? あ、ひょっとして私が連絡先を聞きそびれたから……」
「違う、あんたには関係ない」
 返って来た声の冷たさに、体がびくりと跳ねた。いつもの飄々とした感じも消え、感情を感じられない、無機質な声だった。
「……関係ないって、そんな言い方ないんじゃないの?」
「そうですね……すみません」
 すぐに冷静さを取り戻したのか、上村は素直に謝ってきた。気まずいのか、そのままソファーに座り込み、顔を上げようとしない。
「仕事のトラブルとかじゃないの? 私じゃ役に立てない?」
「大丈夫ですから、本当に」
 返事は頑なだった。気にはなるけれど、これ以上、私は触れない方がいいのだろう。黙り込んだままの上村に、今度は私が折れた。
「もういいわ、私もしつこかった。一緒にグレープフルーツ食べよう。私は上村とケンカしたいわけじゃないよ」
「それは、俺もそうだけど……」
 上村が、ふっと安堵のため息を漏らした。一体なにが癇に障ったのだろう。私には、上村が抑制の効かなくなった自分を恥じているようにも見えた。
 私は、ローテーブルにグレープフルーツの入ったガラスの器を二つ置き、上村の向かい側に腰を下ろした。上村は手を出さずに、じっとグレープフルーツを見つめている。
「食べないの?」
「……いや、いただきます」
 私が訊くと、上村はようやく器のに手を伸ばした。
 どうして上村は、自分のことは何も言ってくれないのだろう。プライベートを明かしたくないなら、せめて仕事のことくらい話してくれてもいいのに。やっぱり私では、聞き役にもなれないということなのだろうか。
 上村が何も言ってくれないことに寂しさを覚えながら、私は上村がグレープフルーツを口に運ぶのをぼんやりと眺めていた。
 
「三谷さーん、久しぶりのランチなのに、何ぼーっとしてるんですかぁ」
「あ、響子ごめん。で、なんの話だっけ?」
「だから、美奈子ですよ。美奈子!!」
 私は久しぶりに響子に誘われて、会社近くのカフェへランチに来ていた。
響子が私を外ランチに誘うときは、たいてい何か聞いてほしいことがあるときだ。
「そうそう、美奈子のことだったわね。それで、そんなにひどいの?」
「もうホント、ひどいなんてもんじゃないですよ!」
 私が訊くと、響子はテーブルに両手をついて身を乗り出して来た。反動でグラスの水が波打つ。
「三谷さんが異動した途端、自分がリーダーみたいな顔してばんばん仕事回してくるし。ホント冗談じゃないです!」
 私と上村がオアシス部へ異動したての頃は、美奈子があちこちに八つ当たりをして、部内はかなりぎすぎすしていたらしい。
 それが最近になってようやく落ち着いてきたと思ったら、今度は美奈子が急に張り切って仕事をし出したという。まあ仕事と言っても、響子が言うには主に『仕切ること』らしいけれど。
「ふうん、あの美奈子がねえ。でもいいことじゃないの」
 少しでも楽をしようと、仕事をサボることばかり考えていたあの頃の美奈子に比べたら、仕事に興味を持つだけでも大進歩だ。
「良くないですよ。美奈子がどんどん仕事を押しつけてくるせいで、最近私、毎日残業ですよ!?」
 響子はまだまだ話したりないみたいだったけれど、そろそろ戻らないと昼休みが終わってしまう。渋る響子を何度も急かして、会社まで歩いて5分の道のりを駆け足で帰った。
「もうっ、ごはん食べたばっかりなのにぃ」
「それは……こっちのセリフよ」
 会社のロビーで一度立ち止まり、響子と上がった息を整えた。頑張って走ったおかげで、なんとか間に合った。
「ねえねえ三谷さん、あれって上村くんですよね?」
「え?」
 響子の視線を追うと、広々としたロビーの端に、一人の女性と話し込んでいる上村がいた。
「一緒にいる人、誰だろう。見かけない方ですよね。仕事関係って感じでもなさそうだし……」
 私たちに背を向けて立っている女性は、ブラックのツーピース姿だった。パッと見た感じ、フォーマルスーツのように見える。
年齢は、私よりも少し上くらいだろうか。凛とした横顔が印象的な、美しい女性だった。
「誰なんだろう。なんか気になるー。休憩時間中だし、仕事の相手とは限らないですよね。ひょっとして……彼女とか? でも、ちょっと人妻っぽい気もするしなあ」
 ゴシップ好きの響子の目が爛々としている。今にも上村に突撃しそうな勢いだ。
「ちょっと、止めなよ響子」
「どうしてですぅ? 三谷さんは気にならないんですか?」
「気にならないっていうか……」
 そう響子に言った瞬間、たまたま顔を上げた上村と目が合った。彼は私を見つけると、わずかに眉をひそめた。私はそんなつもりで見ていたんじゃないのに、いちいち詮索するなと言われたような気になる。
「別に、気にならないわ」
 そうだ、私がそんなこと気にしたって仕方がない。いくら私が心配したところで、肝心なところで結局上村は私を拒むのだ。どこか投げやりな気持ちで上村たちに背を向け、私はエレベーターの方へと歩き出した。
「あ、三谷さん。ちょっと待ってくださいよぅ!」
 追いかけてくる響子のことは振り返らずに、私はちょうど降りてきたエレベーターに乗り込んだ。響子も慌てて私に続く。
「祥子さん!!」
 閉まりつつあるエレベーターの扉の向こうから、確かに上村の声が聞こえた。
 エレベーターが上昇を始める。全面ガラス張りのエレベーターから、さっきの女性を追う上村の姿が見えた。忘れ物でもしたのだろうか。上村がその女性を引きとめ、何か手渡しているのが見える。そしてすぐに、私の視界は壁に遮られた。
 何かが引っかかる。私はエレベーターの階数表示の灯りをぼんやりと見つめこのひっかかりを思い出そうとしていた。
「祥子? 祥子ってどこかで……あっ!!」
「な、何? 三谷さんどうかしたんですか? そんな大声出して」
「ごめん、なんでもない。今日の午後に一件やらなきゃいけないことがあったのを、今思い出したの」
 仕事の話で誤魔化すと、響子はホッと息を吐き出した。
「なんだあ、いきなり驚かさないでくださいよ」
「ホントにごめん」
 響子に謝ったところで、ちょうどエレベーターがオアシス部がある三階に着いた。
「あ、じゃあまたね響子」
「はーい、おつかれさまです」
 響子に手を振って、エレベーターから降りた。
 ……思い出した。先日、不在の上村宛に電話を掛けてきた女性。彼女は確か『土井祥子』と名乗った。
そして私の部屋で上村が不機嫌になったのは、私があの女性の名前を出してからだ。彼女は一体何者なんだろう?
 響子には「気にならない」と言ったばかりなのに、上村と土井さんのことが、もう頭の中を回りはじめている。
たとえ私が勇気を出して、上村に土井さんのことを尋ねても、あの時のように「関係ない」と冷たく返されるのがオチだろう。
 それまで1階に留まっていたエレベーターの階数表示が、1、2と順々に赤く灯りだした。上村が戻る前に、オアシス部に戻らなくては。なんとなく今は、顔を合わせたくない。
エレベーターの到着音が聞こえる前に、私は急いでその場を離れた。
  
 金曜日、いつものように定時で仕事を終え、母の病院を訪れた。
夕方の閑散とした待合室を通り抜け、さらに建物の奥へと進む。中庭に面した渡り廊下を抜け、回りをたくさんの木々に囲まれた静かな場所に、母がいるホスピス棟がある。
 ナースセンターの看護師たちに挨拶をし、受付で面会記録に名前と入室時間を書き込んでいると誰かに後から声をかけられた。
「すみません。あなた、桜庭物産にお勤めですよね?」
 振り向くと、私のすぐ後ろに薄いピンク色のナース服を着た看護師の女性が立っていた。見覚えがあるような気もするけれど、咄嗟に名前が浮かばない。
「はい……あの、失礼ですがどちらさまですか」
「突然申し訳ありません。私、上村達哉の叔母で、土井祥子と申します」
「上村くんの?」
 間違いない、彼女は先日会社で上村と一緒にいたあの女性だ。
 彼女が上村の叔母? それにしては、上村ともそんなに年が離れてないように見える。
「三谷です」
 何が何だかわからないまま、とりあえず私も名前を名乗った。きょとんとしている私に、土井さんは笑いかける。
「驚かせてごめんなさい。実は一度、この病院であなたと達哉が一緒にいるところを見かけたことがあるの。それで、その時にピンと来て……」
 私と上村が一緒に病院に来たのは、母が危篤状態に陥ったあの夜の一度きりだ。それをたまたま見かけるなんて……。
それに『ピンと来た』だなんて、ひょっとして土井さんは私と上村のこと、勘違いしてる?
「土井さん、違うんです。あの日はですね……」
「あっ、三谷さんごめんなさい。私から声をかけといて申し訳ないんだけど、今あまり時間がなくて。もしよかったら、お母様のお見舞いの後にでもちょっとお時間いただけませんか? 実は、あなたにお話したいことがあるんです」
「え、私にですか?」
「はい」
 土井さんはにこにこと人懐っこい笑みを浮かべている。話って、やっぱり上村のことだよね……。
上村は、私が土井さんの名前を出した時、ひどく腹を立てた。ひょっとして彼女と話せば、その理由を知ることができるんじゃないだろうか。
 ……知りたい、上村のこと。上村がどうしてあんなに他人を拒むのか、その理由を知りたい。
私が好きな人は、一体何に傷ついているのかを知りたい。
本人もいないのにこういうことを訊くなんて、いけないことだとはわかってはいたけれど、私にはもうその気持ちを止めることができなかった。
「今日はもうちょっとで上がりなので、1階の待合室でお待ちしてますね」
「……わかりました。伺います」
 気がつけば、私は彼女の言葉に頷いていた。

 母の病室を出て、一階にある待合室へと向かう。すでに受付もクロークも閉じられていて、フロアの照明はほとんどが落されていた。
周りを注意深く見回しながら奥の方に歩いて行くと、待合室の一番奥、白っぽい光を放つ自動販売機の前に、缶コーヒーを持った土井さんが立っていた。
纏めていた髪を下ろして、ナース姿の時とはまた違った印象だ。肩下まである、緩いウエーブのかかった髪が、鼻筋の通った、すっきりとした顔立ちにほどよい甘さを加えている。
全体の印象は違うけれど、顔を見れば、やはり上村に似ているな、と思った。
 それにしても、私に何の話があるのだろう。土井さんの姿を見つけて俄かに緊張した私は、いつの間にか手のひらにうっすらと汗をかいていた。
「土井さん、お待たせしてすみません」
「ああ、三谷さん。私も今来たところだから。申し訳ないんだけど、先に託児室に息子を迎えに行ってもいいかしら?」
「えっ、土井さんって子供さんいらっしゃるんですか?」
 私と大して年も変わらないように見えるのに、こうも違うのかと不思議な気持ちになる。
「ええ、今4才です。……うちの子、達哉の小さい頃と似てるの。可愛いわよ」
 そう言って口元を綻ばせる土井さんは紛れもなく母親の顔をしていて、私は勝手な想像と嫉妬で心を暗くした自分のことを恥ずかしく思った。
「上村くんって、本当に土井さんの甥御さんなんですね」
「ふふ、ひょっとして違うんじゃないかと思ってた?」
「はい、実は……」
「ママ!!」
 託児室の中から男の子が元気よく飛び出してきた。この子が土井さんの息子さんだろうか。確かにこの子も、くせのある髪と涼しげな目元が上村とよく似ている。
「お待たせ、拓海たくみ。ママちょっとこのお姉さんとお話があるから、あっちでジュース飲んで待っててくれる?」
「わかった! 僕、サイダーがいい」
「炭酸はだめよ。フルーツジュースにして」
「えー」
 ほっぺたを膨らませて、体全体で土井さんに抗議する拓海くんがかわいらしい。上村にもあんな頃があったのだろうか。
結局は土井さんの方が折れて、拓海くんはサイダーの缶を手に大喜びで中庭のベンチの方へに駆けていった。
「もうっ、拓海! そんなにはしゃぐと転ぶわよー」
「だいじょうぶー」
 拓海くんは一度立ち止まり、私たちに向かって大きく手を振ると、再び中庭に向かって走って行った。
「拓海くん、かわいいですね」
「元気すぎて、ついていけない時もあるけどね」
 中庭に着きベンチに腰掛けると、土井さんは夏の花々が咲く花壇の周りを走り回る拓海くんを愛しげに見つめた。
「よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
 土井さんから缶コーヒーを受け取り、一口飲んだ。冷たく甘いコーヒーがカラカラに乾いた喉を滑り落ちる。土井さんに突然声をかけられた理由がわからない私は、漠然とした不安を感じ緊張していた。
「あの子……達哉は、私の姉の子供なの。私は姉より達哉との方が年が近いから、子供の頃は兄弟みたいにして遊んでたわ」
「ああ、それで上村くんは土井さんのことを祥子さんって呼んでたんですね」
「そうよ。でもどうしてそれを?」
「土井さん、先日会社にいらしてましたよね。実はあの時、私も土井さんのことお見かけしたんです」
「ああ、三谷さんもあそこにいらしたのね。ねえ三谷さん、良かったら私のこと名前で呼んでくれない? 私もあなたのこと、下のお名前で呼ばせてもらってもいいかしら?」
「もちろんです。――私、香奈っていうんです。三谷香奈」
「香奈さんね。素敵、かわいらしい名前だわ」
 祥子さんの心遣いに心が温かくなる。きっと私が緊張していることに気付いて、距離を縮めようとしてくれたのだろう。母以外の人に下の名前で呼ばれるなんて久しぶりで、少しこそばゆかった。
「ねえ、香奈さんはあのときのこと、達哉に何か聞いてる?」
「あの時って……祥子さんが会社にいらしてた時ですか?」
「そう」
「いえ……特には何も。そういえば、その数日前にオアシス部で祥子さんからの電話を受けたのも私だったんですけど、上村くんにそのことを伝えたら、何故か急に機嫌が悪くなってしまって。……私、彼を怒らせたみたいです」
「ええっ、そうだったの? ごめんなさい。私ったら知らず知らずのうちに、香奈さんのこと巻き込んでしまってたのね」
「いえ、電話を受けるのも仕事のうちですから。ただどうして彼が機嫌を悪くしたのか私にはさっぱりわからなくて、ずっと気になってたんです」
 私が言うと、祥子さんは少し寂しげに微笑んだ。
「それはきっと、私のせいね。実はあの日は、達哉の母親の命日だったの」
「え? 上村くんのお母さん、亡くなってるんですか?」
「ええ、姉は四年前に亡くなってるのよ。達哉から聞いてなかった?」
「はい、何も……」
 母親のことどころか、上村のプライベートのことなんて私は何も知らない。母の病気のことも過去の恋愛話も、私は何もかも打ち明けているのに、上村は自分のことになると途端に寡黙になる。
やっぱり私は、上村の心の壁を取り払えるような存在ではなかったのだ。最初からわかっていたはずなのに、こうやって改めて思い知らされると胸が痛い。
「達哉ってあまり自分のこと話さないでしょう?」
「ええ……どちらかと言うと、そうかもしれないですね」
「昔からそうなの。仕事が忙しいお義兄さんに代わって姉を助けて、弟……直人なおとっていうんだけど、その面倒も見て、子供らしいわがままを言ってるとこも見たことない。見兼ねて私も『それで疲れないの?』って聞いたことあるんだけど、あの子『別に』としか言わないのよ。絶対に自分の感情を表に出さないの」
「それは……そうですね、今でも同じです」
 少しの感情も覗かせずに、口癖のようにそういう上村が脳裏に浮かぶ。私だって、これまで何回も上村の口からその言葉を聞いた。その度に上村の本心が見えなくて苦しくなる。
「四年前姉が亡くなったときもそう。病院から姉が危篤だって連絡があった日、達哉は今の会社の最終面接があって、病院よりまずそっちに向かったの。面接はうまくいったらしいけど、結局姉の最期に間に合わなくて。
姉もお義兄さんも達哉にはとても期待してたから、たぶん達哉は少しでも早く就職を決めて姉を安心させたかったんでしょうけど……葬儀の席で、母親より自分の就職を優先させたことを直人に散々責められたの。親族の前で『兄さんは冷たい』って詰め寄られても、あの子一言も言い返さなかった」
「……ひょっとして、上村くんと弟さん今でも?」
 上村が自分のことを何も語ろうとしないのは、そのせいなんだろうか。
「ええ、未だに仲違いしたままなの。この前だって、達哉ったら姉の法事に顔も出さなくって。だから私、わざわざ達哉の会社まで説教しに行ったのよ。仲のいい兄弟だったから、このままでいいと思ってるはずないんだけど……」
 祥子さんの話に愕然とした。やはり私なんかが聞いていい話ではなかったのではないだろうか。上村の心の傷は、私の想像なんてはるかに越えるほど深い。
「ねえ、三谷さんからも達哉のこと説得してくれないかしら? 誤解を解いて直人と仲直りするように」
「私が、ですか?」
「ええ、達哉だって私はダメでも恋人の言うことなら素直に聞くんじゃない?」
「それは……」
 やっぱり、祥子さんは私と上村のこと誤解していた。勘違いしていると薄々わかっていたのに、関係のない私が上村のプライベートの話を聞いてしまったなんて、今さらながら申し訳なく思えてくる。
「祥子さん、違うんです。私と上村くんは本当はそういう関係じゃなくて……」
「え? そうなの」
「本当です。それなのに私ったらお話を全部聞いてしまって……。本当にごめんなさい」
 頭を下げる私に驚いたのは一瞬で、祥子さんはすぐに顎に手をあて「うーん」と考え込んでしまった。
「本当に、そうなのかなあ?」
「え?」
 今度は私の方が驚く番だった。しかし祥子さんは首を傾げ、まだ考え込んでいる。
「だって香奈さんと一緒にいた時の達哉、香奈さんのことが心配で仕方ないって感じだったわよ」
「それは……たぶん同情だと思います。かっての自分と同じように、病気の母親を抱える私への同情っていうか……」
 祥子さんの話を聞いた今となっては、もうそれは、確信に近い。
あの夜のことだってそうだ。かつての自分と同じように、家族を失いかけている私のことを放っておけなかっただけだろう。上村が普段隠している、彼本来の優しさには、私だってとっくに気がついている。
「本当にそれだけなのかしら? さっき私、『達哉は感情を表に出さない』って言ったけど、あの夜の達哉はなんだか違ったの。あなたのこと、心底心配していたと思うわ。あの子、あなたが傷つかないように必死だったと思う」
「……そうでしょうか」
 母のことがあった夜、私は自分のことだけで精一杯だったから、上村がどんな様子だったかなんて覚えていない。祥子さんは、あの日の上村の優しさは、普段とは違う何か特別なものだったとでも言いたいんだろうか。
「こんなこと私が言うべきことじゃないんでしょうけど。香奈さん、達哉のことを諦めないでいてあげて」
 ああ、やはり祥子さんは気付いてるんだ。上村の気持ちはともかく、私が上村に惹かれていることを。
「あなたなら、達哉の頑なな心を解きほぐしてあげられるかもしれない。達哉のことを誰よりも理解してあげられるかも……」
「そうなれたらいいんですけど……」
 上村が構える壁は頑丈だ。私にそれを少しずつ崩すことができるんだろうか?
「焦らなくていいの。お互い長期戦でいきましょうよ」
 そう言って祥子さんは私に笑いかけた。彼女の笑顔は力強くて、折れそうな私の心を温かく照らしてくれた。胸の奥に微かな希望が湧いてくるようだった。
  
「失礼します」
「ああ、三谷さん。お茶をありがとうございました。とても美味しかったですよ」
「ありがとうございます、館山部長」
 今日は朝から部内の定例ミーティングがあり、オアシス部の営業社員が集まって、テナント契約の進捗状況の報告があった。現時点で難航しているところはないらしく、皆顔つきも穏やかだ。
 ただ、アパレル関係のテナントを担当している営業社員が一人夏風邪をこじらせてしまい、長い期間欠勤していた。アパレル部門はテナントの件数も多く、一人でも担当が減るとすぐに回らなくなるらしい。
彼の代わりに上村がそのフォローに走り回っていると、私は岩井田さんから聞いていた。上村はよほど忙しいのか、しばらく私も社内で彼の姿を見かけていない。
 それなのに、今日に限って、慌ただしく次の仕事へ向かう面々の中に上村を見つけた。上村は自分のデスクへ戻ろうとしていたところを部長に呼び止められ、二人で話しこんでいる。
視界の端で上村のことを気にしながら、私はそっとミーティングルームを後にした。
 あれ以来、上村は私の部屋には来ていない。仕事も忙しそうだけれど、避けられているような気もする。会社でも、たまに顔を合わせても視線を外されてばかりだった。
 あの夜、私は上村に踏み込みすぎたのだろうか。だから上村は、私のことを避けている?
また上村に拒絶されるのが怖くて、私は自分から上村に声をかけることができずにいた。
 給湯室に戻り後片づけをしていると、廊下から誰かの足音が聞こえてきた。
「お疲れさまです」
 振り返ると、これから外出するのか、片手にビジネスバッグを提げた上村が立っていた。
「……お疲れさま」
 こうして、真正面から上村を見るのは久しぶりだ。とても長い間、彼と言葉を交わしていなかったような気がする。久々の上村は、かなり疲れが溜まっているように見えた。
「先輩、俺今すげー忙しいんだ」
「うん、知ってる。岩井田さんから聞いてるよ。他の人のフォローまでやってるんでしょ」
「もう、飯食う暇もないくらい」
 何が言いたいのだろう?
「上村、ちょっと痩せた? ちゃんと食べられるときに食べなきゃ倒れちゃうよ」
 期待してしまいそうになる気持ちを押さえて、私は先輩風を吹かせた。そんな私に、上村はついと歩み寄る。
「俺、先輩の飯が食いたい」
「ああそうなの、って……え?」
「今日行ってもいい?」
「あー……、いいけど。上村、私のこともう怒ってないの?」
「どうして?」
 上村を怒らせたように感じたのは、私の勘違いだったんだろうか。上村は眉をしかめて、小首を傾げている。
「だって……、いや、やっぱりなんでもない」
 私は片手を振って誤魔化した。
「俺今日直帰だから、出先からそのまま寄ります」
「ん、わかった」
「じゃあ」
 それだけ言うと、上村はすぐに出て行った。
 今夜、上村が来る。食事を当てにされているだけなのに、どうしても心が浮き立ってしまう。
「こんなことやってる場合じゃない。仕事片づけなくちゃ」
 なんとか頭の中を仕事一色に切り替えて、私は給湯室を後にした。

「ねえ三谷さん、今夜ヒマ?」
 口元をファイルで覆い隠した岩井田さんが、オフィスの隅でコピー機を陣取る私に声を掛けてきた。
「え? 何ですか、いきなり……っていうか岩井田さん、何ですかそのファイル?」
「これ? 三谷さん口説いてるの、他の人にばれないようにね」
 岩井田さんの瞳が、眼鏡越しに細まるのが見えた。ああ、いつもの岩井田さんのジョークだ。
「そんなこと言って、また変な噂を立てられても知りませんよ」
「何、変な噂って?」
「聞きましたよ、この間飲料部の女の子に飲みに誘われてたって。その前は確か受付の女の子」
「えっ? なんでそんなこと三谷さんが知ってるの」
「女子社員のネットワークは凄いんですよ。聞きたくなくても、色んなところから耳に入ってくるんです」
「うわぁ怖いな、以後気をつけるよ」
 そう言って首を竦める岩井田さんに、また笑いがこぼれてしまう。
 岩井田さんは今ではすっかりオアシス部のムードメーカーだ。経験豊富で仕事もかなりできるのに、必要以上に肩肘張ったりしていない。会話にユーモアもあって、彼といると自然とみんな笑顔になれる。
後輩にも慕われているし、最近はオアシス部だけじゃなく他の部の女の子たちにも人気があるらしい。色んな場所で、彼の話題を耳にすることも多くなった。
 私自身、彼と一緒に組むようになって、だいぶ会社で笑顔が出るようになったと思う。組んだばかりの頃は、しょっちゅう『三谷さん、また肩に力入ってる!』だとか『そんな厳しい顔してたら、いい仕事出来ないよ』なんて言われたものだ。
そんな彼の口癖は『自分も楽しまなくちゃ、いい仕事は出来ない』だ。
「それで岩井田さん、私に何か御用ですか?」
 コピーし終えた紙の束を作業台の上で揃えながら、私は岩井田さんに尋ねた。
「なんだかつれないセリフだなあ」
「だって、岩井田さんの『口説く』は私の場合、仕事限定でしょう?」
「そんなこともないんだけどな……」
 岩井田さんはファイルを片手に頭を掻いている。そんな姿に、ついまた私は吹き出してしまう。
「今日はホントに仕事じゃないよ。たまには三谷さんと飲みに行きたいなーと思っただけ」
「えっ、そうなんですか?」
 少し、迷う。岩井田さんと飲み、と言ったらまた例の話になるだろう。
独立の話は、母のことを理由に何度かやんわりと断っているけれど、岩井田さんはなかなかにしつこかった。こうやって相手を不快にさせずに食い下がるところは、さすが営業だなと思う。
「どう? 三谷さんの好きそうな店、見つけたんだけどな」
「すみません、今日はやっぱり」
「用事あるんだ?」
「そんなところです」
「ああ残念。それじゃあ、お楽しみは次回に取って置くよ」
「はい、ごめんなさい」
 岩井田さんは、引き際も潔い。
「三谷さん」
 軽く頭を下げる私に、岩井田さんが呼びかける。
「俺、断ったから」
「……何をですか?」
「飲みには行ってないから。飲料部の子とも、受付の子とも。……じゃあね」
「はい……」
 なぜ私に、わざわざそんなことを?
女の子の飲みの誘いに応じたからといって、岩井田さんがそんなに軽い人間ではないということもわかっているつもりだし、今さら岩井田さんへの信頼も揺るがない。
 首を傾げる私に、微かな笑みを残して岩井田さんは去って行った。

 急いで残りの仕事を片づけ、定時5分過ぎにはPCの電源を落した。
 今日は何を作ろうか。頭の中でこっそり今夜のメニューを組み立てて行く。私はいつの間に、上村と過ごす時間をこんなにも待ち望むようになっていたのだろう。
 会社からまず母の病院に行き、その帰りにスーパーに寄って夕食の材料を揃えることにした。八月の夜のはじまりは遅い。最寄のバス停でバスを降り、ようやく暗くなり始めた通りを歩いて目的の店を目指した。
 スーパーの自動ドアを抜けると、外との温度差に驚く。蒸し暑い中、早足で来たせいで体中に浮いていた汗が一気に冷えて、一瞬身震いがした。
 カートに買い物カゴを載せ、入り口側から順に歩いていく。サラダ用の野菜を選びながら陳列棚の間を歩いていると、ついそれを見つけてしまった。
フルーツコーナーの真ん中に、山のように積まれたグレープフルーツ。閉店まであまり時間がないというのに、たくさんの丸い果実で作られた綺麗なピラミッドはまだどこも崩れてはいない。
私は慎重に、その一番上に鎮座するグレープフルーツを一つ手に取った。
上村が部屋に来るたびに口にしていたから気づいていなかったけれど、よく考えてみたら、こうして自分で買うのは初めてだ。一つでも十分持ち重りのするそれを手のひらに乗せていると、今年の春に上村と再開してからの数ヶ月のことが次々と浮かんでくる。
「もう一つ、買っておこうかな」
 空いた方の手で、あと一つグレープフルーツを掴もうと手を伸ばすと、それまで完璧に保たれてきた果実の均衡が、脆くも崩れ去ってしまった。
「うそっ、どうしよう!」
 次々に、まるで雪崩でも起きたかのように一斉にグレープフルーツたちが床目掛けて転がり落ちていく。私は、手に持ったままだったグレープフルーツをカートに載せたカゴの中に押し込むと、慌てて床にしゃがみこみ、グレープフルーツを拾い集めた。
 一つ、また一つと拾い上げたものをカゴの中に入れていく。しかし、買い物カゴの容量なんて高が知れていて、あっという間に一杯になってしまった。みんな案外冷たくて、他の客たちは遠巻きに私を眺めているだけで、誰も手伝おうとしない。
「とりあえず、店員さん呼ばなきゃ」
 一人でやっていても埒が明かない。近くにいる誰かに店員を呼びに行ってもらおうと顔を上げた時だった。
「先輩? こんなところで何やってんの」
 突然、私の目の前にスーツ姿の男性が現れた。足からたどって見上げると、必死に笑いを堪えている上村が立っていた。
「見ればわかるでしょ。突っ立ってないで手伝って!!」
「はいはい、ホントに先輩は世話が焼けるね」
「悪かったわね」
 上村の軽口に、一人で焦っていた私も苦笑が漏れる。
 また上村に、助けられてしまった。
 いつまでも嫌味ったらしい笑みを浮かべる上村と一緒に、四方八方に散らばるグレープフルーツをなんとか一ヶ所にまとめた。遅れて、ようやくこの騒ぎに気づいた店長らしき男性がこちらに走ってくる。
「あー、これはまた派手にやっちゃいましたねえ。大丈夫です、お客様。あとはこちらでやっておきますので」
「そんなわけにはいきません。私、弁償します!」
「大丈夫ですよ。そんなに傷はついてないようですし」
「買います!」「いや、大丈夫!」と押し問答する私たちの隣で、ついに堪え切れなくなった上村が盛大に吹き出していた。
 
「店長がいいって言ってんだから、何も買い取る必要なかったんじゃないの?」
「私が全部落としたんだもん。そんなのダメよ」
「ホントにクソ真面目だよね。それにしても、会社じゃしっかりして見えるけど、先輩って案外抜けてるよね」
「うるさいわね! その話はもう止めにしてったら」
「相良たちに話したら、あいつら大喜びで言いふらすんじゃねえ?」
「いい加減にしないと、これ食べさせないわよ」
 面白がって、いつまでもからかうことを止めない上村に腹を立てた私は、揚げたてのエビフライの山を指差した。レモンの代わりにお皿に添えるのは、もちろんくし切りにしたグレープフルーツだ。
「わかったから、菜箸振り回すなって。でもどうすんですか、こんなにたくさんのグレープフルーツ」
「全部食べるわよ。食べるに決まってるでしょう?」
 冷蔵庫に入りきらなくて、スーパーの袋に入れたまま床に置いたたくさんのグレープフルーツを指差して、上村がまた小ばかにしたように笑う。
 結局私は、傷物になったグレープフルーツを全て買い取った。今日からしばらくは毎食グレープフルーツだ。大丈夫よ、こんなに美味しいんだもの。これくらい、別にどうってことない。
「俺がまた食べに来てあげますよ。なんなら毎日来てあげようか?」
「結構よ」
いつまでたってもクスクス笑いを止めない上村を、私は半ば本気で睨みつけた。
 そうよ、元はと言えばこうなったのは上村のせいじゃない。
上村がうちにグレープフルーツを持って来るようにならなければ、私だってあの棚の前で立ち止まったりしなかった。グレープフルーツなんて買おうと思わなければ、こんなにたくさんのグレープフルーツを傷物にしなくてすんだはず。
私は、思わず上村に八つ当たりしてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
 でもさっきの事件のおかげで、先週からずっと続いていた上村との間の気まずい空気は消えていた。……私はむしろ、今日我が家にやって来たグレープフルーツたちに感謝するべきなのかもしれない。
「先輩ってコーヒー淹れるのもうまいよね。詳しいの?」
「全然。使ってるのも普通のコーヒーよ。スーパーで買えるやつ」
 食事を終え、二人で食後のコーヒーを飲んでいた。お腹が満たされて落ち着いたのか、上村の表情もリラックスている。
「お茶もうまいし、コーヒーもうまい。満足にお茶一つ入れられない女子社員たちに、講習会でもしてあげれば?」
「どうして私が。上村だっておいしいお茶淹れられるじゃない。上村こそ講習会やれば? みんな喜んで参加するわよ」
「やだよ、面倒くさい」
「何よ、それ」
 自分が面倒くさいって思っていることを、どうして私にやれだなんて言うのだろう。あんまりな言い草に、つい吹き出してしまう。
「そういえばさ、上村ってどこでお茶の入れ方を習ったの? 女の子でもちゃんとした手順を知らない人も多いのに」
 実はずっと、不思議に思っていた。上村はお茶の入れ方だけでなく、急須や湯呑みを熱湯で温めるところから知っていた。一体誰に教わったのだろう。
「……母親が、そういうのうるさくて。家でやらされてただけですよ」
「へえ……そうなんだ」
 今初めて、上村から家族のことを話してくれた。それとなく話題を振ってみようか。――ご家族のこと、私にも話してくれるだろうか?
「上村のお母さんって厳しい方なの?」
「いえ、全然。普段は温厚なんだけど、躾となると厳しかったって感じかな。うちの母親あんまり家に居なくて、俺が家事を手伝うことが多かったから、どうせやるならちゃんと覚えろってとことん仕込まれた」
「いいお母さんじゃない」
「まあ……そうですね」
上村の表情が柔らかくなった。やっぱりお母さんのこと、好きだったんだな。
 ……これは、祥子さんに言われたことを話してみるチャンスなんじゃないだろうか?
余計なお節介だと言われるのも覚悟して、ついに私は声を出した。
「上村あのさ、上村のお母さんって亡くなってるのよね?」
「……は?」
「実は……この前、母の病院で祥子さんに会ったの。土井祥子さん、……上村の叔母さんなのよね?」
 再び祥子さんの名前が私の口から出たことに驚いたのか、上村はコーヒーカップを口に運びながら眉間にしわを寄せた。不機嫌さを隠そうともしない。
ほんの数秒で、それまでの和やかな雰囲気は一変してしまった。
「先輩、祥子さんに会ったんだ……へえ」
 握っていたカップを静かにテーブルに置くと、上村は私を見て微笑んだ。
目が、笑っていない。上村の瞳の中に、静かな怒りの炎がちらついた気がした。
「それで、何か言われたんですか? あいつは親不孝者だから気をつけろとか?」
「違う、祥子さんがそんなこと言うわけないじゃない! 上村ならわかるでしょう?」
「それじゃあ、一体何なんですか。第一、祥子さんがどうして先輩のこと知ってんの」
「それは、祥子さんがたまたま病院で私と上村が一緒にいるところを見かけたらしくって。その、私のことを上村の恋人だと勘違いしたらしくて……」
 私がそう言った途端に、上村はきつく眉根を寄せた。
「……へえ、一回寝ただけで恋人気取り? 先輩も、案外つまんないね」
 吐き捨てるように、上村が言う。胸がズキリと痛んだ。決して期待をしていたわけじゃないけれど、今の私には、やはりきつい。
「違うよ。それは誤解だってちゃんと説明した」
「じゃあ、何? 二人して一体俺に何がしたいわけ?」
「……上村、お母さんが亡くなってることどうして私に言ってくれなかったの?」
「そんなの、別に自分から言いふらすようなことでもないだろ」
「それはっ、そうだけど……。気を遣ってくれたんじゃないの? 私の母が病気を抱えているから……」
 それは、一縷の望みだった。私に黙っていたのは上村なりの優しさだと、そう信じたかった。だけど、返ってきた上村の声も視線も全て、今まで感じたことがないほどに冷たいものだった。
「別に。俺そんなにいい奴じゃないよ。先輩は知ってると思ってたけど」
「そんな、上村本当は優しいじゃない。どうして隠そうとするの?」
「……あんたホントにおめでたいな。何? 寝たら俺に情でも湧いた?」
 上村の、私を蔑むような視線に背筋が粟立つ。どうしたら? どう言えば私は上村の心を開くことができる?
「……そんなんじゃないよ。でも上村も苦しんでるんじゃないの? 私、見てられないんだよ。祥子さんだってそう。祥子さん上村のこと本当に心配してるよ。家族と……直人くんとちゃんと仲直りして欲しいって。このままでいいはずないって」
「祥子さん、そんなことまであんたに話してんのか。……ったく、何考えてんだよ」
「なんとか二人に仲直りして欲しいんだよ。一度くらい話してみたら――」
「悪いけど」
 上村の低く搾り出すような声に息を飲んだ。表情は変わらないのに、上村の静かな怒りの感情が矢のように突き刺さってくる。
「二度と俺のことに首突っ込まないで、先輩」
「あ……」
 ああ、まただ。またあの夜と同じ。上村は振り返ることもなくこの部屋を去って行く。
「待って上村っ……ごめん、ごめんなさい……」
 最後の私の声が、上村に届いたかどうかはわからない。
大きな音を立てて玄関のドアが閉まり、私はまたこの一人の部屋に取り残された。
 たぶんもう二度と、上村がこの部屋に来ることはないだろう。
頑丈なドアに私と上村が永遠に隔てられたような気がして、胸が締め付けられる。
 その時、玄関ドアの前にうずくまる私の足先に何かが触れた。
キッチンの床にそのままにしていたグレープフルーツが、まるで私を追いかけるようにここまで転がってきていた。
 ……それは、まるで呪縛のようで。
ビニール袋から溢れて、床を埋め尽くすように転がるたくさんの黄色い果実から私は目を離すことができなかった


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