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別離
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昨夜遅くに振り出した雨が、朝になっても降りやまない。
9月に入ったとはいえ、まだまだ暑い日が続いている。
こんな朝のバスは、湿気と人いきれで満ちていて最悪だ。ようやくバスから降りて、私は一息に外の空気を吸い込んだ。
あれから、上村とは一言も言葉を交わしていない。
職場では目も合わさないし、上村が給湯室までお茶をせがみに来ることももうない。
もちろん、部屋まで押しかけてくることも。
――元の生活に戻っただけなのに。
毎日会社に通い、母の様子を見て、一人の家に帰る。そうやって、毎日を過ごしていたはずなのに。
上村の不在が、この胸にぽっかりと大きな穴を開けた。そしてその穴は、当分埋まりそうになかった。
「あ……」
数メートル先に、紺色の傘を差して歩く背の高い後姿を見つけた。
広い肩、少しくせのある髪、傘を持つ大きな手。
一度は近付いたこの距離を、遠ざけたのは私自身だ。私が一番近くにいるのだと、なんの根拠もないのに自惚れていた。
一度開いてしまった距離は、たぶんもう縮まらない。
上村に追いついてしまわないように、私は歩くスピードを少し落した。
「三谷さん、今週の仕事の打ち合わせしたいんだけど、今時間いい?」
オフィスに着き、パソコンを立ち上げた早々、岩井田さんに声をかけられた。
「はい、大丈夫です」
「ここだと落ち着かないから、ちょっと出ようか」
「……わかりました」
岩井田さんが場所を変えて話をするなんて、珍しいことだ。彼と組んで3ヶ月近く経つけれど、そんなこと今までに一度もない。
また独立の話だろうか。話も進んでいるだろうし、岩井田さんも焦っているのかもしれない。
デスクの引き出しから手帳を取り出して、先にオアシス部を出た岩井田さんの後を追った。
岩井田さんは自販機がある休憩コーナーのベンチに腰掛けて、私を待っていた。
「じゃあ、はじめようか」
「はい、お願いします」
岩井田さんの予定を一つずつ手帳に書き込み、私が担当する書類を確認していく。今週は大きな商談もなく、比較的余裕がありそうだった。
「じゃあ今週もよろしくお願いします。三谷さん、ちょっとコーヒーでも飲もうか」
岩井田さんは自販機で二つアイスコーヒーを買い、近くのベンチに腰掛けた。
「三谷さんもどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
岩井田さんは、私の分の缶のプルタブも開けて手渡してくれた。
彼の気遣い方は、さりげないのに隙がない。そりゃあ女の子に人気があるわけだ、と思ってしまう。
「それで三谷さん、例の話なんだけど……」
岩井田さんはアイスコーヒーを一口飲むと、やはり例の話を切り出した。
「どうするか、考えてくれた?」
やはり打ち合わせは口実で、本題は引き抜きの話だった。
最近は上村とのことがあって気が塞いでしまって、岩井田さんからの飲みの誘いも断わってばかりいた。そうこうしているうちに、タイムリミットが迫ってしまったんだろう。岩井田さんにいつものような余裕がないような気がして、思わず視線を逸らした。
たとえ何度訊かれても、答えは決まっている。容態の安定しない母を抱えての転職は、私にはどうしても不安だった。
「岩井田さん、せっかく声をかけてくださったのにごめんなさい。やっぱり私……」
「どうしてもダメなの?」
私が言い終わらないうちに、岩井田さんはもう一度念を押す。
「はい。母のことがある以上、やはりここを辞めるわけには……」
「……三谷さん、僕は!」
「い、岩井田さん!?」
強い力で、右の手首を掴まれた。飲みかけのコーヒーの缶が、大きな音を立てて床に落ちる。
「君は、本当は誰のためにここにいるの? お母さんのためって言ってるけど、それは君の本心?」
「それは……どういう意味ですか?」
「君は、本当は……」
「岩井田さん……痛い。離して下さい!!」
「うわっ!」
手首を圧迫する痛みに我慢できず、私は思いっきり腕を引いた。不意をつかれた岩井田さんがバランスを崩して、私に覆いかぶさってきた。
「やっ……」
「三谷さーん、ここですかあ?」
突然壁の向こうから聞こえてきた声に、体が竦んだ。
「美奈子……」
重なるようにベンチに倒れ込む私と岩井田さんの前に、なぜか外食部の美奈子が立っていた。私たちの姿を見て、言葉を失っている。
私の顔の横に両手を突き、顔だけを美奈子に向け固まっている岩井田さんを押しのけると、私は今にも立ち去ろうとする美奈子の制服の裾を掴んだ。
「違うの美奈子!」
美奈子は私の声に振り向くと、私と岩井田さんの顔を見比べるようにして、ひどく冷静な声で答えた。
「お取込み中、大変失礼いたしました。……出直します」
そう言って私と岩井田さんに一礼すると、くるりと踵を返す。
「ちょっと、待ってったら! ねえ、美奈子!?」
美奈子は必死で呼び止める私を振り返りもせずに、足早に去っていった。
「す、すみません三谷さん。大丈夫ですか?」
岩井田さんは何とかベンチから立ち上がると、私に声をかけた。こんなところを女子社員に見られてしまって動揺しているのか、眼鏡がズレているのにも気付いていない。
「本当にすみません。こんなことをするつもりなんてなかったんです。……軽率でした。彼女に誤解されたりしたら申し訳ない」
必死に頭を下げる岩井田さんに、私は慌てて両手を振った。
「大丈夫です。これは……事故みたいなものですから。私こそ、ついびっくりして振り払ってしまって。お怪我はないですか?」
「僕は大丈夫」
何度も頭を下げる岩井田さんをどうにか宥め、私たちはオアシス部へ戻った。おかげで今日一日、岩井田さんともギクシャクして過ごすはめになった。
それにしても、とんでもないところを美奈子に見られてしまった。美奈子は、このことを言いふらすだろうか。
岩井田さんは女性社員たちから人気があるし、美奈子からすれば、これは私を追いつめる格好の材料のはずだ。
『あのお局が性懲りもなく、今度は岩井田さんに手を出した』とでも美奈子が触れ回れば、私は社内に大勢いる岩井田ファンの女の子を全て敵に回すだろう。そう考えただけで、気が滅入る。
それに、私にはもう一つ気になることがあった。
――美奈子は一体、何をしにここまで来たんだろう?
美奈子のいる外食事業部は5階でフロアも違うし、ここには外食部が用事で訪ねるような部署もない。
でもあの時確かに、美奈子は私の名前を呼んだ。私に会うために、わざわざこんなところまで来たの? でも、今の部署にいる限り私と美奈子の仕事上の接点は何もないはず。
「まあ何か言いたいことがあるなら、また向こうから来るよね」
こうして一人であれこれ悩んでても仕方がない。私はもう考えることを放棄して、デスクに積み上げられた書類に手を伸ばした。
数日後の昼休み。美奈子の様子が気になった私は、響子をランチに誘ってみた。
場所はこの前と同じ。会社から少し離れた、裏通りにあるカフェだ。昔ながらのカフェで、メニューもそんなに多くないせいか、うちの社員と鉢合わせすることはあまりない。
二人一緒に頼んだ日替わりランチを前に、私は響子に尋ねた。
「ねえ、そういえば最近美奈子ってどうなの?」
「えっ、美奈子ですか? うーん、どうって言われても……」
響子のこの様子では、岩井田さんとの一件は耳に入っていないようだ。美奈子のことだから、と心配していたのだが、あれから噂が立つようなこともない。いつもなら、私が絡むことなら特に、面白おかしく話を盛って、一番に言い触らすはずなのに。
美奈子が、あの日のことを黙っているだなんて、私には不思議でならなかった。
「そうねぇ、仕事とかどうなの?」
響子も聞いていないのなら、わざわざ私から言う必要もない。それとなく、話題を美奈子の仕事ぶりに持って行く。
「なんていうか……真面目ですねー。仕事もちゃんとやってるし。むしろ、美奈子のおかげで外食部が回ってるっていうか……」
「へえ、それって凄いことじゃない」
「何があったのかわかんないんですけど、私ちょっと美奈子のこと見直したかも。みんなが嫌がるような地味な入力作業とかも率先してやってるし」
響子の言う事が本当なら、随分な変わりようだ。以前の美奈子なら、嫌いな作業は他の子に押し付けて、さっさと定時には帰っていた。美奈子にも何か心境の変化があったということだろうか。
「そっか、それならいいんだ」
「すみません三谷さん、いつまでも心配かけて。私がもうちょっとしっかりしてれば、三谷さんにまで余計な心配かけなくてすむのに」
「ちょ、ちょっと、響子まで一体どうしたの?」
こんなことを言いだすなんて、今までの響子なら考えられなかった。
「んー、なんか悔しいんですよね。美奈子はもう野々村部長にも一目置かれてます。私なんて美奈子と同期なのに、いつまでたってもその他大勢を抜けられない……」
「響子……」
これは、美奈子の頑張りが他の女子社員たちにまで影響を及ぼしてるということだ。それも、いい方の。
「響子なら大丈夫。今まで通り仕事はきっちりやって、そしてよく営業さんたちのこと見てみて。そうすれば、自然と彼らが私たちに求めてることがわかってくると思う。彼らが動きやすいように先回りしてあげればいいのよ」
「三谷さん、それが一番難しいんですよー」
「大丈夫だって。ほら、デザートごちそうしてあげるから元気出して」
「本当ですか!? じゃあ私、プリンアラモード頼む!」
もうご機嫌が直ってる。響子って本当に単純だ。でもこんなところが無性にかわいいと思うんだけど。
無邪気に笑う響子を見ていると、なんだか私まで元気が出てきた気がする。
「私もデザート食べようかな。響子メニュー取っ――」
「はい三谷さん、メニュー。……どうかしたんですか?」
カフェの大きなガラス窓の向こうに、上村がいた。
カフェの中に私がいることに気付いた上村と、一瞬だけ目が合う。でも、すぐに視線は逸らされた。上村の隣に、寄り添うようにして歩く女性がいる。
「あれぇ、あれって上村くんですよね。一緒の人、誰だろ?」
響子はフロアが違うから、彼女のことを知らないのだ。
「ああ、あれはうちを担当しているコンサルの麻倉さんって人」
何でもないことのように、彼女の名前を口にした。少しでも私が気にしている素振りをしてはいけない。
だって響子は、他人の恋愛沙汰が好きだから。
「それじゃあ、取引先の人ってことですか?」
「そう。今日あそことの打ち合わせ、予定に入ってたかな」
それとなく仕事を匂わせてみる。でも、響子には通じなかった。
「でもあの女の人、やけに距離近くないですか?」
「そうかな」
確かに、そういう風にも見える。まるで、仕事の合間に待ち合わせた恋人同士のようにも。
「やー、どうしよ。ちょっとワクワクしてきちゃいました、私」
「響子ダメよ、憶測でものを言ったりしたら」
いつも先走る響子をたしなめた。響子に限って、言いふらすようなことはしないと思うけれど。
「もうっ、わかってますよー。確証もないこと言いふらしたりしませんって。
美奈子たちじゃあるまいし。そんなことより、三谷さんデザート決まりました?」
「あー、ごめん……やっぱり私はやめておくわ」
あの光景を見た途端、デザートなんて食べる気分じゃなくなってしまった。
「えー、ホントですか? 私頼んじゃいますよ。すみません、店員さーん……」
違う。響子がどうこうじゃない。
私が憶測のままにしておきたいんだ。
あの二人がどんな関係だろうと、今は真実は知りたくない。
このカフェお手製のプリンが二つものったデザートにはしゃぐ響子を前に、私は一人憂鬱なため息をもらした。
それまで気にならなかったのに、ふとしたことをきっかけに気になって仕方がなくなることってある。
麻倉さんのことがそうだった。
これまでだって、麻倉さんは打ち合わせでちょくちょくオアシス部に顔を出していた。
彼女はうちの担当なんだから、それは当たり前のこと。
私だって今までは彼女と顔を合わせれば、軽く会話も交わしてきた。
でも、一度上村と一緒のところを見てしまってからは、彼女の一挙一動が気になって仕方がない。
今日もあの扉の向こうのミーティング室に彼女がいる。
でも上村は、朝から商談に直行している。
二人一緒のところを見なくてすんで、正直私はホッとしていた。
「三谷さん、岩井田さんの帰社時間ってわかります?」
「あ、今日はね――」
後輩に話しかけられて、ようやく意識が仕事に戻る。
こんな自分は嫌だ。こんなふうに人を窺ってばかりの自分は。
自分で蒔いた種なのに、息が詰まりそうだった。
「え、明日ですか?」
「うん、空いてないかな」
定時後、どうしても今日中に確認してもらいたい書類があり、私はデスクでずっと岩井田さんの帰社を待っていた。
金曜日の午後7時。もうオフィスには私と岩井田さんしかいない。
「この間のお詫びと言ったらあれだけど、食事でもどうかなと思って」
「そんな、お気遣いいただかなくても……」
「それに、明日は仕事の話は一切しない。約束するよ」
それはつまり、引き抜きの話は無しで、純粋に食事を楽しもうということだ。
最近は上村とのこともあって、何かと落ち込みがちだった。気分転換にはいいかもしれない。
「……そうですね、行きましょうか!」
「よかった! 前から行ってみたいと思ってた店があるんだ」
私にも、気晴らしが必要なのかもしれない。岩井田さんとなら、楽しい時間を過ごせそうだと思った。
「楽しみにしてるよ」
「私も楽しみにしてます」
岩井田さんに、笑顔に頷いた。
岩井田さんが待ち合わせに指定してきたのは、別館もある老舗デパートの裏手にある喫茶店だった。
一昔前にタイムスリップしたような、モダンで雰囲気のあるお店が立ち並ぶ通りを歩いて、待ち合わせの店へと向かう。
喫茶店の入り口のドアを開けると、ドアベルがカラコロと牧歌的な音を奏でた。
「あ、三谷さんこっち」
岩井田さんは、入り口に近いテーブル席でコーヒーを飲んで待っていた。
「岩井田さんすみません、お待たせして」
「いや、僕も来たばかりだから。三谷さんもコーヒーでいいかな」
「はい」
岩井田さんは顔見知りらしいウェイターに追加のオーダーをすると、私の分のコーヒーがテーブルに届くのを待って話しはじめた。
「実は食事に行く前に三谷さんに見て欲しいものがあるんだ」
「何ですか?」
「それは……まあ、行ってからのお楽しみ」
コーヒーを飲み終え喫茶店を出ると、岩井田さんはさらに通りの奥へと進んでいく。途中で角を曲がり一つ奥の通りに入ると、ようやく岩井田さんは立ち止まった。
「岩井田さん、ここは?」
そこは、古い石造りの蔵のようだった。繁華街の近くに、こんな建物が取り壊されることもなく残っているなんて。
「三谷さん、ごめんね。仕事の話はしないって言ってたんだけど……。来週から工事が始まっちゃうから、その前に一度、三谷さんにも見てもらいたくて」
「工事? ここ、取り壊されちゃうんですか?」
「いや、カフェに改築するんだ。前に話した建築をやってる友人が担当してる」
「お友達って、岩井田さんと一緒に会社を立ち上げる予定の?」
私が尋ねると、岩井田さんはこくりと頷いた。
「そう。彼が今勤めてる会社で、最後に受け持つ仕事なんだ」
「最後って……じゃあいよいよ?」
「うん、来春には僕らの会社を立ち上げることになった。これから僕らが始めようとしていることを、三谷さんにも見ておいて欲しくて。あと2ヶ月もすればここはカフェに生まれ変わる。良かったらその時にまた、俺と一緒に見に来てくれないかな」
この古くて堅牢な石蔵が、彼らの手で一体どういう風に生まれ変わるのか、私も見てみたいと思った。
「……わかりました。楽しみです、私も」
「約束だよ」
私の言葉に、岩井田さんは安堵の笑みを浮かべた。
「えっ、……ここですか?」
その後、岩井田さんが私を連れて向かったのは、『リストランテHira』だった。
以前上村が連れてきてくれたレストランだ。このレストランはオアシスタウンに入ることが決まっていて、上村の担当先でもある。
「そう、ここの担当の上村くんからすごくいい店だって聞いて、一度行ってみたかったんだ」
「そうなんですか……」
「どうしたの、三谷さん。イタリアンは苦手?」
不安気に私を覗きこむ岩井田さんに、慌てて両手を振る。
「いえ、大好きです。ただ一度来たことがあったんで、ちょっと驚いて」
「そうなんだ。……まあとりあえず、入ろうか」
「はい」
今目の前にいるのは岩井田さんなのに、上村のことを思い出して沈むなんて失礼だ。今日は純粋に食事を楽しもう。
私はそう気分を切り替え、店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、ご予約の岩井田様ですね」
岩井田さんが名前を名乗ると、ホール担当の女性が席へと案内してくれた。
前回上村と来た時は個室だったけれど、今日の席はホールの窓側の席だった。
この席からも、ガラス越しにレストランの中庭のグリーンや花壇に植えられた季節の花々が見える。
「じゃあ、とりあえず乾杯ってことで」
「はい」
私と岩井田さんは、華奢なグラスを合わせ乾杯をした。
岩井田さんがオーダーしたのは、上品で美しい黄金色の泡が立つシャンパーニュ。すっきりと甘くて、ワインよりも飲みやすい。
「……ああ、美味しいね」
「岩井田さん、お酒大丈夫なんですか?」
いつも一緒に飲みに行くたび私に付き合ってくれるけど、以前岩井田さんはお酒が苦手だと言っていた。
「これくらいは大丈夫ですよ。でも本当のこと言うと、一口目が一番うまい」
「ふふ、岩井田さんって本当に面白いですよね」
私は一杯目を飲み干して、空になったグラスをテーブルに置いた。
「うわー。でも到底三谷さんには敵わないなあ。もう一杯いかかです?」
「もちろんいただきます」
岩井田さんは近くにいたウエイターを呼ぶと、嬉れしそうに私の分のおかわりをオーダーした。
「そういえば、例の彼女は大丈夫でしたか?」
「ああ、外食部の相良さん? 大丈夫です。変なふうに受け取らないでくれたみたいで」
「ああそうなんだ。……いや、ホッとしました」
おかしな噂が流れるんじゃないかと心配していたけれど、結局美奈子は、私と岩井田さんのことを誰にも口外しなかったようだ。
響子も言っていた通り、今は外食部での仕事で頭がいっぱいなのかもしれない。
「失礼します三谷さん。向こうからお姿が見えたものだから」
私たちがメインを食べ終える頃、このレストランの二代目シェフの比良さんがテーブルに姿を見せた。
久しぶりに顔を合わせた比良さんは、相変らずラガーマンのような立派な体格で、顔には人の良い笑顔を浮かべている。
比良さんのことまでは聞いてなかったのか、岩井田さんはシェフにしては意外性のある外見を持つ比良さんを前に、目をまん丸にしていた。
「比良さん、今日もとてもおいしかったです。ありがとうございました」
「喜んでいただけたなら良かった。えーと、こちらは……」
「あ、彼は私と同じオアシスタウン部の岩井田です」
「はじめまして、岩井田です。担当の上村から勧められて来たんですけど正解でした。オアシスタウンの方でもよろしくお願いします」
「そうなんですか。いや、嬉しいな!」
比良さんはトレードマークの立派な眉を下げ、笑顔を作った。
「そうだ! 実は今、2号店用のデザートの試作品をいくつか作ってまして。よかったらこの後食べていかれませんか?」
「えっ、いいんですか?」
私より先に、岩井田さんの方が食いついた。
岩井田さん、ひょっとしてお酒より甘いもの方が好きな人なんだろうか。
「もちろんですよ。すぐにお持ちしますね」
「新作のデザート食べさせてくれるって。やったね、三谷さん!」
「岩井田さん、甘いものお好きなんですね」
「はい、そりゃあもう」
比良シェフがテーブルを去るとすぐ、試作品のデザートが運ばれてきた。どのデザートもフルーツがふんだんに使われていて、カラフルで可愛らしい。
「このスイーツをあのシェフが? ……いやあ、人は見かけによらないね」
「味も素晴らしいんですよ! 私もいただきます」
私も岩井田さんも、テーブルの上のデザートに無我夢中でに手を伸ばした。
それにしても岩井田さん、本当に甘いものに目がないんだな。会社の女の子たちはこのこと知っているんだろうか。
「本当だ、どれもおいしいなあ。……あのシェフ、凄い人なんだね」
「岩井田さん、このお店のこと気に入られたみたいですね」
『リストランテHira』は、あの上村が必死になって契約を勝取ったレストランなのだ。なんだか私まで、嬉しさがこみ上げてくる。
「はい、かなり。僕も、常連になりそうだ。……それはそうと、三谷さんはここのシェフと顔見知りなんですね」
岩井田さんの問いに、一瞬言葉が詰まる。一気にあの日のことまで思い出してしまった。
「ええ、実は以前上村に連れてきてもらったことがあって」
「ああなるほど、上村くんにね。……あれ、噂をすれば――」
そう言って岩井田さんはお店の入り口の方に目を向けた。私も、岩井田さんの視線を追った。
「上村くんと――、あれはコンサルの麻倉さん?」
……本当だ。今まさに、店の入り口に立って客席への案内を待っているのは上村と麻倉さんだった。
嫌だ。どうしてあの二人が?
岩井田さんと一緒にいるところを上村に見られたくなくて、私は咄嗟に入り口から背を向けた。
「三谷さん、どうかされ――」
「こんにちは、岩井田さんに三谷先輩。今日は、デートですか?」
どうやら、遅かったらしい。私たちがいることに気がついた上村と麻倉さんが、案内の人を待たずにこちらののテーブルまでやって来た。
「やあ、上村くんに麻倉さんまで。君たちはこれから食事?」
「先に映画を観てきたんで、遅くなってしまったんです。三谷さん、こんにちは」
「こんにちは」
声をかけてくれた麻倉さんに、無理やりに笑顔を作った。……私はちゃんと笑えているだろうか。
映画に行って、レストランで食事なんて、まるでデートじゃない。そう考えてハタと気が付いた。
……そうか、この二人付き合ってるんだ。
「いやあ、上村くんの言うとおりだったよ。料理もサービスも申し分ない。ここはかなり期待できるんじゃないかな」
「そうでしょう? 必ずオアシスタウンでも人気店にしてみせますよ」
岩井田さんにそう誇らしげに返したのは、上村ではなく麻倉さんだった。麻倉さんが直接テナントの担当を持つことはないはずなのに、どうしてこんなことを言うのだろう?
「そういえばお二人とも、二号店のオーナーにはお会いになりました? 保さんっておっしゃるんですけど、研究熱心で素晴らしい方なんですよ」
麻倉さんもオーナーに会ったことがあるんだ。……ひょっとして、以前にも上村と一緒に?
「うん、先ほどご挨拶させてもらったよ実はこれからデザートの試食をさせてもらうんだ」
「わあ、いいですね。私達もお願いしてみようかな。ね、上村さん」
親しげに上村に話しかける麻倉さんの姿に、胸がチクリと痛む。
「うん、まあ……とりあえず、俺らも席に着こうか」
少し前から、ホール担当の女性がすぐ側で待機していた。上村が女性とアイコンタクトを取ると、それに気が付いた麻倉さんが上村の腕を取る。
「それじゃあ失礼します」
「ええ、また……」
私は黙ったまま、二人が奥の個室に案内されるのを見送った。あれは、前に私と上村が一緒に食事をした席だ。
「驚いたね、あの二人プライベートでもここに来てるんだ」
「え、どういうことですか?」
「あれ、三谷さんは知らないのかな。上村くん、ここの契約取るのずいぶん苦労してたでしょう」
「ええ、……それは上村から聞いてます」
あの時、上村は珍しく私に弱音を吐いた。と言ってもほんの一瞬だけだったけれど。
「それで見兼ねた麻倉さんがヘルプに入ったんですよ。二人掛りで初代オーナーを説得して、なんとか契約にこぎつけたんです」
え、そうなんですか?」
――あの上村が、麻倉さんのヘルプを受けいれた?
あまり表に見せることはないけれど、上村の仕事に対するプライドは人一倍強い。そんな彼が、麻倉さんと組んでいたなんて。
てっきり、リストランテHiraに関しては、上村一人の成果だと思いこんでいた。
「まあ、部長もここの獲得にはかなり力入れてたし、なんとかしてOK貰いたかったんでしょうね」
「そうなんですか……」
……ショックだった。麻倉さんは、仕事でも上村のパートナーだったのだ。
――それに引き換え、私は?
プライベートでも上村に助けられて、仕事でだって上村や他の営業社員たちをアシストするだけで、彼らと肩を並べているわけじゃない。
私と上村は、対等じゃない。
「三谷さん、どうかされました?」
「あ、すみません。ぼうっとして。ちょっと食べ過ぎちゃったかな」
私の作り笑いに、岩井田さんは気がついてしまっただろうか。
「それじゃあそろそろ出ましょうか」
その後の岩井田さんは、いつもより言葉少なだった。
「母さん、調子はどう?」
「ああ香奈、いらっしゃい」
母は珍しく、体を起こして私を待っていた。
開け放たれたカーテンの向こうに、まだ夏の気配を僅かに残す青空が広がっている。太陽の光を反射させて煌く波間が眩しくて、私は目を細めた。
「眩しくない? カーテン閉めようか」
差し込む光が眩しいのか、最近はずっと昼間も母の病室のカーテンは閉められていた。それが今日は、どうしたのだろう。
「いいの。なんだか今日は、外の景色を眺めていたくて」
母は視線を窓の外へ向け、そう答えた。その表情はとても穏やかで、まるで凪いだ海のようだ。
母は窓の外の景色に一体何を見ているのか。聞きたくない答えが返ってきそうで、私はただ黙って母を見つめていた。
「香奈はどうなの、最近」
「どうって……何が?」
「そうねえ、仕事とか色々」
「相変らず忙しいよ。でももうちょっとで山は越えそうかな」
「上村さんも忙しいの? 色々お話したいこともあったんだけど、当分は無理かしらねえ」
母は今でも私と上村のことを、結婚を約束した仲だと思っている。
「うーん、忙しいんじゃないかなあ」
「香奈ったら、そんな他人事みたいな言い方して。なあに、上村さんとケンカでもしたの?」
「ケンカなんて、私たちはしないよ」
恋人同士のケンカなら、仲直りすることができる。
だけど私たちは、元々ケンカをするような仲でもなかったのだ。
母に上村とのことを全部洗いざらいぶちまけてしまえたら。母はきっとまた私を優しく抱きしめてくれるだろう。
でもきっと、私が楽になった分、母が心を重くする。母は私を一人残していくことを悔やんでしまうだろう。
母を支えて、その苦しみを和らげてあげたいのに、母の前では私の心はいつまでたっても子供の頃のままだ。
今だって母の胸に縋りつき、思う様泣きたいと思ってる。不甲斐ない自分に嫌気が差す。
「母さん、ずっと起きたままで平気?」
もうずいぶん長い間、母はベッドヘッドにもたれて窓の外を眺めている。
「そうね、ちょっと疲れたかな」
ベッドに横になるのを手伝おうと、母の小さな背中に手を添えた。すっかり痩せてしまった母の背中に触れると、言いようのない悲しさが込み上げる。
たまらず私は、薄く骨の浮き出た母の背中をそっと抱きしめた。
「なあに突然」
「ん……、昔はよくこうしてたなあって」
フッと母が微笑んだ気配がした。
「香奈は意地っ張りだから、こうやって私の背中で泣いて絶対に泣き顔を見せなかったわよね」
「そうだったかな。そんなこと、もう覚えてないわ」
ずっと気を張って生きてきた私は、泣くことなんてずっと忘れていた。
――そう、上村に会うまでは。
私の心を弱くするのは、母と上村だけだ。
「香奈の好きなようにしていいのよ。心の赴くままに生きなさい。それが私の望み」
そう言うと、母はまるで電池が切れたようにすっと眠りに落ちた。
安らかな母の寝顔を見つめながら、私はその言葉を噛みしめていた。
「三谷さん、岩井田さんにファックス届いてますけど」
「預かります。ありがとう」
後輩が持って来てくれたファックスを受け取り、岩井田さんのデスクに置く。
岩井田さんは、朝からコンサルタントとのミーティングに入っている。
何かトラブルでも起きたのか、部長をはじめ営業社員たちもずっと会議室に詰めたままだ。予定の時間を過ぎても、一向に終わる気配がない。
「だいぶ長引いてますね」
「そうね。もうすぐ終わるとは思うんだけど」
「参ったな、私書類のチェック待ちなんだけどなー」
彼女の上司は大手のスポーツ用品店を担当している。もちろんその上司も、朝から会議室に籠りきりだ。
「こんなに揉めるような案件ありましたっけ?」
「んー、どうだったかな」
後輩と二人で首を傾げていると、内線の呼び出し音がなった。後輩に断り、受話器を取る。
「はい、オアシス部三谷です」
『三谷さん、僕です』
電話は岩井田さんからだった。
『僕のデスクの上に青いファイルが出してあると思うんだけど……』
「ああ、あります」
『悪いんだけど、第二会議室まで持ってきてくれないかな。あと、よかったらお茶も。その、みんな気分転換が必要みたいだ』
電話越しに声を聞くだけで、岩井田さんが苦笑いしているのがわかる。話が行き詰って、みんなイライラしているんだろう。岩井田さんらしい気遣いだなと思った。
「わかりました。すぐにお持ちします」
『助かるよ、それじゃ』
「ごめんなさい、ちょっと第二会議室行って来ます」
私は受話器を置くと、近くの席の女子社員に声をかけ、席を立った。
今日のミーティングには、麻倉さんも参加している。もちろん、上村もだ。朝から部内で親しげに言葉を交わす二人のことを、私も見ていた。その様子を見て、こそこそ耳打ちをする女子社員たちもいたから、社内でも二人のことが広まっているのかもしれない。
「……仕事だ、しっかりしろ香奈」
小声でそう呟いて、自分に喝を入れる。一度、大きく深呼吸をして、第二会議室のドアの前に立った。
「そんなありきたりの案で、本当に集客効果が高まると思ってるんですか?」
閉じられたドアの向こうから、厳しい口調で意見を述べる麻倉さんの声が聞こえた。
「失礼します」
一瞬躊躇ったけれど、私は小さくドアをノックして会議室に入った。気が付いた岩井田さんと視線が合う。
入り口近くにある予備のテーブルに一旦お茶を載せたお盆を置き、楕円状に並ぶ机に沿ってぐるりと回って、入り口とは反対側の席に座る岩井田さんのもとへと向かう。
「岩井田さん、ファイルこれでよろしいですか?」
「ありがとう、三谷さん」
「お茶お出ししますね」
「頼むよ」
私がお茶を配る間も、麻倉さんとうちの部長や社員たちとの激しい議論は続いていた。
麻倉さんは相手が男性であろうと、自分より目上の人だろうと容赦はしない。でも、口調は激しいけれど、決して感情的になっているわけではない。こちら側の意見をきちんと聞き、咀嚼した上でその問題点を挙げていく。
はじめは渋い顔をしていた部長たちも、徐々に麻倉さんの話に説得されつつあるのがわかった。
私は、彼女の仕事ぶりに圧倒されていた。男性相手に怯むこともなく、対等に渡り合っている。その姿は自信に満ち溢れ、同性の私から見てもとても魅力的に見えた。
視界の隅で麻倉さんのことを気にしながらも、私は手早くお茶を配っていった。そして、最後の一杯を上村のテーブルに置く。
「ありがとうございます」
小声で言う上村に、会釈を返す。久しぶりに聞いた上村の声だった。
退出しようと、お盆を抱えドアの前に立ち一礼をすると、再び岩井田さんと目が合った。岩井田さんに笑顔で会釈して、顔を上げたその時だった。
テーブルの一番端、私がいる間一言も発言することなく静かに座っていた上村が、麻倉さんを見て微かに片方の唇を上げた。
自分の意見を否定され、一瞬感情的な言葉を口走った若手社員を、麻倉さんが冷静な一言で黙らせたのだ。
上村の視線に気づいた麻倉さんは、一瞬照れを隠すかのように俯いた。
私は、急いで会議室を出て、そこから足早に立ち去った。
麻倉さんの堂々とした声が会議室から漏れ聞こえて、しばらく私を追い立てた。
―――打ちのめされていた。
普段の女性らしい気遣いや優しさを見せる麻倉さんともまた違い、仕事中の彼女は凛としていて、誰が相手だろうと怯まない。
その場のみんなが、彼女に信頼を寄せているのがよくわかった。もちろん、上村も。
私だって、自分なりに一生懸命仕事をしてきたつもりだけれど、今の私じゃ到底麻倉さんには敵わない。上村が、彼女を選ぶのは当然だ。私にはきっと、太刀打ちできない……。
私は、自分の気持ちにきちんと区切りをつけるべきなのかもしれない。会議室から漏れ聞こえる声を聞きながら、そんなふうに思い始めていた。
9月に入ったとはいえ、まだまだ暑い日が続いている。
こんな朝のバスは、湿気と人いきれで満ちていて最悪だ。ようやくバスから降りて、私は一息に外の空気を吸い込んだ。
あれから、上村とは一言も言葉を交わしていない。
職場では目も合わさないし、上村が給湯室までお茶をせがみに来ることももうない。
もちろん、部屋まで押しかけてくることも。
――元の生活に戻っただけなのに。
毎日会社に通い、母の様子を見て、一人の家に帰る。そうやって、毎日を過ごしていたはずなのに。
上村の不在が、この胸にぽっかりと大きな穴を開けた。そしてその穴は、当分埋まりそうになかった。
「あ……」
数メートル先に、紺色の傘を差して歩く背の高い後姿を見つけた。
広い肩、少しくせのある髪、傘を持つ大きな手。
一度は近付いたこの距離を、遠ざけたのは私自身だ。私が一番近くにいるのだと、なんの根拠もないのに自惚れていた。
一度開いてしまった距離は、たぶんもう縮まらない。
上村に追いついてしまわないように、私は歩くスピードを少し落した。
「三谷さん、今週の仕事の打ち合わせしたいんだけど、今時間いい?」
オフィスに着き、パソコンを立ち上げた早々、岩井田さんに声をかけられた。
「はい、大丈夫です」
「ここだと落ち着かないから、ちょっと出ようか」
「……わかりました」
岩井田さんが場所を変えて話をするなんて、珍しいことだ。彼と組んで3ヶ月近く経つけれど、そんなこと今までに一度もない。
また独立の話だろうか。話も進んでいるだろうし、岩井田さんも焦っているのかもしれない。
デスクの引き出しから手帳を取り出して、先にオアシス部を出た岩井田さんの後を追った。
岩井田さんは自販機がある休憩コーナーのベンチに腰掛けて、私を待っていた。
「じゃあ、はじめようか」
「はい、お願いします」
岩井田さんの予定を一つずつ手帳に書き込み、私が担当する書類を確認していく。今週は大きな商談もなく、比較的余裕がありそうだった。
「じゃあ今週もよろしくお願いします。三谷さん、ちょっとコーヒーでも飲もうか」
岩井田さんは自販機で二つアイスコーヒーを買い、近くのベンチに腰掛けた。
「三谷さんもどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
岩井田さんは、私の分の缶のプルタブも開けて手渡してくれた。
彼の気遣い方は、さりげないのに隙がない。そりゃあ女の子に人気があるわけだ、と思ってしまう。
「それで三谷さん、例の話なんだけど……」
岩井田さんはアイスコーヒーを一口飲むと、やはり例の話を切り出した。
「どうするか、考えてくれた?」
やはり打ち合わせは口実で、本題は引き抜きの話だった。
最近は上村とのことがあって気が塞いでしまって、岩井田さんからの飲みの誘いも断わってばかりいた。そうこうしているうちに、タイムリミットが迫ってしまったんだろう。岩井田さんにいつものような余裕がないような気がして、思わず視線を逸らした。
たとえ何度訊かれても、答えは決まっている。容態の安定しない母を抱えての転職は、私にはどうしても不安だった。
「岩井田さん、せっかく声をかけてくださったのにごめんなさい。やっぱり私……」
「どうしてもダメなの?」
私が言い終わらないうちに、岩井田さんはもう一度念を押す。
「はい。母のことがある以上、やはりここを辞めるわけには……」
「……三谷さん、僕は!」
「い、岩井田さん!?」
強い力で、右の手首を掴まれた。飲みかけのコーヒーの缶が、大きな音を立てて床に落ちる。
「君は、本当は誰のためにここにいるの? お母さんのためって言ってるけど、それは君の本心?」
「それは……どういう意味ですか?」
「君は、本当は……」
「岩井田さん……痛い。離して下さい!!」
「うわっ!」
手首を圧迫する痛みに我慢できず、私は思いっきり腕を引いた。不意をつかれた岩井田さんがバランスを崩して、私に覆いかぶさってきた。
「やっ……」
「三谷さーん、ここですかあ?」
突然壁の向こうから聞こえてきた声に、体が竦んだ。
「美奈子……」
重なるようにベンチに倒れ込む私と岩井田さんの前に、なぜか外食部の美奈子が立っていた。私たちの姿を見て、言葉を失っている。
私の顔の横に両手を突き、顔だけを美奈子に向け固まっている岩井田さんを押しのけると、私は今にも立ち去ろうとする美奈子の制服の裾を掴んだ。
「違うの美奈子!」
美奈子は私の声に振り向くと、私と岩井田さんの顔を見比べるようにして、ひどく冷静な声で答えた。
「お取込み中、大変失礼いたしました。……出直します」
そう言って私と岩井田さんに一礼すると、くるりと踵を返す。
「ちょっと、待ってったら! ねえ、美奈子!?」
美奈子は必死で呼び止める私を振り返りもせずに、足早に去っていった。
「す、すみません三谷さん。大丈夫ですか?」
岩井田さんは何とかベンチから立ち上がると、私に声をかけた。こんなところを女子社員に見られてしまって動揺しているのか、眼鏡がズレているのにも気付いていない。
「本当にすみません。こんなことをするつもりなんてなかったんです。……軽率でした。彼女に誤解されたりしたら申し訳ない」
必死に頭を下げる岩井田さんに、私は慌てて両手を振った。
「大丈夫です。これは……事故みたいなものですから。私こそ、ついびっくりして振り払ってしまって。お怪我はないですか?」
「僕は大丈夫」
何度も頭を下げる岩井田さんをどうにか宥め、私たちはオアシス部へ戻った。おかげで今日一日、岩井田さんともギクシャクして過ごすはめになった。
それにしても、とんでもないところを美奈子に見られてしまった。美奈子は、このことを言いふらすだろうか。
岩井田さんは女性社員たちから人気があるし、美奈子からすれば、これは私を追いつめる格好の材料のはずだ。
『あのお局が性懲りもなく、今度は岩井田さんに手を出した』とでも美奈子が触れ回れば、私は社内に大勢いる岩井田ファンの女の子を全て敵に回すだろう。そう考えただけで、気が滅入る。
それに、私にはもう一つ気になることがあった。
――美奈子は一体、何をしにここまで来たんだろう?
美奈子のいる外食事業部は5階でフロアも違うし、ここには外食部が用事で訪ねるような部署もない。
でもあの時確かに、美奈子は私の名前を呼んだ。私に会うために、わざわざこんなところまで来たの? でも、今の部署にいる限り私と美奈子の仕事上の接点は何もないはず。
「まあ何か言いたいことがあるなら、また向こうから来るよね」
こうして一人であれこれ悩んでても仕方がない。私はもう考えることを放棄して、デスクに積み上げられた書類に手を伸ばした。
数日後の昼休み。美奈子の様子が気になった私は、響子をランチに誘ってみた。
場所はこの前と同じ。会社から少し離れた、裏通りにあるカフェだ。昔ながらのカフェで、メニューもそんなに多くないせいか、うちの社員と鉢合わせすることはあまりない。
二人一緒に頼んだ日替わりランチを前に、私は響子に尋ねた。
「ねえ、そういえば最近美奈子ってどうなの?」
「えっ、美奈子ですか? うーん、どうって言われても……」
響子のこの様子では、岩井田さんとの一件は耳に入っていないようだ。美奈子のことだから、と心配していたのだが、あれから噂が立つようなこともない。いつもなら、私が絡むことなら特に、面白おかしく話を盛って、一番に言い触らすはずなのに。
美奈子が、あの日のことを黙っているだなんて、私には不思議でならなかった。
「そうねぇ、仕事とかどうなの?」
響子も聞いていないのなら、わざわざ私から言う必要もない。それとなく、話題を美奈子の仕事ぶりに持って行く。
「なんていうか……真面目ですねー。仕事もちゃんとやってるし。むしろ、美奈子のおかげで外食部が回ってるっていうか……」
「へえ、それって凄いことじゃない」
「何があったのかわかんないんですけど、私ちょっと美奈子のこと見直したかも。みんなが嫌がるような地味な入力作業とかも率先してやってるし」
響子の言う事が本当なら、随分な変わりようだ。以前の美奈子なら、嫌いな作業は他の子に押し付けて、さっさと定時には帰っていた。美奈子にも何か心境の変化があったということだろうか。
「そっか、それならいいんだ」
「すみません三谷さん、いつまでも心配かけて。私がもうちょっとしっかりしてれば、三谷さんにまで余計な心配かけなくてすむのに」
「ちょ、ちょっと、響子まで一体どうしたの?」
こんなことを言いだすなんて、今までの響子なら考えられなかった。
「んー、なんか悔しいんですよね。美奈子はもう野々村部長にも一目置かれてます。私なんて美奈子と同期なのに、いつまでたってもその他大勢を抜けられない……」
「響子……」
これは、美奈子の頑張りが他の女子社員たちにまで影響を及ぼしてるということだ。それも、いい方の。
「響子なら大丈夫。今まで通り仕事はきっちりやって、そしてよく営業さんたちのこと見てみて。そうすれば、自然と彼らが私たちに求めてることがわかってくると思う。彼らが動きやすいように先回りしてあげればいいのよ」
「三谷さん、それが一番難しいんですよー」
「大丈夫だって。ほら、デザートごちそうしてあげるから元気出して」
「本当ですか!? じゃあ私、プリンアラモード頼む!」
もうご機嫌が直ってる。響子って本当に単純だ。でもこんなところが無性にかわいいと思うんだけど。
無邪気に笑う響子を見ていると、なんだか私まで元気が出てきた気がする。
「私もデザート食べようかな。響子メニュー取っ――」
「はい三谷さん、メニュー。……どうかしたんですか?」
カフェの大きなガラス窓の向こうに、上村がいた。
カフェの中に私がいることに気付いた上村と、一瞬だけ目が合う。でも、すぐに視線は逸らされた。上村の隣に、寄り添うようにして歩く女性がいる。
「あれぇ、あれって上村くんですよね。一緒の人、誰だろ?」
響子はフロアが違うから、彼女のことを知らないのだ。
「ああ、あれはうちを担当しているコンサルの麻倉さんって人」
何でもないことのように、彼女の名前を口にした。少しでも私が気にしている素振りをしてはいけない。
だって響子は、他人の恋愛沙汰が好きだから。
「それじゃあ、取引先の人ってことですか?」
「そう。今日あそことの打ち合わせ、予定に入ってたかな」
それとなく仕事を匂わせてみる。でも、響子には通じなかった。
「でもあの女の人、やけに距離近くないですか?」
「そうかな」
確かに、そういう風にも見える。まるで、仕事の合間に待ち合わせた恋人同士のようにも。
「やー、どうしよ。ちょっとワクワクしてきちゃいました、私」
「響子ダメよ、憶測でものを言ったりしたら」
いつも先走る響子をたしなめた。響子に限って、言いふらすようなことはしないと思うけれど。
「もうっ、わかってますよー。確証もないこと言いふらしたりしませんって。
美奈子たちじゃあるまいし。そんなことより、三谷さんデザート決まりました?」
「あー、ごめん……やっぱり私はやめておくわ」
あの光景を見た途端、デザートなんて食べる気分じゃなくなってしまった。
「えー、ホントですか? 私頼んじゃいますよ。すみません、店員さーん……」
違う。響子がどうこうじゃない。
私が憶測のままにしておきたいんだ。
あの二人がどんな関係だろうと、今は真実は知りたくない。
このカフェお手製のプリンが二つものったデザートにはしゃぐ響子を前に、私は一人憂鬱なため息をもらした。
それまで気にならなかったのに、ふとしたことをきっかけに気になって仕方がなくなることってある。
麻倉さんのことがそうだった。
これまでだって、麻倉さんは打ち合わせでちょくちょくオアシス部に顔を出していた。
彼女はうちの担当なんだから、それは当たり前のこと。
私だって今までは彼女と顔を合わせれば、軽く会話も交わしてきた。
でも、一度上村と一緒のところを見てしまってからは、彼女の一挙一動が気になって仕方がない。
今日もあの扉の向こうのミーティング室に彼女がいる。
でも上村は、朝から商談に直行している。
二人一緒のところを見なくてすんで、正直私はホッとしていた。
「三谷さん、岩井田さんの帰社時間ってわかります?」
「あ、今日はね――」
後輩に話しかけられて、ようやく意識が仕事に戻る。
こんな自分は嫌だ。こんなふうに人を窺ってばかりの自分は。
自分で蒔いた種なのに、息が詰まりそうだった。
「え、明日ですか?」
「うん、空いてないかな」
定時後、どうしても今日中に確認してもらいたい書類があり、私はデスクでずっと岩井田さんの帰社を待っていた。
金曜日の午後7時。もうオフィスには私と岩井田さんしかいない。
「この間のお詫びと言ったらあれだけど、食事でもどうかなと思って」
「そんな、お気遣いいただかなくても……」
「それに、明日は仕事の話は一切しない。約束するよ」
それはつまり、引き抜きの話は無しで、純粋に食事を楽しもうということだ。
最近は上村とのこともあって、何かと落ち込みがちだった。気分転換にはいいかもしれない。
「……そうですね、行きましょうか!」
「よかった! 前から行ってみたいと思ってた店があるんだ」
私にも、気晴らしが必要なのかもしれない。岩井田さんとなら、楽しい時間を過ごせそうだと思った。
「楽しみにしてるよ」
「私も楽しみにしてます」
岩井田さんに、笑顔に頷いた。
岩井田さんが待ち合わせに指定してきたのは、別館もある老舗デパートの裏手にある喫茶店だった。
一昔前にタイムスリップしたような、モダンで雰囲気のあるお店が立ち並ぶ通りを歩いて、待ち合わせの店へと向かう。
喫茶店の入り口のドアを開けると、ドアベルがカラコロと牧歌的な音を奏でた。
「あ、三谷さんこっち」
岩井田さんは、入り口に近いテーブル席でコーヒーを飲んで待っていた。
「岩井田さんすみません、お待たせして」
「いや、僕も来たばかりだから。三谷さんもコーヒーでいいかな」
「はい」
岩井田さんは顔見知りらしいウェイターに追加のオーダーをすると、私の分のコーヒーがテーブルに届くのを待って話しはじめた。
「実は食事に行く前に三谷さんに見て欲しいものがあるんだ」
「何ですか?」
「それは……まあ、行ってからのお楽しみ」
コーヒーを飲み終え喫茶店を出ると、岩井田さんはさらに通りの奥へと進んでいく。途中で角を曲がり一つ奥の通りに入ると、ようやく岩井田さんは立ち止まった。
「岩井田さん、ここは?」
そこは、古い石造りの蔵のようだった。繁華街の近くに、こんな建物が取り壊されることもなく残っているなんて。
「三谷さん、ごめんね。仕事の話はしないって言ってたんだけど……。来週から工事が始まっちゃうから、その前に一度、三谷さんにも見てもらいたくて」
「工事? ここ、取り壊されちゃうんですか?」
「いや、カフェに改築するんだ。前に話した建築をやってる友人が担当してる」
「お友達って、岩井田さんと一緒に会社を立ち上げる予定の?」
私が尋ねると、岩井田さんはこくりと頷いた。
「そう。彼が今勤めてる会社で、最後に受け持つ仕事なんだ」
「最後って……じゃあいよいよ?」
「うん、来春には僕らの会社を立ち上げることになった。これから僕らが始めようとしていることを、三谷さんにも見ておいて欲しくて。あと2ヶ月もすればここはカフェに生まれ変わる。良かったらその時にまた、俺と一緒に見に来てくれないかな」
この古くて堅牢な石蔵が、彼らの手で一体どういう風に生まれ変わるのか、私も見てみたいと思った。
「……わかりました。楽しみです、私も」
「約束だよ」
私の言葉に、岩井田さんは安堵の笑みを浮かべた。
「えっ、……ここですか?」
その後、岩井田さんが私を連れて向かったのは、『リストランテHira』だった。
以前上村が連れてきてくれたレストランだ。このレストランはオアシスタウンに入ることが決まっていて、上村の担当先でもある。
「そう、ここの担当の上村くんからすごくいい店だって聞いて、一度行ってみたかったんだ」
「そうなんですか……」
「どうしたの、三谷さん。イタリアンは苦手?」
不安気に私を覗きこむ岩井田さんに、慌てて両手を振る。
「いえ、大好きです。ただ一度来たことがあったんで、ちょっと驚いて」
「そうなんだ。……まあとりあえず、入ろうか」
「はい」
今目の前にいるのは岩井田さんなのに、上村のことを思い出して沈むなんて失礼だ。今日は純粋に食事を楽しもう。
私はそう気分を切り替え、店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、ご予約の岩井田様ですね」
岩井田さんが名前を名乗ると、ホール担当の女性が席へと案内してくれた。
前回上村と来た時は個室だったけれど、今日の席はホールの窓側の席だった。
この席からも、ガラス越しにレストランの中庭のグリーンや花壇に植えられた季節の花々が見える。
「じゃあ、とりあえず乾杯ってことで」
「はい」
私と岩井田さんは、華奢なグラスを合わせ乾杯をした。
岩井田さんがオーダーしたのは、上品で美しい黄金色の泡が立つシャンパーニュ。すっきりと甘くて、ワインよりも飲みやすい。
「……ああ、美味しいね」
「岩井田さん、お酒大丈夫なんですか?」
いつも一緒に飲みに行くたび私に付き合ってくれるけど、以前岩井田さんはお酒が苦手だと言っていた。
「これくらいは大丈夫ですよ。でも本当のこと言うと、一口目が一番うまい」
「ふふ、岩井田さんって本当に面白いですよね」
私は一杯目を飲み干して、空になったグラスをテーブルに置いた。
「うわー。でも到底三谷さんには敵わないなあ。もう一杯いかかです?」
「もちろんいただきます」
岩井田さんは近くにいたウエイターを呼ぶと、嬉れしそうに私の分のおかわりをオーダーした。
「そういえば、例の彼女は大丈夫でしたか?」
「ああ、外食部の相良さん? 大丈夫です。変なふうに受け取らないでくれたみたいで」
「ああそうなんだ。……いや、ホッとしました」
おかしな噂が流れるんじゃないかと心配していたけれど、結局美奈子は、私と岩井田さんのことを誰にも口外しなかったようだ。
響子も言っていた通り、今は外食部での仕事で頭がいっぱいなのかもしれない。
「失礼します三谷さん。向こうからお姿が見えたものだから」
私たちがメインを食べ終える頃、このレストランの二代目シェフの比良さんがテーブルに姿を見せた。
久しぶりに顔を合わせた比良さんは、相変らずラガーマンのような立派な体格で、顔には人の良い笑顔を浮かべている。
比良さんのことまでは聞いてなかったのか、岩井田さんはシェフにしては意外性のある外見を持つ比良さんを前に、目をまん丸にしていた。
「比良さん、今日もとてもおいしかったです。ありがとうございました」
「喜んでいただけたなら良かった。えーと、こちらは……」
「あ、彼は私と同じオアシスタウン部の岩井田です」
「はじめまして、岩井田です。担当の上村から勧められて来たんですけど正解でした。オアシスタウンの方でもよろしくお願いします」
「そうなんですか。いや、嬉しいな!」
比良さんはトレードマークの立派な眉を下げ、笑顔を作った。
「そうだ! 実は今、2号店用のデザートの試作品をいくつか作ってまして。よかったらこの後食べていかれませんか?」
「えっ、いいんですか?」
私より先に、岩井田さんの方が食いついた。
岩井田さん、ひょっとしてお酒より甘いもの方が好きな人なんだろうか。
「もちろんですよ。すぐにお持ちしますね」
「新作のデザート食べさせてくれるって。やったね、三谷さん!」
「岩井田さん、甘いものお好きなんですね」
「はい、そりゃあもう」
比良シェフがテーブルを去るとすぐ、試作品のデザートが運ばれてきた。どのデザートもフルーツがふんだんに使われていて、カラフルで可愛らしい。
「このスイーツをあのシェフが? ……いやあ、人は見かけによらないね」
「味も素晴らしいんですよ! 私もいただきます」
私も岩井田さんも、テーブルの上のデザートに無我夢中でに手を伸ばした。
それにしても岩井田さん、本当に甘いものに目がないんだな。会社の女の子たちはこのこと知っているんだろうか。
「本当だ、どれもおいしいなあ。……あのシェフ、凄い人なんだね」
「岩井田さん、このお店のこと気に入られたみたいですね」
『リストランテHira』は、あの上村が必死になって契約を勝取ったレストランなのだ。なんだか私まで、嬉しさがこみ上げてくる。
「はい、かなり。僕も、常連になりそうだ。……それはそうと、三谷さんはここのシェフと顔見知りなんですね」
岩井田さんの問いに、一瞬言葉が詰まる。一気にあの日のことまで思い出してしまった。
「ええ、実は以前上村に連れてきてもらったことがあって」
「ああなるほど、上村くんにね。……あれ、噂をすれば――」
そう言って岩井田さんはお店の入り口の方に目を向けた。私も、岩井田さんの視線を追った。
「上村くんと――、あれはコンサルの麻倉さん?」
……本当だ。今まさに、店の入り口に立って客席への案内を待っているのは上村と麻倉さんだった。
嫌だ。どうしてあの二人が?
岩井田さんと一緒にいるところを上村に見られたくなくて、私は咄嗟に入り口から背を向けた。
「三谷さん、どうかされ――」
「こんにちは、岩井田さんに三谷先輩。今日は、デートですか?」
どうやら、遅かったらしい。私たちがいることに気がついた上村と麻倉さんが、案内の人を待たずにこちらののテーブルまでやって来た。
「やあ、上村くんに麻倉さんまで。君たちはこれから食事?」
「先に映画を観てきたんで、遅くなってしまったんです。三谷さん、こんにちは」
「こんにちは」
声をかけてくれた麻倉さんに、無理やりに笑顔を作った。……私はちゃんと笑えているだろうか。
映画に行って、レストランで食事なんて、まるでデートじゃない。そう考えてハタと気が付いた。
……そうか、この二人付き合ってるんだ。
「いやあ、上村くんの言うとおりだったよ。料理もサービスも申し分ない。ここはかなり期待できるんじゃないかな」
「そうでしょう? 必ずオアシスタウンでも人気店にしてみせますよ」
岩井田さんにそう誇らしげに返したのは、上村ではなく麻倉さんだった。麻倉さんが直接テナントの担当を持つことはないはずなのに、どうしてこんなことを言うのだろう?
「そういえばお二人とも、二号店のオーナーにはお会いになりました? 保さんっておっしゃるんですけど、研究熱心で素晴らしい方なんですよ」
麻倉さんもオーナーに会ったことがあるんだ。……ひょっとして、以前にも上村と一緒に?
「うん、先ほどご挨拶させてもらったよ実はこれからデザートの試食をさせてもらうんだ」
「わあ、いいですね。私達もお願いしてみようかな。ね、上村さん」
親しげに上村に話しかける麻倉さんの姿に、胸がチクリと痛む。
「うん、まあ……とりあえず、俺らも席に着こうか」
少し前から、ホール担当の女性がすぐ側で待機していた。上村が女性とアイコンタクトを取ると、それに気が付いた麻倉さんが上村の腕を取る。
「それじゃあ失礼します」
「ええ、また……」
私は黙ったまま、二人が奥の個室に案内されるのを見送った。あれは、前に私と上村が一緒に食事をした席だ。
「驚いたね、あの二人プライベートでもここに来てるんだ」
「え、どういうことですか?」
「あれ、三谷さんは知らないのかな。上村くん、ここの契約取るのずいぶん苦労してたでしょう」
「ええ、……それは上村から聞いてます」
あの時、上村は珍しく私に弱音を吐いた。と言ってもほんの一瞬だけだったけれど。
「それで見兼ねた麻倉さんがヘルプに入ったんですよ。二人掛りで初代オーナーを説得して、なんとか契約にこぎつけたんです」
え、そうなんですか?」
――あの上村が、麻倉さんのヘルプを受けいれた?
あまり表に見せることはないけれど、上村の仕事に対するプライドは人一倍強い。そんな彼が、麻倉さんと組んでいたなんて。
てっきり、リストランテHiraに関しては、上村一人の成果だと思いこんでいた。
「まあ、部長もここの獲得にはかなり力入れてたし、なんとかしてOK貰いたかったんでしょうね」
「そうなんですか……」
……ショックだった。麻倉さんは、仕事でも上村のパートナーだったのだ。
――それに引き換え、私は?
プライベートでも上村に助けられて、仕事でだって上村や他の営業社員たちをアシストするだけで、彼らと肩を並べているわけじゃない。
私と上村は、対等じゃない。
「三谷さん、どうかされました?」
「あ、すみません。ぼうっとして。ちょっと食べ過ぎちゃったかな」
私の作り笑いに、岩井田さんは気がついてしまっただろうか。
「それじゃあそろそろ出ましょうか」
その後の岩井田さんは、いつもより言葉少なだった。
「母さん、調子はどう?」
「ああ香奈、いらっしゃい」
母は珍しく、体を起こして私を待っていた。
開け放たれたカーテンの向こうに、まだ夏の気配を僅かに残す青空が広がっている。太陽の光を反射させて煌く波間が眩しくて、私は目を細めた。
「眩しくない? カーテン閉めようか」
差し込む光が眩しいのか、最近はずっと昼間も母の病室のカーテンは閉められていた。それが今日は、どうしたのだろう。
「いいの。なんだか今日は、外の景色を眺めていたくて」
母は視線を窓の外へ向け、そう答えた。その表情はとても穏やかで、まるで凪いだ海のようだ。
母は窓の外の景色に一体何を見ているのか。聞きたくない答えが返ってきそうで、私はただ黙って母を見つめていた。
「香奈はどうなの、最近」
「どうって……何が?」
「そうねえ、仕事とか色々」
「相変らず忙しいよ。でももうちょっとで山は越えそうかな」
「上村さんも忙しいの? 色々お話したいこともあったんだけど、当分は無理かしらねえ」
母は今でも私と上村のことを、結婚を約束した仲だと思っている。
「うーん、忙しいんじゃないかなあ」
「香奈ったら、そんな他人事みたいな言い方して。なあに、上村さんとケンカでもしたの?」
「ケンカなんて、私たちはしないよ」
恋人同士のケンカなら、仲直りすることができる。
だけど私たちは、元々ケンカをするような仲でもなかったのだ。
母に上村とのことを全部洗いざらいぶちまけてしまえたら。母はきっとまた私を優しく抱きしめてくれるだろう。
でもきっと、私が楽になった分、母が心を重くする。母は私を一人残していくことを悔やんでしまうだろう。
母を支えて、その苦しみを和らげてあげたいのに、母の前では私の心はいつまでたっても子供の頃のままだ。
今だって母の胸に縋りつき、思う様泣きたいと思ってる。不甲斐ない自分に嫌気が差す。
「母さん、ずっと起きたままで平気?」
もうずいぶん長い間、母はベッドヘッドにもたれて窓の外を眺めている。
「そうね、ちょっと疲れたかな」
ベッドに横になるのを手伝おうと、母の小さな背中に手を添えた。すっかり痩せてしまった母の背中に触れると、言いようのない悲しさが込み上げる。
たまらず私は、薄く骨の浮き出た母の背中をそっと抱きしめた。
「なあに突然」
「ん……、昔はよくこうしてたなあって」
フッと母が微笑んだ気配がした。
「香奈は意地っ張りだから、こうやって私の背中で泣いて絶対に泣き顔を見せなかったわよね」
「そうだったかな。そんなこと、もう覚えてないわ」
ずっと気を張って生きてきた私は、泣くことなんてずっと忘れていた。
――そう、上村に会うまでは。
私の心を弱くするのは、母と上村だけだ。
「香奈の好きなようにしていいのよ。心の赴くままに生きなさい。それが私の望み」
そう言うと、母はまるで電池が切れたようにすっと眠りに落ちた。
安らかな母の寝顔を見つめながら、私はその言葉を噛みしめていた。
「三谷さん、岩井田さんにファックス届いてますけど」
「預かります。ありがとう」
後輩が持って来てくれたファックスを受け取り、岩井田さんのデスクに置く。
岩井田さんは、朝からコンサルタントとのミーティングに入っている。
何かトラブルでも起きたのか、部長をはじめ営業社員たちもずっと会議室に詰めたままだ。予定の時間を過ぎても、一向に終わる気配がない。
「だいぶ長引いてますね」
「そうね。もうすぐ終わるとは思うんだけど」
「参ったな、私書類のチェック待ちなんだけどなー」
彼女の上司は大手のスポーツ用品店を担当している。もちろんその上司も、朝から会議室に籠りきりだ。
「こんなに揉めるような案件ありましたっけ?」
「んー、どうだったかな」
後輩と二人で首を傾げていると、内線の呼び出し音がなった。後輩に断り、受話器を取る。
「はい、オアシス部三谷です」
『三谷さん、僕です』
電話は岩井田さんからだった。
『僕のデスクの上に青いファイルが出してあると思うんだけど……』
「ああ、あります」
『悪いんだけど、第二会議室まで持ってきてくれないかな。あと、よかったらお茶も。その、みんな気分転換が必要みたいだ』
電話越しに声を聞くだけで、岩井田さんが苦笑いしているのがわかる。話が行き詰って、みんなイライラしているんだろう。岩井田さんらしい気遣いだなと思った。
「わかりました。すぐにお持ちします」
『助かるよ、それじゃ』
「ごめんなさい、ちょっと第二会議室行って来ます」
私は受話器を置くと、近くの席の女子社員に声をかけ、席を立った。
今日のミーティングには、麻倉さんも参加している。もちろん、上村もだ。朝から部内で親しげに言葉を交わす二人のことを、私も見ていた。その様子を見て、こそこそ耳打ちをする女子社員たちもいたから、社内でも二人のことが広まっているのかもしれない。
「……仕事だ、しっかりしろ香奈」
小声でそう呟いて、自分に喝を入れる。一度、大きく深呼吸をして、第二会議室のドアの前に立った。
「そんなありきたりの案で、本当に集客効果が高まると思ってるんですか?」
閉じられたドアの向こうから、厳しい口調で意見を述べる麻倉さんの声が聞こえた。
「失礼します」
一瞬躊躇ったけれど、私は小さくドアをノックして会議室に入った。気が付いた岩井田さんと視線が合う。
入り口近くにある予備のテーブルに一旦お茶を載せたお盆を置き、楕円状に並ぶ机に沿ってぐるりと回って、入り口とは反対側の席に座る岩井田さんのもとへと向かう。
「岩井田さん、ファイルこれでよろしいですか?」
「ありがとう、三谷さん」
「お茶お出ししますね」
「頼むよ」
私がお茶を配る間も、麻倉さんとうちの部長や社員たちとの激しい議論は続いていた。
麻倉さんは相手が男性であろうと、自分より目上の人だろうと容赦はしない。でも、口調は激しいけれど、決して感情的になっているわけではない。こちら側の意見をきちんと聞き、咀嚼した上でその問題点を挙げていく。
はじめは渋い顔をしていた部長たちも、徐々に麻倉さんの話に説得されつつあるのがわかった。
私は、彼女の仕事ぶりに圧倒されていた。男性相手に怯むこともなく、対等に渡り合っている。その姿は自信に満ち溢れ、同性の私から見てもとても魅力的に見えた。
視界の隅で麻倉さんのことを気にしながらも、私は手早くお茶を配っていった。そして、最後の一杯を上村のテーブルに置く。
「ありがとうございます」
小声で言う上村に、会釈を返す。久しぶりに聞いた上村の声だった。
退出しようと、お盆を抱えドアの前に立ち一礼をすると、再び岩井田さんと目が合った。岩井田さんに笑顔で会釈して、顔を上げたその時だった。
テーブルの一番端、私がいる間一言も発言することなく静かに座っていた上村が、麻倉さんを見て微かに片方の唇を上げた。
自分の意見を否定され、一瞬感情的な言葉を口走った若手社員を、麻倉さんが冷静な一言で黙らせたのだ。
上村の視線に気づいた麻倉さんは、一瞬照れを隠すかのように俯いた。
私は、急いで会議室を出て、そこから足早に立ち去った。
麻倉さんの堂々とした声が会議室から漏れ聞こえて、しばらく私を追い立てた。
―――打ちのめされていた。
普段の女性らしい気遣いや優しさを見せる麻倉さんともまた違い、仕事中の彼女は凛としていて、誰が相手だろうと怯まない。
その場のみんなが、彼女に信頼を寄せているのがよくわかった。もちろん、上村も。
私だって、自分なりに一生懸命仕事をしてきたつもりだけれど、今の私じゃ到底麻倉さんには敵わない。上村が、彼女を選ぶのは当然だ。私にはきっと、太刀打ちできない……。
私は、自分の気持ちにきちんと区切りをつけるべきなのかもしれない。会議室から漏れ聞こえる声を聞きながら、そんなふうに思い始めていた。
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