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永遠

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 季節は駆け足で通り過ぎ、毎日通勤時にはコートが欠かせなくなった。
11月も半ばを過ぎたばかりだというのに、街はすでに赤とグリーンのクリスマスカラーで溢れている。
 私は、表面上はこれまで通り平穏な日々を過ごしていた。
仕事と母、それが今の私の生活の全てだ。でも、一つだけ変わったことがある。
あれから、ふとした時に考えるようになっていた。
私は、これからどうしたい?
母のことを理由に、このままこうしていることが本当に正解なの?
母の存在を言い訳にして、そこそこ安定している今の生活を手放したくないだけじゃないの?
そんな自問自答を、日々繰り返している。
 そして何よりも、あの夏の終わりの日、母に言われたあの言葉が常に頭の中にある。
『心の赴くままに』。母はそう私に言ったけれど。
私が望む未来は、一体どこにあるのだろう――。
  
「三谷さん、外食事業部の相良さんがいらしてますよ」
「相良さんが? ……ありがとう」
 PCのディスプレイから顔を上げ、教えてくれた後輩に礼を言う。顔を上げると、オアシス部の入り口に所在無さげに佇む美奈子の姿が見えた。
一体何の用だろう。思い当たることがなくて、不思議に思う。
「美奈子、どうしたのいきなり。外食部で何かあった?」
「三谷さん、お疲れさまです。お忙しい時にすみません」
 びっくりして、私は瞬きを繰り返した。まさか、美奈子の口からこんな気遣いの言葉を聞く日が来るとは。
「この資料のことで質問あって。今お時間大丈夫ですか?」
「私は大丈夫だけど、美奈子……」
「何ですか?」
 さっさと質問を終わらせて仕事を片付けたいとでも思っているのだろうか。美奈子は一瞬うるさそうに眉をしかめた。
「……いえ。何だか美奈子、変わったなと思って」
「そうですか?」
「ずいぶん熱心じゃない。外食部でもみんなの中心に立って頑張ってるって聞いてるわよ」
「他に外食部回せるような人いませんからね。仕方なくです」
 ニコリともせずそう言う美奈子に、私はたくましさすら覚えてしまう。
私の説明にも、美奈子は熱心にメモを取っていた。私が外食部にいた頃は、どんなに注意してもメモなんて取らなかったくせに、物凄い変化だ。
「ひょっとしてこの前も、何か質問しに来たの?」
 美奈子の様子を見て急にピンと来た。それで、あの時私を探していたのだろうか。
「ああ、三谷さんが岩井田さんに押し倒されてた時?」
「ちょ、ちょっと美奈子声が大きい……」
「あのさ」
 頭上から低い声が響いて振り向くと、すぐ後ろに上村が立っていた。
「ああ上村くん、お久しぶり」
 白々しい美奈子の声に唇を噛む。美奈子からは、上村のことは見えていたはず。さっきの発言も、わざとやったんだろうか。美奈子の底意地の悪さは、変わっていないようだ。
「おお相良、久しぶり。お話中悪いんですが、邪魔なのでどいていただけますか三谷先輩」
「……ごめんなさい」
 上村には、今の私たちの会話が聞こえていなかったのだろうか。何一つ突っ込むことなく、上村は素知らぬ顔で私の横を通り過ぎた。
廊下の角を曲がり、上村の姿が見えなくなったところで、美奈子がまた口を開いた。
「上村くん、出入りのコンサルタントの人と付き合ってるって本当なんですか? すっごい噂になってるんですけど」
 上村と麻倉さんのことが、もうそんなに広まっているのか。ひょっとしたら、オアシス部の女の子が漏らしたのかもしれない。
上村を狙っていると公言していたわりに美奈子の表情は淡々としていて、単純な好奇心から知りたがっているように感じた。
「……さあ、どうなんだろうね。私は知らないわ」
「本当に?」
 美奈子が私の顔をジッと覗きこむ。何かを確かめるような美奈子の視線にたじろいでしまう。
「三谷さんと上村くんって、結構仲良かったでしょう?」
「え、なんで?」
 私と上村が、オフィス内で仕事以外の話をすることなんてなかったはずだ。いつも上村が私にちょっかいをかけてくるのも、給湯室とか、他に誰もいない場所ばかりだったし、二人で話しているところを誰かに見られた覚えもない。
「まあ、なんとなくですけど。三谷さんが知らないなら別にいいです。資料の件、ありがとうございました。じゃ」
 そう言って、あっさりと美奈子は去って行く。スタスタと廊下を歩いて行く美奈子を半ば放心して見送った。何なんだろう、あれ。
 自分のデスクに引き返そうとして、あることを思い出した。
そういえば、上村はどこに行ったのだろう? ホワイトボードの上村の欄に、外出の文字はない。
ちょうど部長との話を終え、自席に戻る途中だった上村の補佐の子を捕まえた。
「ごめん、上村今どこにいるか知ってる?」
「上村さんなら経理に行ってます。この間の出張の領収書を出しに行かなきゃって言ってたから」
「そう……ありがとう」
 お礼を言ってすぐ、上村を追いかけた。それだけの用なら、そろそろ帰って来る頃かもしれない。
 先ほど上村が消えた角を曲がり、人気のない階段を駆け下りる。二階と三階の間の踊り場で、階段を上ってくる上村を見つけた。
「上村」
 あまり声が響かないように、小さい声で話しかけた。上村は階段の途中に立ち止まり、私を見上げた。
「ごめん、上村にお願いがあって」
「何ですか」
 こんなふうに上村と面と向かって話すのは、どれくらいぶりだろう。ふいに胸が締め付けられて、私は上村に気づかれないように一度深呼吸をした。
「鍵を、返して欲しいの」
 私の声に、ほんの一瞬上村が瞠目したような気がした。でもすぐにいつもの無表情に戻っていて、きっと窓から差し込む西日のせいだと思い直す。
「けじめをつけないといけないって思うのよね。上村も誠実であるべきでしょう?」
 どうしても麻倉さんの名前を出したくなくて、誰に、とは言えなかった。上村は相変らず無表情のままで、何を考えているのかわからない。
「だから――」
「今は持っていません」
 私の言葉を遮って、上村が冷たく言い放った。機嫌を悪くしたのか、突き放したような視線が私を射抜く。
「……そう。じゃあ、捨ててくれて構わないから。呼び止めてごめん」
 それだけ言うと、私は上村の顔も見ずに再び階段を引き返した。上村が追いかけてくる気配はない。
 これでいいんだ。間違ったことはしていない。
 私は、大丈夫。
 心の中で、何度も何度も呪文のように繰り返して、階段を早足で上った。
「お先に失礼します」
「ああ、三谷くん。お疲れさま」
 まだ一人デスクに残る部長に声をかけ、オアシス部を後にした。
週の半ば。思いがけず仕事が早く片付いて、珍しく暗くならないうちに会社を出ることができた。
 今日は母は検査があるとかで、お見舞いはご遠慮ください、と担当の看護士に言われている。結果は明日お知らせしますから、と。
 会社を出ると、雪でも降りそうなどんよりした灰色の空が広がっていた。
空を見上げ、折り畳み傘を更衣室のロッカーに忘れて来たことに気がついた。
「……もういいや。めんどくさい」
 マフラーをしっかりと首に巻きつけ、歩き出した。
 ぽっかりと空いてしまった時間も、一人では持て余してしまう。賑やかな冬の街を見ていると、このまま家に帰るのをもったいなく感じた。
こんなことなら、響子の誘いを断るんじゃなかったと後悔した。
最近社内にいい感じの人がいて、クリスマスプレゼントをあげたいから買い物につきあって欲しいと、昼休みに誘われていたのだ。
今日もきっと残業になると思っていた私は、響子の誘いを断ってしまった。

 バス停の目の前で、スマホが鳴っているのに気がついた。コートのポケットをさぐり、慌てて画面をタップする。電話は岩井田さんからだった。
「もしもし、三谷です」
「岩井田だけど、三谷さん今どこ? もうバスに乗っちゃったかな」
「いえ、ちょうどバス停に着いたところです。何かありました?」
「いや、違うんだ。そのままそこで待っててくれる? すぐ迎えに行くから」
「……どういうことですか?」
「いいから、そこで待ってて」
 岩井田さんからの電話は、そこで切れてしまった。一体どうしたのだろう。
仕方がないので、バス停のすぐ傍にあるケーキショップの前で、岩井田さんを待つことにした。
店内は、クリスマス一色に飾り付けられている。ガラスケースの中にはクリスマスケーキの見本が数種類並んでいて、つい吸い寄せられるようにして覗いてしまった。
 子供の頃から、クリスマスは母と一緒にケーキを手作りした。
よくばって18センチホールのケーキを焼いてしまって、「もうムリ!」なんて文句を言いながら、母と二人で3日間くらい食べ続けた。今では懐かしい思い出だ。
今年は私がケーキを手作りして持っていこうか。どうせなら、フルーツがいっぱい載ったケーキにしよう。苺にオレンジ、キウイフルーツ、母の好きな黄色い方の桃、そして酸っぱいグレープフルーツ。
……一口だけでも、食べてくれたら。
「ダメじゃないか。傘もささずに」
 考え事に夢中になって、雪が降り出したことにも気がついていなかった。いつの間にか私は大きな黒い傘の中にいて、目の前には岩井田さんが立っていた。
「そこに車停めてるから、行こう」
 肩を引き寄せられ、傘の中で寄り添うようにして歩く。
「……三谷さん、何かあった?」
「ごめんなさい。大丈夫です」
 こうやって大丈夫と自分に暗示をかけて、苦しいときはやり過ごすんだ。今までだって、そうやって切り抜けてきた。
一粒だけこぼれた涙にも、岩井田さんは気づかないふりをしてくれた。

「前に約束したでしょう。覚えているかな?」
「覚えてます」
「そう、よかった」
 赤信号で停車した車の中で、岩井田さんは私に向かって微笑んだ。
フロントガラス越しに、信号の青が滲む。岩井田さんはギアを入れ替えて、話を続けた。
「前に見てもらった蔵を改装したカフェ、とうとう完成したんだ。クリスマスイブにはオープンだよ」
「クリスマスイブに? ……ロマンティックですね」
「オープンに合わせて、友人がサプライズでクリスマスツリーを作ったんだ。どうしてもそれを見てもらいたくて」
 近くのパーキングに車を停め、そこからまた岩井田さんの傘に入れてもらいカフェを目指した。
「ほらあそこ、ツリーの電飾が見えてる」
一歩ずつ細い路地を進んでいくと、建物の合間に七色に光輝くクリスマスツリーが見えた。二階建てのカフェより少し低いくらいの、立派なクリスマスツリーだ。
「……素敵です。カフェもクリスマスツリーも」
壁一面の蔦はそのままに、屋根はキュートな赤色に葺き替え、大きな鉄製の扉はぬくもりを感じる木製のものに変えられている。
そしてその扉のすぐ横に立つ立派なもみの木が、贅沢に飾り付けられていた。「石蔵だから夏は涼しいんだけど、冬場は結構冷えるから、中に大きめの薪ストーブを設置してる。それがまたドイツ製の味のあるやつでさ。オーナーは50代の女性なんだけど、夫婦で音楽好きらしくて、ライブスペースも設けてあるんだ。実はアイデアは僕が出したんだけど、友人が提案したらすごく喜んでくれたらしくて。さっそくオープン日にクリスマスライブをやることになったんだよ」
「そうなんですか」
普段は落ち着いている岩井田さんが、子供のようにはしゃいでいる。
興奮して話す彼の周りに白い息がまとわりつく。降り続く粉雪が、クリスマスツリーを白く染めはじめていた。
華やかなクリスマスパーティの様子が目に浮かぶようだ。私にまで、彼の楽しさが伝染してきたみたいで、自然と笑みが零れた。
「岩井田さん、いきいきしてる。本当にこの仕事が好きなんですね」
「そうだね。全く不安がないかといったら嘘になるけど……。でも、今から楽しみで仕方ない。僕がずっとやりたかったのはこういうことなんだなあってしみじみ思うよ」
「羨ましいです。私、ずっと仕事には責任を持って向き合ってきたつもりだけど、仕事に対して岩井田さんのような情熱があるかと言われたら、それは自信がない」
ある日私が突然いなくなっても、簡単に代わりがきくんじゃないかと、漠然とそんな不安も抱えていた。君が必要なんだと言われたくてずっと頑張ってきた。
でも私にその言葉をくれたのは、今私の目の前で夢を語るこの人だけだ。
「小さい会社だから、三谷さんにも色々な業務をやってもらうつもりでいます。僕らについて、お客さんのところや現場に行ってもらうこともあるかもしれない」
岩井田さんと話していると、世界が開けていくような気持ちになる。
彼が持って来てくれたのは、今までとは違う新しい仕事、新しい世界。とても魅力的だ。
「この数ヶ月君と一緒に仕事してみて、やはり僕はあなたを欲しいと思った。……君みたいな人が、僕には必要なんだ」
「岩井田さん……」
 ……まるで、愛の言葉みたいだ。熱心な彼の言葉が、私の胸を打つ。
切羽詰まった言葉は、それだけ私を必要としてくれている証拠だ。岩井田さんの言葉の一つひとつが、心に、体に、じんわりと染み込んでいく。
「嬉しいです、本当に。ずっと代わりのいない人間になりたかった。でも、もう少しだけ待ってもらえませんか。もう少し、自分の気持ちに踏ん切りつくまで」
 彼の話を受けるために、私にはきちんと諦めなくてはならないものがある。
「……わかりました。君のためなら待ちますよ、いくらでも。でも、それだけじゃなくて……」
「……岩井田さん?」
 私を見つめる岩井田さんの瞳が、違う色を纏う。
「三谷さん、本当にわかってる? 僕がずっと君に言ってきたことの意味が」
「えっ……」
 突然岩井田さんに腕を引かれ、二人の距離がなくなった。
 気が付いたときには、岩井田さんの腕の中にいた。差していた傘が地面に転がり、真っ白な雪が覆いを無くした二人の髪に肩に降り積もっていく。
 岩井田さんの腕の中でくぐもった声を聞きながら、そのさまをジッと見ていた。
「ずっと傍で見て来たから、君が誰を想っているのかはわかってるつもりだよ」
「岩井田さん……」
 岩井田さんは、気がついていたのだ。ずっとひた隠しにしてきた、私の本当の気持ちを。
「僕は……やつとは違う。決して君を一人にしない。仕事のときも、そうじゃないときも、僕の傍にいて欲しい」
「岩井田さん、でも私は――」
「三谷さん」
 岩井田さんは、答えようとする私の口を片手で塞いだ。
「返事は今じゃなくていい。ゆっくり、考えてみてくれないかな」
「でも……」
「すぐに結論を出すんじゃなくて、ちゃんと考えてみて欲しいんだ。ゆっくりと、一人で。いいね?」
 岩井田さんの言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。
降りしきる雪の中、七色に煌くツリーだけが、私たちを見守っていた。

「ありがとうございました」
「本当にここでいいの? 部屋まで送るのに」
 心配そうに私を覗きこむ岩井田さんに首を振った。
「大丈夫ですよ。岩井田さんこそ運転気をつけてくださいね」
 夕方降り始めた雪は、うっすらと積もりはじめていた。
「ありがとう、気をつけるよ。……それじゃあ、また明日会社で」
 マンションのエントランスの前に立ち、岩井田さんの車が見えなくなるまで手を振った。紺色のコートに散らばった雪をはらいマンションに入る。私の身体から落ちた雪も降り積もる雪と混ざって、どれがそうだったのかわからなくなった。
 このまま一晩中、雪が降り続いたら。
明日の朝、私が見る世界は色を変えているだろうか。
 
 自分の部屋のドアの前に立ち鍵を差し込んで、おかしいことに気がついた。
鍵が開いている。……部屋に誰かいる?
 細く開けたドアの隙間から中を覗くと、見覚えのある男性用の革靴が目に入った。
そんな、まさか。でもあれは……
息を呑み、音を立てないようにして玄関の中に入り、明かりの消えた廊下を歩く。
リビングと廊下を隔てるガラスのドア越しに、ソファに座る上村の姿が見えた。
「……上村、どうしてここにいるの?」
 上村は私の方を振り返ると、おもむろに立ち上がった。
彼の大きな背中を間接照明の明かりが照らす。私を見下ろす上村の顔はちょうど影になり、どんな表情をしているのかわからない。
なぜ私の部屋に上村がいるのか。そのわけを知りたくて、私は彼に近づいた。
「上村、何かあったの?」
 一歩、二歩と距離を詰めて、ようやく見えた上村の表情に息を呑んだ。
「おかえり、先輩」
 伸びてきた手が、私の腕を掴む。力の強さに顔を歪めた。
「痛いよ、離して」
「……岩井田さんと、今までどこに行ってたの?」
「は?」
 私が岩井田さんと一緒だったことを、どうして上村が知っているのだろう。岩井田さんの車から降りたところをベランダから見てたんだろうか?
「ドライブは楽しかった?」
「なっ……」
 言い返す間もなかった。
そのままソファに打ちつけられ、上村に体を押さえ込まれた。
覆いかぶさってきた上村に両手を頭上で押さえつけられ、身動きが取れない。
 首筋を這うぬるい感触に驚いて、逃れるように体を引いた。
「ひどいな、先輩。……俺からは逃げるなんて」
 私の抵抗に逆上したのか、上村は押さえつける手の力をさらに強めた。
「やっ、上村やめ……」
 ――拒否の言葉は、上村の唇が飲み込んでしまった。
舌を絡め取られ、息を継ぐことができない。足をバタつかせても、上村はやめてくれない。
酸素を求めて無意識に逸らす唇も、またすぐに上村が塞いでしまう。
両手の圧が解かれても、朦朧とした意識では、もう彼を押しのけることもできなかった。
 上村の手がスカートからブラウスを引きずり出し、下着ごと上にたくし上げる。
肌に触れる唇の感触に、ふいに意識が呼び戻された。
 ――何が上村を、苦しめてるの?
 力の抜けた手で上村の頭を抱き寄せ、くせのある髪をそっと指で梳いた。
「何が……あったの?」
 私の体から離れ、顔を上げた上村と目が合う。その表情は、苦しげに歪んでいた。
「上村……?」
 問いかけても、答えない。
微かに震える肩に、伏せた睫に、物言わぬ唇に、閉じ込めていた愛しさが込み上げた。
 ――それで、あなたが楽になるのなら……。
 上村の頬に手を伸ばし、今度は私から口付けた。
両手で頬を包み込み、額に、目蓋に、そっとキスを落とす。
唇を離すと、驚いた表情の上村と目が合った。
「外は、雪よ」
 私の言葉に、上村は怪訝そうに眉をひそめる。
「何も、聞こえないでしょう?」
今夜は、通りを行く車の音も、真夜中に響く足音も、どれも聞こえない。
降り積もる雪は全てをその中に閉じ込めてしまう。
私は笑みを零し、もう一度彼の頬に手を伸ばした。
「朝になれば、きっと世界は真っ白に変わってる」
 大丈夫、私がずっと側にいるからとあなたに言えたならいいのに。
……でもそれは私の役割じゃない。
今夜だけでも、あなたが私を求めてくれるなら。
 今度は、どちらともなく唇を合わせた。
上村の大きな手のひらを探し当て、自分から指を絡める。
このまま、繋いだ手が離れなければいいのに。
 どうか、後悔をしないで。
求めたのは私の方だと、覚えておいて。
あなたに触れることができるのは、きっとこれが最後。
そう思えば思うほど、体は熱を帯びていく。
互いの熱が溶け合い、混ざり合い境界が曖昧になっていく。
体は、こんなにも簡単なのに、たぶん私たちの心は永遠に交わらない。
 謝らないでいて欲しかったのに。
『香奈……ごめん』
眠りに落ちる瞬間、上村の声を聞いた気がした。
  
 胸がすっとするような、爽やか香りで目が覚めた。
重たく横たわる体を、ゆっくりと起こす。香りの正体は、枕元に置かれたグレープフルーツだった。
「……やだ、上村。最後まで」
手に取ると、みっちりと重い。
顔に近づけて、懐かしいその香りを思う存分吸い込んだ。

 通勤服に着替えてカーテンを開けると、外は真っ白な世界に変わっていた。
ベランダに出て、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
手すりに積もった雪を指先で掬い取った。雪は儚くて、私の体温であっという間に解けてなくなってしまう。
 結局、上村を苦しめているものの正体は私にはわからなかった。
――でも、それでいい。
あの夏の夜、私が上村に救われたように、私との時間が、一瞬でも上村を解き放つことができたなら。
この恋はちゃんと意味のあるものだったと、胸を張ることができる。
 部屋に鍵をかけ、冷えた空気の中に一歩踏み出す。
ここ数ヶ月溜め込んだ胸のもやもやを、白い息にのせ、生まれ変わった朝の街に向かって吹き飛ばした。

「三谷さん、その袋なんですかっ!?」
「やだ、響子!? びっくりした!!」
 クリスマスイブの朝、通勤に使っているバスを降りたところで響子に捕まった。そういう響子こそ、今日はやけに大きな紙袋を抱えている。
「響子こそ、その袋の中身はなあに?」
「白々しいですよ。知ってるくせに!」
 一人では迷ってプレゼントを決められなかったという響子に、再びショッピングに誘われたのは先週末のこと。
意中の彼から趣味はウインタースポーツだと聞き出した響子は、クリスマスにスノーボード用のウェアをプレゼントすると決めていた。
二人して彼に似合うものを探し求め、街中のスポーツ洋品店を散々歩き回った。
「それでそのプレゼント、三谷さんは誰にあげるんですか?」
 響子が目をキラキラさせて訊いてくる。私は苦笑いをこぼした。
「残念でした、プレゼントじゃないわ。これは母と食べるケーキなの」
 昨日の夜、一人で作ったクリスマスケーキ。母の好きなフルーツをふんだんに使ってある。
「えー、朝からケーキ買っちゃったんですか? 早く買わないと売り切れちゃうような有名店のケーキとか?」
「ん、まあね……」
 響子にも母のことは話していない。もしもという時のために、館山部長にだけは話したが、下手に聞かせて心配をかけるのが嫌で、結局会社の誰にも言ってなかった。
母の病状は依然芳しくない。ほとんどものを口にしなくなっているし、私が訪ねても寝ていることの方が多い。
覚悟だけはしていてくださいと、十二月に入ってすぐの検査の後、担当の医師からも言われていた。
「うまくいくといいわね」
「うー、今からドキドキしちゃう。今日一日仕事にならないかも!」
「また美奈子に怒られるわよ」
「あー、それはヤダ」
 二人小さくはしゃぎながら、会社のロビーを歩いた。
「おはようございます」
 受付の女の子たちと朝の挨拶を交わす。カウンターに置かれたポインセチアが、真っ赤な葉を茂らせている。
 そのポインセチアの鉢の向こうに、来客用のソファーに腰掛けている麻倉さんを見つけた。
いつもより、心なしか華やかに見える。響子が目ざとく彼女の存在に気がついた。
「あの人ですよね、麻倉さん。上村くんとつきあっているっていう……」
「……そうらしいね」
 響子の手前、私は無関心を装った。
 彼女の存在は、すっかり社内でも有名になっていた。
女性でありながら、オアシス部のやり手営業たちを次々にやり込めるキャリアウーマン。
そして、鉄壁の上村を落した唯一の女性。
「オアシス部って、こんなに早い時間から打ち合わせやってるんですか?」
「んー、どうだったかなあ。岩井田さんの予定には入ってなかったけど」
 麻倉さんから視線を外してエレベーター乗り場へと急ぐ。今はまだ、彼女を見ると胸が痛い。
「麻倉さんも今日はデートなのかなあ。ヘアスタイル、素敵だった」
 上昇するエレベーターの中、響子に言われて気がついた。
いつもは下ろしている麻倉さんの肩下までの髪が、今日は綺麗にアップされていた。
「そうなのかもしれないね」
 胸に鋭い痛みが走った。
自分から手放したはずの恋心が、こうして時折顔を出してはシクシクと痛み出す。
 上村と麻倉さんの噂は、あっと言う間に社内中に広まった。
いつもなら騒ぎ立てる上村ファンの女の子たちも、できる女の見本みたいな麻倉さんを目にするとさすがに戦意喪失してしまうらしい。
いつの間にか、二人は理想のカップルとして公認されていた。
「響子もすぐに仲間入りじゃない」
「そうですね。がんばろ!!」
 励ますように響子の肩を叩いて、エレベーターを降りた。

「おはようございます」
 コートを脱いで、鞄をチェアに置く。コートのポケットから取り出したスマホの画面に不在着信の通知が残っていた。
「あれ?」
 響子との会話に夢中になっていたせいか、全く気がついていなかった。画面をタップすると、母の入院している病院の電話番号が表示された。
「……え?」
呆然としていると、再び手のひらのスマホが振動する。画面に表示されたのは、やはり母の病院の名前だった。
「……もしもし、三谷ですが」
「良かった、つながった! 私ホスピス棟の川田です。三谷さん、お母さまが急変されました。急いで病院までお越し願えますか?」
 耳元からスマホを外し、画面を見つめる。
スマホから、看護師のわめき声がかすかに漏れてくる。
 ――今日はクリスマスイブで、仕事が終わったら病院へ行って母さんと一緒にケーキを食べるんだ。
そういえば、ケーキの入った袋、私どうしたっけ?――
「先輩! 電話貸して」
 その時、横から突然現れた上村が、私の手の中からスマホを奪い取った。素早く耳に当て、何かを話しはじめる。
私は、まるで他人事のようにその様子をぼんやりと眺めていた。
「はい、すぐに向かわせます。ありがとうございます」
 体が軸を失ったように、ぐらぐらと揺れていた。
上村の声も回りの喧騒も、全て反響したように頭の中で鳴り響く。
――耳鳴りがする。
 上村に何度か両肩を揺さぶられて、ようやく目の焦点が合った。覗き込む上村の瞳の中に、怯えた女の顔が映っている。
「先輩、病院から電話です。俺が連れて行きますから、早く」
「――病院?」
「どうしたんですか。しっかりしてください! 早く行かないと間に合わなくなる!!」
 上村のその一言が、私を一気に現実に引き戻した。
「……行かなきゃ!!」
 そのままオアシス部を飛び出そうとした私の腕を、上村が掴んだ。
「だから、俺も一緒に行くって!」
 前回、母が倒れた時のことを思い出したのだろう。上村が私を心配そうに覗きこんだ。
「……一人で大丈夫だから」
 私は、上村の腕をそっと外すと、しっかりと上村の目を見て微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。私は大丈夫」
「先輩……」
「行くね」
 私は、ちょうど出勤してきた部長に事情を告げると、今度こそオアシス部を飛び出した。
 出勤時間で混んでいるエレベーターを避け、階段を一気に駆け下りる。
玄関ホールに下り、まだ出勤してきたばかりの社員たちの間を走り抜けた。
 早く、母さんのもとへ行かなきゃ。そのことばかりが、頭の中を巡っている。
 私は会社を出ると、ちょうど来たタクシーに飛び乗った。

「母さん!!」
 乱れた息を整える間もなく、病室に駆け込んだ。
母はもう顔に色もなく、酸素マスクをつけていても苦しくてたまらないようだった。
「ご家族の方ですか? どうぞ、こちらに」
 ずっと母を担当してくれていた看護師に肩を抱かれ、母の元へと歩み寄る。膝をついて母の顔を覗き込む。力なく置かれた手を取り、そっと握り締めた。
「母さん私、香奈よ。お願い目を開けて」
 両手で握り締めた母の手を額に寄せ、きつく目を閉じた。
「母さん、今日はクリスマスイブよ。今年は私一人でケーキ作ってみたの。一緒に食べよう……」
 いくら私が語りかけても、母が目を開ける気配はない。溢れる涙で、母の顔が歪んで見えた。
 ……泣いてちゃダメだ。ちゃんと自分一人で向き合うって決めたじゃない。
 溢れる涙を止めようと、歯を食いしばり自分で自分を叱咤する。震える手のひらで涙を拭いて、顔を上げた。もう一度、母に呼びかけてみる。
「母さん、お願いだから……目を開けて!!」
 私の呼びかけに反応したのか、ずっと閉じられていた母の目蓋がぴくりと動いた。ゆっくりと何度か瞬きをしながら目を開ける。おぼろげな視線が私を捉えると、母の目から一粒涙がこぼれた。
「母さん、大丈夫よ。私がいるからもう大丈夫」
 母はゆっくりと私に微笑むと、酸素マスクを指差した。私は頷いて、母の口からマスクを外す。
「……母さん?」
 母は浅く呼吸を繰り返すと、そっと私の頬に触れた。
幼い頃、なかなか寝付けない私にそうしてくれたように、濡れた目蓋を優しく撫でる。……涙が、止まらなかった。
「香奈……、自分に正直に。幸せに……なってね」
 母の細い指が、私の頬を滑り落ちた。
「かあ、さん?」
 甲高い電子音が部屋中に鳴り響く。
――いつの間に来ていたのか、母を受け持つ初老の医師が、淡々とした声で母の死を告げた。



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