グレープフルーツを食べなさい

美森 萠

文字の大きさ
12 / 14

私は、大丈夫

しおりを挟む

『私は、大丈夫』

 子供の頃から、つらいことがあるたびに鏡の中の自分にそう言い聞かせてきた。

 言葉には力があって、声に出せば本当になるから。


 浅い眠りの夜、暗闇の中目を凝らすと、窓辺に一人佇み月を見上げる母がいた。

 月明かりの下、母は何度も何度も繰り返していた。


『大丈夫、私は大丈夫』

 自分だけが温かい布団の中で、私はその光景をこの目に焼き付けた。

 今だけではなく、この先もずっと。決して忘れないように。


 ――母のように強く、私はなりたい……


「三谷さん、もう出てこられたんですか?」
「岩井田さん、あけましておめでとうございます」
 早朝のオアシス部で、まだ正月休みを引きずっているらしい、眠そうな目をした岩井田さんに頭を下げた。
「年末は、色々とありがとうございました」
 クリスマスだというのに、母の葬儀には会社からもたくさんの人が駆けつけてくれた。岩井田さんもその一人だ。
「その、もう大丈夫なのかな。こんなこと聞くのもあれなんだけど……」
不安気に私を覗きこむ岩井田さんにこれ以上心配をかけたくなくて、私はにっこりと微笑んだ。
「私は大丈夫ですよ、岩井田さん」
それなのに、岩井田さんの顔はなぜかまだ晴れない。
「……本当に?」
「岩井田さんって、案外心配性ですよね」
 眼鏡の奥、私に心配そうな視線を向ける岩井田さんに、私はもう一度微笑んでみせた。
「いや、だって……君葬儀の時、一度も涙を流さなかったから……」
 ――気づかれていた。
 母が亡くなってすぐは、母がもういないことが信じられなくて。……なんだか嘘のようで、しばらくぼんやりとしていた。
通夜や葬儀のときは、やらなければいけないこと、決めなくてはいけないことがたくさんあって、とにかくそれに追われていた。
私は母の死を実感する間もなく、気がつけば全てが終わっていた。
 本当は今このときも、悪い夢を見ていたような気がしている。
元気だった頃の母がひょっこりと姿を現して、『香奈』と笑いかけてくれるような気がしてならない。
「……泣かないってことは、もう大丈夫ってことですよ、岩井田さん」
 『私は大丈夫』
 ちぐはぐな心とはうらはらに、こうして今日も私は、自分の心に暗示をかける。
  
 会社帰りのバス停で、到着したバスを見上げてため息を吐き出した。まるで朝の通勤ラッシュのような人の多さだ。
バスの中は暖房が効きすぎていて、ウールのストールを巻きつけた首筋に汗が滲む。それでもいつもは平気なのに、私は珍しく人に酔った。
ひどくめまいがして、家の近くのバス停にたどり着くまで目を瞑り、私は必死でつり革を握り締めていた。
 きっとずっと眠れていないから、そのせいだろう。今日くらいはぐっすり眠れたらいいのに。
 母のことをきちんと受け入れられたら、私は眠りを思い出せるのだろうか。
一人の家に帰ると、あの月夜の母の姿が脳裏に蘇っていつまでも消えない。
母が近くにいないことが、ずっと不思議でならなかった。
 ――でもその時は、突然訪れた。
 とにかくずっと靄がかかったような頭をすっきりさせたくて、私は食事もそこそこにシャワーを浴びた。
濡れた髪を乾かそうと、洗面台の前に立つ。覗き込んだ鏡の中の自分に、私は初めて母の面影を見た。
「ずっと似てないって言われたのに……」
 私はおそらく父親似なのだろう。母と一緒に居ても、これまで似ていると言われたことがなかった。それなのに……。
 鏡の中の自分に手を伸ばしてみる。
キリと上がった眉、すっと通った鼻筋、痩せた頬、薄い唇。
いつの間にかこんなにも、私は母に似てきていた。
「本当に、居なくなったんだなあ……」
 今頃、母の不在を実感して、一粒、二粒と涙が零れる。
「……とうとう一人になっちゃった」
 そう呟いて、もう一度鏡を覗きこんだとき、それは突然舞い降りて来た。
「かあ……さん?」
 呼びかけても、答えてくれるわけじゃないのに。気づけば母を呼んでいた。
 ……もしかしたら、これは母からの最後の贈り物なのかもしれない。それは徐々に、確信へと変わっていく。
「うっ……、母さん!」
私は、その場に膝をつき泣き崩れた。
『涙はもう出ない』そう思っていたのに。涙は枯れることなく私の中から溢れてくる。
 泣いて泣いて、時間も場所も何もかもが曖昧になるほど泣き続けて、真冬の空が白み始める頃、ようやく私は眠りに落ちた。
 それは久しぶりに訪れた、安らかな眠りだった。
 
「タン!」とキッチンの方から思い切りのいい包丁の音がして目が覚めた。
目を開けると、私はきちんとベッドの中で眠っていた。泣きすぎて、頭が痛い。まだふらつく体で、ベッドから抜け出した。
 寝室のドアを開けると、あの香りが漂ってくる。
酸っぱくて苦い、それなのにほのかに甘いグレープフルーツの香り。
どうしても欲しくて、私はそれに手を伸ばす。
「先輩……起きた?」
 足音に気付いた上村が、私を振り返った。
「上村、またグレープフルーツ?」
 笑ったつもりだったのに、久しぶりに私の部屋に居る上村の姿を見て、ほろりと一粒涙が零れた。
「……ごめんね、上村が寝室まで運んでくれたの? 重かったでしょう」
 上村は包丁を置き、体を私の方に向けると、眉間にしわを寄せた。
どうしたんだろう? なんだか上村、怒ってるみたいだ。
「ちっとも重くない、軽すぎるよ。先輩、ちゃんと飯食ってたの?」
「ああ、あんまし……」
「あんましじゃないよ。前にも言っただろ。どうしてしんどい時にちゃんとしんどいって言わないんですか」
 真剣な上村につい吹き出してしまう。こんなに一生懸命な上村、今まで見たことがあっただろうか。
「あのね上村、私には呪文があるの」
「……呪文?」
 私がそう言うと、上村はまた訝しげに眉をひそめた。
「そう、『私は大丈夫』って何度も胸の中で唱えるの。そうしたらほんとに大丈夫になる。……だから私は、誰かを頼らなくても生きていけるの」
「何言ってんの……」
 上村は眉間にしわを寄せると、私を胸に抱き寄せた。
懐かしい上村の体温と匂い。それが、いつも私を惑わせてしまう。
「今度から俺を頼って。鍵もあるからいつでも来られる」
 そう言って体を離すと、シャツの胸ポケットからこの部屋の鍵を取り出して私に見せた。
「先輩は捨てろって言ったけど、やっぱり俺にはできなかった。……先輩、この鍵俺が貰ってもいいですか?」
「上村……」
 私は、上村の腕の中から抜け出すと、彼の手のひらから部屋の鍵を受け取った。
チャームと鍵がぶつかって、涼やかな音を立てる。
 ――全ては、この鍵から始まったんだ。
「ダメよ。返し……」
 全て言い終わらないうちに、両肩をきつく掴まれた。見たことないほど苦しげな表情を見せる上村に、胸が痛む。
「……どうして。ひょっとして朝倉のこと? それならちゃんと……」
「違うわ」
 麻倉さんがどうであろうと関係ない。問題は、私と上村では『違い過ぎる』ということだ。
「違うならどうして」
「上村、もうやめよう。私たちは一緒にいるべきじゃない」
「……どうしても?」
「どうしても」
 素直にその手を取ることができたなら良かったのに。
 私の気持ちは変わらないと悟ったのか、上村はゆっくりと私から離れた。名残惜しげに私に触れ、唇にキスを落す。
「さよなら、香奈」
 最後にそう告げ、上村はこの部屋から出て行く。
これで、最後。
そう思ったことはこれまで何度もあったけど、本当にこれで最後なんだ。
 音もなく、玄関のドアが閉まる。私は手のひらの鍵をきつく握り締めた。



しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

涙のあとに咲く約束

小田恒子
恋愛
事務系の仕事に転職したばかりの松下理緒は、総務部の藤堂がシングルファーザーではないかという噂を耳にする。 噂を聞いた後、偶然藤堂と小さな男の子の姿を見かけ、男の子が落とした絵本をきっかけに親しくなる。 家族持ちの藤堂にどうしようもなく惹かれていく。 そんなある日、真一は事故で亡くなった兄夫婦の子で、藤堂が自分の子どもとして育てていると知ったた理緒は…… ベリーズカフェ公開日 2025/08/11 アルファポリス公開日 2025/11/28 表紙はぱくたそ様のフリー素材 ロゴは簡単表紙メーカー様を使用 *作品の無断転載はご遠慮申し上げます。

【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。 「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。 小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。 若くしてプロジェクトチームを任される彼は、 かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、 遠く、眩しい存在になっていた。 優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。 もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。 それでも—— 8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。 これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。

恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-

プリオネ
恋愛
 せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。  ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。  恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。

大好きな背中

詩織
恋愛
4年付き合ってた彼氏に振られて、同僚に合コンに誘われた。 あまり合コンなんか参加したことないから何話したらいいのか… 同じように困ってる男性が1人いた

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました

専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

処理中です...