1 / 2
未完成ベイビー①
しおりを挟む
もう二十分も電話がかかって来ない。
このまま終業時間になって欲しいけど、仕事をしていないと時間の流れって遅い。私は暇を持て余し、管理職にばれないようにセンター内を見回した。
あっ、鈴木さんがまた居眠りしている。管理職は見てみぬふりだ。私が居眠りしていたらすぐ怒られるのに。一番の古株オペレーターだから特別扱いなんだろうな。
佐藤さんは男性管理職と無駄話している。男性管理職は注意するどころか、若くて美人の佐藤さんにデレデレだ。私の私語には厳しいのに。
理不尽な職場!
私はこのコールセンターで、四年間、テレフォンオペレーターをしている。身分は契約社員だ。
「風間さん、仕事中ですよ。何をきょろきょろしているんです?」
背後から鋭い声が突き刺さった。ふり向くと、職場で一番怖い女性管理職が睨みつけていた。
「周りは気にせず、自分のやるべきことをしてください」
この人、高校の国語の先生と似ているから余計に苦手だ。
その先生は授業中に私が「内職」をしていると、目ざとく見つけては注意して来た。
小さい頃から絵本作家になりたかった私は、学生時代は勉強よりも絵本作りに夢中だった。絵やストーリーのアイデアが思い浮かべば、授業中でもお構いなしでネタ帳に描いていた。
絵本を新人賞に送ったことは一度もない。作品がすべて未完成で終わる「完成させられない病」のせいだ。
友達のツキミからは「下手でもいいから完成させて応募しなよ。何も進まないよ」と、口を酸っぱくして言われた。
結局、一作も完成させられないまま絵本作りは辞めてしまった。私より才能のある子がたくさんいると知ったからだ。
もう一人の友達、ミドリに言われた。「あんたがやりたいなら、他の人とか関係なくない?」
二人は正しい。すごく正しい。わかっているのに「正しい」をできない自分が嫌になる。でもこれが私だからしかたないよね。
耳に装着しているインカムから「ピピッ」と音が鳴った。電話がかかって来た。
「お電話ありがとうございます。エポックカードの風間でございます。本日はどのようなお問い合わせでしょうか」
何百回と吐いたセリフは、自動で口から流れた。お客さんからの問い合わせ内容は似たり寄ったりで、仕事はとっくに飽きている。だけど契約社員は管理職に昇進できないから、ここにいる限りはずっと同じ仕事だ。
転職は毎日考えているけど、慣れた職場を変えるのは面倒だ。別にやりたいことがあるわけでもないし。いつも「変わらなきゃ」と危機感を覚えている癖に、何も変えないまま現在に至る。
新卒から同じ会社で正社員として働いていたツキミは、先日昇進したらしい。部下ができて大変だと嘆いていたけど、こっちからすればキラキラした愚痴だ。私も新卒の時にもっと頑張っておけばよかった。就活から早く抜け出したくて最初に内定をくれた会社に就職したけど、二年で辞めちゃった。
何かスカッとすることないかな。
そうだ、今度の三連休はミドリにトレッキングに連れて行ってもらおう。ミドリはトレッキングにはまったらしく、山頂でチタン製のコーヒーカップを掲げている写真などをSNSにアップしていた。私はひたすら「いいね」を押していた。
ミドリの写真は映《ば》えるから「いいね」が多い。それに比べ、昼すぎにやっと起きて、スマホをいじっている内に夕方になる私の休日なんて、誰も「いいね」を押してくれまい。
気がつけば二十八歳《ここ》まで来てしまった。早くナントカしないとすぐに三十路だ。でもナントカって、具体的に何をすればいいんだろう。
アパートに帰宅し、ご飯を食べ、シャワーを浴び、ベッドに寝転がる。いつも通り用もないのにスマホに手を伸ばした。
ミドリから新着メッセージが来ていた。返信がてらトレッキングに行きたいことを言おう。……という考えは、メッセージを読んで消え失せた。
〈結婚することにしたの! 運命のダーリンと出会っちゃった!〉
先月までは彼氏と続かないって愚痴っていたのに、いきなりすぎる。いや、親友が結婚するんだよ? 心から祝ってあげなよ私! 頭ではわかっているのに、素直に喜べない最低な自分がいた。
〈いきなりの展開にめっちゃびっくりしたけど、結婚おめでとう!! 式は絶対に行くから、招待状をちょうだいね!!!〉
後ろめたさを打ち消すように、テンション高めのメッセージと、スタンプを送った。
ツキミにもメッセージしたい。私たちは三人で仲がよかったから、結婚することはあの子にも言っているはず。
〈ミドリが結婚するって聞いてどう思った? 私は意外だったなぁ。ミドリはずっとフリータだったし、まだプラプラしてると思ってたもん。距離を感じちゃって寂しいかも~〉
メッセージボックスにそこまで書いて、全部消した。悪意が見え隠れする嫌な文章だ。それに、別の意味で身を固めているツキミには私の焦りなんてわかってもらえないだろう。
また友達と差がついた。ツキミのキラキラな愚痴を聞いている時も、ミドリの素敵な休日に「いいね」している時も、同じ気持ちになった。
ツキミにメッセージを送るのは辞めにして、つぶやきSNSのタイムラインをチェックした。毎日飼っている猫についてつぶやいている人。毎日好きな女優についてつぶやいている人。彼らは川みたいに流れて行く。変わらない人たちが作る濁流は、私を癒してくれた。
「これじゃダメ人間だ……」
簡単に楽しい気持ちになれるものが、空から降って来ればいいのに。
タイムラインに見たことがない業者の広告が表示された。アカウント名は「ユウゲン会社よき旅夢気分」つぶやきには「安心安全を保障する旅、無料体験実施中!」と書いてあり、サイトのURLが添付されていた。
旅行なんてずっと行っていない。無料体験に惹かれ、URLをクリックすると、無料体験の予約フォームだけしかない素っ気ないページが現れた。
フォームの上にはこう書いてあった。
〈本当の自分と出会う旅をしませんか?〉
絶賛自分迷子中の私に深く突き刺さる言葉だ。
楽しい気持ちになれるものは、自分から手を伸ばさないと手に入らない。名前、性別、住所など必要事項を入力して、えいや! と、予約の送信ボタンを押した。
〈ご予約有難うございます。担当者からの連絡をお待ちください〉
メールアドレスや電話番号は入力していないのに、どうやって連絡が来るんだろう。なんてことを考えていると、
【風間様、ご予約有難うございます。無料体験の招待にあずかりました】
別の世界から聞こえて来るような不思議な声が部屋に響き渡った。
辺りを見回すと、冷蔵庫の前に見覚えのない男が立っていた。
身長は二メートル近くありそうだ。やせているので細長い印象を受ける。高級そうな真っ黒なスーツとシルクハットを身につけていた。ネクタイは濃紺で、細かな白いドットが夜空の星みたいに散っていた。
驚きのあまりベッドから飛び起きた。不審者だ! そもそも人間じゃない! 面長ではすまないほど口が長いし、目が小さすぎる。アリクイにそっくりだ。
「だ、だだだだだ、誰?!」
【失礼。名刺を渡しておりませんでした。これでは怪しいものですね】
この怪しさは名刺一枚でどうにかできるレベルじゃない。そうつっこむ前に、男は名刺を差し出し、丁寧にお辞儀をした。
【ワタクシ、こういうものです】
名刺にはこう書かれていた。
「幽玄会社 よき旅夢気分 代表取締役 田中三郎」
無料体験を申込んだ旅行会社の人だ。それにしてもこの見た目で田中三郎って……。
【代表取締役なんて大そうな肩書きで驚きましたよね!】
そこには反応していない。
【従業員三名の会社ですので、代表取締役という名のなんでも屋でございます。添乗員も兼ねておりますよ】
「どうやってうちに入ったんですか」
【わいふぁいを経由致しました】
部屋の隅に設置している無線ルーターを見た。当然、大男が通れる穴なんか開いていない。
【普段は体を電子化して電脳空間に住んでおります故】
そんな雑な説明じゃよくわからない。
【さっそく旅行にゆきましょうか】
「待ってください! なにも準備していませんし、夜ですし!」
【夜だからこそ、でございます。それにお客様にご準備いただくものはございません。旅行先は夢の中ですので】
「本当の自分に出会う旅に連れて行ってくれるんですよね?」
ただでさえつぶらな目を細め、田中さんは「ええ」と、言った。
【ニンゲンの心はほとんどが無意識という、自分でも認識できない深海に眠っております。無意識と対話できる手段が『夢』でございます。ワタクシはお客様が出会いたいご自身と出会える夢をお見せすることができます。――こちらを使って】
田中さんは懐から、銀色に光る指揮棒を取り出した。
「どうしてそんな魔法みたいなことができるんですか?」
田中さんはいかにも答えづらそうに言った。
【……実はワタクシ、ニンゲンではありません】
知ってた。
「アリクイですか?」
【獏でございます! 獏の中にはワタクシのようにニンゲンの夢を食べるものが存在します。夢によって味や栄養が異なるで、ニンゲンの見る夢を操れるように進化いたしました】
なにそれ怖い。
【ちなみに、ワタクシの好物はすいーつです】
別に聞いていない。
【近ごろは食糧不足で困っております】
「夢が減っているってこと?」
【はい。ニンゲン達のやることが増え、睡眠時間が大いに減ったのです。満足な食事ができず、こんなにも痩せ細ってしまいました】
田中さんは両手で自分の腹をはさんだ。
【……冗談です。体型は千年前から変わっておりません】
獏の寿命って何歳なんだろう。
【食料不足は事実でございます。ニンゲンの睡眠時間を増やすため、会社を立ち上げ、えすえぬえすで宣伝しておりました。……無料と言っておいて恐縮ですが、見た夢を少しいただきたいのです】
「夢を食べられたらどうなるんです?」
【忘れるだけです。ニンゲンが見た夢をすべて覚えていないのは、ワタクシたちが食べているからなんですよ】
再び田中さんは目を細めた。彼なりの愛想笑いなのだろうか。
【夢の中へはワタクシもご一緒いたしますので、ご安心ください】
「獏って、人間の夢に入れるんですか」
【ワタクシは添乗員も兼ねている代表取締役ですので、特別です】
理屈はまったくわからないけど、田中さんが代表取締役の地位を気に入ってるのはよくわかった。
【ではそろそろ旅行にゆきましょうか】
こんなヘンテコな状況、現実のわけない。つぶやきSNSをチェックしている内に眠ってしまったんだろう。どうせ夢なら面白い方がいい。私は「わかりました」と、返事をした。
【ベッドに横になってください】
言われた通りにすると、田中さんが指揮棒を振り上げた。
【よき旅夢気分♪】
聞いたことのないクラシック音楽が鳴り始めた。田中さんの声と同じように、別の世界から聞こえて来る。
やがて脳の緊張がゆるみ、意識が眠りへ吸い込まれた。
このまま終業時間になって欲しいけど、仕事をしていないと時間の流れって遅い。私は暇を持て余し、管理職にばれないようにセンター内を見回した。
あっ、鈴木さんがまた居眠りしている。管理職は見てみぬふりだ。私が居眠りしていたらすぐ怒られるのに。一番の古株オペレーターだから特別扱いなんだろうな。
佐藤さんは男性管理職と無駄話している。男性管理職は注意するどころか、若くて美人の佐藤さんにデレデレだ。私の私語には厳しいのに。
理不尽な職場!
私はこのコールセンターで、四年間、テレフォンオペレーターをしている。身分は契約社員だ。
「風間さん、仕事中ですよ。何をきょろきょろしているんです?」
背後から鋭い声が突き刺さった。ふり向くと、職場で一番怖い女性管理職が睨みつけていた。
「周りは気にせず、自分のやるべきことをしてください」
この人、高校の国語の先生と似ているから余計に苦手だ。
その先生は授業中に私が「内職」をしていると、目ざとく見つけては注意して来た。
小さい頃から絵本作家になりたかった私は、学生時代は勉強よりも絵本作りに夢中だった。絵やストーリーのアイデアが思い浮かべば、授業中でもお構いなしでネタ帳に描いていた。
絵本を新人賞に送ったことは一度もない。作品がすべて未完成で終わる「完成させられない病」のせいだ。
友達のツキミからは「下手でもいいから完成させて応募しなよ。何も進まないよ」と、口を酸っぱくして言われた。
結局、一作も完成させられないまま絵本作りは辞めてしまった。私より才能のある子がたくさんいると知ったからだ。
もう一人の友達、ミドリに言われた。「あんたがやりたいなら、他の人とか関係なくない?」
二人は正しい。すごく正しい。わかっているのに「正しい」をできない自分が嫌になる。でもこれが私だからしかたないよね。
耳に装着しているインカムから「ピピッ」と音が鳴った。電話がかかって来た。
「お電話ありがとうございます。エポックカードの風間でございます。本日はどのようなお問い合わせでしょうか」
何百回と吐いたセリフは、自動で口から流れた。お客さんからの問い合わせ内容は似たり寄ったりで、仕事はとっくに飽きている。だけど契約社員は管理職に昇進できないから、ここにいる限りはずっと同じ仕事だ。
転職は毎日考えているけど、慣れた職場を変えるのは面倒だ。別にやりたいことがあるわけでもないし。いつも「変わらなきゃ」と危機感を覚えている癖に、何も変えないまま現在に至る。
新卒から同じ会社で正社員として働いていたツキミは、先日昇進したらしい。部下ができて大変だと嘆いていたけど、こっちからすればキラキラした愚痴だ。私も新卒の時にもっと頑張っておけばよかった。就活から早く抜け出したくて最初に内定をくれた会社に就職したけど、二年で辞めちゃった。
何かスカッとすることないかな。
そうだ、今度の三連休はミドリにトレッキングに連れて行ってもらおう。ミドリはトレッキングにはまったらしく、山頂でチタン製のコーヒーカップを掲げている写真などをSNSにアップしていた。私はひたすら「いいね」を押していた。
ミドリの写真は映《ば》えるから「いいね」が多い。それに比べ、昼すぎにやっと起きて、スマホをいじっている内に夕方になる私の休日なんて、誰も「いいね」を押してくれまい。
気がつけば二十八歳《ここ》まで来てしまった。早くナントカしないとすぐに三十路だ。でもナントカって、具体的に何をすればいいんだろう。
アパートに帰宅し、ご飯を食べ、シャワーを浴び、ベッドに寝転がる。いつも通り用もないのにスマホに手を伸ばした。
ミドリから新着メッセージが来ていた。返信がてらトレッキングに行きたいことを言おう。……という考えは、メッセージを読んで消え失せた。
〈結婚することにしたの! 運命のダーリンと出会っちゃった!〉
先月までは彼氏と続かないって愚痴っていたのに、いきなりすぎる。いや、親友が結婚するんだよ? 心から祝ってあげなよ私! 頭ではわかっているのに、素直に喜べない最低な自分がいた。
〈いきなりの展開にめっちゃびっくりしたけど、結婚おめでとう!! 式は絶対に行くから、招待状をちょうだいね!!!〉
後ろめたさを打ち消すように、テンション高めのメッセージと、スタンプを送った。
ツキミにもメッセージしたい。私たちは三人で仲がよかったから、結婚することはあの子にも言っているはず。
〈ミドリが結婚するって聞いてどう思った? 私は意外だったなぁ。ミドリはずっとフリータだったし、まだプラプラしてると思ってたもん。距離を感じちゃって寂しいかも~〉
メッセージボックスにそこまで書いて、全部消した。悪意が見え隠れする嫌な文章だ。それに、別の意味で身を固めているツキミには私の焦りなんてわかってもらえないだろう。
また友達と差がついた。ツキミのキラキラな愚痴を聞いている時も、ミドリの素敵な休日に「いいね」している時も、同じ気持ちになった。
ツキミにメッセージを送るのは辞めにして、つぶやきSNSのタイムラインをチェックした。毎日飼っている猫についてつぶやいている人。毎日好きな女優についてつぶやいている人。彼らは川みたいに流れて行く。変わらない人たちが作る濁流は、私を癒してくれた。
「これじゃダメ人間だ……」
簡単に楽しい気持ちになれるものが、空から降って来ればいいのに。
タイムラインに見たことがない業者の広告が表示された。アカウント名は「ユウゲン会社よき旅夢気分」つぶやきには「安心安全を保障する旅、無料体験実施中!」と書いてあり、サイトのURLが添付されていた。
旅行なんてずっと行っていない。無料体験に惹かれ、URLをクリックすると、無料体験の予約フォームだけしかない素っ気ないページが現れた。
フォームの上にはこう書いてあった。
〈本当の自分と出会う旅をしませんか?〉
絶賛自分迷子中の私に深く突き刺さる言葉だ。
楽しい気持ちになれるものは、自分から手を伸ばさないと手に入らない。名前、性別、住所など必要事項を入力して、えいや! と、予約の送信ボタンを押した。
〈ご予約有難うございます。担当者からの連絡をお待ちください〉
メールアドレスや電話番号は入力していないのに、どうやって連絡が来るんだろう。なんてことを考えていると、
【風間様、ご予約有難うございます。無料体験の招待にあずかりました】
別の世界から聞こえて来るような不思議な声が部屋に響き渡った。
辺りを見回すと、冷蔵庫の前に見覚えのない男が立っていた。
身長は二メートル近くありそうだ。やせているので細長い印象を受ける。高級そうな真っ黒なスーツとシルクハットを身につけていた。ネクタイは濃紺で、細かな白いドットが夜空の星みたいに散っていた。
驚きのあまりベッドから飛び起きた。不審者だ! そもそも人間じゃない! 面長ではすまないほど口が長いし、目が小さすぎる。アリクイにそっくりだ。
「だ、だだだだだ、誰?!」
【失礼。名刺を渡しておりませんでした。これでは怪しいものですね】
この怪しさは名刺一枚でどうにかできるレベルじゃない。そうつっこむ前に、男は名刺を差し出し、丁寧にお辞儀をした。
【ワタクシ、こういうものです】
名刺にはこう書かれていた。
「幽玄会社 よき旅夢気分 代表取締役 田中三郎」
無料体験を申込んだ旅行会社の人だ。それにしてもこの見た目で田中三郎って……。
【代表取締役なんて大そうな肩書きで驚きましたよね!】
そこには反応していない。
【従業員三名の会社ですので、代表取締役という名のなんでも屋でございます。添乗員も兼ねておりますよ】
「どうやってうちに入ったんですか」
【わいふぁいを経由致しました】
部屋の隅に設置している無線ルーターを見た。当然、大男が通れる穴なんか開いていない。
【普段は体を電子化して電脳空間に住んでおります故】
そんな雑な説明じゃよくわからない。
【さっそく旅行にゆきましょうか】
「待ってください! なにも準備していませんし、夜ですし!」
【夜だからこそ、でございます。それにお客様にご準備いただくものはございません。旅行先は夢の中ですので】
「本当の自分に出会う旅に連れて行ってくれるんですよね?」
ただでさえつぶらな目を細め、田中さんは「ええ」と、言った。
【ニンゲンの心はほとんどが無意識という、自分でも認識できない深海に眠っております。無意識と対話できる手段が『夢』でございます。ワタクシはお客様が出会いたいご自身と出会える夢をお見せすることができます。――こちらを使って】
田中さんは懐から、銀色に光る指揮棒を取り出した。
「どうしてそんな魔法みたいなことができるんですか?」
田中さんはいかにも答えづらそうに言った。
【……実はワタクシ、ニンゲンではありません】
知ってた。
「アリクイですか?」
【獏でございます! 獏の中にはワタクシのようにニンゲンの夢を食べるものが存在します。夢によって味や栄養が異なるで、ニンゲンの見る夢を操れるように進化いたしました】
なにそれ怖い。
【ちなみに、ワタクシの好物はすいーつです】
別に聞いていない。
【近ごろは食糧不足で困っております】
「夢が減っているってこと?」
【はい。ニンゲン達のやることが増え、睡眠時間が大いに減ったのです。満足な食事ができず、こんなにも痩せ細ってしまいました】
田中さんは両手で自分の腹をはさんだ。
【……冗談です。体型は千年前から変わっておりません】
獏の寿命って何歳なんだろう。
【食料不足は事実でございます。ニンゲンの睡眠時間を増やすため、会社を立ち上げ、えすえぬえすで宣伝しておりました。……無料と言っておいて恐縮ですが、見た夢を少しいただきたいのです】
「夢を食べられたらどうなるんです?」
【忘れるだけです。ニンゲンが見た夢をすべて覚えていないのは、ワタクシたちが食べているからなんですよ】
再び田中さんは目を細めた。彼なりの愛想笑いなのだろうか。
【夢の中へはワタクシもご一緒いたしますので、ご安心ください】
「獏って、人間の夢に入れるんですか」
【ワタクシは添乗員も兼ねている代表取締役ですので、特別です】
理屈はまったくわからないけど、田中さんが代表取締役の地位を気に入ってるのはよくわかった。
【ではそろそろ旅行にゆきましょうか】
こんなヘンテコな状況、現実のわけない。つぶやきSNSをチェックしている内に眠ってしまったんだろう。どうせ夢なら面白い方がいい。私は「わかりました」と、返事をした。
【ベッドに横になってください】
言われた通りにすると、田中さんが指揮棒を振り上げた。
【よき旅夢気分♪】
聞いたことのないクラシック音楽が鳴り始めた。田中さんの声と同じように、別の世界から聞こえて来る。
やがて脳の緊張がゆるみ、意識が眠りへ吸い込まれた。
0
あなたにおすすめの小説
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
思いを込めてあなたに贈る
あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
後の祭り
ねこまんまときみどりのことり
ライト文芸
母親を馬車の事故で亡くしたナズナは、馬車に乗っていた貴族の男性に、義理の娘として引き取られた。引き取られた先の子爵邸では、義母や義妹に傷付けられて泣いて過ごすこともあったが、懸命に生きていく。引き取られた裏には、別の理由もあったようで。
小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる