神の翼

斗弧呂天

文字の大きさ
上 下
2 / 41

しおりを挟む
町の外れにある平屋の家。
板の壁にはツタが這い、窓は割れ、家全体がどこか歪んでいるようにさえ思える。
何も知らない人間が通れば、ただの廃墟にしか見えないだろう。
又は、売春婦の営業所か、浮浪者の溜まり場か。
どちらにせよ、普通の人間が近づきたいところではない筈だ。
だから恐らく、そんな家に入って行ったひとりの男は、普通の人間ではないだろう。
なかなか開かないドアを力まかせにひくと、ドア枠が壊れそうな悲鳴をあげた。
男は埃っぽい屋内をざっと見渡すと、奥にある古びたカウンターへと歩いていった。
中にはそのカウンター以外に何も無かった。
男は肩に掛けていた袋を足元に置くと、ごとりと重い音を立てた。
カウンターには昨日のものらしい新聞と、小さな呼び出しベルが置いてあった。
男はベルを一度鳴らした。
反応はない。
男はまた袋を担ぐと、カウンターの奥のドアに近づいた。
ベルを何度も鳴らしたところで、ここのは出てくる事などないのは、男は充分理解していた。
よって男は少々手荒ではあるが、彼には効果的な方法をとることにした。
ドアを軽くノックする。
反応はない。
ドアが壊れそうな勢いでノック。
反応はない。
ドアノブを回す。
鍵がかかっている。
男は袋を担ぎ直すと、半歩下がり、左脚を軽く浮かせた。
重心を少し後ろにずらし、右脚に力を入れる。
身体を一気に起こしながら、左脚を上げ、ドアの蝶番の少し横を狙う。
刹那、家全体が衝撃に反響した。
ドアであった木の板は見事に砕け、辺り一面に埃が舞った。
ドアがあったはずのそこは、今はぽっかりと奥の空間へと口を開けている。
恐らくそれに一番驚いたであろう家の主は、ベッド代わりの積み上げた藁の上で飛び上がり、何事か喚きながらそこから逃げようとした。
「相変わらず埃くせぇ所だな。じいさんよ。」
男は自分が誰か分かるよう、少し大きな声で呼びかけた。
まだ驚きが冷めやらない家主は、ようやく意味のわかる言葉をもごもごと話し出した。
「あぁ、なんだあんたかい。年寄りを、驚かせるんじゃない。ドアを、蹴破る奴がいるか。」
男は鼻で笑った。
「悪いな。こっちもじいさんのちっぽけな心臓に配慮してる暇はないんでね。」
「まったく…で?今日の手柄を拝見してほしいのかな?」
「勿論」
「分かった。」
家主は少しまごつきながら眼鏡と拡大鏡を取り出し、窓際にあるテーブルの上のオイルランプをつけた。
薄い暗がりが、漸くぼんやりと照らされた。

「おいおい、こんなもの何処で手に入れたんだ?旧アレンローズ伯爵の宝物だぞ。とても希少で、もはや世に出回っていないと聞いていたが…」
ログワードじいさんは、『宝物』と呼んだそれをじっくり眺めた。
銀のヘビがあしらわれた二つの杯。
片方の杯のヘビの目にはルビー、もう片方にはサファイアが使われていて、台座にはダイヤモンドが輝いている。
そしてその底には、かつてのその伯爵家の印である獅子の紋章が入っていた。
「見事だ。本当に見事だ。傷ひとつ付いていない。人に売り渡すのが惜しいくらいだ。」
「なんならあんたが買ってくれてもいいんだぜ。」
「まさか」
ログワードじいさんは男を見上げ、首を振った。
男はじいさんの前に立ったまま、薄ら笑いを浮かべている。
「それで、幾らならいいんだ?」
「五万デリル」
「…正気か?」
「もっと高くしてほしいか?」
「はあ…わしがもう少し若かったら転職したんだがな。」
「ははっ、じいさんも漸く自分の年に気がついたか。」
「ああ、お前も気がついたらどうだ?」
「?」
男は方眉を吊り上げる。
「あんた、まだ若いじゃないか。働き口なんていくらでもあるのに、なんだってまた泥棒なんかになっちまったんだ?」
男は少し黙った。
「…っは。泥棒が性に合っちまっただけさ。それで俺は食っていけるし、あんたも儲かる。それだけの話だ。」
「そうか。…分かった。五万で手を打とう。」
「早いうちに頼むぜ。利子は一日五デリルだ。」
「年寄りをからかうな。」
「冗談だよ。じゃあな。」
部屋を出る時、男はそうそうと振り返った。
「あの呼び出しベル、もっとでかいやつにした方がいいぜ。効果は無いと思うけどな。」

家から出ると、男は大きく息を吸い、吐いた。
暗い室内にいたせいで、曇り空でも眩しく思える。
軽くなった袋を肩にかけ、男は町の中心の遥か彼方を見やった。
灰色の雲にかかっているがはっきりとその存在感が伺える、この国—ルーフの中心。
そして、この男の
男は、暫くそれを見つめていたが、やがて向きを変え、更に町の外へと歩いていった。
不思議と、いい気分だった。
しおりを挟む

処理中です...