55 / 113
55
しおりを挟む
◆
未夏川の水は、茶色く濁っていた。
朝出掛けるとアスファルトが濡れていたので、夜中に雨が降ったのだろう。水かさも増え、 勢いが少しだけ増している。いつも水辺に見かける白い鳥も、今日は姿を見せなかった。
「本城君、ホームページありがとうね! アクセス数が格段に違う。問い合わせも増えてるし」
ようやく完成したホームページは上々の仕上がりで、評判も良さそうだ。
喜んだ美奈子に別途報酬を払うと言われたが、謹んで辞退した。どうも美奈子には、後ろめたい気持ちが拭えない。
薫は、櫻井と出会ったあの日の晩は自分の記憶がないことと、彼の『最後の一線は越えていない』という言葉を免罪符のようにしてきたが、昨日はとうとう自分からキスをしてしまった。
これでは、英司と変わらない。もう絶対にしない。なので……ホームページの報酬は、いらない。
「広告代理店にいたんだっけ。さすがねぇ、プロの出来映えだわ」
美奈子は、前会社の退職理由などは一切尋ねてこなかった。櫻井の紹介、というだけでアルバイトの採用理由は十分らしく、きちんとした履歴書すら出していない。櫻井から退職事情を何か聞いているのかと思ったが、そうでもないようだった。ただ、前会社は退職した理由が理由なだけに、触れないでいてくれるのはありがたかった。
一晩眠って、薫は昨夜の英司との再会を、何とか自分の中で消化した。やっぱり、だてにひと月経っていない。もう、飲み込むことにも慣れてきた。
昨日、英司は『また連絡する』と言ったが、薫のスマートフォンは着信拒否にしてあるしメッセージアプリもブロックしている。
どうやって連絡する気かと考えて、また昨夜のようにいきなり家に来るのかもしれないと思うと、少し憂鬱になった。あまり続くようなら、本気で引っ越しを考えた方がいいのかもしれない。あのマンションは契約を更新したばかりで居心地もいいのだが。
今日は、美奈子のブライダルレッスンが入っている。茶色い防音室のキーボードが置いてある方に入ると、2時間みっちり出てこない。
防音と言っても小さな音は漏れ聞こえてくるので、何となく聞いたことがあるような曲をBGMに、薫は楽譜の整理を進める。と言っても、コピーされた譜面を、ただタイトル50音順に並べているだけだ。1枚ものはそれでいいが、複数枚ある譜面はどれがどの続きか分からず、当たりをつけておいて結局あとで美奈子に頼る。
漏れ聞こえる少し音の外れた結婚行進曲に、苦笑いをする薫だった。
午後から休憩を挟んで2人のレッスンを見た美奈子は、頂き物のクッキーの箱を開け、薫は紅茶を淹れる。
甘い物は嫌いではないが量は食べないという美奈子に『本城君が甘い物好きで良かった!』と喜ばれている。
頂き物の菓子など残ってしまうことが多く、これまでは現在休職中の絵里が全面的に引き受けていたらしい。そういえば櫻井も甘い物は苦手そうだった。
最近慣れつつある日常を無難にこなして6時になり、事務所を後にする。
今日は、櫻井も来なかった。
英司がまた来たらどうしようかと警戒しながら自宅に戻ったが、玄関前には誰もいなかった。
未夏川の水は、茶色く濁っていた。
朝出掛けるとアスファルトが濡れていたので、夜中に雨が降ったのだろう。水かさも増え、 勢いが少しだけ増している。いつも水辺に見かける白い鳥も、今日は姿を見せなかった。
「本城君、ホームページありがとうね! アクセス数が格段に違う。問い合わせも増えてるし」
ようやく完成したホームページは上々の仕上がりで、評判も良さそうだ。
喜んだ美奈子に別途報酬を払うと言われたが、謹んで辞退した。どうも美奈子には、後ろめたい気持ちが拭えない。
薫は、櫻井と出会ったあの日の晩は自分の記憶がないことと、彼の『最後の一線は越えていない』という言葉を免罪符のようにしてきたが、昨日はとうとう自分からキスをしてしまった。
これでは、英司と変わらない。もう絶対にしない。なので……ホームページの報酬は、いらない。
「広告代理店にいたんだっけ。さすがねぇ、プロの出来映えだわ」
美奈子は、前会社の退職理由などは一切尋ねてこなかった。櫻井の紹介、というだけでアルバイトの採用理由は十分らしく、きちんとした履歴書すら出していない。櫻井から退職事情を何か聞いているのかと思ったが、そうでもないようだった。ただ、前会社は退職した理由が理由なだけに、触れないでいてくれるのはありがたかった。
一晩眠って、薫は昨夜の英司との再会を、何とか自分の中で消化した。やっぱり、だてにひと月経っていない。もう、飲み込むことにも慣れてきた。
昨日、英司は『また連絡する』と言ったが、薫のスマートフォンは着信拒否にしてあるしメッセージアプリもブロックしている。
どうやって連絡する気かと考えて、また昨夜のようにいきなり家に来るのかもしれないと思うと、少し憂鬱になった。あまり続くようなら、本気で引っ越しを考えた方がいいのかもしれない。あのマンションは契約を更新したばかりで居心地もいいのだが。
今日は、美奈子のブライダルレッスンが入っている。茶色い防音室のキーボードが置いてある方に入ると、2時間みっちり出てこない。
防音と言っても小さな音は漏れ聞こえてくるので、何となく聞いたことがあるような曲をBGMに、薫は楽譜の整理を進める。と言っても、コピーされた譜面を、ただタイトル50音順に並べているだけだ。1枚ものはそれでいいが、複数枚ある譜面はどれがどの続きか分からず、当たりをつけておいて結局あとで美奈子に頼る。
漏れ聞こえる少し音の外れた結婚行進曲に、苦笑いをする薫だった。
午後から休憩を挟んで2人のレッスンを見た美奈子は、頂き物のクッキーの箱を開け、薫は紅茶を淹れる。
甘い物は嫌いではないが量は食べないという美奈子に『本城君が甘い物好きで良かった!』と喜ばれている。
頂き物の菓子など残ってしまうことが多く、これまでは現在休職中の絵里が全面的に引き受けていたらしい。そういえば櫻井も甘い物は苦手そうだった。
最近慣れつつある日常を無難にこなして6時になり、事務所を後にする。
今日は、櫻井も来なかった。
英司がまた来たらどうしようかと警戒しながら自宅に戻ったが、玄関前には誰もいなかった。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
僕と教授の秘密の遊び (終)
325号室の住人
BL
10年前、魔法学園の卒業式でやらかした元第二王子は、父親の魔法で二度と女遊びができない身体にされてしまった。
学生達が校内にいる時間帯には加齢魔法で老人姿の教授に、終業時間から翌朝の始業時間までは本来の容姿で居られるけれど陰茎は短く子種は出せない。
そんな教授の元に通うのは、教授がそんな魔法を掛けられる原因となった《過去のやらかし》である…
婚約破棄→王位継承権剥奪→新しい婚約発表と破局→王立学園(共学)に勤めて生徒の保護者である未亡人と致したのがバレて子種の出せない体にされる→美人局に引っかかって破産→加齢魔法で生徒を相手にしている時間帯のみ老人になり、貴族向けの魔法学院(全寮制男子校)に教授として勤める←今ここ を、全て見てきたと豪語する男爵子息。
卒業後も彼は自分が仕える伯爵家子息に付き添っては教授の元を訪れていた。
そんな彼と教授とのとある午後の話。
【完結】あなたの正しい時間になりたい〜上司に囚われた俺が本当の時間を見つけるまで〜
栄多
BL
都内の広告代理店勤務のデザイナー・澁澤澪緒(しぶさみお)は、上司との不倫から抜け出せないでいた。
離婚はできない不倫相手の上司からはせめてもの償いとして「お前もボーイフレンドを作れ」と言われる始末。
そんな傷心の澪緒の職場にある日、営業として柏木理緋都(かしわぎりひと)が入社してくる。
イケメンだが年上の後輩のである理緋都の対応に手こずる澪緒だが、仕事上のバディとして少しずつ距離を縮めていく。
順調だと思っていたがある日突然、理緋都に上司との不倫を見抜かれる。
絶望して会社を辞めようとする澪緒だが理緋都に引き止められた上、なぜか澪緒のボーイフレンドとして立候補する理緋都。
そんな社会人2人の、お仕事ラブストーリーです。
平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
【完結】禁断の忠誠
海野雫
BL
王太子暗殺を阻止したのは、ひとりの宦官だった――。
蒼嶺国――龍の血を継ぐ王家が治めるこの国は、今まさに権力の渦中にあった。
病に伏す国王、その隙を狙う宰相派の野心。玉座をめぐる見えぬ刃は、王太子・景耀の命を狙っていた。
そんな宮廷に、一人の宦官・凌雪が送り込まれる。
幼い頃に売られ、冷たい石造りの宮殿で静かに生きてきた彼は、ひっそりとその才覚を磨き続けてきた。
ある夜、王太子を狙った毒杯の罠をいち早く見破り、自ら命を賭してそれを阻止する。
その行動をきっかけに、二人の運命の歯車が大きく動き始める――。
宰相派の陰謀、王家に渦巻く疑念と忠誠、そして宮廷の奥深くに潜む暗殺の影。
互いを信じきれないまま始まった二人の主従関係は、やがて禁じられた想いと忠誠のはざまで揺れ動いていく。
己を捨てて殿下を守ろうとする凌雪と、玉座を背負う者として冷徹であろうとする景耀。
宮廷を覆う陰謀の嵐の中で、二人が交わした契約は――果たして主従のものか、それとも……。
ふたなり治験棟
ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。
男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる