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過去と現在
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高校の卒業式が終わって数日後、裕也が都会に出て行くまで残された時間は僅かだった。
郁はその日裕也の為に編んだお守りを持って彼の部屋を訪れていた。都会はこの田舎と違ってαの裕也を放っておかない場所だろう、と思って精一杯の気持ちを込めた。お洒落に気を遣う裕也の事だ。普通の組み紐ではきっとすぐ外してしまうだろうし、お守りらしいお守りでは受け取りもしないだろう。だからさんざん悩んだ末、バイト代をはたいて買った裕也好みのゴールドネックレスに、本来なら別の物を入れる為だろう開くタイプのペンダントトップをつけて中に組み紐を入れておいた。
「わー、マジか。結構良いじゃん」
「一応中にお守りが入ってるんだ。でもこれなら着けてても変じゃないかな、と思って」
早速首にかけて鏡で確認している裕也を見て郁も微笑む。
良かった、とりあえずお眼鏡にはかなったようだ。――それにしても、と郁は不意に自分の胸をさすった。今日は何だか息苦しいような、体がモゾモゾと気持ちが悪いような変な感じがしている。
ハッとしてスマートフォンを取り出して日付を確認してから、しまった、と思った。今日はまだ抑制剤を飲んでいない。裕也にお守りを渡す事で頭が一杯になっていたから忘れてしまっていた。慌てて取り出したピルケースから取り出した抑制剤を、唾液だけで何とか飲み込む。
だから裕也が振り向いた時にドキリ、と心臓が跳ね上がる。
「――何か、良い匂いしねぇ?」
「ご、ごめん!抑制剤飲み忘れてて――今抑制剤飲んだから数時間で収まるし、今すぐ帰るから!」
ただフェロモンを垂れ流しながら歩くなんて馬鹿な真似はいくらなんでも出来ない。まずは家にいる筈の母親に迎えに来てもらって、自転車は発情期が収まった後か、もしくは家族の誰かに頼んで持って帰ってもらおうと震える指で通話ボタンをタップしようとした時だった。
グイ、と電話を持つ腕を思い切り引かれた所為でそれは手から離れてしまう。
「ゆ、裕也……?」
にぃ、と笑う口元とその瞳の奥の欲情に、郁は小さく震えた。
「あの、俺帰るから……このままだと、裕也にも迷惑がかかるし」
小さく頼りない声になってしまう。
じわじわとヌルついていく下肢の不快感と、今までほとんど起きた事がない強い発情期の症状に混乱している郁の腕を掴んだまま、裕也は笑みを浮かべたままだ。
「なぁ、俺達婚約者だろ?結婚したらどうせヤるんだし、前でも後でも同じだよな」
「え……」
「それに抑制剤効くまでお前も辛いだろ。だったらヤっちまった方が早く収まるじゃん」
冗談だよね、と力なく笑ってみるけれど裕也はそのまま郁をベッドまで引きずるように連れて行ってドン、と突き飛ばした。
ベッドのスプリングで痛みはないけれど、驚きと衝撃で固まっている郁の上に舌なめずりした裕也が圧し掛かってくる。――嫌だ、と拒否する暇も、権利も、郁には与えられなかった。
抑制剤が効いて発情期が収まった体は重だるい。それが発情期後の怠さだけではない事を、散らかった服が突き付けてくる。
裕也はさっさと風呂場に行っており、部屋には郁1人しかいない。投げられた服を手に取りながら、痛む体を無理やり動かしていてふとシーツに散った赤い染みに気付く。――血だ、と、そう思ったら何故か涙が一筋こぼれた。
でも泣き腫らした顔で帰るわけにはいかない。何があったか家族にバレてはいけない。郁は裕也がお守りをつけて満足そうにしていた鏡の前に立つと、指で唇の端をグイ、と押し上げた。
「うん、大丈夫」
指を離しても鏡の中の郁は笑っている。もう一度、大丈夫、と呟いて裕也に一言帰る事を伝える置手紙を残し、痛む体に鞭打って郁は帰路に就いた。
※ ※ ※ ※
ハッと目を開けた郁は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。頭の中は未だガンガンと警報のように痛みがひどくて、眩暈もひどい。発情期とは違う痛みに戸惑いながら体を起こすと壁際でスッと誰かが動いた気配がして郁はビクリと飛び上がる。
そこにいたのは寛隆だった。いつものように優しい笑みを浮かべ、でも少しだけ火照った頬と額の汗、それから何故か手から血を出している。
血。
血、血だ。
ガン、とまた頭を殴られたような衝撃が郁を襲った。
「目が覚めました?気分はどうですか?」
少し離れた位置から聞こえる声音は優しいのに、
――結婚したらどうせヤるんだし、前でも後でも同じだよな
重なる様に聞こえてくる酷薄な声が郁を揺さぶる。
は、は、とまた乱れてくる呼吸は苦しくて、まるで押し出されるように目からは雫が零れ落ちて行く。
苦しい、苦しい。頭が割れそう。怖い。
郁はまるで何かから逃げるかのように頭を抱えたまま口からボロボロと言葉を零した。
「む、昔、婚約者がいて……待ってて、――でも赤ちゃんがいて……赤、……血……」
怖い。
ふ、と体を何かが包み込んで郁は思わず身体を強ばらせる。厚い胸板は初めて会った日頬に感じた物と同じだ。
寛隆は郁を包み込むように抱いたまま、ただ指で一度涙をすくって、あとは何も言わなかった。その涙を服で吸わせるように郁を胸に抱き、ゆっくりと背中を撫でている。
まだ、は、は、と乱れていた呼吸は
「赤くて……怖くて……」
と無意識に口をついて出て来る言葉は、やがてトク、トク、と穏やかに刻む寛隆の心音に合わせる様に緩やかになる。
背中を撫でる手の温もり。穏やかな心音。
いつの間にか郁の頭から「怖い」が消えて、縋る様に寛隆の服の裾を掴みながら、自分からその心音に合わせる様に呼吸が緩やかに、穏やかになっていく。発情期で疲れ切った体はいつかの重だるさとは違って、寛隆の心音に合わせてゆっくりと、そして穏やかに郁を眠りへと落としていった。
寛隆は腕にかかる重みで郁が再び眠りについた事を確認すると、一度だけ目元の涙を拭ってから彼をベッドへ戻し、自分も壁際へと戻った。そしてまた強く腕を噛む。正直、発情期のΩと密室にいるのはαにとって拷問に近い。だけど。だからこそ、寛隆は思った。ずっと引っかかっていた問いへの答えだった。
(俺は、――郁さんの笑顔が好きだったんだ)
※ ※ ※ ※
外はうだるような暑さが続いている。
都会に来るのは3年ぶりか。少しレトロな外観をした喫茶店を彼は遠く歩道橋の上から見つめていた。その唇に、にぃ、と冷たく不気味な笑顔が浮かぶ。
「――見つけた……やっと、やっと見つけたぞ、郁……」
郁はその日裕也の為に編んだお守りを持って彼の部屋を訪れていた。都会はこの田舎と違ってαの裕也を放っておかない場所だろう、と思って精一杯の気持ちを込めた。お洒落に気を遣う裕也の事だ。普通の組み紐ではきっとすぐ外してしまうだろうし、お守りらしいお守りでは受け取りもしないだろう。だからさんざん悩んだ末、バイト代をはたいて買った裕也好みのゴールドネックレスに、本来なら別の物を入れる為だろう開くタイプのペンダントトップをつけて中に組み紐を入れておいた。
「わー、マジか。結構良いじゃん」
「一応中にお守りが入ってるんだ。でもこれなら着けてても変じゃないかな、と思って」
早速首にかけて鏡で確認している裕也を見て郁も微笑む。
良かった、とりあえずお眼鏡にはかなったようだ。――それにしても、と郁は不意に自分の胸をさすった。今日は何だか息苦しいような、体がモゾモゾと気持ちが悪いような変な感じがしている。
ハッとしてスマートフォンを取り出して日付を確認してから、しまった、と思った。今日はまだ抑制剤を飲んでいない。裕也にお守りを渡す事で頭が一杯になっていたから忘れてしまっていた。慌てて取り出したピルケースから取り出した抑制剤を、唾液だけで何とか飲み込む。
だから裕也が振り向いた時にドキリ、と心臓が跳ね上がる。
「――何か、良い匂いしねぇ?」
「ご、ごめん!抑制剤飲み忘れてて――今抑制剤飲んだから数時間で収まるし、今すぐ帰るから!」
ただフェロモンを垂れ流しながら歩くなんて馬鹿な真似はいくらなんでも出来ない。まずは家にいる筈の母親に迎えに来てもらって、自転車は発情期が収まった後か、もしくは家族の誰かに頼んで持って帰ってもらおうと震える指で通話ボタンをタップしようとした時だった。
グイ、と電話を持つ腕を思い切り引かれた所為でそれは手から離れてしまう。
「ゆ、裕也……?」
にぃ、と笑う口元とその瞳の奥の欲情に、郁は小さく震えた。
「あの、俺帰るから……このままだと、裕也にも迷惑がかかるし」
小さく頼りない声になってしまう。
じわじわとヌルついていく下肢の不快感と、今までほとんど起きた事がない強い発情期の症状に混乱している郁の腕を掴んだまま、裕也は笑みを浮かべたままだ。
「なぁ、俺達婚約者だろ?結婚したらどうせヤるんだし、前でも後でも同じだよな」
「え……」
「それに抑制剤効くまでお前も辛いだろ。だったらヤっちまった方が早く収まるじゃん」
冗談だよね、と力なく笑ってみるけれど裕也はそのまま郁をベッドまで引きずるように連れて行ってドン、と突き飛ばした。
ベッドのスプリングで痛みはないけれど、驚きと衝撃で固まっている郁の上に舌なめずりした裕也が圧し掛かってくる。――嫌だ、と拒否する暇も、権利も、郁には与えられなかった。
抑制剤が効いて発情期が収まった体は重だるい。それが発情期後の怠さだけではない事を、散らかった服が突き付けてくる。
裕也はさっさと風呂場に行っており、部屋には郁1人しかいない。投げられた服を手に取りながら、痛む体を無理やり動かしていてふとシーツに散った赤い染みに気付く。――血だ、と、そう思ったら何故か涙が一筋こぼれた。
でも泣き腫らした顔で帰るわけにはいかない。何があったか家族にバレてはいけない。郁は裕也がお守りをつけて満足そうにしていた鏡の前に立つと、指で唇の端をグイ、と押し上げた。
「うん、大丈夫」
指を離しても鏡の中の郁は笑っている。もう一度、大丈夫、と呟いて裕也に一言帰る事を伝える置手紙を残し、痛む体に鞭打って郁は帰路に就いた。
※ ※ ※ ※
ハッと目を開けた郁は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。頭の中は未だガンガンと警報のように痛みがひどくて、眩暈もひどい。発情期とは違う痛みに戸惑いながら体を起こすと壁際でスッと誰かが動いた気配がして郁はビクリと飛び上がる。
そこにいたのは寛隆だった。いつものように優しい笑みを浮かべ、でも少しだけ火照った頬と額の汗、それから何故か手から血を出している。
血。
血、血だ。
ガン、とまた頭を殴られたような衝撃が郁を襲った。
「目が覚めました?気分はどうですか?」
少し離れた位置から聞こえる声音は優しいのに、
――結婚したらどうせヤるんだし、前でも後でも同じだよな
重なる様に聞こえてくる酷薄な声が郁を揺さぶる。
は、は、とまた乱れてくる呼吸は苦しくて、まるで押し出されるように目からは雫が零れ落ちて行く。
苦しい、苦しい。頭が割れそう。怖い。
郁はまるで何かから逃げるかのように頭を抱えたまま口からボロボロと言葉を零した。
「む、昔、婚約者がいて……待ってて、――でも赤ちゃんがいて……赤、……血……」
怖い。
ふ、と体を何かが包み込んで郁は思わず身体を強ばらせる。厚い胸板は初めて会った日頬に感じた物と同じだ。
寛隆は郁を包み込むように抱いたまま、ただ指で一度涙をすくって、あとは何も言わなかった。その涙を服で吸わせるように郁を胸に抱き、ゆっくりと背中を撫でている。
まだ、は、は、と乱れていた呼吸は
「赤くて……怖くて……」
と無意識に口をついて出て来る言葉は、やがてトク、トク、と穏やかに刻む寛隆の心音に合わせる様に緩やかになる。
背中を撫でる手の温もり。穏やかな心音。
いつの間にか郁の頭から「怖い」が消えて、縋る様に寛隆の服の裾を掴みながら、自分からその心音に合わせる様に呼吸が緩やかに、穏やかになっていく。発情期で疲れ切った体はいつかの重だるさとは違って、寛隆の心音に合わせてゆっくりと、そして穏やかに郁を眠りへと落としていった。
寛隆は腕にかかる重みで郁が再び眠りについた事を確認すると、一度だけ目元の涙を拭ってから彼をベッドへ戻し、自分も壁際へと戻った。そしてまた強く腕を噛む。正直、発情期のΩと密室にいるのはαにとって拷問に近い。だけど。だからこそ、寛隆は思った。ずっと引っかかっていた問いへの答えだった。
(俺は、――郁さんの笑顔が好きだったんだ)
※ ※ ※ ※
外はうだるような暑さが続いている。
都会に来るのは3年ぶりか。少しレトロな外観をした喫茶店を彼は遠く歩道橋の上から見つめていた。その唇に、にぃ、と冷たく不気味な笑顔が浮かぶ。
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