【完】待っててくれと言われて10年待った恋人に嫁と子供がいた話

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踏み込まなかった夜

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 あの日から一週間ほどが過ぎていた。
 郁はようやく包帯からガーゼとテープで覆うだけになった傷口を心配そうに見た。それはあの夜、寛隆が自分でつけたものだ、と混乱した頭でも薄々理解していたからだ。そしてなぜそれをしたのかも――きちんと考えなくてもわかってしまうくらいには。
 いつものように大盛のオムライスを出しながら郁は申し訳なさで口を開く。

「……ごめんね。手、大丈夫?」

 あの日あの場所に寛隆がいた理由はわからない。起きた時には憲太郎がいて、もう寛隆はいなかったし結局改めて確認するのもおかしな気がして。ただ――、郁はふ、と息を吐く。理由ははっきりしないまま、息がしやすい、と思った。
 そんな郁の心情を知ってか知らずか寛隆の明るい声が響く。

「大丈夫です!それに憲太郎君から根性だけは認めてもらいましたから!」

「……根性?」

 ※ ※ ※ ※

「――本当は信じていいのか不安だったけど」

 消毒液の独特なにおいとぴりりと染みる痛みで寛隆は顔を少し歪めた。
 何度も場所を変え、深く噛んだ歯形が手や腕のあちこちに散りばめられている。その全てからジワジワと出血していた。
 自分の所為で店を閉めたと知ったら郁の性格上気に病むのでは、と腕を噛んだままの寛隆に言われ、憲太郎は郁の意志と危機的状況と目の前の男の信頼度全てを天秤にかけて――店に戻る選択をした。
 自分がいなくなった途端郁を襲うかもしれない。そんな不安を抱えつつも店を1人で回し、閉店してすぐ来たであろう憲太郎は、すうすうと穏やかな呼吸で眠る郁と壁際でうずくまる寛隆を確認した後、無言のまま救急箱を持って来たのだ。
 少しだけ乱暴に、しかししっかり傷にかかるように消毒していく。

「まあ、根性だけは認めてやってもいいっすね」
 
 寛隆は痛みから目をそらすように、郁へと視線を投げた。あの混乱ぶりが嘘のように、いつもより少しだけ幼い顔をした郁が、無防備に寝息を立てている。いつも発情期ヒートはほぼないような物、と言っていた彼にはよほど限界だったのだろう。これだけ人の気配がしていても起きそうにない。

「……良く寝てますね」

 じろ、と見上げた憲太郎の目が、見るな、とでも言いたげではあったけれど彼の口から出たのは別の言葉だった。

「郁兄さんがこんなに穏やかに寝てるのは――初めて見ます」

「どうして郁さんの寝顔を知ってるんですか?」

「勘違いしないでくださいね。うちもまあそれなりな一族なんで、親族の集まりとかあるんすよ」

 憲太郎にとって郁はいつも優しい年上のお兄さん、だった。5つの年の差は郁がとても大人に見えたし、狂暴な彼の妹と本当に血がつながっているのかと疑いたくなる程だった。
 Ωの郁は他の従兄弟達と同じ部屋では寝ない。憲太郎の一家はβだったけれど、他にもαの一家がいたからだ。
 だからそれを目にしたのは偶然だった。夜中トイレに起きた憲太郎は小さな呻きに驚いて恐る恐る部屋を覗いた。苦しそうに魘されていたのは高校を卒業したばかりの郁だった。布団の胸元を握り締め、魘されている。見てはいけない物を見てしまった気がして憲太郎はその場を後にしたのだけれど、それからも親族の集まりで泊まりになると郁は魘されていた。
 ただそれを目の前の男に懇切丁寧に説明してやる義理はない。必要があれば郁が自分で言うだろう。
 だから先を待っていたのに続きを聞かされなかった寛隆が焦れて、訊いてくるのはわかっていた。

「それってどういう――痛!!」

 ばしん、と傷口近くで小気味よい音を立てた。

 ※ ※ ※ ※

 根性って何、とでも言いたげな郁に2人は答えてくれない。だから郁はただ首を傾げるしかない。

「――根性だけ、っすけどね」

 ごん、と普段やらないような乱暴な扱いで寛隆の前に置かれたのは、昨日憲太郎がまだ試作段階だ、と言っていたケーキだった。普段なら試作途中の物を客に出す事なんかない。そのままレジにいってしまう憲太郎を丸くしたままの目で追って、それからそれを出された寛隆を見る。実は甘い物が好きだと言っていた彼は早速それを頬張っていたが、郁と目が合うとほんの少しだけケーキに視線を落とした。
 つん、とフォークで突いてから、顔を上げた彼としっかり目が合う。

「郁さん、――好きです」

「え?」

「郁さんが好きです」

 言葉が溢れた、そんな表情だ。
 郁は戸惑って視線を泳がせてしまう。迷いを見抜かれたのだろう。寛隆は小さく笑って、

「返事が欲しいわけじゃないですから。ただ――伝えたくなっただけです」

 そう言ってまたケーキに目線を落とした。
 郁は戸惑ったまま、けれど明確な嫌悪感は何も感じていない事だけはわかった。ただ言葉に出来るだけの“何か”はまだないのもわかって、静かに、でも小さく深呼吸する。店のコーヒーの香りの中に、寛隆の香りがあるのが当たり前になっている事にその時初めて気付いた。


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