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過去の悪夢
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喉がひりつくように痛んだ。
郁の目の前に終わった筈の、消えた筈の過去が形を持って現れている。やつれて、あんなに気を遣っていた身なりも崩れた、しかし郁も知っている過去の相手。
なんで、と唇は動いたけれど声にはならなかった。体は勝手に震えている。寒さではない、と郁もわかっていた。恐らく裕也にも。
裕也は自分のポケットから手を出した。――ナイフが握られている、その手を。
――誰かを呼ばないと
その光景を目の当たりにした郁の頭には、ただそれだけが浮かんだ。幸いスマートフォンはまだ鍵穴を照らした時のまま、操作が可能な状態だ。
郁の震える指が着信履歴の最初に出て来た番号をタップした。一瞬見えたのが先程登録したばかりの寛隆の名前だったのは何となく見たけれど、その時に思ったのは「誰かを呼ばないと」――それだけだ。
今すぐ来て、とそれだけ言って確実に来てくれるだろう憲太郎の名前を、電話帳から呼び出す暇なんてない。だから押した。無意識だった。
裕也は黙って見ている。ナイフが街路樹の向こうからの光で鈍く光っているのが恐ろしい。
数コールで「もしもし」と聞こえた。寛隆の柔らかな、でもどこか驚いたような声。安堵と共に「助けて」と言おうとした声は声にならない吐息で消えてしまう。恐怖で声が出ない。これではただの不審電話だ。もう一度、「もしもし」と寛隆の声が聞こえた瞬間、郁の手からはスマートフォンが消えていた。そしてツー、ツー、と通話終了の音と共にぽい、と街路樹の繁みの中に投げられてしまう。
取られた。最後の命綱を、裕也に。あの郁の初めてを奪った時と同じように。にぃ、と浮かべた笑みも、あの時と同じだ。
「助けが呼べると思ったか?」
残念、とわざとらしく肩をすくめて見せる裕也に、郁は答えられない。
「――お前って本当に“お姫様”だよなぁ」
ガン、と郁のすぐ横の壁をナイフの柄が殴った。びくり、と跳ねあがる肩を面白そうに裕也が見下ろしている。
「家族総出で守られてさぁ……俺がどれだけ捜したかわかるか?」
ガン、ガン、と音は続いている。
「やっと見つけたと思ったら、ここでも騎士付きで絶対一人にならないとか、ホント」
ガン!と強めに叩きつけられて、またびくり、と郁は跳ねた。
いつから。
いつの間に。
気付かなかった。知らなかった。でも確実に裕也は間近に来て、郁を観察していたのだと知る。
「――俺がこんなに惨めな思いしてんのに、お前は楽しく笑ってんのっておかしくねぇ?」
また、ガン、ガン、と柄で壁を殴り始めた裕也の目はまるで虚ろだった。真っ暗な穴を覗いているかのように。
お前の親父が手を引いたせいなのに、とナイフは壁を殴り続けている。その切っ先が、いつ郁を向いてもおかしくない程に裕也は危うい。
郁を守る物は何もない。落としてしまった店の鍵を拾って立てこもる?――かがんだ時点で終わるだろう。
だから動けない。何も出来ない。ただそのナイフが壁を殴り続けているのを眺めている事しか出来ない。しかし不意にぴたり、とその動きが止まった。
にぃ、と再び笑う裕也を、郁は見るしか出来ない。
「だからさぁ、――もう一度、今度こそお前と結婚してやるよ」
まるで郁を手に入れたら、全てが戻ると信じているような声音だった。――会社も、金も、立場も。
一瞬耳を疑った。
何を言われたのかわからなかった。
10年待った。信じて、裏切られた。そして目の前のこの男に言われたのだ。
――気持ち悪ィ
と。
そして同時に郁を川の一部になってしまっても良いと思う程に追い詰めた存在を思い出す。瑠衣と、その子供だ。
――本当は待ってたんでしょ?でもゴメンね?もう僕のだから
悪意のある言葉と、首についたαの番である証。郁の10年を根こそぎ否定した、あの日の光景。
だから訊いた。何とか声を振り絞って。あの彼は、瑠衣と子供は。
「……奥さんと、子供」
ガン!!と一際強く響いた音に「ひ!」と竦み上がった郁はそれ以上言葉を紡げなかった。再度、ガン!!と音が響いてから裕也は忌々し気に言う。
「子供なぁ……はっ、あの血も繋がらねぇガキの事か?」
ナイフの切っ先がちらりと郁に向けられる。鈍く光りを反射したそれが、向けられている。頭の中はもう真っ白になっていた。
だから重たい鞄がぶつかる音と、誰かに手を引かれた時、郁はされるがまま、まるで振り子のように地面に投げ出され、そして動けなくなった。
何が起こっているのかすらわからない。
「大丈夫ですか!店長さん!」
震えたままへたり込んで、何とか顔を上げた先にいたのはあの組み紐をあげた子供の父親だ。
子供と母親に笑顔が戻ったその週の休日にお礼を言いに来て、それからも度々来てくれている彼が郁の前に立ち塞がっている。
「店長さん、走れますか!」
叫ぶ声は震えていた。
そして裕也のナイフは、ゆっくり、だが明確に父親へと向く。
邪魔をされた怒り、しかし相手が反撃の手段を持っていない事への愉悦。裕也の歪んだ笑みにその感情が乗っている。しかも郁が動けなくなっている、その事がまた裕也に優越感と支配欲を抱かせているようだった。
「店長さん!」
せめて警察を呼べるか、と後ろ手にスマートフォンが差し出されているけれど、郁にはもうその力も残っていない。ただ――真っ白だった。
「郁さんから離れてください」
その声は、裕也の背後からゆったりと、しかし明確な威圧感を持って響いた。
郁の目の前に終わった筈の、消えた筈の過去が形を持って現れている。やつれて、あんなに気を遣っていた身なりも崩れた、しかし郁も知っている過去の相手。
なんで、と唇は動いたけれど声にはならなかった。体は勝手に震えている。寒さではない、と郁もわかっていた。恐らく裕也にも。
裕也は自分のポケットから手を出した。――ナイフが握られている、その手を。
――誰かを呼ばないと
その光景を目の当たりにした郁の頭には、ただそれだけが浮かんだ。幸いスマートフォンはまだ鍵穴を照らした時のまま、操作が可能な状態だ。
郁の震える指が着信履歴の最初に出て来た番号をタップした。一瞬見えたのが先程登録したばかりの寛隆の名前だったのは何となく見たけれど、その時に思ったのは「誰かを呼ばないと」――それだけだ。
今すぐ来て、とそれだけ言って確実に来てくれるだろう憲太郎の名前を、電話帳から呼び出す暇なんてない。だから押した。無意識だった。
裕也は黙って見ている。ナイフが街路樹の向こうからの光で鈍く光っているのが恐ろしい。
数コールで「もしもし」と聞こえた。寛隆の柔らかな、でもどこか驚いたような声。安堵と共に「助けて」と言おうとした声は声にならない吐息で消えてしまう。恐怖で声が出ない。これではただの不審電話だ。もう一度、「もしもし」と寛隆の声が聞こえた瞬間、郁の手からはスマートフォンが消えていた。そしてツー、ツー、と通話終了の音と共にぽい、と街路樹の繁みの中に投げられてしまう。
取られた。最後の命綱を、裕也に。あの郁の初めてを奪った時と同じように。にぃ、と浮かべた笑みも、あの時と同じだ。
「助けが呼べると思ったか?」
残念、とわざとらしく肩をすくめて見せる裕也に、郁は答えられない。
「――お前って本当に“お姫様”だよなぁ」
ガン、と郁のすぐ横の壁をナイフの柄が殴った。びくり、と跳ねあがる肩を面白そうに裕也が見下ろしている。
「家族総出で守られてさぁ……俺がどれだけ捜したかわかるか?」
ガン、ガン、と音は続いている。
「やっと見つけたと思ったら、ここでも騎士付きで絶対一人にならないとか、ホント」
ガン!と強めに叩きつけられて、またびくり、と郁は跳ねた。
いつから。
いつの間に。
気付かなかった。知らなかった。でも確実に裕也は間近に来て、郁を観察していたのだと知る。
「――俺がこんなに惨めな思いしてんのに、お前は楽しく笑ってんのっておかしくねぇ?」
また、ガン、ガン、と柄で壁を殴り始めた裕也の目はまるで虚ろだった。真っ暗な穴を覗いているかのように。
お前の親父が手を引いたせいなのに、とナイフは壁を殴り続けている。その切っ先が、いつ郁を向いてもおかしくない程に裕也は危うい。
郁を守る物は何もない。落としてしまった店の鍵を拾って立てこもる?――かがんだ時点で終わるだろう。
だから動けない。何も出来ない。ただそのナイフが壁を殴り続けているのを眺めている事しか出来ない。しかし不意にぴたり、とその動きが止まった。
にぃ、と再び笑う裕也を、郁は見るしか出来ない。
「だからさぁ、――もう一度、今度こそお前と結婚してやるよ」
まるで郁を手に入れたら、全てが戻ると信じているような声音だった。――会社も、金も、立場も。
一瞬耳を疑った。
何を言われたのかわからなかった。
10年待った。信じて、裏切られた。そして目の前のこの男に言われたのだ。
――気持ち悪ィ
と。
そして同時に郁を川の一部になってしまっても良いと思う程に追い詰めた存在を思い出す。瑠衣と、その子供だ。
――本当は待ってたんでしょ?でもゴメンね?もう僕のだから
悪意のある言葉と、首についたαの番である証。郁の10年を根こそぎ否定した、あの日の光景。
だから訊いた。何とか声を振り絞って。あの彼は、瑠衣と子供は。
「……奥さんと、子供」
ガン!!と一際強く響いた音に「ひ!」と竦み上がった郁はそれ以上言葉を紡げなかった。再度、ガン!!と音が響いてから裕也は忌々し気に言う。
「子供なぁ……はっ、あの血も繋がらねぇガキの事か?」
ナイフの切っ先がちらりと郁に向けられる。鈍く光りを反射したそれが、向けられている。頭の中はもう真っ白になっていた。
だから重たい鞄がぶつかる音と、誰かに手を引かれた時、郁はされるがまま、まるで振り子のように地面に投げ出され、そして動けなくなった。
何が起こっているのかすらわからない。
「大丈夫ですか!店長さん!」
震えたままへたり込んで、何とか顔を上げた先にいたのはあの組み紐をあげた子供の父親だ。
子供と母親に笑顔が戻ったその週の休日にお礼を言いに来て、それからも度々来てくれている彼が郁の前に立ち塞がっている。
「店長さん、走れますか!」
叫ぶ声は震えていた。
そして裕也のナイフは、ゆっくり、だが明確に父親へと向く。
邪魔をされた怒り、しかし相手が反撃の手段を持っていない事への愉悦。裕也の歪んだ笑みにその感情が乗っている。しかも郁が動けなくなっている、その事がまた裕也に優越感と支配欲を抱かせているようだった。
「店長さん!」
せめて警察を呼べるか、と後ろ手にスマートフォンが差し出されているけれど、郁にはもうその力も残っていない。ただ――真っ白だった。
「郁さんから離れてください」
その声は、裕也の背後からゆったりと、しかし明確な威圧感を持って響いた。
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