幽霊屋敷の掃除婦

羽鳥紘

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番外編(三人称)

執事のいない日

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 調理場の入り口に立ち、ミハイルは堪えていた溜息を吐き出した。ついでに腹も鳴りそうだ。
 家事をサボタージュしているリエーフに代わり、ミオが食事を作ると申し出てくれた。リエーフに頭を下げたくないミハイルとしては素直に有難い。

 しかし待てど暮らせど彼女は現れず。昼も回って様子を見に来てみれば。

「ミオ」

 呼んでみても、彼女はこちらを見もしない。それが無視しているのでないことはわかる。
 聞こえていないだけだ。
 ミハイルはもう一度溜息をつくと、せっせと洗い場を磨いている彼女の横まで行って、その肩を叩いた。

「…………ッ!!」

 振り返ったミオの顔が、面白いくらいに引きつっている。

「び……、びっくりするじゃないですか。声を掛けて下さい!」
「掛けた」

 ジト目で見下ろしながら、ミハイルは一言で答えた。それだけで察してくれるだろうという思惑通り、ミオが頭を下げる。

「すみません。つい掃除に夢中になっていました」
「わかればいい。……まぁ、そんなことだろうと思った」
「すみません。今、急いで作りますから!」

 慌ててミオが掃除道具を片付け始める。珍しく悪びれた様子をしていて、ミハイルは吐き欠けた三度目の溜息を噛み殺すと、手を貸すために掃除用具を持って立ち上がるミオに近づいた。

「気にするな。元はといえば悪いのはリエーフ――」

 そのときだった。ふらりと、ミオの体が傾く。ミハイルが言葉を切って、咄嗟に手を出す。倒れたミオの手を離れ、ガシャンと滑り落ちた桶が水を巻き散らす。

「……リエーフ!」

 咄嗟に呼んでいた。今まで困ればそうしてきた。そして彼がなんでも解決してくれていた。

 幽霊に泣かされたときも。
 父親に叱られたときも。
 術がうまく使えなかったときも。
 そして――

「くそっ」

 短く毒づく。何が何でも出てこないつもりか、それとも町にでも出かけているのか。それはわからないが、来ないものはどうしようもない。

「ミオ、しっかしりろ。気分が悪いのか」
「……あ、いえ。すみません。空腹すぎて眩暈が……」

 幸いすぐにミオは気が付いたようだった。返ってきた言葉を聞いて、さっき噛み殺した溜息が戻ってくる。

「……焦っただろ。全く」
「すみませ、う、わっ」

 抱き上げると、ミオが上ずった声を上げる。めったに表情を動かさないくせに、こうして距離が近くなると余裕がなくなるのは見ていて面白くはあるが。

「部屋で休んでろ。俺が何か作る」
「あ……歩けます」
「また倒れて怪我でもされれば、俺がリエーフに小言を食らう」
「……リエーフさんと何があったんですか」
「お前には関係ない」

 実際のところ大いに関係ありありなのだが。

 そう言うと、ミオは押し黙った。顔を背け、こちらを見ないようにしているが、その頬が微かに赤い。が、別にそれがこちらに好意を持っているわけでないことくらいわかる。

 そしてその方がミハイルにも都合が良かった。

「……ミハイルさん、料理作れるんですか」
「…………」
「リエーフさんに謝って、帰ってきてもらいましょう? 私も一緒に謝りますから」
「なんで俺やお前があいつに謝る必要がある? ……食事くらい作れる」
「そうですか? やったことないんでしょう? だって全部リエーフさんがやっちゃいそうですもんね。たまにはリエーフさんに折れてあげても、わああ!」

 ベッドの上に投げ捨てるように放ったためか、ミオが叫び声を上げる。

 ――人の気も知らずに。

 喉元まで出てきたその言葉を、ミハイルは辛うじて飲み込んだ。
 リエーフに折れるということは、どうなることか。知れば困るのはミオの方だというのに。どうして自分がこんなに気を揉まなければならないのかと、ミハイルは若干苛立ち初めていた。

 しかしである。
 ミオも――本人曰く――年頃の女性であるからして、恋人がいないとは一言も言っていない。それを言えば早いのにと思ったら、ふとミハイルにある興味が沸いた。
 単なる、純粋な興味であると自分に言い聞かせつつ。

「……お前、別の世界から来たと言っていたな」
「それが何か?」

 何でもないように答えてくるが、少し顔が強張っている――と。そういうことも、なんとなくわかるようになってしまった。

「待っている者はいるのか」
「それはそうです。家族がいますから」

 即答したミオを見て、ミハイルは顔を背けた。別に強張っているわけではない、と、自分では思う。

「お前、結婚してたのか」
「え!? 家族って両親とか兄弟とかですよ。すみません独身で! こっちの世界では知りませんが、私の世界ではそんなに婚期早くないんです! まだ若いんです!」
「……勘違いは詫びるが、俺は別に何も言ってないぞ」

 呆れたように言うと、ミオは「ぐっ」と押し黙った。気にはしているらしい。掃除のことしか頭にないと思っていたミハイルにとっては、少し意外なことではあったが。

 かといって。彼女に帰りたい意志があることに変わりはない。

「とにかく休んでいろ」
「でも……」
「言っただろ、料理くらいできる。……前に教わったことがある」
「リエーフさんにですか?」
「違う。……もう、去った」

 扉が閉まる。

 ミオは少し悩んだが、ベッドに足を延ばした。本当に空腹すぎて、歩けそうにない。朝も昼も抜いて掃除などしていたせいだとわかっている。こんなことなら、遠慮せずもっと早くミハイルに話して、キッチンを借りればよかったと、後悔しても遅い。

「教わった……リエーフさんじゃなければ、お母さんかな」

 独り言を口にして、自分でそれを否定する。

 ミハイルの母は事故死と聞いた。去ったと言う表現は、間違ってはいないかもしれないが、適切ではないように思う。それに、伯爵夫人がキッチンに立つというのも変な気がする。貴族のことなどミオは知らないから、あくまで印象でしかないが。

 だとしたら、誰なのだろう。

「……って。別に誰でもいいし……」

 シーツを頭から被ってから。跳ねのける。

「お腹減りすぎて眠れもしない。やっぱり手伝ってこよう」

 壁を支えにして、ミオは立ち上がると、キッチンへと向かうのだった。

 決して気になっているわけではないと、とくに必要のない言い訳をしながら。
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