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歌惑い
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歌があふれ出そうになって彼女は慌てた。
ガラスの栓でこぼさないように蓋をした。脇に置いていたラジカセの電源を落とす。
途端に殺風景な部屋に静寂が降りて来た。
彼女はベッドの上に腰を下ろした。洗濯され、シワのないシーツは日差しの匂いを舞い上がらせる。
貰い物の勉強机と小さい椅子。部屋に置き去りにされていた赤いラジカセ。備え付けの壁掛け棚。その中に形も大きさも違う小瓶たち――市販薬の空き瓶、香水の瓶、調味料の入っていた瓶。
彼女はそれらを一つ一つ視線でなぞり、机のハート形の瓶に戻ってきた。
感覚が鈍っている。
一か月前にやった時には量を見誤ることはなかった。それがどうだ。最近では危うく事故を引き起こす寸前だ。原因は分かっているが、対処できないでいる。
失敗するのは怖い、だが彼女の中に止めるなどと云う考えは微塵も浮かんでこなかった。彼女は人一倍矜持が高かった。
歌は彼女にとって収集の対象だ。歌手のCDから、ラジオ番組から、教会の聖歌隊から、パン屋の鼻歌から、鳥のさえずりから。時には彼女自身のものでもあった。
掬い上げたそれらを彼女は瓶に収めていく。
それが彼女の仕事であった。
窓の外を愉快な音が通り過ぎて行った。違う、あれは歌じゃない。頭の中に刻まれた『歌』の定義を照らし合わせる。
彼女は息を吐いて倒れ込んだ。染みの目立つ天井は見るに堪えなかった。視界を閉ざす。投げ出した手が冷たい記憶に触れた。指先が強張った。なぜ、と思うがつい先日戸棚から出して、結局ベッドの上に投げ捨てたことが蘇った。
手探りでそれを握る。小さな薬ビン。
何も入っていないようだが、歌が詰まっている。彼女を上へも下へも、好きに左右できる人間の歌だ。
蓋をむしり取ってしまえば彼女の不安はなくなるであろう。だが彼女はそれをしない。残るものは凍える静けさと虚無だと分かっているのだ。
彼女は仕事を前任者から引き継いだ。彼女の想い人であった。
あくまでも彼女らは友人であり、今以てなお変わりない。
前任者が婚約し、歌集めを諦めることになった。その時友人であり、仕事を理解していた彼女が名乗り出たのだった。
この小さな部屋も譲り受けたものだ。彼女は気が向いたら出勤してきて、小瓶を携え仕事を始める。
決まった日があるわけでもなく。思いついたように。
前任者が言うにはそれは天啓に近いのだそうだ。何か(目に見えない神だろうか)に導かれるようにして歌を浚う。
彼女が初めて仕事をしたのは友人の結婚式だった。
花嫁のベールがあげられるとき、彼女はああ、と嘆息した。
鞄に入れていた酔い止め薬の瓶を取り出していた。中身を別の所へ流し、歌を集めることに一心を注いだ。
今彼女が握りしめている物がそれだ。心の支えでもあり、一瞬にして瓦解させることを容易く行える。彼女はおそれていた。
一度だけ、拾って瓶に収めた歌を開けてみたことがある。
好奇心が疼いて仕方なかったのだ。一時的なテンションの高まりはまたと味わえるものではなかった。
何も見えなかった。
おや、と思った時には狭い部屋は歌声が響いた。偶然居合わせた路上ライブの歌だったのだが、詩に合わせて流れる旋律は詩の意味するところとは全てが違っていた。それらを超えた何かがそこにはあった。葛藤か、焦燥か、怒りか。
彼女に慮ることは出来なかったがひどい恐怖を覚えた。
隠されたものを、それこそベールを剥がすようにして『歌』を抜き出しているのだ。彼女は賢く、すぐに気が付いた。
それ以来瓶を開けたことはない。
手の中にひたりと納まる瓶を除いて。開けたことこそないが、彼女は常に理性をかなぐり捨てて聴いてみたい気持ちに駆られている。彼女は知りたいのだ。結婚式の、あの瞬間に想い人が一体何を思っていたのかを。
部屋を鳥の影が横切って行った。
日が傾き始めていた。彼女は緩慢な動作で起き上がる。掌で瓶を転がして、陽に翳した。溜息が零れる。
開けたことはない。しかし、僅かに手を掛けたことがある。
一カ月前だ。
それから、彼女は感覚が取り戻せないでいる。
「ああ」
あの人も、こうなったから諦めざるを得なかったのだろうか。
手から零れ落ちたビンが、甘く掠れた女性の声で歌った。
ガラスの栓でこぼさないように蓋をした。脇に置いていたラジカセの電源を落とす。
途端に殺風景な部屋に静寂が降りて来た。
彼女はベッドの上に腰を下ろした。洗濯され、シワのないシーツは日差しの匂いを舞い上がらせる。
貰い物の勉強机と小さい椅子。部屋に置き去りにされていた赤いラジカセ。備え付けの壁掛け棚。その中に形も大きさも違う小瓶たち――市販薬の空き瓶、香水の瓶、調味料の入っていた瓶。
彼女はそれらを一つ一つ視線でなぞり、机のハート形の瓶に戻ってきた。
感覚が鈍っている。
一か月前にやった時には量を見誤ることはなかった。それがどうだ。最近では危うく事故を引き起こす寸前だ。原因は分かっているが、対処できないでいる。
失敗するのは怖い、だが彼女の中に止めるなどと云う考えは微塵も浮かんでこなかった。彼女は人一倍矜持が高かった。
歌は彼女にとって収集の対象だ。歌手のCDから、ラジオ番組から、教会の聖歌隊から、パン屋の鼻歌から、鳥のさえずりから。時には彼女自身のものでもあった。
掬い上げたそれらを彼女は瓶に収めていく。
それが彼女の仕事であった。
窓の外を愉快な音が通り過ぎて行った。違う、あれは歌じゃない。頭の中に刻まれた『歌』の定義を照らし合わせる。
彼女は息を吐いて倒れ込んだ。染みの目立つ天井は見るに堪えなかった。視界を閉ざす。投げ出した手が冷たい記憶に触れた。指先が強張った。なぜ、と思うがつい先日戸棚から出して、結局ベッドの上に投げ捨てたことが蘇った。
手探りでそれを握る。小さな薬ビン。
何も入っていないようだが、歌が詰まっている。彼女を上へも下へも、好きに左右できる人間の歌だ。
蓋をむしり取ってしまえば彼女の不安はなくなるであろう。だが彼女はそれをしない。残るものは凍える静けさと虚無だと分かっているのだ。
彼女は仕事を前任者から引き継いだ。彼女の想い人であった。
あくまでも彼女らは友人であり、今以てなお変わりない。
前任者が婚約し、歌集めを諦めることになった。その時友人であり、仕事を理解していた彼女が名乗り出たのだった。
この小さな部屋も譲り受けたものだ。彼女は気が向いたら出勤してきて、小瓶を携え仕事を始める。
決まった日があるわけでもなく。思いついたように。
前任者が言うにはそれは天啓に近いのだそうだ。何か(目に見えない神だろうか)に導かれるようにして歌を浚う。
彼女が初めて仕事をしたのは友人の結婚式だった。
花嫁のベールがあげられるとき、彼女はああ、と嘆息した。
鞄に入れていた酔い止め薬の瓶を取り出していた。中身を別の所へ流し、歌を集めることに一心を注いだ。
今彼女が握りしめている物がそれだ。心の支えでもあり、一瞬にして瓦解させることを容易く行える。彼女はおそれていた。
一度だけ、拾って瓶に収めた歌を開けてみたことがある。
好奇心が疼いて仕方なかったのだ。一時的なテンションの高まりはまたと味わえるものではなかった。
何も見えなかった。
おや、と思った時には狭い部屋は歌声が響いた。偶然居合わせた路上ライブの歌だったのだが、詩に合わせて流れる旋律は詩の意味するところとは全てが違っていた。それらを超えた何かがそこにはあった。葛藤か、焦燥か、怒りか。
彼女に慮ることは出来なかったがひどい恐怖を覚えた。
隠されたものを、それこそベールを剥がすようにして『歌』を抜き出しているのだ。彼女は賢く、すぐに気が付いた。
それ以来瓶を開けたことはない。
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開けたことはない。しかし、僅かに手を掛けたことがある。
一カ月前だ。
それから、彼女は感覚が取り戻せないでいる。
「ああ」
あの人も、こうなったから諦めざるを得なかったのだろうか。
手から零れ落ちたビンが、甘く掠れた女性の声で歌った。
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