Last Stage

せんのあすむ

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三回生の部

今、ここ。

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実験が本当に、こんなにもダラダラ続くものだなんて思わなかった。
早くすむ時は本当に早くすむ。だけど遅いときはそれこそ7時くらいまで、結果が出るまで待たなきゃいけない。その間、何もすることがないって、ものすごく時間の無駄だと思う。
(加藤さんも、こんな風にイライラしながら過ごしてたんだろうか)
結局、演劇部にはあまり顔出し出来ないまま、いつの間にかまた六月公演の時期になっていた。
同じコースを歩んでいたはずの、今年卒業した先輩のことを思って、私はちょくちょく苦笑したもんだ。
そして今日も「生物化学実験」の授業はやっと終わった。夏だから、まだまだ日は明るいけれど、
「ごめん、遅れた」
言い言い学館の小会議室へ入って、私は公演のシナリオを広げる。
結局私が担当することになったのは、今回も「裏方」の舞台監督…と、
「え? また?」
「お願いしますよ! 川上さんしかいないんっす!」
今回の演出を担当することになった今村君に頼まれて、「衣装」。
「ちょっとさ、実験でめちゃくちゃ忙しい、っていうか時間がないんだよ。やれるとしたら舞台監督だけで手一杯なんだよね」
「そこをなんとか!」
「はぁ…やれやれ」
頼み込まれると嫌とはいえないのが私の厄介な性分だ。
というわけで、今回も、美帆ちゃんや一回生たちに手伝ってもらって、衣装も兼任することになった。
今年から、専門分野に進む「三回生」。所属する研究室にも別れることになっていて、講義が終わったら研究室にも顔を出さなきゃいけない…となると、部活動に割ける時間って、本当に短くなっちゃって、
(申し訳ないけど、あの時にやっぱ、身を引いとくべきだったかなぁ、なんて思っちゃうな)
『おめでとう、貴方は誘拐されました!』
今回の舞台『今、ここから』の決め台詞を前野君が言うのを、私は椅子に腰掛けてぼんやりと聞いていた。
プロの小説家になることを夢見て、いつまでたっても「プータロー」の友部。ネタにするために彼が選んだのは、彼の幼い頃からの友人で、今回の主役でもある服部で、友部は彼に、
「お前を誘拐した」
っていう脅迫状を送り、服部がどんな反応をするか見て、それから小説を書こうとしたのだ。
もちろん、服部はそのことを知らない。いつものごとく、自分にお金を借りにきた友部に、苦笑しながら
『絶対に返してくれよ?』
『そりゃ当たり前だろ。出世払いでよろしく!』
服部演ずる一回生の仲村君と、友部演ずる奥井君。どっちの演技も大差ないように見えるのは、多分仲村君が、高校生の時から演劇をやってたせいだろう。
そしてそのことが、
(やーれやれ。今回も、か)
奥井君にはどうやら気に入らないらしい。いや、仲村君の実力は奥井君だって認めてるんだろうけれど、その自信たっぷりの演技が、彼には生意気に見えちゃうんだろう。
実際、休憩時間に仲村君が話しかけても、奥井君はそっぽを向いて無視してしまう…二年前、私にやっていたのと同じように。私の場合は、はっきりした理由があったわけなんだけど、
(そういうとこ、悪いけど子供っぽいなぁって思うんだけどな)
そして、やっとそういうことが分かってきた。
奥井君自身が今村君や美帆ちゃんに語ってるところによると、
「わざと話さないでいて、相手に反省を促す」
とかいうことらしいんだけど、年下相手にそれってものすごく…なんだか大人げないし、
「ちょっと可哀相じゃない?」
実験、実験、そして研究室に顔を出して先輩達の研究の手伝い、なんてやってて、それでもやっとヒマの出来る土、日。練習も台本の読み合わせから立ち稽古に変わっていて、練習の合間の休憩時間に、私は奥井君に話しかけてみた。
「仲村君とかさ、駒田さんとかさ。どうして無視してんの? 年下なんだしさ、もうちょっと親切にしてあげたほうが、ほら、さ」
すると、
「川上、俺はな」
あっちい、なんて言いながら、持って来ていたうちわで自分の顔を仰いでいた奥井君は、行儀悪く椅子にふんぞりかえったまま、ちょっと不機嫌に私を見上げた。
「俺は、『怖い先輩』でいいんだ。舐められたらしまいだ」
「…ああ、うん…でもさ」
そう言われただけで、彼の言おうとしているところが何となく分かってしまう。つまり、彼は舐められるよりも、惧れ敬われたい、そういうことなんだろう。そして彼は私を遮って、
「親切にしたり、優しくしたりするのは、女のお前の役目だ。俺が怖い分、お前が親切にしてやればいい」
「うーん…そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
そしてそれっきり、「この話はおしまい」ってな風に彼はまた、「あちい」なんて言いながら自分の顔をうちわで扇ぎ始めた。
『奥井さん、いじめられっ子だったんだって』
いつかぽろっと私に漏らした美帆ちゃんの言葉が、そこで蘇ってくる。
ちょうどその時、他の子たちがその手に飲み物を持ちながら戻ってきた。それを機に、待っていた今村君が練習再開を告げて、私も膝へ台本を広げたのだけれど、
(だから、なのかな)
『何を言ってるんだ! 俺は、別に…』
『貴方が、服部さんにあの手紙を送ったんでしょう? これも立派な警察沙汰だ』
…お前を誘拐した。その手紙を幼馴染に送ったのはお前だ、そう指摘されて、友部はうろたえ、世の中の人の弱みを握ってはそれを暴き立てることを自分の本懐としている柄谷は不敵に笑う。そんな光景を見ながら、時々詰まっちゃう役者さんの台詞をフォローして、
(いじめられっ子だったから、変にそういう風に考えるようになっちゃったのかな。必ずしも、人に親切にする、優しくするイコール舐められる、ってことにはならないと思うんだけどな)
私はつい、考え込んでしまう。
いずれにせよ、プライドも高くてカリスマもあって、実際にものすごい実力もある奥井君の、そういう考え方を私が覆せるとはとても思えない。それに二十歳前後って、男の人が一番
「自分は偉い」
なーんて思っちゃう年頃なんだって…どこかの本で読んだこともあるし。
「…川上さん」
「あ、うん、仲村君、お疲れ」
そして午後九時。今日の稽古は終わった。部室へ衣装を持っていこうとしている私へ、『今回の主役』が話しかけてきて、私は足を止める。
「あの…ちょっと話したい事が。サクラたちと一緒に、これから下宿にお邪魔してもいいですか。
メンバーはえっと、北さんと、茂木さんと、純坊、それからゴーシローにグリとたむらっちなんですけど」
「え? うん、いいけど。チサは? バス、あるの?」
私の部屋に、後輩だからっていっても『男の子』が入るのって、もしかしたら初めてかもしれない。
しかも集団で。
それに、私がチサ、って呼んでる『たむらっち』こと田村智沙ちゃんは、自宅組なのだ。
なんせ午後九時半を過ぎたら、冗談じゃなしに全部の公共機関が止まってしまうくらいの田舎だから、
「帰れなくなっちゃうんじゃないの?」
「あの、だから…川上さんちに泊めてあげてくれませんか? 厚かましいとは思うんですけど」
「…分かった」
それ以上言わずに私は頷いた。仲村君がそこまで言うってことは、かなり深刻な話なんだろう…それも演劇部に関わる。
それに、今日は美帆ちゃんは今村君家に行く、って言ってるから、きっと帰ってこない。
だから、ちょっとくらい騒いでも隣に支障は出ないだろう。
というわけで、
「ま、お茶、淹れるから。適当に腰掛けて」
私は、一気に狭くなった四畳半で四苦八苦することになった。
さすがに男の子は図体がでかい。それにやっぱ、暑苦しい。
「川上さん、あの、おやつ持ってきました」
「私も!」
「あはは、ありがと。頂くね」
(ほんと、可愛いなあ)
フミヤやサクラが気を遣ってくれてるらしいのへ、思わず微笑が漏れた。
で、小さなコタツ机を囲んで、仲村君が第一声、
「演劇部って、あんな、なんですか? ものすごく居心地が悪い。いや、俺が奥井さんに無視されてるから、とか、そういうのだけが原因じゃないです。俺だけじゃなくて、グリだって、伊藤さんだって、前野さんだって」
って言いながら、一回生の駒田緑ちゃんを振り返る。みどり=グリーン=グリ、っていう風にあだ名がついたらしい。
「川上さんは知らないだろうけど、奥井さん、言ってたんですよ。『実力があれば年齢の上下なんて関係ない』って。実際は違うじゃないですか? 年齢による上下関係みたいなのはやっぱりバリバリにあって、そして奥井さんは、自分の気に食わない人間を徹底的に無視してる。違いますか。先輩後輩っていう上下関係は確かにあるし、だからこそ、俺もちゃんと奥井さんの実力っていうか、奥井さんは凄い人だって認めてます。だけど、気に食わないヤツを無視するってのは、どうでしょうね? 川上さんは、それに対して何も言わない。何もしてないですよね? 奥井さんの理論で言えば、奥井さんにタメで口を聞けるのは川上さんだけなのに。俺らがしんどい思いしてるって、分かってるでしょ?」
「ナカムラ、言いすぎだよ。アンタこそ川上さんのこと、先輩としてどう思ってるの?ってことになっちゃうよ」
たまりかねた風に、フミヤが口を挟む。
「川上さんだって、大変なんだよ? 実験とか研究室とか…私、知ってるもん。いつも川上さん、疲れた顔して帰って来てるしさ。そうそう部活に顔、出せないよ。それに私は、川上さんがいてくれるだけでホッとするもん」
「いいんだよ、フミヤ」
いつかは必ず言われることだったのだ。だけどまさか、こんなにも早く言われるとは思ってなかった。
私はそこで、いつの間にか細かく震えてる身体を両手で擦る。
「私は、さ。途中から演劇部に入ったんだよ。…去年のこと、聞いてる? ややこしいことになったってこと。それから、私の友達が、この演劇部とは別に新しい、っていうか、先輩達がつけた名前を引き継いだ演劇サークルを立ち上げたってこと、知ってるよね?」
私に集中しているみんなの視線が、本当に痛い。
「そりゃ奥井さんだって知ってますよ。こないだ、あっちの立ち上げ公演に行きましたもん、皆で」
「そっか」
仲村君の言葉に私は頷く。事態は私の知らない間に、ますます悪くなっていく…そして私は何も出来ない。
だけど、そうやって「向こうの」演劇サークルの立ち上げ公演に行く、って言い出すところは、
「…すげえな、って思ったんですけどね。私情が入ったら、そんなの観に行きたいとも
思わないでしょうから」
「うん」
仲村君の言うとおり、奥井君の心の広さ、みたいなのを表しているってことにならないだろうか。
だけど、ずれてきた黒ぶちの眼鏡をちょっと上げて、
「だけど、まりさんも、向こうの劇団を手伝ってるんだって知って奥井さん、まりさんに裏切られたって言ってました。それって『裏切り』ですか? 違いますよね? 奥井さんが有田さんたちを追い出した、だからまりさんは、奥井さんには付いていけないと思った、ただそれだけのことですよね」
仲村君はずばりと切り込む。
ついに私は絶句してしまった。他の子たちは、ただ黙って仲村君の言うところを聞いている。
絶句しながらも、
(だから、奥井君は)
私はぼんやりと思ってた。こういう仲村君だから、奥井君は気に食わなかったのだろう。ありていに言うなら、結局は「先輩に向かって生意気だ」ってことなのだ。
「そういうことになる、のかな…」
ため息と一緒に、私はやっとそう言えた。
「なる、んじゃなくて、実際にそうじゃないですか」
仲村君の切り込みは、容赦がない。思わず苦笑してフミヤやサクラを見たら、彼女たちも苦笑していた。
「それにシュウももう、奥井さんと今村さんに心服してしまってます。だから、話にはならない。こないだだって俺ら一回生だけで飲みに行くって約束、後から奥井さんに誘われたからってドタキャンしたし。それも一回や二回じゃないんです。奥井さんに、『あいつらと飲みに行くのなんてやめとけ』なんて言われたからって。どうして俺らの付き合いに、先輩がいちいち口を挟んでくるんですか。聞いたら、奥井さんだって、『俺らの付き合いにいちいち先輩が口を挟む』なんて、ぶうぶう言ってたらしいじゃないですか。なのに自分だってやってることは…おかしくないですか?」
よほど我慢していたんだろう。彼の言葉にはよどみがない。
「…俺、演劇、好きです。だからT大に入っても演劇をやりたかった。奥井さんも、本当は尊敬してます。嫌われていても、俺はもしも奥井さんが別に劇団を立ち上げたいっていうなら、そっちへ行きます。だって、それだけの実力がある人だから」
「…うん」
「だけど、そのことで『奥井派』だなんて思われるのは心外です。俺はあの人の才能は尊敬していますが、人間性を尊敬してるわけじゃない」
頭をカナヅチで叩かれたような気がした。それはまさに、私が一年前まで思ってたことだから。
「…川上さんにも、奥井さんは止められませんか?」
しばらくの沈黙の後、仲村君はぽつりと言った。
「こないだ、川上さんが研究室の都合で遅くなって、共練へ来ましたよね。その時、夜の十時だったのに、『まだやってたの?』なんて、川上さん、驚いてましたよね」
「うん」
そうなのだ。まだまだ公演には間がある五月下旬。研究室での用事を終えて、衣装を作るために部室へ行って、もう稽古なんて終わってるだろうと思ったのに、共練にまだ人がいて、
「…それが皆だって分かって、びっくりしたんだよね。まだ『そういう』時期じゃないはずだから」
「今村さんと、奥井さんだけだったんですよ。練習を続けるってノリノリだったの。たむらっちは家に帰れないって嘆いてたし。俺も自宅組だけど、男だから何とでもなります。だけど、そういう嘆きを無視して、あの二人は練習するって。そういう時に演出の暴走を止めるのは、舞台監督の役目でしょう」
確かに、知らなかったでは済まされない…私はつい、うなだれてしまった。
すると、仲村君は、
「十一月の公演もあるんですよね」
「うん、あるよ」
「じゃあ、その時まで、いてください」
「え」
顔を上げた私へ、念を押すように…笑って、
「その時までいないとダメです。いてくれるだけでいいってフミヤも言ってますよね。暴走を止めることが出来ないなら、いてくれて、俺らの愚痴のはけ口になってくれるだけでいいです。それが、川上さんの役目なんだと思います。だから、それからは逃げないでくださいね?」
「…あ…うん」
そこでやっと、私も笑えた。まりちゃんがいつか言った、
『一回生を守ってあげてくださいね?』
その言葉に、仲村君の言葉もオーバーラップする。そして仲村君はちょっと、
「だってさ、やっぱりなんだかんだで奥井さんも今村さんも、俺らより先に演劇部を卒業しちゃうじゃないですかぁ。そう思えば、川上さんにはホント、いてくれるだけで十分だよね、うん、大丈夫大丈夫」
聞き捨てならぬことを言う。
「こらこら、それってどういうことだ?」
「あはは、素直で素敵な先輩だってことですよ! よく俺の暴言に耐えてくれました。拍手~!」
「あのねっ! アンタ、ちょっとチョーシこきすぎ!」
私がふざけて上げた拳骨を、仲村君はオーバーな仕草で受け止める。
(いても、いいんだ)
仲村君は、ハッキリと「私は役に立たない」、そう言った。だけど、それでもいてもいい、そう言ってくれる子がいるなら、
(私も、甘えていいのかな)
本当に救われていたのは、彼らではなくて私のほうだったのかもしれない。

そして相変わらず実験に研究室で時間を取られて、
「おっと、忘れてた! お知らせ~」
どんどん蒸し暑くなってくとある日、共練に集合した演劇部の仲間へ、私は言った。
「明後日から、合宿所にこもることになります。それなりの心積もりでよろしく!」
気がつけば合宿所泊まりが数日後に迫っている。どうにかこうにか、六月公演はまだ、表面的には上手く回転していたのだ。

『お前を誘拐した…って、誰が誘拐されたんですか?』
『私です』
服部が答えると、彼が助けを求めたその女刑事はしばらくの沈黙の後、
『ふざけるんじゃないですよ全く。さ、帰るぞ』
『はい』
部下の女刑事を促して、服部宅を出ようとする。そりゃ、誰だって誘拐されたっていう当の本人が目の前に、しかも彼の自宅にいるんだから、冗談だと思うだろう。だもんで、服部は慌てて、
『待って、待ってくださいよ! よくこの脅迫状を見てください』
『え? えっと、「お前を誘拐した、助けて欲しければ後十万用意しろ…」二枚目があるじゃないの!』
『だから、警察を呼んだんですよ。でなければ、僕もたちの悪い冗談だと思ってすぐ捨ててます』
舞台の上で、チサと仲村君との「掛け合い漫才」は続いている。
それを舞台監督であるところの私はシナリオを広げて、演出であるところの今村君は、去年の奥井君を髣髴とさせるような姿で何も持たず、役者と同じように立って眺めていた。
基本的に、舞台監督というのは裏方さんの総まとめであるのと同時に、役者が台詞に詰まったときの「プロンプター」でもあるし、裏方さんだけで見れば、演出よりも立場は一応上なのだ。
で、今回もまたフォースステージのシナリオで、テーマは「友情の再確認」ってことになるのかな?
『…服部。お前、また泣いてるのか?』
ひょんなことがきっかけで、ずっと眠りに付くことになってしまった服部。その彼が見る夢は、いじめられっ子だった頃の幼いあの日のこと。
小学生らしく、ランドセルを背負って泣きながら家路に着く服部を、一つ年上の友部が見つけて追いかけてくる。
はっとしたように彼から顔を背ける服部へ、
『お前、男だったらひとつガツンと言わなきゃ、いつまでたっても変わらないぞ』
『…変わらなくていい』
言っちゃ悪いが、イイトシをした大学生二人がランドセルを背負って子供らしく話してるところは、すごい間抜けだし笑える。しかも半ズボンだし。
(二人とも、スネ毛が薄いから見苦しくなくていいけどさ)
なんて余計なことを私は思いつつ、それでも仲村君の演技がやっぱり上手いことを認めてた。
服部とそれを巡る人々…彼がずっと寝入ったままで、しかもそうなる前は妖しげな商品セールスの仕事をやっていたことを知った人々…は、
『おめでとう、貴方は誘拐されました!』
だの、
『彼が寝込んだままなのは、宇宙意思「様」の思し召し。私が霊媒になって、服部さんの意識にチャネリングしてみましょう』
だの、口々に言って、それぞれの思いどおりに服部を利用しようとするのだ。
この「宇宙意思様」を信奉している人が、駒田緑ちゃん演じる「ドロンジョ女王」。それについているのが北君の「ボヤッキー」。
『皆さん、こんにちは。宇宙意思の時間です』
倒れたままの服部を心配していて、藁をもすがる思いで彼女を訪ねた友部も、なんと女王主催のTV番組に出演させられてしまう。そして、
『私の能力が嘘でないことをお見せしましょう。さあ、私が今、思い浮かべた473という数字を、この電話の向こうにいる田中四百七十三郎さんに伝えてみてください』
『四百七十三郎!?』
『ああら、よくある名前ですよ?』
言われた友部は、不承不承ながら差し出された電話を取り、
『もしもし。田中さんのお宅ですか』
『はい、田中です』
で、それに答えるのはボヤッキー。
『数字を当てて欲しいんですが』
顔をしかめたまま、友部が続けると、なんとボヤッキーは、
『田中、誰でしょう?』
『は?』
『うち、家族が多いもんでね。田中、誰への電話ですか?』
なーんて問い返しちゃったりするのだ。そしてますます仏頂面になった友部は、
『田中、四百七十三郎さんをお願いします』
それでも律儀にそう答える。すると、
『その数字は四百七十三だ!』
当たり前だけど、間髪をいれずにボヤッキーは正解を出し、『どうでしたか?』なんて尋ねる女王に、友部は、
『…当たってます』
ぼそっと言って首をかしげながら、『ありがとうございました~!』と、ハンカチを振る女王に見送られて退場する。
とまあ、こんな妖しげな人たちに囲まれて、眠ったままの服部を見舞いに来た友部のところへ、
『貴方ですね? 服部さんにあの脅迫状を送ったのは』
ついに私立探偵が、真相をずばりと指摘にしにやってくる…。
「お疲れ! 役者は合宿所行って、もう寝て」
本番が近いから、いつものごとく通し稽古ばかりになっている。今村君こと「けんちゃん」の合図に、皆はホッとしたように三々五々、共練の側にある小さな合宿所へ引き上げ始めるのだけれど、
「裏方さーん、集まって!」
私は器材をいじっている子たちへ声をかける。
音響、照明、衣装、っていう裏方の仕事はまだまだこれからなのだ。
「で、調子はどうですか? 改善すべき点があったら、それぞれ報告して下さい」
私が言うと、照明の茂木君がまず口を開く。
「照明って、ものすごく暑いじゃないですか。それにスポットを当てて締め切る、ってなったら、この共練、鬼みたいな暑さになりませんかね? どこからか扇風機なり借りて、お客さんのほうにだけでも涼風を送るっていうのは?」
「うーん…そうだね。どこからか借りられる? 私も持ってくるけど」
と、私が今村君を振り返ると今村君も頷いて、
「うん、確かに暑いよな。俺も小さいけど扇風機、持って来る。焼け石に水くらいの効果しかないかも
しれないけど」
「はい、演出の許可が得られました。次、音響さん、どうですか?」
「特に問題は無いです。皆さんが教えてくれるから」
「はい、分かりました。ただ、使いたい音楽をレンタルしてきたら、役者さんたちには、領収書はちゃんともらうようにって言っておいて下さい」
音響のサクラが頷いたのを確認して、
「次に、衣装ですが」
私は、私の担当でもある衣装について切り出した。
「茂木君も言ってくれていましたが、スポットが暑いので、役者さんたちのメイクが汗で流れて、衣装が汚れる危険性があります。サテン生地だとさほど目立ちませんが、役者さんをやる人には、首周りに目立たない布を貼ってもらうとか、メイクが付かない工夫をしてもらおうと考えています、で、舞台監督のほう」
そこで、私は少し苦笑して、
「実験が忙しくて、いつも遅れて顔を出してしまって、本当にごめんなさい。でも、ここまでなんとかやって来られたのは、皆さんのおかげだと思っています。あと一週間、よろしくお願いします」
頭を下げると、
「ま、仕方ないっすよ。実験だもん。川上さんがちゃんと支えようって思ってくれてるのは、俺も分かりますから。あまり気にしないで下さい」
「…ありがとう」
今村君の言葉に、ちょっとホッとした。実際、結果が出るまで実験室に待機しなきゃいけないって、ものすごいストレスなのだ。抜け出して演劇部の様子を見かったけど、やっぱりそこは当然だけど『講義優先』。サークル活動はあくまでサークル活動でしかない。
「じゃ、これからまた照明と音響の調整、始めます。スタンバってくれ!」
そして、最後の調整が始まる。この時点で、もう夜中の一時になっているのだけれど、これもスタッフには「いつものこと」で、
「そこで音楽! 徐々に絞って! それと川上さん、舞台のそこに立って、前野の代わりになってください」
「はい。了解」
今村君が舞台を睨みながら言うのへ、私も台本を持って立ち上がる。
役者はもう身体を休めなきゃいけないから、照明と音響の調整のために動くのも舞台監督の役目。
寝不足だけど、こういうことも本当に楽しい。これが舞台監督の醍醐味なんだろうな。
で、私たち裏方スタッフがそんなこんなでそれなりに楽しんでいる時、
「川上さん、川上さん!」
「…どうしたの?」
合宿所では、ちょっとした事件が起きていたらしい。徹夜明けの朝の五時、合宿所へ戻ろうとした私を認めて、フミヤがくすぐったそうな顔をしながら話しかけてきた。
「ちょっとちょっと、耳を貸してください」
「何、何?」
笑いながら言うもんだから、こっちも釣られて、まだ何も聞いてないのについ、笑い声になる。
言われるままに耳を近づけたら、
「仲村君がね、あのね、うふふふふ」
堪えきれないもののように忍び笑いを漏らす。
「あはは、だから何?」
それがまた可愛くて、ついに私も声を上げて笑ってしまった。するとフミヤは、
「『寝っ屁』、したんですよぉ。男部屋と女部屋、壁一枚隔ててるのに聞こえちゃって、笑うのを堪えるのに必死で眠れなかったんです。あはははは!」
…私と彼女が、朝っぱらから二人して、お腹を抱えて大爆笑したのは言うまでもない。
もちろん、このことは当の仲村君には内緒で、
「当たり前でしょ。私たちが知ってるっていうこと、話しちゃかわいそうですよ、あはははは」
女の子って、つくづく残酷だ。フミヤが苦しそうに笑いながら言うのへ、私も、
「分かってる、分かってるよ」
なんて言いながら、それでも口がひくひく動くのを抑えられない。
そこへ何故か赤い目をしている北君もやってきて、
「二人で何、笑ってんですか?」
なーんて言うもんだから、フミヤが北君の耳元へも口を近づけて、
「『寝っ屁』」
一言言っただけで、北君には通じたらしい。たちまち彼もお腹を抱えて笑い転げて、
「俺も笑えて眠れなかったんですよ。だって同じ部屋だもん。『あ、ここから聞こえた』とか思ったら、
もうダメだった」
「あ、だから北君、目が赤いのか」
「その通りです、あはははは!」
そんなことさえおかしくて、私たちはまた声を上げて笑う。
…別に、仲村君に恨みがあるとか、意地悪な気持ちで笑ってたわけじゃない。普段は生意気な口を聞いたりしてるかもしれない仲村君だけに、意外な一面を発見したみたいで、
(なんとも愛すべき「失敗」だよねえ)
そんな風な気持ちで、私たちは笑いを堪え切れなかったのだ。
そしてそんな時に私は、去年までは確かにここにいて、同じように笑っただろう先輩達のことと、
(天田さん)
今、地元に教員採用試験を受けに帰っているだろう私のカレのことをいつも思い出す。
人生がかかってる大事な試験だから、私もメールを出すのを遠慮してる、なんて状態。
ちょっと心配だし寂しいけれど、
(来てくれるよね)
今週の木曜日には試験は終わるって言っていた。だからきっと、六月公演はこっそりと見に来てくれるに違いない。
(色んなこと、一杯あったんですよって、話したいな)
今年の夏は、冷夏だった去年とは違ってカラ梅雨らしい。六月に入ったっていうのに、T市には珍しく雨一滴降らなくて、
「こりゃ、公演の日も暑くなるかもね~。扇風機どころじゃ涼しくならないかも」
まだ朝の八時だっていうのに、もう真夏みたいに暑い。一緒に大学へ続く坂を上がりながら、フミヤやサクラ、そして美帆ちゃん…誰に言うともなく呟いたら、
「業務用の、どこからか借りられませんかね? 締め切っちゃうとやっぱり暑いですよ、あそこ」
「うーん…業務用のじゃ、風と音が気になって演技どころじゃなくならない?」
たちまち、美帆ちゃんやフミヤがさえずりだす。
「ま、ふさいでから考えればいいんじゃない?」
それへ、無難かもしれない言葉を返しながら、私もダンボールで窓を覆って、黒幕をたらした状態の共練を想像したら、ちょっと苦笑が漏れた。
長袖のシュウ君や、汗っかきの前野君には特に辛いかもしれない。

そしてほとんど徹夜状態のまま、ぼーっと講義に出ては、引けてから公演の準備をする、ってなことを繰り返していたら、いつの間にかまた公演当日になっていた。ほんと、月日が経つのって異常に早い…特にそれが楽しいことだと。
その前夜、もちろん私たち裏方スタッフは徹夜で「公演会場」の準備をしていた。
いつもみたいに椅子を並べて、スポットの調整をして、それから衣装の確認をして…
「前よりももっと綺麗になってるよね。さすがあっちゃん」
舞台の上をちょっと借りて、役者さんたちの衣装を並べていたら、美帆ちゃんが見て感心したみたいに頷いている。
「美帆ちゃんやフミヤやサクラが手伝ってくれたからだよ」
「あはは、ごケンソーン」
「もう、美帆ちゃん!」
言いながら、でも私は本当に感謝していた。十二月公演の大きな舞台に負けないくらいの綺麗な衣装を作ることが出来たのは、私が大まかなところを作って、後の細かい装飾をやってくれた女の子達がいたおかげなのだ。
「しかも低予算だもんね。秋の公演にももしかしたら使い回せるかも」
「そうだねえ」
美帆ちゃんは言って、二つ頷く。
「でも、秋はもう私、裏方だけやって引退するって決めてるんだ」
「え…」
「だってさ、あっちゃん見てたら、三回生がどれだけ大変なのか分かるもん。
私には無理。それに、これまでほとんどずーっと舞台に立たせてもらってきた。
だから、もう十分なんだ。あっちゃんはさ」
確認済みの衣装を一緒に畳んでくれながら、
「三回生、最後の舞台…役者、ちゃんとやらせてもらいなよ。これまでずっとがんばってきたんだから、ね?」
「…うん。ありがとう」
私が頷いた時、役者の子たちがぞろぞろと共練に入ってきた。気が付けばもう開幕二十分前で、
「あ、これ着てね! 最終確認、してあるからね!」
舞台の袖に消える彼らへ、私は衣装を渡していく。
(衣装をやるのも、これで最後だよね)
一年、衣装を作らせてもらった。普段使いのものじゃないから、荒い出来かもしれないけど、だけど私なりに本当にかっこよく見えるように、心を込めて作ってきたつもりだ。
(だけど…後一回。寂しいな)
四月の時とは違って舞台監督だから、今回私が立つのは音響と照明の後ろ。
サクラや茂木ちゃんの手元を確認して、私は客席の後ろに立ってる今村君へ合図を送った。
お客さんが、ぞろぞろ入ってくる。照明が薄暗くなる。
そして、今回もT大演劇部「D4D」による舞台の幕は開いていく。

今回は、わざわざ学生課から借りてきたスクリーンも使う。
幕が開くと、
『今、ここから』
暗い「舞台」のスクリーンへそんな字幕が浮かび上がって、続いて、
『あるいは、賛歌』
そんな文字が浮かび上がり、舞台は明るくなる。
『そんな脅迫状、放っておけよ。誰か知らないヤツの悪戯だって』
『でもなあ、気になるし』
友部と服部の早速の掛け合いが始まって、
『まあ、誘拐されたっていうんだから、お前は誘拐されたんだろ』
『どこに?』
『だから、ここに』
『ここ?』
あっけに取られた様子の仲村君の演技がおかしいらしい。観客席のほうをこっそり伺うと、お客さんたちもニヤニヤしながら観てくれている。
(あ、天田さんだ!)
その中に、「カレ」の姿を見つけて、私はホッとしていた。私を探していたらしい彼もついたての隙間から見える私の顔を認めて、ちょっと片手を上げる。
色々と…一回生たちの反発は買ったけど、なんとか今年の六月公演は無事に終わりそうだ。
『いつも、僕はいろんな人に出会っている』
そして物語のクライマックスで、ランドセルを背負った幼い頃の友部は語りだす。
『僕を褒めてくれた先生に、賛歌。僕を好きでいてくれている人に、賛歌。
そしてアイツに…いつもいじめられていたアイツに、賛歌』
泣きたくて嬉しくて、そんな顔をしながら語る友部。
言いながら眠ってしまった友部の様子を、まだ夢の中にいる服部は眺めて、そして、彼の側にあるノートを取り上げる。それは脅迫状が届くようになってから、服部が記録のためにつけていたノートだった。その続きには友部の字で、
『貴方は、ある日ぬいぐるみを買ってもらった。そしてそのぬいぐるみを貴方はいつか関心を持たなくなって部屋の隅へおいやるだろう。それを見つけた友人が、そのぬいぐるみを欲しいと言い出す。その時にやっと、貴方はそのぬいぐるみを思い出す。どこへもやりたくないと思う…』
そのノートを観客に向かって読み上げる服部は、
『そしてまた、その友達からぬいぐるみを「取り戻した」貴方は、再びそのぬいぐるみを部屋の隅へおいやって、いつか忘れ去ってしまうのだろう。だが、それもまた真実なのだ』
読んでいくうちに、友部と同じような、どんどん切なくて嬉しい表情になっていくのだ。
『…私は、貴方のそういう存在でありたい…』
彼が読み終えると、友部が目を覚ます。そして服部が「戻ってきた」ことを認めて微笑み、
『お帰り。話したい事が一杯あるんだ』
二人は立ち上がって、微笑む。幼い頃から培ってきた二人の思い出を、あの頃の「緑」の中へ置いて、再び歩き出すために。
爽やかな音楽が背後に流れて、そして幕は閉じる…。
部員の子たちの演技を見ながら、フォース・ステージの訳の分からないシナリオにしては、珍しく後味も悪くなくて爽やかな終わり方だよな、なんて思ったものだ。
客席からは、割れるような拍手が聞こえて、カーテン・コールの始まり。
「…今回のダンスも、君が担当したんだって?」
「そうなんですよぉ」
やがてお客さんが出て行って、まるで「鬼のように暑い」共練の中も少し風が通った。
乱れたパイプ椅子を直している私の元へやってきて、一緒に手伝ってくれながら、
「まさに八面六臂の大活躍だね」
天田さんはからかうように言う。
「あはは、もう! 大変だったんですよ?」
だけど私が言うと、
「そうだろうね。舞台監督も衣装も、そしてダンスも担当するなんて、俺らの時でさえそんな人、いなかった。本当にすごい人だね、君は」
「…えへ」
予想以上にしみじみ言われて、つい照れてしまった。
「奥井が認めるの、分かるような気がする。だけど、な」
取れてしまったダンボールを、ガムテープで補強するのも手伝ってくれながら、
「逆に言うなら、そうまでしないと、君は奥井に認められなかった、ってことなんだよな」
「…まあ、そう…ですね」
苦笑する彼に、私も同じように苦笑した。噂の奥井君は、舞台の上で立ち位置のテープを確認している。
「でも、今回、アイツは何をやった?」
「あ…えっと」
そこで、天田さんの声はすっと厳しくなった。戸惑う私へ、
「ごめんな。でも、俺はどうしても、君が一番ワリを食ったような気がしてる。贔屓かもしれないけど、そう見える。そして、奥井は役者しかしなかったっていうことで、美味しいところだけ取った、そんな風にどうしても見えてしまうんだ。あの坂さんでさえ、役者だけを担当したのは三回生の最後の公演だけだったんだよ」
「そう、だったんですか」
「このままだと、アイツのためにも良くないだろうね。また分裂しないといいけど」
「はい…」
天田さんに色々と近況報告していたから、彼も今の演劇部「D4D」の内部事情は知っている。
自分は上級生で、今まで同じことをやってきたから、って言っても、自分以外の人間に負担を負わせて自分だけふんぞり返ってる、なんて印象を一回生たちに与えていないか、それを彼は心配しているんだろう。
(実際、そう思われてるかもしれないんだよね)
奥井君の言うように、本当に年齢の上下が関係ないのなら、自分だって率先して下級生の仕事を手伝うべきだろうし、もしかしたら下級生が遠慮してしまっいて、奥井君に尋ねないかもしれないんだから、自分から話しかけてあげて尋ねやすい雰囲気を作るとか…そういうことを彼は一切しなかったのだから。
「あ、それでさ。話は変わっちゃうんだけど、俺さ」
ちょっと考え込んでしまった私へ、天田さんは明るく言った。
「教員採用試験、おかげさまで上手く行きました」
「あ、ホントですか? 良かったですね! おめでとうございます!」
「ありがとう」
私も嬉しくなって、思わず拍手をしてしまったら、天田さんは顔を赤くして照れる。
「私立のほうもね、一応、二、三、採用通知は受け取ってる。公立のほうは、県内のどこに配属されるか分からないけど、とにかく一応は合格」
「そうですかぁ」
ニコニコしながら私は彼の顔を見上げる。そこへ他の子たちもやってきて、
「天田さん、教員採用試験、受かったんだって」
私が言うと、一斉に「おめでとうございます」の嵐になった。
次々に他の皆も集まってきて、天田さんは照れながら賛辞を受けている。
(あれ?)
だけど、そこには奥井君と今村君と、一回生の「シュウ」君の姿はない。こっそり彼らの姿を探したら、その三人は舞台の上で、なんだかちょっと苦々しい、って風な表情でこっちを見ていたのだ。
…何故だかほんの少し、胸が痛んだ。ひょっとしたらもう、皆はあの三人からそっぽを向いているのかもしれない、って、ふと思ってしまったから。
そして恒例の「打ち上げ」。
そこにはありちゃんとしのちゃん、そして千代田さん、っていう、かつての演劇部のメンバーの姿もあって、私はまた胸を撫で下ろしたものだ。
(たかまは…やっぱりいないか)
予想はしていたものの、彼女の姿が無いことに、私の胸はまたちょっと痛んだ。
たかまは奥井君と別れた後、農学部で他の男の人と付き合ってる。今度の「カレ」は奥井君と違って背丈も私とさほど変わらないし、あまり「俺が俺が」なんていう覇気もなさそうな人だけど、
ものすごく優しそうな男の子なのだ。
(ま、来られないよね。「元カレ」が「元カレ」だから)
奥井君の性格からして、たかまの姿を見たら「何しに来た」とか言いかねない。
(実際、奥井君ってば、彼女と別れてからもたかまの悪口ばっか言ってたらしいしね)
いつだったか、美帆ちゃんが言ってた。さすがに美帆ちゃんも「ちょっと見苦しいと思った」なんて言ってたっけ。
「はい、一気、一気!」
いつもの「飲み会」は、表面上は滞りなく進む。私は今回の「舞台監督」で飲み会の幹事でもあるからこの場を仕切らないといけない。
「そろそろ時間ですよー! 帰り支度を始めてください。二次会の場所は特にとっていないので、演劇部としての打ち上げは、これで終わりです」
それなりに楽しい時間は過ぎて、私は解散を告げた。
…なんだか今日は、まっすぐ家に帰りたくないような、かといって部室にも行きたくないような、そんな気分だ。
移動でごった返しているK駅前の焼肉屋「大門」。先輩や他の皆に挨拶をした後、店からなるだけ遠ざかろうと足を速めたら、
「はいはい、水臭いよ」
「あ…はい」
後ろから「カレ」が肩を叩いた。
「どうしていつもいつも、君は俺を置いていこうとするのかな」
「だ、だって、天田さん…千代田さんたちとカラオケ、いかないんですか? 試験が終わってせっかく時間が出来たのに」
「…ひょっとして、さ」
私が言ったら、天田さんはちょっと傷ついたような顔をして、
「君は、独りになりたかったのかな。だったら、ごめん」
「あ、えっと、そうじゃない、そうじゃないんです」
思い切り慌てた。
「ただ、これからのこと…部に残った三回生の一人として、これからどうすればいいのか、なんて考えてたら、あの、つい」
そうなのだ。だから、それまでなら我を忘れて酔えるはずなのに、全然酔えなかった。まして二次会に参加するなんて、考えもしなかった。天田さんのことさえ、すっぽりと頭の中から抜け落ちていたのだ。
「そうか。分かるよ」
すると天田さんは呟くように言って、私へ手を伸ばす。私がその手を取ると、天田さんは歩き出す。
「どこへ行くんですか?」
「君こそ。どこへ行きたいの?」
そこで、二人して少し笑ってしまった。そうだ。私は一人でどこへ行こうとしてたんだろう。
部室へ行くでもなく、下宿に帰るでもなく…
「ただ、歩いていたかったんです」
「うん」
今日も全然、雨は降らなかった。暑くてたまらなかった風は、今頃になってようやく涼しくなって、
「…私に何が出来ますか?」
「…うん」
気が付けば、私たちは大学から一番近い海の浜辺へやってきていた。潅木に並んで腰掛けると、波の音が驚くほど大きく聞こえる。
「何が、出来ますか?」
手をつないだまま、私は天田さんの肩へことりと頭をもたせかけた。やっぱりちょっと酔っているのかもしれないと内心苦笑したけれど、
「…何も」
言いながら、私の肩に天田さんは手を回してくる。
「何もって」
「何も、しなくていい。ただそこにいればいい。そうだと思うよ。一回生や二回生の子たちが、君を見てる目で分かった。無理しないでいい。何も出来ないからって、自分を責める必要もない」
「…」
黙って頷きながら、私はとうとう泣いていた。
いつの間に、こんなに弱くなったんだろう。そして、いつの間に「演劇部」が、こんなにも…泣きたいほど愛しく思えるほど、心の中に食い込んでいたんだろう。
このままだったら、きっと訪れるだろう「分裂」の日。分かっていながら何も手を打てないでいる自分がもどかしくて、情けなくて、だけどハラハラしながら見守っているしか出来ない。
「…俺んとこ、おいで。まだ散らかってるけど」
その言葉にも、私は俯いたまま頷く。私の手を握る手に、ぎゅっと力が篭った。

あくる朝、
「研究室、行かなきゃならないんで」
「うん、俺もだ」
お互いに照れくさくて、顔をちょっと赤くしながら私たちは微笑んだ。
今日は日曜日だけれど、大学生には関係ないのだ。天田さんは四回生で、卒論のために顔を出さなきゃいけないし、私は私で研究室の先輩の手伝いをしなきゃならない。
「今日が、私のアシスタント担当日なんですよねー」
「あはは、ま、頑張って」
着替え終えた私を、後ろから天田さんが抱き締める。途端に夕べのことが一気に思い出されて、また顔が火照った。
その最中、天田さんが、初めて私の名前を呼び捨てにした。唇にしかしなかったキスが、私の肌の上に何度も落ちた。
初めて肌を重ねてやっと、
(美帆ちゃんが今村君の家に入り浸ってた理由、分かったような気がする)
天田さんと一緒に大学へ向かいながら、私は苦笑したものだ。本当に好きな人とこういうことをする、って、正直とても心地いい。
「じゃあ」
「はい」
教育学部の前で、私たちは手を振り合いながら別れた。そのまま私は、正門から一番奥にあるいつもの農学部の研究室に向かおうとして、
(あれ? シュウ君じゃん)
日曜日はいつもバイトのシフトをいれていて、今日から早速バイトを再開するのだ、っていってたシュウ君らしき人が、こっちを見ているのに気が付いた。
手を振ってみたけれど、
(人違い、だったのかな?)
相手はぷい、と顔を背けて工学部の建物のほうへ姿を消してしまう。視力はいいはずなんだけど、
(やっぱり人違いか)
普段からうっかりミスの多い私のことだ、なんて思いなおして、私はそのまま農学部の研究室へ向かったのだ。



to be continued…

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