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火の章
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「お生まれになりました。男子でいらせられます」
その言葉を、目を閉じたまま、少しだけ唇を歪めて頷きながら聞いた。
もともと彼の父が邪鬼側と勝手に決めた婚姻である。愛し愛されてのそれではない。
無論、彼の「第一夫人」であるところの竜王公主との間に愛があるかと問われても、「無い」と彼は答えるだろう。
それは天帝としての義務のひとつであり、ならばそれを己は淡々とこなすのみである。
しかし、今回の相手は誰にも心の中を漏らしたことは無いが、彼が誰よりも嫌いぬいていた「邪鬼の親玉」である。
その父は、息子である彼が天帝位を継ぎ、九尾狐を第二夫人に迎えると間もなく亡くなった。
「乳母はどうなさいますか」
再び問いかけられて、彼は今度ははっきりと苦笑を漏らした。
天帝の子でありながら、それさえ決まっていない。決められなかったのである。
なぜなら、
(龍喰い)
妖獣、九尾狐の血を引くものの特性として、生まれた赤子にはその能力が備わっていた。
彼でさえ、九尾狐と交わる時には、ふと気が遠くなるような錯覚に襲われたことがあったが、それはあげて、龍の気を持つ者全ての精を意識的にまたは無意識に吸い取るという、九尾狐の妖力のせいである。
彼が無事だったのは、
(これのおかげだ)
その部屋へ向かいながら、額の中央に片手の先をやって、彼は再び苦笑する。
だから、乳母にも龍の気を持つものを選べない。赤子の母のことは、誰にも秘密にしておかねばならなかった。
天帝と邪鬼、つまり光と闇との融和…これ以上邪鬼が人間に「悪さ」をせぬように練られた、まさに苦肉の策だったのだが、
「陛下」
乳の匂いのこもるその部屋へ入っていくと、九尾狐はあでやかな笑みを浮かべて彼を見つめた。
茶色に近い琥珀の瞳、黒々と流れる艶やかな髪に、思わず抱き締めて口付けたくなるような淫靡な唇…人型を取ったその姿を見たなら、相手が邪鬼であると分かっていても、並の者ではその思いを抑えることなど出来はしまい。
龍の血を持つものがほとんどのこの宮内では、生まれたばかりの赤子に、彼女以外乳を与えることが出来る者がいない。それが分かっているのだろう。自らの豊かな乳房を赤子に含ませながら、
「…お生まれになりました」
告げる「彼女」の声は、己に対する信頼と愛に満ちていた。
(僭越な)
闇そのものの邪鬼ごときが、光の化身の天帝である自分に懸想するなど、そして天帝から愛されていると思い込むなど、勘違いもはなはだしい。
「乳母は、他神族の者から選ぶ」
「はい。それが良うございましょう」
彼が言うと、彼女は少し寂しげに言って頷く。彼女も、「天帝」に乞われて来たものの、天宮において己に注がれる軽蔑と恐れの視線を痛いほどに感じ取っているから、
「そうしても、跡継ぎではないゆえ、皆も怪しまぬ」
「はい」
夫の言葉に再び頷く。母の乳房に頬を寄せる赤子は、乳を飲み終わって満足したらしい。
目を閉じて無邪気な寝息を立てる赤子の姿は大変に愛らしく、
(愛い奴だ)
邪鬼の棟梁の子であるということを、一瞬でも天帝にすら忘れさせるほどの魅力を湛えていた。
(触れてはならぬ…否)
そしてそのことを彼は恐れた。誰にでも愛される天性のものを備えている邪鬼の子。
それは九尾狐の血のせいであって、彼の持つ光の血ゆえではない。
(二郎神君にとって災いとなる)
先に生まれていた第一子を思い、天帝はその赤子に伸ばしかけた手を引っ込めた。
あろうことか邪鬼との間に出来た異母弟を溺愛し、正統な後継者をないがしろにしていると噂が立ってしまえば、彼の威勢などすぐに吹っ飛んでしまおう。
(誰にも愛される妖力などは要らぬ。畏怖させる力さえあればよい)
敢えてそう思いながら…もちろんそこに、幾分かの嫉妬が混じっていることを彼は重々自覚している…彼は額の目を開いた。
「…陛下?」
「この子はこの宮に置いてやる」
「あっ!?」
戸惑う「妻」の胸から、彼は赤子を取り上げる。途端、驚いて泣き出す我が子へ手を伸ばそうとする九尾狐へ、
「だが、お前はここに置いておくわけには行かぬ。今すぐ我が宮より立ち去れ」
天帝は冷たく言った。
「ここは光の地。邪鬼ごときが足を踏み入れてよい場所ではない。この赤子は我々が育ててやる」
「陛下っ!」
九尾狐の瞳が、たちまち赤く染まる。少しでも信じていたかった夫、ずっと憧れていた光へ少しでも近づけた喜び…しぶしぶながらでも、肌を重ねていたからには、少しでも己に対する愛はあるはずだと縋るように思っていた希望が全て潰えて、
「どこなと去れ。お前はここに存在(い)て良い者ではない」
「…っ!!」
赤子を産んだばかりで妖力も満足に出せぬこともあり、九尾狐は絶望と怒りに震えた。
「ならば、吾子、吾子とともに参ります! お返しあれ!」
狂ったように叫び、赤子に両手を伸ばす妻に、しかし、
「この赤子は我々が預かりおく。この赤子を大事に思うなら、我々に対する反抗など、努々、考えぬことだ」
天帝の言葉はあくまで冷たい。
「我が子を質に取る、ということでございますか…天帝ともあろう御方がっ!」
それに答えて九尾狐は叫んだ。途端、人型を解いた九つの尾を持つ銀色の狐が現れて、
「それほどまでに我らを恐れている、と解釈してもよろしいのでございますね!?」
「それでも良い」
「お子の父ともあろう御方が、そのお子を質にとは…情け無いとは思われませぬのか!」
泣き叫ぶ赤子を抱いたまま、苦笑している夫を九尾狐はその尾で取り巻いた。
妖力が不十分である、と言いながら、しかし天帝に向かって吐き出される炎は凄まじい。
天帝はそれを平然としたまま受け、額の目を開いた。
彼がその炎をふさぐように片手を上げると、そこからは風と水が一気に繰り出され、たちまち炎を押し戻していく。
「邪鬼ごときが、我らにたてつこうとは片腹痛い。闇の者は闇の者らしく、地の底で蠢いていよ!」
言いながら天帝がさっとその手を横へ払うと、風と水は刃となって九尾狐へ襲い掛かる。
途端、凄まじい悲鳴を上げて九尾狐の姿は消えた。
手の中で、火がついたように泣き続ける赤子を見下ろして、
「…さて、これの『力』をどうするか」
天帝は苦笑した。赤子の顎をくい、と持ち上げた手の指先を喉仏に当て、
「吶!」
低いが力のこもった声で言う。
「天帝陛下! ご無事で?」
「陛下! 何事でございますか!」
その頃になって、ようやく天宮の警護の者達がやってきた。部屋の惨状と主の手の中にある赤子を見て息を呑む彼らへ、
「これの力は封じた。我が一族の中から乳母を探さねばな」
彼は薄く笑ってそう告げたのである。
…以来十五年あまり、かの赤子は己の母を知らずに育った。
周囲も天帝を懼れて口にしないため、真実を知っている者は天帝自身とその後継である二郎神君その他、その周りのごくわずかな者のみである。
しかし人を魅了する天性を持ったその赤子は、無邪気に笑うことで周りの者を魅きつけた。
天帝の意を迎えているため、周囲の者もそれをあからさまに表に出すことはなかったが、それでも幾分かの者は、天帝の目を盗むようにこっそりと赤子への愛を示してはいたようである。
特に武芸を担当する将軍、開(カイ)などは、赤子の後で生まれて二郎神君の許婚と決められた竜王公主と共に武芸を厳しく仕込みながら、その豪放な性格でもって那陀と名づけられた赤子の頭を乱暴に撫でたり、武神としての筋が良いのをはっきりと褒めたり、といった愛を現した。
それは赤子が二つの性を備えてからも本質的には変わらず、
(二つの性を持つ半端者)
それゆえに父である天帝により一層疎まれる存在になっていても、心の底では皆が那陀太子へ同情を注いでいた、ということを、何より天帝自身が知っていた。
(何故だ)
二郎神君のほうへは、父である己を越えること、父である己よりも周りの信望を集めることを期待していながら、母を異にしていても、同じ我が子である那陀太子へはそれが出来ない。むしろ那陀のほうが全てにおいて己を凌駕するのではないかと恐怖すら覚えるのは、
(認めたくはないが)
邪鬼の血のほうが、光を持つ己の血よりも優れているということを認めているからではないか、と、天帝は思う。思いながら、
(これは嫉妬だ)
その感情も併せてあることも、しぶしぶながら認めざるを得ない。
だから、那陀…己というものを持たぬ者…と名づけた上に、赤子の力を封じた。
嫌いぬいている邪鬼の子を天宮に置いたのは、母である九尾狐への牽制と、手元において監視する、その両方の意味を持っているからであり、
(決してあれを愛しているからではない)
言い聞かせながら、天帝は玉座から立ち上がった。言い聞かせねばならぬほどに、実は那陀を認めているのだということに、彼自身は気付いていない。
「二郎は、おとなしくしているか」
控えていた側の女官に尋ねると、彼女は白い顔をわずかに俯けた。
「謹慎を解かれてからも、慎ましくお振る舞いにございます」
「ならばよい。梨花は」
さらに問うと、
「こちらへお戻りになられてより、ご自身の部屋にこもられたきり、出てこられません。お食事もあまり」
「困った奴だ」
「神君が時折訪ねておいでですが、それでも頑なに扉を開こうとなされず…このままお食事を摂られぬならば、お体のほうも」
「うむ」
その答えに苦笑して、天帝は歩き出す。
「あの、どちらへ」
「しばらく休む。誰も来ぬように」
慌てて付いて来ようとする侍女へ言い捨て、彼は玉座の間から外へ出た。
(光と闇を併せ持つもの…まるで人間のような脆弱な)
かつて那陀が使った水脈へ、自然にその足は向かった。そこへ着くと、
「父上」
彼に気付いてゆるゆると立ち上がり、我が子が自分へ向かって頭を下げる。
「あれの様子か」
「…は」
「咎めているわけではない。かしこまるな…だが」
上辺は取り澄ましたような表情を崩してはいないが、内心、かなり動揺しているに違いない。
一刹那震えた二郎神君の肩を鋭く見やりながら、
「あれの封を解いたのは、お前に制せるとの自信がある上であろうな」
「はい、恐らくは」
「恐らく、ではいかん。あれは龍喰いだ」
その水面には、東の方の国、火の山へ向かう一匹の龍が映し出されている。
「龍でありながら、同族を喰らう。だからこそ、私もあれのもうひとつの力を封じた。それをお前は何故解放した」
「あの場合は、そうでもしなければ那陀の命が」
「何故助けた」
「は…それは」
重ねて尋ねると、ついに二郎神君は黙ってしまった。さすがに言葉に詰まったらしい。
「まあよい」
しかし天帝はそこで苦笑した。誰よりも誇りに思っている我が子を責めるつもりは元々無かったはずだ。
謹慎を命じたのも形の上だけのことで、
「梨花の機嫌をこれからもとってやれ」
「はい、それはもう」
「失敬する」
ホッとしたように微笑む二郎神君の顔を見て、天帝は自室へ引き上げるべくその場を去った。
(あれは、那陀を好いておるのだ)
それが分かるだけに、何とも歯がゆい。彼にしてみれば天帝は天帝として、竜王公主を妻とするのが当たり前で、その間に子を成すのが当たり前なのだ。それが天帝に与えられた義務である、とさえごく自然に思っている。
母が異なる場合、神族であるならその血の濃さは関係なく、結ばれることは出来る。子を成すことにも問題は無い。
しかし、那陀が二つの性を備え始めてからは異母兄妹としてではなく、雌(おんな)として見るようになったのが、我が子二郎神君であるということは、
(許せぬ)
邪鬼の子に己の血が混じっていることが何よりも許せぬ彼にとっては、耐えがたい屈辱のようにも思えた。
であるから、彼にとって一番良いのは、
(那陀よ、戻ってくるな)
力を解放されぬままの那陀が、母である九尾狐の元へ取り込まれ、共に己に向かって叛旗を翻すことだったのだ。
(そこを、一気に叩けば良かった)
であれば、多少なりとも自分が抱く良心の呵責のようなものは薄れる。
一度解放された封は、同じ物を二度とすることができない。那陀の力を封じることが出来るのは、那陀以上の力を持つ存在…天帝と同じ能力を持っている二郎神君か、あるいは、考えることすら馬鹿馬鹿しいが、その実母である九尾狐しかないのだ。
九尾狐が那陀の妖力を封じることなどありえないし、二郎神君ときたらその力を解き放った張本人なのである。
しかも二郎神君は宝玉を手に入れた那陀が、雌(おんな)になることを望んでいる…。
(少し休まねば)
天帝はそこまで考えて、ほろ苦く笑った。少し休めば、また新たな考えが出てくるかもしれない。
硬く閉ざされた部屋の扉の前である。二郎神君は苦笑でもってその話を結んだ。
「…ちゃんと聞きましたか、妹々?」
彼が扉の向こうに確認するのは、言わずと知れた彼の異母兄妹の話である。
相変わらず、竜王公主からの返事はない。ないが、しかしそこからはわずかにしゃくりあげる声が聞こえてきて、
「父上としても、やむを得ぬ措置であったのではないかと私は思っています」
彼が言うと、
「酷い」
涙もろい彼の婚約者は呟いて、またしゃくりあげる。
「妹々」
二郎神君はそこでまた苦笑し、
「貴女は、那陀を好いていたのでしょう?」
言うと、しゃくりあげる音がぴたりと止まった。
「違いますか? 婚約者である私よりも、那陀のほうを」
続けると、不意に目の前の扉が開く。中からは目と頬を真っ赤に腫らした彼の従妹の姿が覗いて、
「顕兄」
中に入れ、と、伏せた目で彼女は言外にその意味を含ませた。
「ようやく開けて頂けましたね。…貴女は少し痩せました。周りのものが心配しますよ?
少しは何かを口にせねば」
「…」
二郎神君が、その長く形の良い指で頬へ触れながら言うと、竜王公主は黙って頷く。
「座っても構いませんか?」
再び続けると、やはり梨花は黙ったまま頷いた。華麗な彫刻が施された椅子に向かい合ってちょこなんと座り、二郎神君が黙ったまま座り続けていると、
「顕兄」
やがて居心地が悪そうに、もじもじと尻を動かしながら梨花が彼を呼んだ。
「ごめんなさい」
「なぜ貴女が謝るのです?」
そんな彼女に、白銀の髪をさやさやと揺らして二郎神君は微笑む。
「だって…顕兄をお兄様としか思えなくて。だから、ごめんなさい」
「良いのですよ、そのようなこと」
両の白い手で己の膝をぐっと掴んで、梨花は再び俯き、唇を噛んだ。公務で忙しく、身のこなしも洗練されていて、頭脳明晰、どこから見ても完璧な次期天帝…誰もが惹かれる二郎神君よりも、
「…私、太子が好きだったの。ずっとずっと小さい時から」
気がつけばいつも側にいて、ともに親しんだ異母兄妹…神としてはあまりにも不完全で、脆く、はかなくそれゆえに優しい…のほうへ梨花が好意を寄せるのは、当然といえば当然であったかもしれない。
「だから、太子を助けに行ったの。本当は、ヤマトタケルっていう人間なんかに、太子を奪われたくなかった。だから…ずっと雄(おとこ)でいて欲しかったから」
震える声で言いながら、胸にぶら下げた水晶勾玉へそっと指先で触れる。
いつか当然のように、自分は二郎神君へ嫁ぐ。己の本当の思いと一緒に、その時にでも那陀へこっそり託そうと考えていたその勾玉は、
(結局、渡せなかったわ。罰が当たったのかもしれない)
今も透明な神々しい輝きを放って、竜王公主の胸の上にある。
「人間なんかに太子を取られないって思っていたから、『ヤマトタケルのおかげかしら?』なんていう風に言えたの。太子だって、当然否定するって思ってた。なのに太子の答えは…私の予想外のものだったわ」
二郎神君は、その告白を黙って頷きながら聞いている。
「おまけに太子が龍喰いだったなんて…でもね、でも、顕兄」
「…はい」
梨花はそこで腫れぼったい瞼を上げ、彼女の婚約者をまっすぐに見つめた。
「私、多分また太子を助けに行くわ」
「そうですね、貴女なら」
それへ二郎神君は穏やかに笑って答える。
「でもそれは、那陀が全てを受け止めてからになるでしょう」
「そうね、そうだわ」
彼の言葉に梨花はようやく元気を取り戻したように、いつもの強気を瞳に浮かべながら頷いて、
「顕兄も、太子を待っているのでしょう。太子が自分で自分のことを決める時を」
「そうです」
「あ…」
強く攻めてみたつもりが、あっさりと肯定されて、彼女は素直に戸惑いの色を顔に浮かべた。
微笑んでゆったりと立ち上がりながら、
「私は、那陀が二つの性を備え始めたときからずっと、あれを愛してきました。
あれが雌(おんな)になれば良いと思っています。父には言いませんでしたが、あれが雌であれば私にも制せる自信がある。なぜなら、那陀は己を愛してくれる者を決して裏切らない。害することが出来ぬ性質(たち)ですからね。それに『龍喰い』が私の妻になれば、誰も私には逆らわないし、逆らえないでしょう。違いますか? 那陀にとっても、それが一番幸せであるはずです」
「顕兄…貴方、貴方って」
呆然としたまま自分を見上げる婚約者へ、二郎神君は続けて、
「しかし雄(おとこ)になれば、私は次期天帝の面目にかけても、あれを滅せねばならない」
「…顕兄!」
「そういう宿命なのです。私は、龍族のみならず、全ての長として、龍喰いを始末せねばならない。なぜなら、私は天帝の跡継ぎだから。古来からこの世界を見守ってきた神である龍を滅ぼす者の存在を許していたら、この世に秩序はなくなるでしょう。妹々」
さらりと言うには、あまりにも重大すぎることである。理解するには時間がかかるだろうと思いながら、二郎神君は穏やかな笑みを崩さず、
「貴女がすべきことは、健康を取り戻すことです。食事を摂りなさい。いいですね?」
言い置いて、竜王公主の部屋を出た。
那陀がかつて飛び込んだ水脈へ向かっていると、その脇をすり抜けて、梨花が同方向へ走っていく。
驚いて思わず左右へよけた神人たちが、次にはその後からゆったりと歩く二郎神君を眺めるのへ、相変わらず軽く頭を傾けて見つめ返しながら、
(那陀、お前はどちらになるのでしょうね?)
二郎神君は奇妙な笑みを浮かべた。
やがて水脈のほうから、何かが落ちたような大きな水音と、混乱したような人々のざわめきが聞こえてくる。
(困りましたね)
その騒ぎの原因を知りながら、二郎神君はなおもゆったりした速度でそちらへ向かう。
(もしも那陀が雄になれば、梨花も共に滅しなければならない)
そう思いながら、しかしその顔はさほど困った様子でもない。
奇妙な笑みは端正な顔に張り付けたまま、二郎神君はその水脈へかがみこんで、中を覗き込む。
(那陀)
爽やかな青緑に輝いていた鱗が、今や真っ黒に変化している龍がその中には映し出されていて、
(火の山)
それが向かう方角が、活火山であることを知り、またその後を、小さな白い猫が剣を引きずりながら必死に追いかけているのも見えて、
「神君。如何致せばよいでしょう」
あわやはっきりと笑い出しそうになったのを、二郎神君は梨花につけられた龍族からかけられた声で、辛うじて思いとどまった。
「今は彼女の思うままにさせてあげてください。あれは私の許婚でもある。いざとなったら、梨花だけでも私が助けますよ。ですからご安心を」
「しかし、那陀太子は龍喰いで…!」
「その通りです。私があれの妖力を解放してしまった。申し訳ない」
思わず『禁句』を口に上せてしまい、慌てる龍族の一人へ、神君は苦笑しながら頷いて、
「ですから、その責任は取ります。どうか私を信じてください。この目にかけて、梨花は私が護ります」
白い指先で己の額に触れながら穏やかに言われて、龍族の神人たちも不承不承ながらに引き下がる。
天帝から引き継がれた額の第三の目があれば、なるほど、梨花がどこにいても助け出すのは容易いだろう。
(そう、そしてこの目と『龍喰い』があれば…父上、貴方は愚かなことをしたものだ)
引き上げていく龍族たちを、神君は頭を下げながら見送る。
彼らの姿が見えなくなって水脈へ戻したその顔は、また穏やかに微笑っていた。
龍族に属している梨花にも、水に近しい土を、わずかではあるが操る妖力が備わっている。それはしかし竜王に近い血のためで、他の龍族全てが同様に二つの力を操れるわけではない。
他の神属にしても同じで、火を操る朱雀の長ならわずかながら風を同時に操る、土を操る玄武の長ならわずかに水を操る、といった具合なのだ。
それと同様に、天帝の血を受け継ぐとはいっても、いわば傍流である那陀に備わる力は、封印されていたということもあって、水を操る妖力のみであったはずなのだが、
(同時に他の力も目覚めたことを、まだあれは知らない)
彼が解放したのは、那陀の邪鬼としての力である。よって、邪鬼が一般的に得意とする火をも操る妖力をも身につけたはずである。
通常、相反する妖力をその身に宿すことは、額に第三の目を持つ天帝にしか出来ないことなのだ。
しかし光と闇とをその身体の内に持つとなれば、
(未知数、でしょうね。だからこそ、それゆえに私の役にきっと立つ)
「愛していますよ、那陀」
楽しげに呟いて、二郎神君は水脈から離れて政務の間へ足を運んだ。西域では突風が断続的に吹き続けているらしい。
西域を担当している神族、白虎一族のみでは収まりがつかぬため、天宮での議題に上るところとなったのだ。
いつも穏やかな笑みを浮かべている次期天帝を、会議の間にすでに集まっていた神人たちもまた、穏やかな笑みでもって迎えた。
さて、こちらは火の山つまり阿蘇山への道を走っている翠である。
(…お前は普通の生を生きよ、だなんて!)
人でいるよりも、猫に戻ったほうが走る速度は速いし体力もさほど消耗しない。
泣きたいほどに怒りながら、白い毛並みを持ったこの猫又もまた、火の山へ向かって走り続けていた。
那陀が心で呟いたあの時の言葉は、風が彼にはっきりと届け、
(僕はもう、妖(ばけもの)なんだからね! 今更普通の猫として生きていけるわけがないじゃないか。那陀様に追いついたら、絶対に文句を言ってやるんだ!)
とはいえ、小さな猫の足である。空を飛べる龍とは違って、走っているうちに柔らかな肉球は尖った石に傷つき、息も切れてくる。重い剣を引きずりながらであるから、無理もない。
「那陀様ぁ…」
近くに見えるのに、案外に遠すぎる火の山を見上げて、ついに猫又は道端に蹲ってしまった。
涙がじんわりと滲んだその目の前に、いきなり空から落ちてきたものがある。
「わ! 梨花様っ!?」
「…翠?」
倒れこんだ竜王公主は、懐かしい小さな猫を見て微笑んだ。
意地を張って、ろくに食事を取っていないせいで、地上に降りてくるだけでも精一杯である。
「どうしてそんなに痩せてしまったんですか? 一体天宮で何があったの?」
人型を取り、自分の体のことも忘れて駆け寄る翠へ、梨花は首からかけていた勾玉の紐を力任せに引っ張った。
意外に大きな音がして外れたそれを、公主は震える手で猫又の手へ受け取らせ、
「持っていれば風と土の技が使える。風を操る貴方の妖力を増幅させる…風に命令すれば、貴方を貴方の望む場所に運んでくれる。だから、翠、貴方にあげる。太子を助けて」
「梨花様…」
「お願い。悔しいけれど、私はここで待っているから」
「でも」
「私なら大丈夫だから、早く!」
「はい! では梨花様!」
梨花の身体を、近くの木の側へ寄りかからせて、翠は再び猫へ変化し、早速空へ飛び立っていく。
(そうね、私がいなくても)
かつて「この国は優しい」と那陀は言った。その言葉そのままに、大地に手を触れていれば、この国の大地は梨花へわずかずつではあるが気を分け与える。
(翠がいれば、きっとなんとかなる。太子はまた、私のところへ戻ってきてくれる)
思いながら目を閉じた竜王公主の頬を、木漏れ日は優しく照らし続ける。
…上空からは見えなかったが、
(ここだ)
人型に戻ってその山の周りを少し巡ってみると、そこかしこにぽっかりと口を開けている無数の洞窟の中のひとつから、
(…邪気)
何度となく敵対してきた、懐かしくまがまがしい気が立ち上っているのが分かった。
火の山から立ち上る毒の煙のせいか、それとも山が噴火して時折溶岩を吐き出すためか、通常の山とは違ってあたりはごろごろとした岩ばかりで、それは山を登るにつれ酷くなっていく。
山全体が熱気を発しているような道なき道の中、
(なぜ晶瑞は雌(おんな)なのだ)
額から伝い落ちてくる汗を、片手の甲で無造作に拭いながら那陀は考え続けた。
この世に生きている物には必ず雄か雌かの区別がある。これは那陀や彼の父天帝さえ生まれる以前、大自然の女神である女禍によって定められた法で、雄と雌があるからこそ、生き物は子孫を残せるのだ。
だとすると、那陀の異父妹だという晶瑞にも、母である九尾狐と、何者かは分からないが父がいるに違いなく、
(誰を相手に、母は異父妹を生み出したのだ)
性別を固定した邪鬼としてこの世に生み出されたからには、少なくとも自分のように光と闇とが混在している者ではない、とは言える。
(やはり同じように邪鬼の者か?)
考えていると、どうしてもその洞窟へ向かう足が鈍る。全ての疑問は、彼らに会って直接尋ねたら良い、それが一番なのだとは分かっていても、
(何故、何を私は恐れている)
その洞窟の前にとうとう到着してしまい、那陀はしばらく佇んでいた。遠目からではよく分からなかったが、思った以上に大きな洞穴である。那陀の背の3倍はあろうかと思われる入口を見上げると、そこからは火山灰が固まって出来たと見える白く尖った岩が垂れ下がっている。
(…熱い)
やがて、那陀は一歩一歩、踏みしめるように中へ入っていった。中へ続く道のそこかしこに溶岩が噴出していて、それは時折、那陀の前に熱い岩の塊を吐き出しさえする。
それら溶岩が発する熱と沸騰音が反響して、洞窟内はやけに賑やかに思えるのだが、
(何故、誰も現れない)
予想に反して、中は「静まり返って」いた。
何よりも邪鬼の親玉の巣窟なのである。先ほどから、気配は肌に突き刺さるほどに感じているし、九尾狐だとて那陀がそちらへ向かっていることに気付いていないわけがない。
それなのに、彼らを敵とみなしている那陀へ襲い掛かってこないのは、
(母が止めている…?)
認めたくはないが、やはり己の母が九尾狐であることは事実で、だからこそその子である那陀を邪鬼たちは襲わない。そういうことなのだろうか。
(私は…私の母は)
このまま出来るなら逃げ帰ってしまいたい。この国のどこか、誰も知らない場所へ気配を殺して、
(あの葛の葉と晴亮のように)
ひっそりと生きることを許されたい。
しかしその場合は、
(タケル、翠)
友人たちの顔を思い浮かべて、那陀は思わず立ち止まった。その拍子に汗がどっと噴出して、那陀の目をかすませる。
(一人で、ずっと)
「まがいもの」でも神人である。寿命が尽きるまで、気の遠くなるような年月を一人で過ごさなければならないだろう。
(それはあまりにも寂しすぎる)
それに、今はそれ以上に真実を知りたい。
(己の目で確かめて、それからだ)
再び強く思い直して、那陀はさらに奥へと進んだ。
急な下りになり、上りになり、『道』は続いている。進むうち、いつの間にか溶岩が噴き出ている場所が減ったと思っていると、
(なんと…!)
奥から吹き付けてくる冷風に、那陀は思わず我が身を両手で抱き締めて身震いをした。
今までの熱さで噴き出ていた汗が、たちまちのうちに引いていき、
(寒い、だと?)
側の火山岩には、霜さえ積っている。溶岩の代わりに氷が道に張るようになり、那陀の白い直垂姿が通り過ぎるのが
それに映った。
時折吹く冷たい風には、細かい雪が混じっている。その雪が大きくなり、風が激しくなるのと比例して、感じられる邪気はどんどん高まる。
「!!」
油断無く辺りを見回しながら歩いていた那陀は、突然目の前をふわりと横切った白いものに気付いてたたらを踏んだ。
「…晶瑞、か?」
鼻先を、冷たい狐の尾が掠めて通り過ぎる。それを右手で思わず払いのけながら声をかけると、
「そうよ。ようこそ、異父兄様」
その狐はクスクス笑いながら、那陀の目の前で見覚えのある人型を取った。
初めて出会った時と変わらず、平安貴族の装束を身につけながら、やはりその裾は膝丈までしかないため、少女のような笑顔とあいまって何ともちぐはぐな印象を受ける。
「あら、乱暴」
腰の短刀を抜きざま、それへ向かって切りつけた那陀の身体は、彼女の身体を突き抜けた。
「無駄よ。だって今の私は幻影だもの。お母様がね、私の影だけを飛ばしてくれたの。異父兄様が来たら案内してやれって」
向き直って己を睨みつける那陀へ、相変わらず無邪気な笑みを浮かべながら、
「知りたいのでしょ?」
ひょいと那陀の側へ近づいて、燃えるような瞳で彼女を睨み続ける那陀の顔を覗きこむ。
「己が何者であるのか。知りたいのでしょ? 『碧玉の魂(こん』は、異父兄様がお考えのようにお母様が持ってるけど、それが欲しいのでしょ? だけどそれを天宮へ持って帰ったところで、異父兄様のお父上は、異父兄様を認めてくれるかしら?」
「お前が知ったことか」
繰り返される問いに、忌々しげに答える那陀の声はしかし弱い。
「でも、龍の気を取り込んで満たされたでしょ。異父兄様の正体は、あの時、天宮の皆に分かってしまったと思うの。それでも異父兄様は、天宮へ戻るというの?」
異父妹の幻影は、立ち尽くす那陀の周りをふわふわと飛びながら、カンに触る問いを発し続ける。
「お前は結局、何が言いたいのだ」
長い睫を伏せて、那陀は震える声でようやく問い返した。
「決まってるじゃない!」
すると得たりとばかりに異父妹、晶瑞は頷いて、
「異父兄様と私とお母様で、この国を私たち邪鬼が住める場所にするってこと! ううん、邪鬼たちばかりじゃない、自分にとって邪魔だからって、天帝が隣の国や天竺から追い出した妖(バケモノ)たちを受け入れるために、この国をお母様が統括するの。異父兄様、当然味方になってくれるわよね?」
「…」
「分かってるわ、分かってる」
言葉を失った那陀へ、晶瑞は心得たように再び二つほど頷く。
「出会ってからまだ日が浅いものね、私たち。お母様は悲しがられるでしょうけれど、そんなのから信じられないことばかりあれこれ言われても、いまいちピンと来ないのは当たり前だわ。だから」
そこで顔をぐっと近づけて、彼女はにっこりと笑った。
「教えてあげる。お母様から言い付かってきたから」
言って、その人差し指の先で那陀の額をちょいと突付く。
「何を…っ!?」
驚いてその手を払いながら、思わず那陀が身を引いた途端、
(これは!?)
目の前に煮えたぎった溶岩が広がった。あっという間に那陀の華奢な身体はその中へ取り込まれ、
「ご自身で、ようくご覧になると良いわ」
言い終えて高笑いをする異父妹の気配が消えた。
(…どこまで落ちていくというのだ、私は)
煮えたぎる溶岩の中をゆっくりと下降していきながら、那陀はしばらく呆然と周りを見回していた。
どこを見ても同じような赤い溶岩ばかりである。なんとか抜け出そうと、短刀に力を込めて払ってみても、
(無駄らしい)
短刀に切られたさら、溶岩がその場所を閉じてしまうので、那陀もすぐに諦めた。
目を閉じて、溶岩に運ばれるままに任せていると、
『那陀』
聞きなれた父の声がする。思わず目を開けるとその前には、
「父上!」
溶岩の中、ぽかりとそこだけが黒く縁取られ、中には苦渋の色を浮かべた父天帝の顔が一杯に広がっていた。
『どうしても生まれて来なければならぬ運命であるのなら、せめて雌(おんな)であれ』
「父上? どうなさったのです?」
叫んで問い返しても、目の前の父には聞こえていないらしい。そこへ、
『いずれはこの天宮の後継にもなれるよう…どうかお前様は、雄(おとこ)として生まれて来られるように』
新たな女性の声が響いて、眼前の景色に晶瑞に良く似た女性の姿が加わる。
父とその女性は、にこやかに微笑いあいながら、しかし、
(少なくとも父の方は)
天帝が心から笑っているのではないということが、那陀にはすぐに分かった。
艶やかな長い黒髪、思わず口付けたくなるような赤い唇に白い肌を持つその女性は、膨らんでいる腹を愛しげに撫で、
『お子には、何と名を付けていただけるのでしょうか』
思わず背筋のぞくりとするような…それは決して恐怖から来るものではない…淫靡な笑みを浮かべる。
そして父は無表情に、
『那陀、と』
ただそれのみを答えた。
そこでようやく、
(これは私の胎内の記憶か…!)
那陀は悟った。ではやはり、父と共にそこにいる女性は、まぎれもなく己の母なのだろう。
そして己は、二人に忠実であるように、父と母双方に義理を立てるべく二つの性を備えて生まれてきたのだ。
それが可能になったのは、ひとえにそれぞれ強すぎる光と闇の妖力のせいである。
(己というものを持たぬもの)
そして人は、付けられた名にもある程度その生を左右される。そう呼ばれる都度、心の奥に覚える疼痛を押し殺し、気付かないフリをして生きてきたのは、
(父上…貴方は私の母を)
今、眼前に繰り広げられる光景の中で、母を追い出した父の愛が欲しかったからだ。
これでは確かに、母が父を憎むのも無理はない。自分を抱いたのも、龍と邪鬼との融和のため、子を成したのも、邪鬼が龍に刃向かうのを防ぐための質にするため…つまり全ては義務だったというのであるから、
『…吾子。那陀』
いつしか場面は、先ほど那陀が通り過ぎた氷室のような場所に移り変わっている。その中でぼろぼろに傷つき、体中から血を流した先ほどの女性が、地面から突き出た氷の結晶にすがりつくようにして泣き悶えるのを、誰も笑えぬだろう。
しかもその唇から漏れるのは、他の誰でもない那陀自身の名なのだ。
『返して、私の子を。あのまま返してくれていたなら』
…一時だけとはいえ、肌を重ねたあの時に抱いたままの感情を、貴方へ抱いておけたものを。
繰り返し恨みを述べ、女性は宙を仰いで泣きじゃくる。カッと開いたその両目からは、いつしか血の色の涙が流れており、端正な唇から吐き出される一言一言が、情念そのままの火が炎となって吐き出される。
『よろしい。それなら私は東の方の国の神の子孫を取り込んで、私の味方となるものをもっと作ってやる。そしてその者たちと共に、いずれ貴方を…!』
言い終わると、余計に
「うわ!」
その炎が己に向かって吐き出されてきて、那陀は短刀を握ったままの右腕で反射的に己の顔をかばった。
同時に、
「…分かった?」
「!!」
驚くほど近くで異父妹の声が聞こえた。那陀の耳に口をつけんばかりに近づいて囁いた晶瑞を、顔をかばった手で払いのけると、例のごとく彼女はひょいとそれを避けてクスクス笑う。
辺りはまた、先ほどの氷室に戻っていて、
「お母様、可哀相だとお思いにならない?」
「…お前は誰との間に出来た子だ」
(晶瑞のテに乗ってはならない)
警戒しながら、那陀は問われたこととは無関係のことを尋ねた。
すると、
「あら、そんなことを知りたいの?」
彼女はさも驚いたように、少しつり上がり気味の目を丸くする。
「教えろ」
構わずに那陀が素っ気無く言うと、
「異父兄様、知ったらショックを受けるかもしれないわよ? それでも知りたい?」
「御託はいい。教えろ」
「仕方ないわね」
右手の袖で口元を覆いながらクスクス笑って、晶瑞は左手の人差し指をつ、と、氷室の天井へ
向けたかと思うと、それを腕ごと大きく一回転させた。
「私の父の名は、オシロワケノスメラミコト…この国の神の子孫。送り名は」
途端に今度は、見るからに寒々とした氷の色が那陀の眼前に広がる。
その中で、
「景行天皇。倭建の実の父親よ」
異父妹の声もまた、冷たい笑いを含んで響いた。
白、白、白…どこまでも続く白い景色の中を、那陀の身体は飛んでいた。
その中で、
「なぜお前は、私に両手をついて私の助けを請わぬ」
太い、苦しげな声が響く。
(…父上!?)
その声は、あまりにも那陀の父天帝と似ていて、那陀は思わずそちらを振り向いた。
しかしそこにいたのは、長い髪を両脇に「みずら」と呼ばれるこの国古代独特の形に結い上げた一人の中年男性で、
「なぜ何もかも独りでやってしまおうとする…なぜお前は私に一言も『助けてくれ』とは言わぬ。
さすれば私は喜んでお前を向かえ、後継者の地位にでも何でも据えようものを」
(ああ、これは)
思わず我が胸を右手で抑えながら、那陀もまた苦しげに顔をゆがめる。
心を搾り取られるような悲痛なそのうめき声こそ、倭建の父帝のものに違いない。とすると、彼が景行天皇すなわちスメラミコトとかいう人物なのだろう。
(彼は倭建を心底愛していたのだ)
がっくりと背を丸め、畳に両手をついて呻くその姿を見、声を聞いたなら、誰でもそれと分かるだろう。
しかし統率者ゆえに…その同腹の兄で当初の後継者である者を、故意ではないとはいえ殺してしまった弟…一度下してしまった罰を覆すことは出来ない。統率者である者が決断を覆してしまうと、周りの者への示しがつかぬ。
(それゆえに、タケルヘ愛を示すことが出来なかったのか)
昨日は九州へ、そして明日は東国へと次から次へ、通常の者ならとうに根を上げそうな賊の討伐を命じたのも、倭建からの「歩み寄り」を実は期待していたからだったのだ。
それは恐らく、「統率者ゆえ」という名分に隠された、素直になれぬ父帝の性分もあったろう。
呻いて唇をぎりぎりと噛むその姿は、この国の神の子孫というよりも、子への愛を上手く表現できぬ、哀れな独りの父のそれで、
(…)
那陀は胸を掴んだ手に、より一層の力を込めた。
しかし、その背中にふと誰かの影が過ぎり、同時に麝香の匂いが鼻腔をくすぐって、
(…母上っ!!)
那陀の大きな目は驚きに見開かれる。
「主上」
「…そなたか」
「はい」
これも、解けば長いのだろう。つやつやと光る艶やかな髪を、頭の頂上で麗しく結い上げた一人の女性が、
「小碓様のことでは、さぞやお悩みのことと心中お察し申しあげまする」
白く細い指でもって景行天皇の背へそっと触れ、さも同情したように柳眉を寄せて言った。
(…晶緒!?)
その顔は、見れば見るほど那陀の異父妹そっくりであるし、なんといってもかつて天宮で赤子だった己を抱いていた
女性そのものではないか。
(やはり母上が)
己の胸が早鐘を打つ。急速に乾いていく口の中へ、無理に唾液を流し込もうとする那陀の目の前で、
「わたくしごとき、貴方様のお悩みを代わって差し上げることなど到底出来ませぬが」
かの女性は言い言い、畳についている帝の片手をそっと取りながら、己の胸元へ導く。
「軽くして差し上げることはくらいは…いつものように、何でもお話くだされませ」
「おお」
そして彼女は、袖の中へ帝を引き寄せる。中年の男が、まるで甘えるようにその胸元へ頭を埋めた。
「小碓めが…なあ」
「はい」
「クマソをも征伐して、東の国へ参ったわ…あれは、優れておる」
(なんと)
タケルからは聞いた事のない、タケルを褒める言葉である。
「あれは私の子にしては、出来すぎておるよ。私も大碓を廃してあれを後継にしようと何度考えたか。だが、実の兄を殺した罪は重い。あれへ下した罰、今更変える事は出来ぬ。周囲にも、私の怒りはそれほどまでに大きいのだと思わせねばならん…だからこそ、あれから何か言ってくることが必要だというのに」
「小碓様を、お許しになりたいのでござりまするなあ」
「…」
彼女が言うと、その袖の中で帝の肩は一瞬ぴくりと動き、
「…そなたには隠せぬ」
やがて、長い長いため息と共に、再び聞いているこちらのほうが苦しくなるような声が漏れた。
そして彼がふと顔を上げると、赤く濡れたその女性の唇が、帝の唇をそっと盗む。
唇が離れると、白いその頬をごつごつとした両手で捉えて、
「そなたは、このような夜に流星と共に現れたなぁ」
しみじみと景行天皇は言った。
「そなたの予言は常に正確で、そなたの持つ知識は豊富だ。海の向こうの大陸のこともよう知っている。やはりそなたは皆が申すように、神の使いであったわ」
「恐れ多いことにござりまする」
彼が心から感謝するように言うと、その背を撫でながら女性は喉の奥で笑う。
(…神の使い…違う!)
叫んでも、眼前の二人には伝わらないもどかしさ。
「もしもこれまでのように、わたくしめを信頼してくださるのなら…主上」
そして女性は那陀の背筋をぞくりとさせるような声で笑った後、
「これまでのように、小碓様が、どうしても主上のお力がなくては悪い神を討伐できぬと言って寄越されるまで、同じことを繰り返しなさればよろしいのでは?」
耳元へ唇を寄せんばかりにして囁くのだ。
「…お父上のお心がお分かりにならぬご子息…悟らせるには、まだまだ熱いお灸が必要だということにござりましょうや」
「うむ。そう、そう、だな」
そして彼女が言うままに、景行天皇は頷く。節くれだった手で、艶やかな彼女の髪を撫でながら、赤い唇を見つめる瞳は恍惚としていて、
(術にかけているのだ…!)
見る人が見れば、これもすぐに分かったに違いない。
「今、小碓様は那須野原とやらの集落にいらっしゃるそうにござりまするなあ」
「うむ」
「ここは一つ、小碓様と気心の知れた人物を遣わして、お父上様の御心をそっと説かせてみられては?
ほれ、ヤハギとか申す、ちょうど同齢の者がおりましたでしょう」
「ああ、いたな」
「ヤハギへ赴かせ、お父上様である貴方様のお心を説かせなされ。さすればきっと小碓様もお分かりになる」
その言葉に、ただただ頷くだけの帝と、口元に妖しげな笑みを浮かべているその女性の姿が消えると、
「…帝がそうおっしゃったか」
(…ヤハギ!)
場面は突如、建物の外へと切り替わった。そこには多数の兵士達を後ろに従えた、那陀にも見覚えのある男が立っている。
「ならば致し方ない。いよいよ俺も覚悟を決めねばならん」
告げた使いへそう言って、ヤハギはくるりと後ろを向き、
「我らも東国へ参る! 任務は…ミコトの行軍を阻む!」
(こういうことか…タケルの死は、私の母が遠因か)
出発していく兵士達を、那陀はうつろな目で見つめていた。
倭建の父帝が意図するところは、そこまで極端なものではなかったはずだ。それが「帝の意」という一言が加わっただけで、
(途中でこうまで捻じ曲がって伝わるとは)
双方が高貴な身分でなければ、ここまで事態がこじれることは無かったかもしれない。
(タケル)
あまりといえばあまりの運命の悪戯に、しかし那陀が気を取り直す暇もなく、
「主上。恐れ多いことながら、貴方様のお子が出来ました」
ぬれぬれと光る唇で、あの女性が景行天皇へ告げ、そして、
「…お分かりになった?」
「…っ!!」
気がつけば、辺りの景色は先刻の氷室に戻っていた。驚くほど近くに異父妹の顔があって、那陀が思わず飛びのくと、その様子がおかしかったのか、
「やだ、異父兄様ったら」
晶瑞はクスクス笑う。
「なぜだ」
「なぜお母様が私を作ったかって?」
「…」
那陀の問いを先回りして、異父妹は言う。言葉を失った那陀の顔を、首をかしげてつくづく見やりながら、
「この国の神は、おかしな神だわ。人と交わるうちに神の血はそれに凌駕され、やがて薄れた…その神の血を残そうと焦って、近親との婚姻を繰り返す。人の血に限り無く近くなってしまったことを知らずに。ただ人の癖に近親婚を繰り返せば、奇形が生まれるっていうのに」
「だから? お前が言う意味は分からない」
睨む那陀など何処吹く風、晶瑞はあっけらかんと、
「でも私は九尾狐の子だわ。それに親の片割れも、まだまだ人の血が限り無く薄い、神に近かった頃の神の子孫だわ。だから」
己自身のことなのに、他人のことのように話すのである。
「だから、神の子孫と何度交わっても、その子は近親婚の産物にはならない…時代が下っても、ずっとずっとこの国の中枢にいて、この国を自分の良いように操ることが出来る。違って? だからお母様は私に、子を産むことの出来る雌を選べって言ったの。だから私は雌なの」
「お前…お前達は、なんということを」
「だけど、国自体もそうだけれど、この国の人間って、お人よしではあるけれど馬鹿ではないみたい。お母様もその点は甘く見ていたって認めていらっしゃるわ…私を、代々の天皇に嫁がせることが出来なかったってね。だから、とうとう表に踊り出たってわけ。そしたら異父兄様のお父様が邪魔しに来たのね」
「…お前たちがこの国にいられるのは、この国がお人よしであるからではない」
「あら。だけど、この国の神がだらしないから、代わりに私たちが護ってあげてるってところもあるわよ?」
怒りを含んだ那陀の言葉を、晶瑞は一笑に付して、
「もう一度、よ」
言った。
「もう一度、とは何だ」
「もう一度」
膝丈までの十二単の裾を翻し、彼女は繰り返す。
「異父兄様のお父様…天帝はこの国へやってくるわ。一度は異父兄様と異父兄様の従妹君が追い払ったみたいだけれど、今度はどうかしら? 二度の偶然はありえない。今度天帝の加護を受けたあの軍勢がやってきたら? あまりにもお人よしすぎて優しすぎるこの国の神だけで護れるのかしら」
「お前たちは二度、タケルを殺した。だから私も二度、この国を護る」
「あらあら。そういうことですってよ、お母様」
那陀が髪の毛を逆立てながら言うと、異父妹はクスクス笑って氷室の天井を仰いだ。意外なほどの高さのあるその天井からは、やはり無数のツララが下がっているばかりであるが、
「残念ねえ。目的は同じなのに、意図するところはまるで違う…せっかくここまで来られたのだから、お母様にせめて一目、会っていただきたかったのだけれど」
そこで言葉を区切り、晶瑞はさっと右手を振った。鮮やかな十二単の袖が氷室の宙を舞ったかと思うと、それらのツララが一斉に砕けちる音がして、那陀の頭上へ降りかかってくる。
「今は無理だわ。というよりも、もうずっと無理かも」
「待て、晶瑞! 母がこの先にいるのなら、母に会わせろ!」
思わず顔を庇った腕を、ツララの切っ先が掠めては衣服をちぎっていく。
「無駄よ。無駄、無駄。うふふ、あははは」
そんな那陀の様子を見て、さもおかしいといった風に、異父妹はついに声を上げて笑った。
「味方にならないなら、敵。中立なんて立場はありえない。私たちがここに落ち着くまでに学んだことだもの」
言い終えるや否や、彼女は両手を交互に振った。その袖から繰り出される風がツララの根元を断ち切り、一層の鋭さを増して那陀へと襲い掛かる。
二郎神君譲りの短刀を振るっていても、時折それは那陀の白い頬を傷つけて、辺りへ飛び散る。
「倭建は、この国を愛してる! お前にとっての異母兄なのだぞ? なのにお前は、この国を利用しようと」
それをかいくぐりながら、那陀がそれでも諦めきれずに叫ぶと、
「顔も知らない異母兄など、他人と同じだわ」
肩をすくめて晶瑞は言い、
「異父兄様。今の貴方と同じで、ね」
再び声を上げて笑ったのである。
そこへ、
「那陀様っ! やっと追いついた!」
甲高い、聞き覚えのある声が響く。思わず振り向くと、
「翠! お前がどうして」
「話は後だよ。これ!」
懐かしく愛らしい猫又が、溶岩と氷室の境目にいた。那陀とは違って「異生物」であるから、ここへたどり着くまでに数多くの妖に襲われたに違いない。
その証拠に、傷だらけの猫又の背後からは無数の妖怪のうめき声が聞こえてきて、
「受け取って! 草薙だよ!」
それでも翠は健気にその剣を投げて寄越す。
「僕のことは気にしないで!」
「すまない!」
地面へ突き立ったその剣は、那陀が引き抜いて構えると、薄暗がりの中で神々しい光を放ち、
「異父兄様…!」
それを見た途端、晶瑞の瞳はみるみるうちに赤く染まった。
「どうあってもお母様には会わせない!」
「違う、違うんだ! 味方になる、ならぬなどという問題ではない」
無数のツララを草薙の光がなぎ払う。なるだけツララだけを払うように気を配りながら、
「お前の言うように、九尾狐が私の母だというのなら、私は母に会って」
「会って、どうするの!?」
「会って…っ!」
(母を説得する…味方にならぬということになる)
再び問いかけられ、思わず絶句したのである。
to be continued…
せんのあすむ より。
こちらの物語は、ここで中断しています。筆者である母が亡くなったため、完結はしていません。
せめてプロットでも残っていれば私も続きを書けたかもしれないですけど、母がこの後、どのように物語を展開させるつもりだったのかまるで分らないので、少なくとも今はどうにもできませんでした。
非常に残念ですが、ここまでになります。
その言葉を、目を閉じたまま、少しだけ唇を歪めて頷きながら聞いた。
もともと彼の父が邪鬼側と勝手に決めた婚姻である。愛し愛されてのそれではない。
無論、彼の「第一夫人」であるところの竜王公主との間に愛があるかと問われても、「無い」と彼は答えるだろう。
それは天帝としての義務のひとつであり、ならばそれを己は淡々とこなすのみである。
しかし、今回の相手は誰にも心の中を漏らしたことは無いが、彼が誰よりも嫌いぬいていた「邪鬼の親玉」である。
その父は、息子である彼が天帝位を継ぎ、九尾狐を第二夫人に迎えると間もなく亡くなった。
「乳母はどうなさいますか」
再び問いかけられて、彼は今度ははっきりと苦笑を漏らした。
天帝の子でありながら、それさえ決まっていない。決められなかったのである。
なぜなら、
(龍喰い)
妖獣、九尾狐の血を引くものの特性として、生まれた赤子にはその能力が備わっていた。
彼でさえ、九尾狐と交わる時には、ふと気が遠くなるような錯覚に襲われたことがあったが、それはあげて、龍の気を持つ者全ての精を意識的にまたは無意識に吸い取るという、九尾狐の妖力のせいである。
彼が無事だったのは、
(これのおかげだ)
その部屋へ向かいながら、額の中央に片手の先をやって、彼は再び苦笑する。
だから、乳母にも龍の気を持つものを選べない。赤子の母のことは、誰にも秘密にしておかねばならなかった。
天帝と邪鬼、つまり光と闇との融和…これ以上邪鬼が人間に「悪さ」をせぬように練られた、まさに苦肉の策だったのだが、
「陛下」
乳の匂いのこもるその部屋へ入っていくと、九尾狐はあでやかな笑みを浮かべて彼を見つめた。
茶色に近い琥珀の瞳、黒々と流れる艶やかな髪に、思わず抱き締めて口付けたくなるような淫靡な唇…人型を取ったその姿を見たなら、相手が邪鬼であると分かっていても、並の者ではその思いを抑えることなど出来はしまい。
龍の血を持つものがほとんどのこの宮内では、生まれたばかりの赤子に、彼女以外乳を与えることが出来る者がいない。それが分かっているのだろう。自らの豊かな乳房を赤子に含ませながら、
「…お生まれになりました」
告げる「彼女」の声は、己に対する信頼と愛に満ちていた。
(僭越な)
闇そのものの邪鬼ごときが、光の化身の天帝である自分に懸想するなど、そして天帝から愛されていると思い込むなど、勘違いもはなはだしい。
「乳母は、他神族の者から選ぶ」
「はい。それが良うございましょう」
彼が言うと、彼女は少し寂しげに言って頷く。彼女も、「天帝」に乞われて来たものの、天宮において己に注がれる軽蔑と恐れの視線を痛いほどに感じ取っているから、
「そうしても、跡継ぎではないゆえ、皆も怪しまぬ」
「はい」
夫の言葉に再び頷く。母の乳房に頬を寄せる赤子は、乳を飲み終わって満足したらしい。
目を閉じて無邪気な寝息を立てる赤子の姿は大変に愛らしく、
(愛い奴だ)
邪鬼の棟梁の子であるということを、一瞬でも天帝にすら忘れさせるほどの魅力を湛えていた。
(触れてはならぬ…否)
そしてそのことを彼は恐れた。誰にでも愛される天性のものを備えている邪鬼の子。
それは九尾狐の血のせいであって、彼の持つ光の血ゆえではない。
(二郎神君にとって災いとなる)
先に生まれていた第一子を思い、天帝はその赤子に伸ばしかけた手を引っ込めた。
あろうことか邪鬼との間に出来た異母弟を溺愛し、正統な後継者をないがしろにしていると噂が立ってしまえば、彼の威勢などすぐに吹っ飛んでしまおう。
(誰にも愛される妖力などは要らぬ。畏怖させる力さえあればよい)
敢えてそう思いながら…もちろんそこに、幾分かの嫉妬が混じっていることを彼は重々自覚している…彼は額の目を開いた。
「…陛下?」
「この子はこの宮に置いてやる」
「あっ!?」
戸惑う「妻」の胸から、彼は赤子を取り上げる。途端、驚いて泣き出す我が子へ手を伸ばそうとする九尾狐へ、
「だが、お前はここに置いておくわけには行かぬ。今すぐ我が宮より立ち去れ」
天帝は冷たく言った。
「ここは光の地。邪鬼ごときが足を踏み入れてよい場所ではない。この赤子は我々が育ててやる」
「陛下っ!」
九尾狐の瞳が、たちまち赤く染まる。少しでも信じていたかった夫、ずっと憧れていた光へ少しでも近づけた喜び…しぶしぶながらでも、肌を重ねていたからには、少しでも己に対する愛はあるはずだと縋るように思っていた希望が全て潰えて、
「どこなと去れ。お前はここに存在(い)て良い者ではない」
「…っ!!」
赤子を産んだばかりで妖力も満足に出せぬこともあり、九尾狐は絶望と怒りに震えた。
「ならば、吾子、吾子とともに参ります! お返しあれ!」
狂ったように叫び、赤子に両手を伸ばす妻に、しかし、
「この赤子は我々が預かりおく。この赤子を大事に思うなら、我々に対する反抗など、努々、考えぬことだ」
天帝の言葉はあくまで冷たい。
「我が子を質に取る、ということでございますか…天帝ともあろう御方がっ!」
それに答えて九尾狐は叫んだ。途端、人型を解いた九つの尾を持つ銀色の狐が現れて、
「それほどまでに我らを恐れている、と解釈してもよろしいのでございますね!?」
「それでも良い」
「お子の父ともあろう御方が、そのお子を質にとは…情け無いとは思われませぬのか!」
泣き叫ぶ赤子を抱いたまま、苦笑している夫を九尾狐はその尾で取り巻いた。
妖力が不十分である、と言いながら、しかし天帝に向かって吐き出される炎は凄まじい。
天帝はそれを平然としたまま受け、額の目を開いた。
彼がその炎をふさぐように片手を上げると、そこからは風と水が一気に繰り出され、たちまち炎を押し戻していく。
「邪鬼ごときが、我らにたてつこうとは片腹痛い。闇の者は闇の者らしく、地の底で蠢いていよ!」
言いながら天帝がさっとその手を横へ払うと、風と水は刃となって九尾狐へ襲い掛かる。
途端、凄まじい悲鳴を上げて九尾狐の姿は消えた。
手の中で、火がついたように泣き続ける赤子を見下ろして、
「…さて、これの『力』をどうするか」
天帝は苦笑した。赤子の顎をくい、と持ち上げた手の指先を喉仏に当て、
「吶!」
低いが力のこもった声で言う。
「天帝陛下! ご無事で?」
「陛下! 何事でございますか!」
その頃になって、ようやく天宮の警護の者達がやってきた。部屋の惨状と主の手の中にある赤子を見て息を呑む彼らへ、
「これの力は封じた。我が一族の中から乳母を探さねばな」
彼は薄く笑ってそう告げたのである。
…以来十五年あまり、かの赤子は己の母を知らずに育った。
周囲も天帝を懼れて口にしないため、真実を知っている者は天帝自身とその後継である二郎神君その他、その周りのごくわずかな者のみである。
しかし人を魅了する天性を持ったその赤子は、無邪気に笑うことで周りの者を魅きつけた。
天帝の意を迎えているため、周囲の者もそれをあからさまに表に出すことはなかったが、それでも幾分かの者は、天帝の目を盗むようにこっそりと赤子への愛を示してはいたようである。
特に武芸を担当する将軍、開(カイ)などは、赤子の後で生まれて二郎神君の許婚と決められた竜王公主と共に武芸を厳しく仕込みながら、その豪放な性格でもって那陀と名づけられた赤子の頭を乱暴に撫でたり、武神としての筋が良いのをはっきりと褒めたり、といった愛を現した。
それは赤子が二つの性を備えてからも本質的には変わらず、
(二つの性を持つ半端者)
それゆえに父である天帝により一層疎まれる存在になっていても、心の底では皆が那陀太子へ同情を注いでいた、ということを、何より天帝自身が知っていた。
(何故だ)
二郎神君のほうへは、父である己を越えること、父である己よりも周りの信望を集めることを期待していながら、母を異にしていても、同じ我が子である那陀太子へはそれが出来ない。むしろ那陀のほうが全てにおいて己を凌駕するのではないかと恐怖すら覚えるのは、
(認めたくはないが)
邪鬼の血のほうが、光を持つ己の血よりも優れているということを認めているからではないか、と、天帝は思う。思いながら、
(これは嫉妬だ)
その感情も併せてあることも、しぶしぶながら認めざるを得ない。
だから、那陀…己というものを持たぬ者…と名づけた上に、赤子の力を封じた。
嫌いぬいている邪鬼の子を天宮に置いたのは、母である九尾狐への牽制と、手元において監視する、その両方の意味を持っているからであり、
(決してあれを愛しているからではない)
言い聞かせながら、天帝は玉座から立ち上がった。言い聞かせねばならぬほどに、実は那陀を認めているのだということに、彼自身は気付いていない。
「二郎は、おとなしくしているか」
控えていた側の女官に尋ねると、彼女は白い顔をわずかに俯けた。
「謹慎を解かれてからも、慎ましくお振る舞いにございます」
「ならばよい。梨花は」
さらに問うと、
「こちらへお戻りになられてより、ご自身の部屋にこもられたきり、出てこられません。お食事もあまり」
「困った奴だ」
「神君が時折訪ねておいでですが、それでも頑なに扉を開こうとなされず…このままお食事を摂られぬならば、お体のほうも」
「うむ」
その答えに苦笑して、天帝は歩き出す。
「あの、どちらへ」
「しばらく休む。誰も来ぬように」
慌てて付いて来ようとする侍女へ言い捨て、彼は玉座の間から外へ出た。
(光と闇を併せ持つもの…まるで人間のような脆弱な)
かつて那陀が使った水脈へ、自然にその足は向かった。そこへ着くと、
「父上」
彼に気付いてゆるゆると立ち上がり、我が子が自分へ向かって頭を下げる。
「あれの様子か」
「…は」
「咎めているわけではない。かしこまるな…だが」
上辺は取り澄ましたような表情を崩してはいないが、内心、かなり動揺しているに違いない。
一刹那震えた二郎神君の肩を鋭く見やりながら、
「あれの封を解いたのは、お前に制せるとの自信がある上であろうな」
「はい、恐らくは」
「恐らく、ではいかん。あれは龍喰いだ」
その水面には、東の方の国、火の山へ向かう一匹の龍が映し出されている。
「龍でありながら、同族を喰らう。だからこそ、私もあれのもうひとつの力を封じた。それをお前は何故解放した」
「あの場合は、そうでもしなければ那陀の命が」
「何故助けた」
「は…それは」
重ねて尋ねると、ついに二郎神君は黙ってしまった。さすがに言葉に詰まったらしい。
「まあよい」
しかし天帝はそこで苦笑した。誰よりも誇りに思っている我が子を責めるつもりは元々無かったはずだ。
謹慎を命じたのも形の上だけのことで、
「梨花の機嫌をこれからもとってやれ」
「はい、それはもう」
「失敬する」
ホッとしたように微笑む二郎神君の顔を見て、天帝は自室へ引き上げるべくその場を去った。
(あれは、那陀を好いておるのだ)
それが分かるだけに、何とも歯がゆい。彼にしてみれば天帝は天帝として、竜王公主を妻とするのが当たり前で、その間に子を成すのが当たり前なのだ。それが天帝に与えられた義務である、とさえごく自然に思っている。
母が異なる場合、神族であるならその血の濃さは関係なく、結ばれることは出来る。子を成すことにも問題は無い。
しかし、那陀が二つの性を備え始めてからは異母兄妹としてではなく、雌(おんな)として見るようになったのが、我が子二郎神君であるということは、
(許せぬ)
邪鬼の子に己の血が混じっていることが何よりも許せぬ彼にとっては、耐えがたい屈辱のようにも思えた。
であるから、彼にとって一番良いのは、
(那陀よ、戻ってくるな)
力を解放されぬままの那陀が、母である九尾狐の元へ取り込まれ、共に己に向かって叛旗を翻すことだったのだ。
(そこを、一気に叩けば良かった)
であれば、多少なりとも自分が抱く良心の呵責のようなものは薄れる。
一度解放された封は、同じ物を二度とすることができない。那陀の力を封じることが出来るのは、那陀以上の力を持つ存在…天帝と同じ能力を持っている二郎神君か、あるいは、考えることすら馬鹿馬鹿しいが、その実母である九尾狐しかないのだ。
九尾狐が那陀の妖力を封じることなどありえないし、二郎神君ときたらその力を解き放った張本人なのである。
しかも二郎神君は宝玉を手に入れた那陀が、雌(おんな)になることを望んでいる…。
(少し休まねば)
天帝はそこまで考えて、ほろ苦く笑った。少し休めば、また新たな考えが出てくるかもしれない。
硬く閉ざされた部屋の扉の前である。二郎神君は苦笑でもってその話を結んだ。
「…ちゃんと聞きましたか、妹々?」
彼が扉の向こうに確認するのは、言わずと知れた彼の異母兄妹の話である。
相変わらず、竜王公主からの返事はない。ないが、しかしそこからはわずかにしゃくりあげる声が聞こえてきて、
「父上としても、やむを得ぬ措置であったのではないかと私は思っています」
彼が言うと、
「酷い」
涙もろい彼の婚約者は呟いて、またしゃくりあげる。
「妹々」
二郎神君はそこでまた苦笑し、
「貴女は、那陀を好いていたのでしょう?」
言うと、しゃくりあげる音がぴたりと止まった。
「違いますか? 婚約者である私よりも、那陀のほうを」
続けると、不意に目の前の扉が開く。中からは目と頬を真っ赤に腫らした彼の従妹の姿が覗いて、
「顕兄」
中に入れ、と、伏せた目で彼女は言外にその意味を含ませた。
「ようやく開けて頂けましたね。…貴女は少し痩せました。周りのものが心配しますよ?
少しは何かを口にせねば」
「…」
二郎神君が、その長く形の良い指で頬へ触れながら言うと、竜王公主は黙って頷く。
「座っても構いませんか?」
再び続けると、やはり梨花は黙ったまま頷いた。華麗な彫刻が施された椅子に向かい合ってちょこなんと座り、二郎神君が黙ったまま座り続けていると、
「顕兄」
やがて居心地が悪そうに、もじもじと尻を動かしながら梨花が彼を呼んだ。
「ごめんなさい」
「なぜ貴女が謝るのです?」
そんな彼女に、白銀の髪をさやさやと揺らして二郎神君は微笑む。
「だって…顕兄をお兄様としか思えなくて。だから、ごめんなさい」
「良いのですよ、そのようなこと」
両の白い手で己の膝をぐっと掴んで、梨花は再び俯き、唇を噛んだ。公務で忙しく、身のこなしも洗練されていて、頭脳明晰、どこから見ても完璧な次期天帝…誰もが惹かれる二郎神君よりも、
「…私、太子が好きだったの。ずっとずっと小さい時から」
気がつけばいつも側にいて、ともに親しんだ異母兄妹…神としてはあまりにも不完全で、脆く、はかなくそれゆえに優しい…のほうへ梨花が好意を寄せるのは、当然といえば当然であったかもしれない。
「だから、太子を助けに行ったの。本当は、ヤマトタケルっていう人間なんかに、太子を奪われたくなかった。だから…ずっと雄(おとこ)でいて欲しかったから」
震える声で言いながら、胸にぶら下げた水晶勾玉へそっと指先で触れる。
いつか当然のように、自分は二郎神君へ嫁ぐ。己の本当の思いと一緒に、その時にでも那陀へこっそり託そうと考えていたその勾玉は、
(結局、渡せなかったわ。罰が当たったのかもしれない)
今も透明な神々しい輝きを放って、竜王公主の胸の上にある。
「人間なんかに太子を取られないって思っていたから、『ヤマトタケルのおかげかしら?』なんていう風に言えたの。太子だって、当然否定するって思ってた。なのに太子の答えは…私の予想外のものだったわ」
二郎神君は、その告白を黙って頷きながら聞いている。
「おまけに太子が龍喰いだったなんて…でもね、でも、顕兄」
「…はい」
梨花はそこで腫れぼったい瞼を上げ、彼女の婚約者をまっすぐに見つめた。
「私、多分また太子を助けに行くわ」
「そうですね、貴女なら」
それへ二郎神君は穏やかに笑って答える。
「でもそれは、那陀が全てを受け止めてからになるでしょう」
「そうね、そうだわ」
彼の言葉に梨花はようやく元気を取り戻したように、いつもの強気を瞳に浮かべながら頷いて、
「顕兄も、太子を待っているのでしょう。太子が自分で自分のことを決める時を」
「そうです」
「あ…」
強く攻めてみたつもりが、あっさりと肯定されて、彼女は素直に戸惑いの色を顔に浮かべた。
微笑んでゆったりと立ち上がりながら、
「私は、那陀が二つの性を備え始めたときからずっと、あれを愛してきました。
あれが雌(おんな)になれば良いと思っています。父には言いませんでしたが、あれが雌であれば私にも制せる自信がある。なぜなら、那陀は己を愛してくれる者を決して裏切らない。害することが出来ぬ性質(たち)ですからね。それに『龍喰い』が私の妻になれば、誰も私には逆らわないし、逆らえないでしょう。違いますか? 那陀にとっても、それが一番幸せであるはずです」
「顕兄…貴方、貴方って」
呆然としたまま自分を見上げる婚約者へ、二郎神君は続けて、
「しかし雄(おとこ)になれば、私は次期天帝の面目にかけても、あれを滅せねばならない」
「…顕兄!」
「そういう宿命なのです。私は、龍族のみならず、全ての長として、龍喰いを始末せねばならない。なぜなら、私は天帝の跡継ぎだから。古来からこの世界を見守ってきた神である龍を滅ぼす者の存在を許していたら、この世に秩序はなくなるでしょう。妹々」
さらりと言うには、あまりにも重大すぎることである。理解するには時間がかかるだろうと思いながら、二郎神君は穏やかな笑みを崩さず、
「貴女がすべきことは、健康を取り戻すことです。食事を摂りなさい。いいですね?」
言い置いて、竜王公主の部屋を出た。
那陀がかつて飛び込んだ水脈へ向かっていると、その脇をすり抜けて、梨花が同方向へ走っていく。
驚いて思わず左右へよけた神人たちが、次にはその後からゆったりと歩く二郎神君を眺めるのへ、相変わらず軽く頭を傾けて見つめ返しながら、
(那陀、お前はどちらになるのでしょうね?)
二郎神君は奇妙な笑みを浮かべた。
やがて水脈のほうから、何かが落ちたような大きな水音と、混乱したような人々のざわめきが聞こえてくる。
(困りましたね)
その騒ぎの原因を知りながら、二郎神君はなおもゆったりした速度でそちらへ向かう。
(もしも那陀が雄になれば、梨花も共に滅しなければならない)
そう思いながら、しかしその顔はさほど困った様子でもない。
奇妙な笑みは端正な顔に張り付けたまま、二郎神君はその水脈へかがみこんで、中を覗き込む。
(那陀)
爽やかな青緑に輝いていた鱗が、今や真っ黒に変化している龍がその中には映し出されていて、
(火の山)
それが向かう方角が、活火山であることを知り、またその後を、小さな白い猫が剣を引きずりながら必死に追いかけているのも見えて、
「神君。如何致せばよいでしょう」
あわやはっきりと笑い出しそうになったのを、二郎神君は梨花につけられた龍族からかけられた声で、辛うじて思いとどまった。
「今は彼女の思うままにさせてあげてください。あれは私の許婚でもある。いざとなったら、梨花だけでも私が助けますよ。ですからご安心を」
「しかし、那陀太子は龍喰いで…!」
「その通りです。私があれの妖力を解放してしまった。申し訳ない」
思わず『禁句』を口に上せてしまい、慌てる龍族の一人へ、神君は苦笑しながら頷いて、
「ですから、その責任は取ります。どうか私を信じてください。この目にかけて、梨花は私が護ります」
白い指先で己の額に触れながら穏やかに言われて、龍族の神人たちも不承不承ながらに引き下がる。
天帝から引き継がれた額の第三の目があれば、なるほど、梨花がどこにいても助け出すのは容易いだろう。
(そう、そしてこの目と『龍喰い』があれば…父上、貴方は愚かなことをしたものだ)
引き上げていく龍族たちを、神君は頭を下げながら見送る。
彼らの姿が見えなくなって水脈へ戻したその顔は、また穏やかに微笑っていた。
龍族に属している梨花にも、水に近しい土を、わずかではあるが操る妖力が備わっている。それはしかし竜王に近い血のためで、他の龍族全てが同様に二つの力を操れるわけではない。
他の神属にしても同じで、火を操る朱雀の長ならわずかながら風を同時に操る、土を操る玄武の長ならわずかに水を操る、といった具合なのだ。
それと同様に、天帝の血を受け継ぐとはいっても、いわば傍流である那陀に備わる力は、封印されていたということもあって、水を操る妖力のみであったはずなのだが、
(同時に他の力も目覚めたことを、まだあれは知らない)
彼が解放したのは、那陀の邪鬼としての力である。よって、邪鬼が一般的に得意とする火をも操る妖力をも身につけたはずである。
通常、相反する妖力をその身に宿すことは、額に第三の目を持つ天帝にしか出来ないことなのだ。
しかし光と闇とをその身体の内に持つとなれば、
(未知数、でしょうね。だからこそ、それゆえに私の役にきっと立つ)
「愛していますよ、那陀」
楽しげに呟いて、二郎神君は水脈から離れて政務の間へ足を運んだ。西域では突風が断続的に吹き続けているらしい。
西域を担当している神族、白虎一族のみでは収まりがつかぬため、天宮での議題に上るところとなったのだ。
いつも穏やかな笑みを浮かべている次期天帝を、会議の間にすでに集まっていた神人たちもまた、穏やかな笑みでもって迎えた。
さて、こちらは火の山つまり阿蘇山への道を走っている翠である。
(…お前は普通の生を生きよ、だなんて!)
人でいるよりも、猫に戻ったほうが走る速度は速いし体力もさほど消耗しない。
泣きたいほどに怒りながら、白い毛並みを持ったこの猫又もまた、火の山へ向かって走り続けていた。
那陀が心で呟いたあの時の言葉は、風が彼にはっきりと届け、
(僕はもう、妖(ばけもの)なんだからね! 今更普通の猫として生きていけるわけがないじゃないか。那陀様に追いついたら、絶対に文句を言ってやるんだ!)
とはいえ、小さな猫の足である。空を飛べる龍とは違って、走っているうちに柔らかな肉球は尖った石に傷つき、息も切れてくる。重い剣を引きずりながらであるから、無理もない。
「那陀様ぁ…」
近くに見えるのに、案外に遠すぎる火の山を見上げて、ついに猫又は道端に蹲ってしまった。
涙がじんわりと滲んだその目の前に、いきなり空から落ちてきたものがある。
「わ! 梨花様っ!?」
「…翠?」
倒れこんだ竜王公主は、懐かしい小さな猫を見て微笑んだ。
意地を張って、ろくに食事を取っていないせいで、地上に降りてくるだけでも精一杯である。
「どうしてそんなに痩せてしまったんですか? 一体天宮で何があったの?」
人型を取り、自分の体のことも忘れて駆け寄る翠へ、梨花は首からかけていた勾玉の紐を力任せに引っ張った。
意外に大きな音がして外れたそれを、公主は震える手で猫又の手へ受け取らせ、
「持っていれば風と土の技が使える。風を操る貴方の妖力を増幅させる…風に命令すれば、貴方を貴方の望む場所に運んでくれる。だから、翠、貴方にあげる。太子を助けて」
「梨花様…」
「お願い。悔しいけれど、私はここで待っているから」
「でも」
「私なら大丈夫だから、早く!」
「はい! では梨花様!」
梨花の身体を、近くの木の側へ寄りかからせて、翠は再び猫へ変化し、早速空へ飛び立っていく。
(そうね、私がいなくても)
かつて「この国は優しい」と那陀は言った。その言葉そのままに、大地に手を触れていれば、この国の大地は梨花へわずかずつではあるが気を分け与える。
(翠がいれば、きっとなんとかなる。太子はまた、私のところへ戻ってきてくれる)
思いながら目を閉じた竜王公主の頬を、木漏れ日は優しく照らし続ける。
…上空からは見えなかったが、
(ここだ)
人型に戻ってその山の周りを少し巡ってみると、そこかしこにぽっかりと口を開けている無数の洞窟の中のひとつから、
(…邪気)
何度となく敵対してきた、懐かしくまがまがしい気が立ち上っているのが分かった。
火の山から立ち上る毒の煙のせいか、それとも山が噴火して時折溶岩を吐き出すためか、通常の山とは違ってあたりはごろごろとした岩ばかりで、それは山を登るにつれ酷くなっていく。
山全体が熱気を発しているような道なき道の中、
(なぜ晶瑞は雌(おんな)なのだ)
額から伝い落ちてくる汗を、片手の甲で無造作に拭いながら那陀は考え続けた。
この世に生きている物には必ず雄か雌かの区別がある。これは那陀や彼の父天帝さえ生まれる以前、大自然の女神である女禍によって定められた法で、雄と雌があるからこそ、生き物は子孫を残せるのだ。
だとすると、那陀の異父妹だという晶瑞にも、母である九尾狐と、何者かは分からないが父がいるに違いなく、
(誰を相手に、母は異父妹を生み出したのだ)
性別を固定した邪鬼としてこの世に生み出されたからには、少なくとも自分のように光と闇とが混在している者ではない、とは言える。
(やはり同じように邪鬼の者か?)
考えていると、どうしてもその洞窟へ向かう足が鈍る。全ての疑問は、彼らに会って直接尋ねたら良い、それが一番なのだとは分かっていても、
(何故、何を私は恐れている)
その洞窟の前にとうとう到着してしまい、那陀はしばらく佇んでいた。遠目からではよく分からなかったが、思った以上に大きな洞穴である。那陀の背の3倍はあろうかと思われる入口を見上げると、そこからは火山灰が固まって出来たと見える白く尖った岩が垂れ下がっている。
(…熱い)
やがて、那陀は一歩一歩、踏みしめるように中へ入っていった。中へ続く道のそこかしこに溶岩が噴出していて、それは時折、那陀の前に熱い岩の塊を吐き出しさえする。
それら溶岩が発する熱と沸騰音が反響して、洞窟内はやけに賑やかに思えるのだが、
(何故、誰も現れない)
予想に反して、中は「静まり返って」いた。
何よりも邪鬼の親玉の巣窟なのである。先ほどから、気配は肌に突き刺さるほどに感じているし、九尾狐だとて那陀がそちらへ向かっていることに気付いていないわけがない。
それなのに、彼らを敵とみなしている那陀へ襲い掛かってこないのは、
(母が止めている…?)
認めたくはないが、やはり己の母が九尾狐であることは事実で、だからこそその子である那陀を邪鬼たちは襲わない。そういうことなのだろうか。
(私は…私の母は)
このまま出来るなら逃げ帰ってしまいたい。この国のどこか、誰も知らない場所へ気配を殺して、
(あの葛の葉と晴亮のように)
ひっそりと生きることを許されたい。
しかしその場合は、
(タケル、翠)
友人たちの顔を思い浮かべて、那陀は思わず立ち止まった。その拍子に汗がどっと噴出して、那陀の目をかすませる。
(一人で、ずっと)
「まがいもの」でも神人である。寿命が尽きるまで、気の遠くなるような年月を一人で過ごさなければならないだろう。
(それはあまりにも寂しすぎる)
それに、今はそれ以上に真実を知りたい。
(己の目で確かめて、それからだ)
再び強く思い直して、那陀はさらに奥へと進んだ。
急な下りになり、上りになり、『道』は続いている。進むうち、いつの間にか溶岩が噴き出ている場所が減ったと思っていると、
(なんと…!)
奥から吹き付けてくる冷風に、那陀は思わず我が身を両手で抱き締めて身震いをした。
今までの熱さで噴き出ていた汗が、たちまちのうちに引いていき、
(寒い、だと?)
側の火山岩には、霜さえ積っている。溶岩の代わりに氷が道に張るようになり、那陀の白い直垂姿が通り過ぎるのが
それに映った。
時折吹く冷たい風には、細かい雪が混じっている。その雪が大きくなり、風が激しくなるのと比例して、感じられる邪気はどんどん高まる。
「!!」
油断無く辺りを見回しながら歩いていた那陀は、突然目の前をふわりと横切った白いものに気付いてたたらを踏んだ。
「…晶瑞、か?」
鼻先を、冷たい狐の尾が掠めて通り過ぎる。それを右手で思わず払いのけながら声をかけると、
「そうよ。ようこそ、異父兄様」
その狐はクスクス笑いながら、那陀の目の前で見覚えのある人型を取った。
初めて出会った時と変わらず、平安貴族の装束を身につけながら、やはりその裾は膝丈までしかないため、少女のような笑顔とあいまって何ともちぐはぐな印象を受ける。
「あら、乱暴」
腰の短刀を抜きざま、それへ向かって切りつけた那陀の身体は、彼女の身体を突き抜けた。
「無駄よ。だって今の私は幻影だもの。お母様がね、私の影だけを飛ばしてくれたの。異父兄様が来たら案内してやれって」
向き直って己を睨みつける那陀へ、相変わらず無邪気な笑みを浮かべながら、
「知りたいのでしょ?」
ひょいと那陀の側へ近づいて、燃えるような瞳で彼女を睨み続ける那陀の顔を覗きこむ。
「己が何者であるのか。知りたいのでしょ? 『碧玉の魂(こん』は、異父兄様がお考えのようにお母様が持ってるけど、それが欲しいのでしょ? だけどそれを天宮へ持って帰ったところで、異父兄様のお父上は、異父兄様を認めてくれるかしら?」
「お前が知ったことか」
繰り返される問いに、忌々しげに答える那陀の声はしかし弱い。
「でも、龍の気を取り込んで満たされたでしょ。異父兄様の正体は、あの時、天宮の皆に分かってしまったと思うの。それでも異父兄様は、天宮へ戻るというの?」
異父妹の幻影は、立ち尽くす那陀の周りをふわふわと飛びながら、カンに触る問いを発し続ける。
「お前は結局、何が言いたいのだ」
長い睫を伏せて、那陀は震える声でようやく問い返した。
「決まってるじゃない!」
すると得たりとばかりに異父妹、晶瑞は頷いて、
「異父兄様と私とお母様で、この国を私たち邪鬼が住める場所にするってこと! ううん、邪鬼たちばかりじゃない、自分にとって邪魔だからって、天帝が隣の国や天竺から追い出した妖(バケモノ)たちを受け入れるために、この国をお母様が統括するの。異父兄様、当然味方になってくれるわよね?」
「…」
「分かってるわ、分かってる」
言葉を失った那陀へ、晶瑞は心得たように再び二つほど頷く。
「出会ってからまだ日が浅いものね、私たち。お母様は悲しがられるでしょうけれど、そんなのから信じられないことばかりあれこれ言われても、いまいちピンと来ないのは当たり前だわ。だから」
そこで顔をぐっと近づけて、彼女はにっこりと笑った。
「教えてあげる。お母様から言い付かってきたから」
言って、その人差し指の先で那陀の額をちょいと突付く。
「何を…っ!?」
驚いてその手を払いながら、思わず那陀が身を引いた途端、
(これは!?)
目の前に煮えたぎった溶岩が広がった。あっという間に那陀の華奢な身体はその中へ取り込まれ、
「ご自身で、ようくご覧になると良いわ」
言い終えて高笑いをする異父妹の気配が消えた。
(…どこまで落ちていくというのだ、私は)
煮えたぎる溶岩の中をゆっくりと下降していきながら、那陀はしばらく呆然と周りを見回していた。
どこを見ても同じような赤い溶岩ばかりである。なんとか抜け出そうと、短刀に力を込めて払ってみても、
(無駄らしい)
短刀に切られたさら、溶岩がその場所を閉じてしまうので、那陀もすぐに諦めた。
目を閉じて、溶岩に運ばれるままに任せていると、
『那陀』
聞きなれた父の声がする。思わず目を開けるとその前には、
「父上!」
溶岩の中、ぽかりとそこだけが黒く縁取られ、中には苦渋の色を浮かべた父天帝の顔が一杯に広がっていた。
『どうしても生まれて来なければならぬ運命であるのなら、せめて雌(おんな)であれ』
「父上? どうなさったのです?」
叫んで問い返しても、目の前の父には聞こえていないらしい。そこへ、
『いずれはこの天宮の後継にもなれるよう…どうかお前様は、雄(おとこ)として生まれて来られるように』
新たな女性の声が響いて、眼前の景色に晶瑞に良く似た女性の姿が加わる。
父とその女性は、にこやかに微笑いあいながら、しかし、
(少なくとも父の方は)
天帝が心から笑っているのではないということが、那陀にはすぐに分かった。
艶やかな長い黒髪、思わず口付けたくなるような赤い唇に白い肌を持つその女性は、膨らんでいる腹を愛しげに撫で、
『お子には、何と名を付けていただけるのでしょうか』
思わず背筋のぞくりとするような…それは決して恐怖から来るものではない…淫靡な笑みを浮かべる。
そして父は無表情に、
『那陀、と』
ただそれのみを答えた。
そこでようやく、
(これは私の胎内の記憶か…!)
那陀は悟った。ではやはり、父と共にそこにいる女性は、まぎれもなく己の母なのだろう。
そして己は、二人に忠実であるように、父と母双方に義理を立てるべく二つの性を備えて生まれてきたのだ。
それが可能になったのは、ひとえにそれぞれ強すぎる光と闇の妖力のせいである。
(己というものを持たぬもの)
そして人は、付けられた名にもある程度その生を左右される。そう呼ばれる都度、心の奥に覚える疼痛を押し殺し、気付かないフリをして生きてきたのは、
(父上…貴方は私の母を)
今、眼前に繰り広げられる光景の中で、母を追い出した父の愛が欲しかったからだ。
これでは確かに、母が父を憎むのも無理はない。自分を抱いたのも、龍と邪鬼との融和のため、子を成したのも、邪鬼が龍に刃向かうのを防ぐための質にするため…つまり全ては義務だったというのであるから、
『…吾子。那陀』
いつしか場面は、先ほど那陀が通り過ぎた氷室のような場所に移り変わっている。その中でぼろぼろに傷つき、体中から血を流した先ほどの女性が、地面から突き出た氷の結晶にすがりつくようにして泣き悶えるのを、誰も笑えぬだろう。
しかもその唇から漏れるのは、他の誰でもない那陀自身の名なのだ。
『返して、私の子を。あのまま返してくれていたなら』
…一時だけとはいえ、肌を重ねたあの時に抱いたままの感情を、貴方へ抱いておけたものを。
繰り返し恨みを述べ、女性は宙を仰いで泣きじゃくる。カッと開いたその両目からは、いつしか血の色の涙が流れており、端正な唇から吐き出される一言一言が、情念そのままの火が炎となって吐き出される。
『よろしい。それなら私は東の方の国の神の子孫を取り込んで、私の味方となるものをもっと作ってやる。そしてその者たちと共に、いずれ貴方を…!』
言い終わると、余計に
「うわ!」
その炎が己に向かって吐き出されてきて、那陀は短刀を握ったままの右腕で反射的に己の顔をかばった。
同時に、
「…分かった?」
「!!」
驚くほど近くで異父妹の声が聞こえた。那陀の耳に口をつけんばかりに近づいて囁いた晶瑞を、顔をかばった手で払いのけると、例のごとく彼女はひょいとそれを避けてクスクス笑う。
辺りはまた、先ほどの氷室に戻っていて、
「お母様、可哀相だとお思いにならない?」
「…お前は誰との間に出来た子だ」
(晶瑞のテに乗ってはならない)
警戒しながら、那陀は問われたこととは無関係のことを尋ねた。
すると、
「あら、そんなことを知りたいの?」
彼女はさも驚いたように、少しつり上がり気味の目を丸くする。
「教えろ」
構わずに那陀が素っ気無く言うと、
「異父兄様、知ったらショックを受けるかもしれないわよ? それでも知りたい?」
「御託はいい。教えろ」
「仕方ないわね」
右手の袖で口元を覆いながらクスクス笑って、晶瑞は左手の人差し指をつ、と、氷室の天井へ
向けたかと思うと、それを腕ごと大きく一回転させた。
「私の父の名は、オシロワケノスメラミコト…この国の神の子孫。送り名は」
途端に今度は、見るからに寒々とした氷の色が那陀の眼前に広がる。
その中で、
「景行天皇。倭建の実の父親よ」
異父妹の声もまた、冷たい笑いを含んで響いた。
白、白、白…どこまでも続く白い景色の中を、那陀の身体は飛んでいた。
その中で、
「なぜお前は、私に両手をついて私の助けを請わぬ」
太い、苦しげな声が響く。
(…父上!?)
その声は、あまりにも那陀の父天帝と似ていて、那陀は思わずそちらを振り向いた。
しかしそこにいたのは、長い髪を両脇に「みずら」と呼ばれるこの国古代独特の形に結い上げた一人の中年男性で、
「なぜ何もかも独りでやってしまおうとする…なぜお前は私に一言も『助けてくれ』とは言わぬ。
さすれば私は喜んでお前を向かえ、後継者の地位にでも何でも据えようものを」
(ああ、これは)
思わず我が胸を右手で抑えながら、那陀もまた苦しげに顔をゆがめる。
心を搾り取られるような悲痛なそのうめき声こそ、倭建の父帝のものに違いない。とすると、彼が景行天皇すなわちスメラミコトとかいう人物なのだろう。
(彼は倭建を心底愛していたのだ)
がっくりと背を丸め、畳に両手をついて呻くその姿を見、声を聞いたなら、誰でもそれと分かるだろう。
しかし統率者ゆえに…その同腹の兄で当初の後継者である者を、故意ではないとはいえ殺してしまった弟…一度下してしまった罰を覆すことは出来ない。統率者である者が決断を覆してしまうと、周りの者への示しがつかぬ。
(それゆえに、タケルヘ愛を示すことが出来なかったのか)
昨日は九州へ、そして明日は東国へと次から次へ、通常の者ならとうに根を上げそうな賊の討伐を命じたのも、倭建からの「歩み寄り」を実は期待していたからだったのだ。
それは恐らく、「統率者ゆえ」という名分に隠された、素直になれぬ父帝の性分もあったろう。
呻いて唇をぎりぎりと噛むその姿は、この国の神の子孫というよりも、子への愛を上手く表現できぬ、哀れな独りの父のそれで、
(…)
那陀は胸を掴んだ手に、より一層の力を込めた。
しかし、その背中にふと誰かの影が過ぎり、同時に麝香の匂いが鼻腔をくすぐって、
(…母上っ!!)
那陀の大きな目は驚きに見開かれる。
「主上」
「…そなたか」
「はい」
これも、解けば長いのだろう。つやつやと光る艶やかな髪を、頭の頂上で麗しく結い上げた一人の女性が、
「小碓様のことでは、さぞやお悩みのことと心中お察し申しあげまする」
白く細い指でもって景行天皇の背へそっと触れ、さも同情したように柳眉を寄せて言った。
(…晶緒!?)
その顔は、見れば見るほど那陀の異父妹そっくりであるし、なんといってもかつて天宮で赤子だった己を抱いていた
女性そのものではないか。
(やはり母上が)
己の胸が早鐘を打つ。急速に乾いていく口の中へ、無理に唾液を流し込もうとする那陀の目の前で、
「わたくしごとき、貴方様のお悩みを代わって差し上げることなど到底出来ませぬが」
かの女性は言い言い、畳についている帝の片手をそっと取りながら、己の胸元へ導く。
「軽くして差し上げることはくらいは…いつものように、何でもお話くだされませ」
「おお」
そして彼女は、袖の中へ帝を引き寄せる。中年の男が、まるで甘えるようにその胸元へ頭を埋めた。
「小碓めが…なあ」
「はい」
「クマソをも征伐して、東の国へ参ったわ…あれは、優れておる」
(なんと)
タケルからは聞いた事のない、タケルを褒める言葉である。
「あれは私の子にしては、出来すぎておるよ。私も大碓を廃してあれを後継にしようと何度考えたか。だが、実の兄を殺した罪は重い。あれへ下した罰、今更変える事は出来ぬ。周囲にも、私の怒りはそれほどまでに大きいのだと思わせねばならん…だからこそ、あれから何か言ってくることが必要だというのに」
「小碓様を、お許しになりたいのでござりまするなあ」
「…」
彼女が言うと、その袖の中で帝の肩は一瞬ぴくりと動き、
「…そなたには隠せぬ」
やがて、長い長いため息と共に、再び聞いているこちらのほうが苦しくなるような声が漏れた。
そして彼がふと顔を上げると、赤く濡れたその女性の唇が、帝の唇をそっと盗む。
唇が離れると、白いその頬をごつごつとした両手で捉えて、
「そなたは、このような夜に流星と共に現れたなぁ」
しみじみと景行天皇は言った。
「そなたの予言は常に正確で、そなたの持つ知識は豊富だ。海の向こうの大陸のこともよう知っている。やはりそなたは皆が申すように、神の使いであったわ」
「恐れ多いことにござりまする」
彼が心から感謝するように言うと、その背を撫でながら女性は喉の奥で笑う。
(…神の使い…違う!)
叫んでも、眼前の二人には伝わらないもどかしさ。
「もしもこれまでのように、わたくしめを信頼してくださるのなら…主上」
そして女性は那陀の背筋をぞくりとさせるような声で笑った後、
「これまでのように、小碓様が、どうしても主上のお力がなくては悪い神を討伐できぬと言って寄越されるまで、同じことを繰り返しなさればよろしいのでは?」
耳元へ唇を寄せんばかりにして囁くのだ。
「…お父上のお心がお分かりにならぬご子息…悟らせるには、まだまだ熱いお灸が必要だということにござりましょうや」
「うむ。そう、そう、だな」
そして彼女が言うままに、景行天皇は頷く。節くれだった手で、艶やかな彼女の髪を撫でながら、赤い唇を見つめる瞳は恍惚としていて、
(術にかけているのだ…!)
見る人が見れば、これもすぐに分かったに違いない。
「今、小碓様は那須野原とやらの集落にいらっしゃるそうにござりまするなあ」
「うむ」
「ここは一つ、小碓様と気心の知れた人物を遣わして、お父上様の御心をそっと説かせてみられては?
ほれ、ヤハギとか申す、ちょうど同齢の者がおりましたでしょう」
「ああ、いたな」
「ヤハギへ赴かせ、お父上様である貴方様のお心を説かせなされ。さすればきっと小碓様もお分かりになる」
その言葉に、ただただ頷くだけの帝と、口元に妖しげな笑みを浮かべているその女性の姿が消えると、
「…帝がそうおっしゃったか」
(…ヤハギ!)
場面は突如、建物の外へと切り替わった。そこには多数の兵士達を後ろに従えた、那陀にも見覚えのある男が立っている。
「ならば致し方ない。いよいよ俺も覚悟を決めねばならん」
告げた使いへそう言って、ヤハギはくるりと後ろを向き、
「我らも東国へ参る! 任務は…ミコトの行軍を阻む!」
(こういうことか…タケルの死は、私の母が遠因か)
出発していく兵士達を、那陀はうつろな目で見つめていた。
倭建の父帝が意図するところは、そこまで極端なものではなかったはずだ。それが「帝の意」という一言が加わっただけで、
(途中でこうまで捻じ曲がって伝わるとは)
双方が高貴な身分でなければ、ここまで事態がこじれることは無かったかもしれない。
(タケル)
あまりといえばあまりの運命の悪戯に、しかし那陀が気を取り直す暇もなく、
「主上。恐れ多いことながら、貴方様のお子が出来ました」
ぬれぬれと光る唇で、あの女性が景行天皇へ告げ、そして、
「…お分かりになった?」
「…っ!!」
気がつけば、辺りの景色は先刻の氷室に戻っていた。驚くほど近くに異父妹の顔があって、那陀が思わず飛びのくと、その様子がおかしかったのか、
「やだ、異父兄様ったら」
晶瑞はクスクス笑う。
「なぜだ」
「なぜお母様が私を作ったかって?」
「…」
那陀の問いを先回りして、異父妹は言う。言葉を失った那陀の顔を、首をかしげてつくづく見やりながら、
「この国の神は、おかしな神だわ。人と交わるうちに神の血はそれに凌駕され、やがて薄れた…その神の血を残そうと焦って、近親との婚姻を繰り返す。人の血に限り無く近くなってしまったことを知らずに。ただ人の癖に近親婚を繰り返せば、奇形が生まれるっていうのに」
「だから? お前が言う意味は分からない」
睨む那陀など何処吹く風、晶瑞はあっけらかんと、
「でも私は九尾狐の子だわ。それに親の片割れも、まだまだ人の血が限り無く薄い、神に近かった頃の神の子孫だわ。だから」
己自身のことなのに、他人のことのように話すのである。
「だから、神の子孫と何度交わっても、その子は近親婚の産物にはならない…時代が下っても、ずっとずっとこの国の中枢にいて、この国を自分の良いように操ることが出来る。違って? だからお母様は私に、子を産むことの出来る雌を選べって言ったの。だから私は雌なの」
「お前…お前達は、なんということを」
「だけど、国自体もそうだけれど、この国の人間って、お人よしではあるけれど馬鹿ではないみたい。お母様もその点は甘く見ていたって認めていらっしゃるわ…私を、代々の天皇に嫁がせることが出来なかったってね。だから、とうとう表に踊り出たってわけ。そしたら異父兄様のお父様が邪魔しに来たのね」
「…お前たちがこの国にいられるのは、この国がお人よしであるからではない」
「あら。だけど、この国の神がだらしないから、代わりに私たちが護ってあげてるってところもあるわよ?」
怒りを含んだ那陀の言葉を、晶瑞は一笑に付して、
「もう一度、よ」
言った。
「もう一度、とは何だ」
「もう一度」
膝丈までの十二単の裾を翻し、彼女は繰り返す。
「異父兄様のお父様…天帝はこの国へやってくるわ。一度は異父兄様と異父兄様の従妹君が追い払ったみたいだけれど、今度はどうかしら? 二度の偶然はありえない。今度天帝の加護を受けたあの軍勢がやってきたら? あまりにもお人よしすぎて優しすぎるこの国の神だけで護れるのかしら」
「お前たちは二度、タケルを殺した。だから私も二度、この国を護る」
「あらあら。そういうことですってよ、お母様」
那陀が髪の毛を逆立てながら言うと、異父妹はクスクス笑って氷室の天井を仰いだ。意外なほどの高さのあるその天井からは、やはり無数のツララが下がっているばかりであるが、
「残念ねえ。目的は同じなのに、意図するところはまるで違う…せっかくここまで来られたのだから、お母様にせめて一目、会っていただきたかったのだけれど」
そこで言葉を区切り、晶瑞はさっと右手を振った。鮮やかな十二単の袖が氷室の宙を舞ったかと思うと、それらのツララが一斉に砕けちる音がして、那陀の頭上へ降りかかってくる。
「今は無理だわ。というよりも、もうずっと無理かも」
「待て、晶瑞! 母がこの先にいるのなら、母に会わせろ!」
思わず顔を庇った腕を、ツララの切っ先が掠めては衣服をちぎっていく。
「無駄よ。無駄、無駄。うふふ、あははは」
そんな那陀の様子を見て、さもおかしいといった風に、異父妹はついに声を上げて笑った。
「味方にならないなら、敵。中立なんて立場はありえない。私たちがここに落ち着くまでに学んだことだもの」
言い終えるや否や、彼女は両手を交互に振った。その袖から繰り出される風がツララの根元を断ち切り、一層の鋭さを増して那陀へと襲い掛かる。
二郎神君譲りの短刀を振るっていても、時折それは那陀の白い頬を傷つけて、辺りへ飛び散る。
「倭建は、この国を愛してる! お前にとっての異母兄なのだぞ? なのにお前は、この国を利用しようと」
それをかいくぐりながら、那陀がそれでも諦めきれずに叫ぶと、
「顔も知らない異母兄など、他人と同じだわ」
肩をすくめて晶瑞は言い、
「異父兄様。今の貴方と同じで、ね」
再び声を上げて笑ったのである。
そこへ、
「那陀様っ! やっと追いついた!」
甲高い、聞き覚えのある声が響く。思わず振り向くと、
「翠! お前がどうして」
「話は後だよ。これ!」
懐かしく愛らしい猫又が、溶岩と氷室の境目にいた。那陀とは違って「異生物」であるから、ここへたどり着くまでに数多くの妖に襲われたに違いない。
その証拠に、傷だらけの猫又の背後からは無数の妖怪のうめき声が聞こえてきて、
「受け取って! 草薙だよ!」
それでも翠は健気にその剣を投げて寄越す。
「僕のことは気にしないで!」
「すまない!」
地面へ突き立ったその剣は、那陀が引き抜いて構えると、薄暗がりの中で神々しい光を放ち、
「異父兄様…!」
それを見た途端、晶瑞の瞳はみるみるうちに赤く染まった。
「どうあってもお母様には会わせない!」
「違う、違うんだ! 味方になる、ならぬなどという問題ではない」
無数のツララを草薙の光がなぎ払う。なるだけツララだけを払うように気を配りながら、
「お前の言うように、九尾狐が私の母だというのなら、私は母に会って」
「会って、どうするの!?」
「会って…っ!」
(母を説得する…味方にならぬということになる)
再び問いかけられ、思わず絶句したのである。
to be continued…
せんのあすむ より。
こちらの物語は、ここで中断しています。筆者である母が亡くなったため、完結はしていません。
せめてプロットでも残っていれば私も続きを書けたかもしれないですけど、母がこの後、どのように物語を展開させるつもりだったのかまるで分らないので、少なくとも今はどうにもできませんでした。
非常に残念ですが、ここまでになります。
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