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1. 咲夜
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目覚めた時に見えたのは、真っ白な雪原だった。どこまでも果てのない雪景色。その真っ白な世界の中で、自分の立つ場所だけが真赤な染みに彩られている。
「赤い……」
その色のことを、俺はよく知っている気がした。いまこの世界に生まれたばかりだと言うのに。
あれ。どうして、生まれたばかりだと知っているのだろう?
「だれか、いる?」
呼びかけると、冷たい風が素肌を撫で、くすくすと笑い声をたてた。風に乗った精霊たちだ。
「ねぇ、教えて。俺は、なに? どうしてここにいるの」
問えば、精霊たちはおかしそうに俺をくすぐっていく。
「おめでとう、おめでとう! あなたは、白の龍王。この山の守護者。おめでとう、おめでとう、新しい王様! この山の新しい主様!」
歌うように精霊たちの声が重なりあって言葉を紡ぐ。白の龍王。それが俺の名前らしかった。この山、という言葉に視線をめぐらせると、背後にはほとんど垂直に見える巨大な崖がそびえ立っていた。
「山って、これ……? 俺が、この山の守護者……?」
問いかけると、精霊たちが口々にそう! あたり! この崖の上があなたのお城! と叫ぶ。
「登っておいで、王様! 白の龍王さま! 山の上はぼくらの世界! もっと一緒に遊ぼう!」
登っておいで、と言われても、切り立った崖には手をかける場所もない。
「どうやって登るの?」
「龍王さま、空飛べる! 翼を広げて風に乗る!」
翼。そんなものないけど、と裸の身体をみる。なよなよとして、小さな子供の身体。その白い肌には所々細かなひび割れがあり、肌の奥にキラキラと輝く鱗のようなものが透けて見える。
白の龍王、と呼ばれるのは、このキラキラとした鱗が白銀のような輝きを放つからだろうか。
「翼なんかないよ……? どうするの?」
「魔力! 広げるイメージで! 飛べるよ。綺麗な真っ白の翼で!」
綺麗な真白の翼。
肌に刻まれた白銀のキラキラを目に焼き付けながら、真っ白な翼をイメージする。龍、というからには鳥とは違うのだろう。羽毛ではなくて、皮膜のようなもの……?
思いをめぐらせると、まるで知っていたようにイメージが固まってくる。自分の背に広がる、美しく強靭な翼。
それは確かに、俺の一部だった。
ありありとした実感と共に、翼が具現化していく。
「……飛べる」
背中に現れた翼をゆっくりと、羽ばたかせる。バサッと風を起こすように動かすと、ふわりと身体が宙に浮かび上がった。
風に乗って。
上へ。
イメージが急速に解像度を増して、俺は当然のように理解する。
俺は飛べる。この崖の上まで、苦も無く飛んで行ける。
そう確信すると、身体の奥底から魔力が湧き上がり、翼の隅々へと行き渡る。満ちていく魔力こそが、俺が俺であることのすべてだった。
魔力に満ちた身体が慣れた動きだというように勝手に動く。羽ばたいた翼が風を切って俺を加速させ、身体はまっすぐに崖の上を目指して上昇していく。
雪をはらんだ冷たい空気を突き抜け、厚く垂れ込めた雲を突き抜け、もっと上へ。
「これが、城……?」
崖を登りきった先には開けた空間が現れた。ちょうど山頂の先っぽを切り落としたように、平らな地面が丸く広がっている。
そこはただ白い滑らかな岩肌に氷の結晶がところどころ張り付いているだけの岩場だった。城と呼べるような建造物はどこにも見当たらない。
「いや……あれだ」
殺風景な山肌の真中に、大きな氷の塊があった。きらきらと日差しを受けてきらめく氷塊は、あきらかに自然のものではなく、魔法で作られたものに違いなかった。
羽ばたいてその前へと近づく。
この氷の塊こそが、俺の城なのだと確信があった。そして、それは正しく真実だった。
「白の龍王さま。お待ちしておりました」
氷塊の前に降り立つと、どこからともなく人影が現れ、俺の前にひざまずく。神官のような長い白の法衣に、緑青の瞳。銀の長い髪をゆるく編んで飾り、手には風の精霊を統べる錫杖をもつ。
その男の名を、俺はすぐに思い出した。
「ナジャ。……変わりはないか」
「は、何も。今代の代替わりも滞りなくお済みの由、誠に重畳でございます」
かしこまった物言いに、俺は口元で笑う。この男が俺を敬って礼を示すことなど、めったにないことだった。
代替わりにはそれ相応のリスクがある。うまく新しい依代に乗り移れず元の存在を損なうことは、稀にだが起こり得ることだった。
魂を喰らい、肉体を奪う。ただそれだけの事、といえばそうだったが、魂と肉体の結びつきは強固で複雑に絡み合っている。上手に引き剥がしてやらねば、魂だけを喰らうことは出来ない。そして、魂が残ったままでは、身体を奪うことは出来ない。同時にこなすには、それなりに技巧が必要な術だった。
「大事ない。……とても、美味だったよ、この者は」
ナジャの存在を認識したことをきっかけに、俺は急速に自分の存在を、記憶を、思い出していた。
直近の記憶から遡るように自分が何者であったのかが立ち上がっていく。
俺は視線を目の前の氷塊に移した。
俺が俺であるための魔力の核は、この氷塊の奥底にある。歩を進めて氷塊の表面に手を触れれば、なじんだ魔力が伝わってくる。
その力は、おぼろげだった俺の意識に働きかけ、白の龍王とは、俺とは何かを完全に理解させた。
人喰いの龍王。命と引き換えに、願いを叶えてくれる山の守護者。それが俺だった。
「この者の名はサクヤだったか? せめて名を残してやろう。これからはサクヤと呼べ」
「御意。荷を改めたところ、東方の文字で咲くに夜と書くようでした。美しい名です」
「咲夜か。良いな。ナジャ、そなたも東方の名に改めるか?」
「お望みとあらば、なんなりと」
「では真砂と。姿も変えよ。そのナリには飽きた」
「承知。ではあなた様の御姿に合わせて、東方風に改めましょう」
言った男の姿が、つむじ風に巻かれ、黒髪に東方の僧侶が着る装束へと変わる。この男の素性は風の精霊の長だ。風に乗って世界中を巡る精霊たちの見聞きしたものすべてを知る事ができる。
「あなた様にも装束を。……しかし、このような年若い御姿は初めてでは? まったく……東方の王は酷なことをする」
真砂の呼んだ風が俺の肢体を撫で、装束を具現化する。もともと咲夜が着ていた着物をさらに豪奢にしたような風情のそれは、色とりどりの糸で幾何学文様を織り込んだものだった。さらに風が吹いて、金をふんだんに使った揃いの意匠の首飾りと、耳環が添えられる。
氷塊の表面に映して、整えられた自分の姿を確認する。
肩先で切りそろえられた黒髪に、黒曜石を思わせる瞳と、白い肌。咲夜の記憶によれば年の頃は十四。面差しは中性的で、子供らしいあどけなさと、大人びた表情を併せ持つ、アンバランスな雰囲気がある。声変わりしたばかりのわずかに低い声音が、若さゆえの不安定な美しさを際立たせていた。
ニィ、と口端をゆがめて笑みを作ってみせると、氷に映った表情は禍々しくも美しい。
「そうだな、これほど年若い贄は俺の記憶にもほとんどない。それに若いものは大抵、願いの対価について話せば山を降りることを選ぶものだ。……だが咲夜の決意は固かった。こんな若さで祖国のために命を捨てるなど……。高々ひとつの命で変えられる国の命運など、ほんに些細なものだとは諭したのだがな」
それでも良い、と微笑んだ咲夜の表情は、寂しいものだった。
魂を喰らい、身体をもらい受けた今なら、その微笑みの意味は分かる。
咲夜は奴隷の子だった。それも、先王の気まぐれでできた落胤だった。母であった美しい女は咲夜を産み落としてすぐに死を選び、その後ずっと、咲夜は政争の中で異母兄の王子たちに疎まれ、利を得んとする貴族たちに囲われ、常にその存在は誰かの道具として扱われてきた。
先王の死後はなおさら。
長兄が次の王と定まって、先王の後ろ盾を失ってからは、利用価値のなくなった人形の使い道は折に触れて取り沙汰された。
白の龍王の贄に出されたのは、体のいい厄介払いだ。国のために命を使うことこそが、王族の血を受け継いだその身がなすべき事だと。
裏を返せば、それ以外に、生かす道はないという事だった。咲夜はそう言外に言い含められていることを十分に理解していた。
「……与えられた王命に殉じる以外のことを、咲夜は望まなかった。本当に……なぜ人はそれほどまでに、他人に尽くすのか」
あるいは、他人に自己を委ねられるのか。
死に面して咲夜の胸中にあったのは、亡き母と、亡き父王への悲痛なまでの思慕だった。肉親への情といえば聞こえは良い。けれど客観的に見れば、どちらも咲夜の境遇の原因を作った相手ともいえる。
俺には、咲夜の父母の振る舞いは、ずいぶんと浅慮に思えた。父王はなぜのちのち問題になるような落胤を奴隷に産ませたのか。母はなぜ庇護すべき子を置いて命を断ったのか。
傍から見れば責めるべき相手に、咲夜は確かに親愛の情を感じていた。その感情は、魂を喰らったいま、確かに自分のものとして心のうちにある。けれど少しも、理解することは出来ない。
魂を喰ったあとは、いつもこうだ。
理解出来ない感情の機微にどうしても引っ張られる。
どうして人間というのはどいつもこいつも、不条理で、不可解で、矛盾に満ちているのか。なのに、いや、だからこそ興味が尽きない。
「人の生はあまりに短く、脆弱ですから。永久を過ごす龍王さまのお考えとは相容れぬものでしょう」
真砂の声は、話題にそぐわぬように楽しそうに弾んでいる。まるで俺の思案を嘲笑うかのようだ。
精霊の長である真砂もまた、人よりもずっと長い歳月を過ごすことができる。そのせいか、真砂の人間に対する理解は、下等な生き物を見下すような態度が強い。
その見解は、人と同化し、その生をまざまざと味わう俺の感覚とは大きく異なる。
もしも真砂の言う通り、より長く生き長らえる生き物がより高等であるというなら、真砂たち精霊よりも長い命を持つ龍は、精霊よりもずっと高等な生き物となる。
けれど、俺はとてもそうは思えない。
人間が短い一生を賭して願う事には、どれもきらきらと輝くような感情が溢れている。短い生命だからこそ、強く輝く。そういう美しさを、俺は信じている。
それは咲夜にも当てはまった。
自らの不遇な生まれを嘆くこともせず、ただ国という抽象的な概念に殉じることに己の価値を見いだし、父母への愛情を信じ、死を選ぶ。
その心にあったのは、ただ敬虔な信念であった。
たとえそれが理に適わぬことであったとしても。その強い信念の有様を、俺は美しいと感じた。
「理解、か。だが、分からぬものを分からぬままに愛でることもまた愉しいものよ」
「……相変わらず、酔狂な方だ。同化したとはいえ、龍ともあろうお方が、人間びいきになっているのですか?」
真砂は機嫌を損ねたことを隠しもせず眉間に皺を寄せて言う。
「お前には分からぬことだろうが、魂を喰らいその者の感情も記憶もすべてを味わうのだ。ひいきになるのも仕方があるまい。咲夜はもう、俺自身なのだから」
言えば、真砂は大袈裟に溜息をついてみせる。
「喰らった人間に心を寄せるなど、龍にあるまじき振る舞いです。人間はあなたの糧であって、それ以上のものではない。その理を見失ってはなりません」
「は、たかが精霊ごときが龍を語るな」
真砂が俺をたしなめるように言うのを、喝破するように語気を強めて言い返す。
「ご無礼を。……では代替わりも無事に済みましたゆえ、これにて下がらせていただきます」
形ばかりに最敬礼の姿勢を取って、真砂は非礼を詫びてみせた。
「大義であった」
退出の許可を与えると、風の中にその姿は溶けるように消えていく。
あとにはただ、冷たい風と、太陽の光。そして俺が生み出した氷が残るのみ。
「はぁ……」
溜息をついて、気を紛らわす。
真砂の前にいた従者は、死ぬ前に真砂を生み出し、後継としての成長を待ってからこの世を去った。彼の者に別れ際に贈られた「せめてあなたの慰みになりますように」という言葉の意味を、俺はまだ分かっていない。
真砂がいることは、俺の慰みになっているだろうか。
恐らく、独りきりでこの山頂にとどまるよりは、いくらかマシだろう。
ただそれは、どちらの地獄がよりマシか、という程度のものにも思えた。
分かり合えぬものと、分かり合えぬことを確かめ合いながら長い年月を過ごすこと。
それは俺の孤独を、時にいっそう際立たせた。
「赤い……」
その色のことを、俺はよく知っている気がした。いまこの世界に生まれたばかりだと言うのに。
あれ。どうして、生まれたばかりだと知っているのだろう?
「だれか、いる?」
呼びかけると、冷たい風が素肌を撫で、くすくすと笑い声をたてた。風に乗った精霊たちだ。
「ねぇ、教えて。俺は、なに? どうしてここにいるの」
問えば、精霊たちはおかしそうに俺をくすぐっていく。
「おめでとう、おめでとう! あなたは、白の龍王。この山の守護者。おめでとう、おめでとう、新しい王様! この山の新しい主様!」
歌うように精霊たちの声が重なりあって言葉を紡ぐ。白の龍王。それが俺の名前らしかった。この山、という言葉に視線をめぐらせると、背後にはほとんど垂直に見える巨大な崖がそびえ立っていた。
「山って、これ……? 俺が、この山の守護者……?」
問いかけると、精霊たちが口々にそう! あたり! この崖の上があなたのお城! と叫ぶ。
「登っておいで、王様! 白の龍王さま! 山の上はぼくらの世界! もっと一緒に遊ぼう!」
登っておいで、と言われても、切り立った崖には手をかける場所もない。
「どうやって登るの?」
「龍王さま、空飛べる! 翼を広げて風に乗る!」
翼。そんなものないけど、と裸の身体をみる。なよなよとして、小さな子供の身体。その白い肌には所々細かなひび割れがあり、肌の奥にキラキラと輝く鱗のようなものが透けて見える。
白の龍王、と呼ばれるのは、このキラキラとした鱗が白銀のような輝きを放つからだろうか。
「翼なんかないよ……? どうするの?」
「魔力! 広げるイメージで! 飛べるよ。綺麗な真っ白の翼で!」
綺麗な真白の翼。
肌に刻まれた白銀のキラキラを目に焼き付けながら、真っ白な翼をイメージする。龍、というからには鳥とは違うのだろう。羽毛ではなくて、皮膜のようなもの……?
思いをめぐらせると、まるで知っていたようにイメージが固まってくる。自分の背に広がる、美しく強靭な翼。
それは確かに、俺の一部だった。
ありありとした実感と共に、翼が具現化していく。
「……飛べる」
背中に現れた翼をゆっくりと、羽ばたかせる。バサッと風を起こすように動かすと、ふわりと身体が宙に浮かび上がった。
風に乗って。
上へ。
イメージが急速に解像度を増して、俺は当然のように理解する。
俺は飛べる。この崖の上まで、苦も無く飛んで行ける。
そう確信すると、身体の奥底から魔力が湧き上がり、翼の隅々へと行き渡る。満ちていく魔力こそが、俺が俺であることのすべてだった。
魔力に満ちた身体が慣れた動きだというように勝手に動く。羽ばたいた翼が風を切って俺を加速させ、身体はまっすぐに崖の上を目指して上昇していく。
雪をはらんだ冷たい空気を突き抜け、厚く垂れ込めた雲を突き抜け、もっと上へ。
「これが、城……?」
崖を登りきった先には開けた空間が現れた。ちょうど山頂の先っぽを切り落としたように、平らな地面が丸く広がっている。
そこはただ白い滑らかな岩肌に氷の結晶がところどころ張り付いているだけの岩場だった。城と呼べるような建造物はどこにも見当たらない。
「いや……あれだ」
殺風景な山肌の真中に、大きな氷の塊があった。きらきらと日差しを受けてきらめく氷塊は、あきらかに自然のものではなく、魔法で作られたものに違いなかった。
羽ばたいてその前へと近づく。
この氷の塊こそが、俺の城なのだと確信があった。そして、それは正しく真実だった。
「白の龍王さま。お待ちしておりました」
氷塊の前に降り立つと、どこからともなく人影が現れ、俺の前にひざまずく。神官のような長い白の法衣に、緑青の瞳。銀の長い髪をゆるく編んで飾り、手には風の精霊を統べる錫杖をもつ。
その男の名を、俺はすぐに思い出した。
「ナジャ。……変わりはないか」
「は、何も。今代の代替わりも滞りなくお済みの由、誠に重畳でございます」
かしこまった物言いに、俺は口元で笑う。この男が俺を敬って礼を示すことなど、めったにないことだった。
代替わりにはそれ相応のリスクがある。うまく新しい依代に乗り移れず元の存在を損なうことは、稀にだが起こり得ることだった。
魂を喰らい、肉体を奪う。ただそれだけの事、といえばそうだったが、魂と肉体の結びつきは強固で複雑に絡み合っている。上手に引き剥がしてやらねば、魂だけを喰らうことは出来ない。そして、魂が残ったままでは、身体を奪うことは出来ない。同時にこなすには、それなりに技巧が必要な術だった。
「大事ない。……とても、美味だったよ、この者は」
ナジャの存在を認識したことをきっかけに、俺は急速に自分の存在を、記憶を、思い出していた。
直近の記憶から遡るように自分が何者であったのかが立ち上がっていく。
俺は視線を目の前の氷塊に移した。
俺が俺であるための魔力の核は、この氷塊の奥底にある。歩を進めて氷塊の表面に手を触れれば、なじんだ魔力が伝わってくる。
その力は、おぼろげだった俺の意識に働きかけ、白の龍王とは、俺とは何かを完全に理解させた。
人喰いの龍王。命と引き換えに、願いを叶えてくれる山の守護者。それが俺だった。
「この者の名はサクヤだったか? せめて名を残してやろう。これからはサクヤと呼べ」
「御意。荷を改めたところ、東方の文字で咲くに夜と書くようでした。美しい名です」
「咲夜か。良いな。ナジャ、そなたも東方の名に改めるか?」
「お望みとあらば、なんなりと」
「では真砂と。姿も変えよ。そのナリには飽きた」
「承知。ではあなた様の御姿に合わせて、東方風に改めましょう」
言った男の姿が、つむじ風に巻かれ、黒髪に東方の僧侶が着る装束へと変わる。この男の素性は風の精霊の長だ。風に乗って世界中を巡る精霊たちの見聞きしたものすべてを知る事ができる。
「あなた様にも装束を。……しかし、このような年若い御姿は初めてでは? まったく……東方の王は酷なことをする」
真砂の呼んだ風が俺の肢体を撫で、装束を具現化する。もともと咲夜が着ていた着物をさらに豪奢にしたような風情のそれは、色とりどりの糸で幾何学文様を織り込んだものだった。さらに風が吹いて、金をふんだんに使った揃いの意匠の首飾りと、耳環が添えられる。
氷塊の表面に映して、整えられた自分の姿を確認する。
肩先で切りそろえられた黒髪に、黒曜石を思わせる瞳と、白い肌。咲夜の記憶によれば年の頃は十四。面差しは中性的で、子供らしいあどけなさと、大人びた表情を併せ持つ、アンバランスな雰囲気がある。声変わりしたばかりのわずかに低い声音が、若さゆえの不安定な美しさを際立たせていた。
ニィ、と口端をゆがめて笑みを作ってみせると、氷に映った表情は禍々しくも美しい。
「そうだな、これほど年若い贄は俺の記憶にもほとんどない。それに若いものは大抵、願いの対価について話せば山を降りることを選ぶものだ。……だが咲夜の決意は固かった。こんな若さで祖国のために命を捨てるなど……。高々ひとつの命で変えられる国の命運など、ほんに些細なものだとは諭したのだがな」
それでも良い、と微笑んだ咲夜の表情は、寂しいものだった。
魂を喰らい、身体をもらい受けた今なら、その微笑みの意味は分かる。
咲夜は奴隷の子だった。それも、先王の気まぐれでできた落胤だった。母であった美しい女は咲夜を産み落としてすぐに死を選び、その後ずっと、咲夜は政争の中で異母兄の王子たちに疎まれ、利を得んとする貴族たちに囲われ、常にその存在は誰かの道具として扱われてきた。
先王の死後はなおさら。
長兄が次の王と定まって、先王の後ろ盾を失ってからは、利用価値のなくなった人形の使い道は折に触れて取り沙汰された。
白の龍王の贄に出されたのは、体のいい厄介払いだ。国のために命を使うことこそが、王族の血を受け継いだその身がなすべき事だと。
裏を返せば、それ以外に、生かす道はないという事だった。咲夜はそう言外に言い含められていることを十分に理解していた。
「……与えられた王命に殉じる以外のことを、咲夜は望まなかった。本当に……なぜ人はそれほどまでに、他人に尽くすのか」
あるいは、他人に自己を委ねられるのか。
死に面して咲夜の胸中にあったのは、亡き母と、亡き父王への悲痛なまでの思慕だった。肉親への情といえば聞こえは良い。けれど客観的に見れば、どちらも咲夜の境遇の原因を作った相手ともいえる。
俺には、咲夜の父母の振る舞いは、ずいぶんと浅慮に思えた。父王はなぜのちのち問題になるような落胤を奴隷に産ませたのか。母はなぜ庇護すべき子を置いて命を断ったのか。
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魂を喰ったあとは、いつもこうだ。
理解出来ない感情の機微にどうしても引っ張られる。
どうして人間というのはどいつもこいつも、不条理で、不可解で、矛盾に満ちているのか。なのに、いや、だからこそ興味が尽きない。
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精霊の長である真砂もまた、人よりもずっと長い歳月を過ごすことができる。そのせいか、真砂の人間に対する理解は、下等な生き物を見下すような態度が強い。
その見解は、人と同化し、その生をまざまざと味わう俺の感覚とは大きく異なる。
もしも真砂の言う通り、より長く生き長らえる生き物がより高等であるというなら、真砂たち精霊よりも長い命を持つ龍は、精霊よりもずっと高等な生き物となる。
けれど、俺はとてもそうは思えない。
人間が短い一生を賭して願う事には、どれもきらきらと輝くような感情が溢れている。短い生命だからこそ、強く輝く。そういう美しさを、俺は信じている。
それは咲夜にも当てはまった。
自らの不遇な生まれを嘆くこともせず、ただ国という抽象的な概念に殉じることに己の価値を見いだし、父母への愛情を信じ、死を選ぶ。
その心にあったのは、ただ敬虔な信念であった。
たとえそれが理に適わぬことであったとしても。その強い信念の有様を、俺は美しいと感じた。
「理解、か。だが、分からぬものを分からぬままに愛でることもまた愉しいものよ」
「……相変わらず、酔狂な方だ。同化したとはいえ、龍ともあろうお方が、人間びいきになっているのですか?」
真砂は機嫌を損ねたことを隠しもせず眉間に皺を寄せて言う。
「お前には分からぬことだろうが、魂を喰らいその者の感情も記憶もすべてを味わうのだ。ひいきになるのも仕方があるまい。咲夜はもう、俺自身なのだから」
言えば、真砂は大袈裟に溜息をついてみせる。
「喰らった人間に心を寄せるなど、龍にあるまじき振る舞いです。人間はあなたの糧であって、それ以上のものではない。その理を見失ってはなりません」
「は、たかが精霊ごときが龍を語るな」
真砂が俺をたしなめるように言うのを、喝破するように語気を強めて言い返す。
「ご無礼を。……では代替わりも無事に済みましたゆえ、これにて下がらせていただきます」
形ばかりに最敬礼の姿勢を取って、真砂は非礼を詫びてみせた。
「大義であった」
退出の許可を与えると、風の中にその姿は溶けるように消えていく。
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真砂がいることは、俺の慰みになっているだろうか。
恐らく、独りきりでこの山頂にとどまるよりは、いくらかマシだろう。
ただそれは、どちらの地獄がよりマシか、という程度のものにも思えた。
分かり合えぬものと、分かり合えぬことを確かめ合いながら長い年月を過ごすこと。
それは俺の孤独を、時にいっそう際立たせた。
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