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第五幕 やんちゃな子猫は空を舞う

金が無ければ悪事も出来ぬ

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 絶体絶命の危機から脱した愛姫一行は、すっかり気が抜けた様子でポテポテとゆっくり坂道を上っていた。

 今来た道を引き返したら別の刺客と出会う危険性もあるので、このまま坂を上って江戸城を目指すことにしたのだ。

「ふぅむ、つまり叔父上がやって来た瓶底寺からの路は『偽物の』抜け路ということじゃな」

 刺客を用心して余三郎が一行の最後尾につき、先頭から霧、愛姫、青太郎、百合丸、余三郎の順で坂道を上っている。

「けっこうな範囲を歩き回ってみたのですがどこも途中で行き止まりでしたね。霧と一緒に古井戸に落ちたというこの猫がこちら側に来ていたのだから、こやつが通れるくらいの穴がどこぞにあることは確実なのですが、人が通れそうな道は見つけられませなんだ……どうしました、愛姫?」

 問われたことに対して真面目に答えていたら愛姫がなんだかムズ痒そうに顔をしかめていた。

 微妙な顔をしているのは彼女だけでではなく、なぜか百合丸や霧までもが同じような表情をしている。

「城下に下りてきて以来これだけ長く共にいて、同じ飯を食べたり飯を奪われたりした仲だというに叔父上はまだ妾に敬語を使うのじゃな」

「あ、いや、しかし……」

 確かにこの数日間でいくら親しく接してはいるが、だからとて、それで身分差が無くなるわけではない。

 仲良くなったくらいで対等な口を利けるようになるほど封建制度社会の規律は緩くないのだと小言交じりに説明しようとしたら、それを言う前に自分の家臣の側から非難の声が上がった。

「殿、なんだか違和感がすごい、なの」

「拙者も聞いていて不自然に感じるでござるな、なぜかは分かりませぬが」

 おそらく最近出会ったばかりの町人の青太郎や余三郎の家臣である百合丸たちが愛姫と対等な口を利いているのに、愛姫の叔父であり百合丸たちの主でもある余三郎が愛姫に敬語を使っているのが違和感の原因なのだろう。

「城の中でもそうせよは言わんが、せめて妾が城下に来ている時くらいもう少し砕けた喋りで……そうじゃな、叔父上が百合丸や霧と話しているような喋りで良い。というかそうせよ、これは命令じゃ」

「……愛姫の命令とあらば仰せのままに。この言葉の後より改めます」

「うむうむ。ちなみにここでの妾の名前は『お愛』じゃ、妹に語りかけるような感覚で気安く『お愛ちゃん』と呼ぶが良い」

「わかったよ……お、お愛ちゃん」

「霧のことは『我が妻』と呼ぶが良い、なの」

「霧殿はこんな時にでもさらっとブッ込んで来るでござるな。まったく油断も隙もないでござるよ」

 今しがた命を狙われたばかりだというのに、全く怯えることなく普段通りの掛け合いをしている百合丸と霧。

『やれやれ。わしに甲斐性が無いせいで貧乏生活を強いている影響か精神がそこらの修行僧よりも逞しくなっておるようだ』

 余三郎はそう思いながら内心で溜息を吐いた。

 余三郎と共に滑り落ちてきた一両は最初こそ驚いて短い足をジタバタさせていたが、すぐに動き疲れて置物のように動かなくなってしまった。

 捕獲依頼がされている一両をこのまま置き去りにするわけにもいかず、仕事の元受け人である青太郎が一両を両腕で抱えて運んでいる。

「しかし、気になるのぅ……」

 愛姫は難しい顔をして首をひねった。振り向いて余三郎と目を合わせようとしたのだがすぐ後ろにいた青太郎と目が合った。

「何がだい? あ、もしやこっちの方が偽物の抜け路かもしれないってことじゃないだろうね」

「それは心配ない。叔父上の話で聞いた向こうの様子とこちら側を比べてみれば、こちらが本筋であることに間違いなかろう。妾が気になっているのは、向こう側の洞窟を見つけた何者かが行き止まりになっている偽物の抜け路を本物に作り変えようとしていたということじゃ」

 それのどこが気になることなんだろう? と言っているように小首を傾げる青太郎へ愛姫は諭すように言う。

「普通の奴なら偽物を見つけたらそこで諦める。『抜け路の噂はとんだホラ話だった。騙された』とな。しかし偽物を掴まされてもなお、心折れることなく力尽くで偽物を本物にしようとした。これはどう考えても普通じゃない。その意志と行動力にだたならぬ執念を感じるのじゃ」

 愛姫の分析に余三郎も頷いて同意した。

「町の中で日々貧乏暮らしをしているわしだから分かるが、人を集めて何かをさせようとすれば、とにもかくにも金が要る。今回の場合で言うなら、日雇い人足たちは騙して連れてこられていたようだが、日雇い人足を騙して連れて来る役目を担う者、見張り役の者、雑務を担う者、全体の仕切りをさせる者にはやはり相応の金を払う必要がある。これは千両箱を右から左へ動かせるくらいに財のある者でないと出来ない仕事だ」

「大きなことはい事でも、悪い事でも、お金がないと出来ない、なの」

「うむ、それは真理でござるな」

「ただならぬ執念を持っていて、なおかつ千両単位の金を自由に使えるだけの財力がある人物か……。のう叔父上、向こうの抜け路を工事させていた者と妾に刺客を向けてきた者は同一人物であろうか?」

「間違いなく同じ人物でしょ……同じ人物だと思う」

 つい敬語を使いそうになって言い直す余三郎。

「さっきわしが突き落としてしまった男は少し前に瓶底寺で見たことがある。仲間からは小猿と呼ばれていた男だ。他にも土州と呼ばれている剣客や経文堂の出入り口を守っていたヤクザ者の浜吉などがいて、そいつらは風花と呼ばれている女頭領に率いられているようだ」

「つまり妾の敵はヤクザ者を無作為に掻き集めたわけじゃなくて、統率が取れている裏組織を丸ごと抱き込んでいるのじゃな。ふふっ、それはなんとも厄介な敵じゃなぁ」

 愛姫はおどけた調子でそう言って強がってみせたが、彼女の後ろを歩いている余三郎たちからは愛姫が無意識に肩をすぼめているのが見えて、彼女が怖がっているのは丸わかりだった。

「大丈夫でござるよ姫様。殿がすでに向こう側の奴隷たちを扇動して脱走させているでござる。今頃地上は大騒ぎ。どんなに執念深い敵であろうと、この事が世間様にバレてしまってはこれ以上の悪だくみは出来ないでござるよ」

「そ、そうじゃろうか?」

「ウリ丸の言う通り、なの。姫様が城に帰ってこの事を将軍様に言えば、後は将軍様が良いようにしてくれる、なの。なにしろ将軍様は日本で一番多くの侍に命令できる権力者、なの」

 百合丸と霧に励まされて愛姫は「それもそうじゃな。後は父上に任せよう」とほっと息を吐きながら少しだけ体の緊張を解いた。

「安心するのはまだ早いんじゃないかな。私ぁここを出るまでは安心なんてできやしないね、後ろからまた刺客が来るんじゃないかって気が気でないよ」

 百合丸と霧がなんとか愛姫を安心させようと言葉を尽くしているのに、場の空気を読めないという定評がつきつつある青太郎が何度も後ろに振り向きながら心細そうに腕の中の一両をギュッと抱きしめた。
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