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第五幕 やんちゃな子猫は空を舞う
お江戸の町は大騒ぎ 3
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一方、江戸城では――、
大奥の一室で菊花が生母の藤花に伝試練寺において出会った無頼漢について報告していた。
藤花は御台所様からの信頼が篤く、御台所様の腹心として大奥で最も大きな権勢を誇る御年寄(腰元たちの総元締めに位置する役職)の役に就いている。
先代将軍の代においては余三郎やその兄姉たちの乳母役を務めていた実績もあって現将軍の覚えも良く、今や彼女の権勢に対抗する当て馬すらいない無双状態だ。
藤花はいつものように背筋を正して娘の報告を聞くと、パンパンパンと三度手を打って『その方面の仕事』を担当している腰元を呼んだ。
ほんの一呼吸分の間を置いて、横の襖がスラリと開く。
「柘榴。参りました」
藤花に仕える腰元の中には通常の仕事の他に特殊な技能を必要とする二つ目のお役目を持つ者がいる。
その者らは『ある括り』に沿った名が与えられていて、その符丁を知らない者が腰元たちの名を聞いてもその関連性に気付く者は皆無なのだが、あらかじめ答えを知っている者であれば名前を聞いただけでどういう役目を持つ者なのか分かるようになっている。
当然菊花はその符丁を知っているので柘榴が母に仕えている『くのいち』だと知っている。というか、そっち方面の仕事は専門外としている菊花にくのいちの技を仕込んだのが他ならぬこの柘榴だ。
柘榴は赤味を帯びた瞳を持つ二十代半ばくらいの女性だ。しかし彼女が実際に何歳なのか不明である。なにしろ十年以上前に菊花が初めて柘榴と会った時から彼女の外見は全く変わっていないのだ。
「柘榴、少々厄介な事になりました。すぐに動ける者を集めて愛姫の救出と保護に向かって下さい。詳しい事情は菊花から聞くように」
「御心のままに。……菊花、しくじりましたね?」
スンッと鼻を鳴らした柘榴が菊花に冷ややかな目を向けた。応急処置は済ませてあるのだけれど、血の臭いまでは消せなかったらしい。
「お恥ずかしい限りです、師匠」
「話は道中で聞きましょう。案内を頼みます」
柘榴が大奥内にいた孔雀と鼈甲に声を掛けて、菊花に説明をさせながら大手門に差し掛かると、何やら門前が騒がしいことに気が付いた。
その騒ぎの中に猫柳家が借りている家の貸主である門番の片桐がいたので菊花は声を掛けてみた。
「大家さん、こんにちは」
「おぉ、お菊ちゃんかい。相変わらず別嬪さんだねぇ。余三郎の坊ちゃんたちは元気かい?」
片桐老は白髪の混じった厳つい奴髭を左右に伸ばして人懐っこい笑みを浮かべる。
「おかげさまで健やかですわ。ところで何やら騒がしいようですけれど、何かあったんですか?」
「それがなぁ……話が大きすぎてよく分からないんだよ。いや、話自体はちゃんと伝わってるんだけど話の規模が大きすぎて、にわかには信じられねぇ事が起きてるそうなんだ」
「……もしや、愛姫様のことで?」
菊花の後ろで立ち止まって何気ないふうを装いながら話を聞いていた柘榴たちが胸の内で焦りを含んだ緊張を膨らませていたら、片桐が「いやいや」と顔の前で手振ったので皆ほっと肩の力を緩めた。
「そっちはそっちで大変なんだが、どうやら謀反を企んでいた奴がいたそうだ」
「謀反!?」
ほっと力を抜いていた柘榴たちの顔が再び緊張で固まった。
片桐はあまり長話をするほうではない。そんな彼が説明するので、それが逆に話の内容がぎゅっと要約される結果となり、聞いている菊花たちに理解しやすかった。
その話によると、ほんの四半時前に多数の人足たちが浜町の番屋に駆け込んで来たらしい。
彼らが言うには騙されて奴隷労働を強制されていたらしく、そこから逃げてきたところを通りがかりの同心に保護されたそうだ。
「奴隷労働させられていた人足が逃げてきたというところまでは分かりますけど、どうして浜町に?」
菊花の疑問は当然だった。
浜町は日本橋を通る人々のざわめきすら聞こえてくるほどの、いわば江戸の中心にある地域だ。
江戸の郊外では建材となる木材の切り出しや石材の運搬などの肉体的に過酷な作業を行っている場所が多くある。
そんな辛い仕事をする男たちは大抵博打で大きな借金を背負った野郎か、重罪を犯した犯罪者たちで、そういった者たちが仕事の辛さに耐えかねて、親方の監視が緩んだ隙をついて逃げ出したという話は茶受けの話題にもならないほどありきたりな話だ。
そんな彼らが作業場の山間を抜けて江戸の郊外にあたる多摩や品川あたりにまで逃げてきたというのなら何の違和感もない普通の出来事なのだが、奴隷たちはいきなり江戸の中心に湧いて出てきたのだ。
その奴隷たちはいったいどこで働かされていたのだろう?
「それなんだがね……働かされていたのはこの下らしい」
そう言って片桐は自分の足元を指差した。
「この下?」
「そいつら、どうやら江戸城に忍び込むための地下通路を掘らされていたらしいんだよ。その地下通路の出入り口が浜町の番屋からほど近いところにある瓶底寺で、奴らはそこから出てきたんだと」
「瓶底寺? 伝試練寺ではなく?」
菊花の問いに片桐は「伝試練寺?」と眉を寄せて記憶を確かめた。
「……いや、確かに瓶底寺だと聞いた。そもそも伝試練寺はそいつらが駆け込んだ浜町の番屋からそれなりに距離があるよ」
菊花が佐吉とやりあったのは伝試練寺だ。菊花は直感でこの集団脱走の件と愛姫の件が重なっているんじゃないかと内心で結び付けていたのだが、どうやら別件らしい。
菊花は背後でこの話を聞いていた柘榴に振り返って視線で『どうしますか?』と判断を仰いだ。
それに対して柘榴の答えは早くて明確だった。
「私たちがお使いを頼まれたのは伝試練寺です。興味を引くお話ではありますが今は頼まれたお使いを済ますことを優先しましょう」
「おや、お女中さん方は伝試練寺にお使いを頼まれてたのかい。なるほど、それで伝試練寺かって訊いたのか。……そうだねぇ、これから瓶底寺へ行くってなら今は危険だから止めたが伝試練寺なら大丈夫だろう。でも気をつけて行くんだよ」
「お気遣いありがとうございます。では、」
柘榴は淡々とした口調で礼を述べると、未だに戸惑っている菊花を連れて門を通った。
大奥の一室で菊花が生母の藤花に伝試練寺において出会った無頼漢について報告していた。
藤花は御台所様からの信頼が篤く、御台所様の腹心として大奥で最も大きな権勢を誇る御年寄(腰元たちの総元締めに位置する役職)の役に就いている。
先代将軍の代においては余三郎やその兄姉たちの乳母役を務めていた実績もあって現将軍の覚えも良く、今や彼女の権勢に対抗する当て馬すらいない無双状態だ。
藤花はいつものように背筋を正して娘の報告を聞くと、パンパンパンと三度手を打って『その方面の仕事』を担当している腰元を呼んだ。
ほんの一呼吸分の間を置いて、横の襖がスラリと開く。
「柘榴。参りました」
藤花に仕える腰元の中には通常の仕事の他に特殊な技能を必要とする二つ目のお役目を持つ者がいる。
その者らは『ある括り』に沿った名が与えられていて、その符丁を知らない者が腰元たちの名を聞いてもその関連性に気付く者は皆無なのだが、あらかじめ答えを知っている者であれば名前を聞いただけでどういう役目を持つ者なのか分かるようになっている。
当然菊花はその符丁を知っているので柘榴が母に仕えている『くのいち』だと知っている。というか、そっち方面の仕事は専門外としている菊花にくのいちの技を仕込んだのが他ならぬこの柘榴だ。
柘榴は赤味を帯びた瞳を持つ二十代半ばくらいの女性だ。しかし彼女が実際に何歳なのか不明である。なにしろ十年以上前に菊花が初めて柘榴と会った時から彼女の外見は全く変わっていないのだ。
「柘榴、少々厄介な事になりました。すぐに動ける者を集めて愛姫の救出と保護に向かって下さい。詳しい事情は菊花から聞くように」
「御心のままに。……菊花、しくじりましたね?」
スンッと鼻を鳴らした柘榴が菊花に冷ややかな目を向けた。応急処置は済ませてあるのだけれど、血の臭いまでは消せなかったらしい。
「お恥ずかしい限りです、師匠」
「話は道中で聞きましょう。案内を頼みます」
柘榴が大奥内にいた孔雀と鼈甲に声を掛けて、菊花に説明をさせながら大手門に差し掛かると、何やら門前が騒がしいことに気が付いた。
その騒ぎの中に猫柳家が借りている家の貸主である門番の片桐がいたので菊花は声を掛けてみた。
「大家さん、こんにちは」
「おぉ、お菊ちゃんかい。相変わらず別嬪さんだねぇ。余三郎の坊ちゃんたちは元気かい?」
片桐老は白髪の混じった厳つい奴髭を左右に伸ばして人懐っこい笑みを浮かべる。
「おかげさまで健やかですわ。ところで何やら騒がしいようですけれど、何かあったんですか?」
「それがなぁ……話が大きすぎてよく分からないんだよ。いや、話自体はちゃんと伝わってるんだけど話の規模が大きすぎて、にわかには信じられねぇ事が起きてるそうなんだ」
「……もしや、愛姫様のことで?」
菊花の後ろで立ち止まって何気ないふうを装いながら話を聞いていた柘榴たちが胸の内で焦りを含んだ緊張を膨らませていたら、片桐が「いやいや」と顔の前で手振ったので皆ほっと肩の力を緩めた。
「そっちはそっちで大変なんだが、どうやら謀反を企んでいた奴がいたそうだ」
「謀反!?」
ほっと力を抜いていた柘榴たちの顔が再び緊張で固まった。
片桐はあまり長話をするほうではない。そんな彼が説明するので、それが逆に話の内容がぎゅっと要約される結果となり、聞いている菊花たちに理解しやすかった。
その話によると、ほんの四半時前に多数の人足たちが浜町の番屋に駆け込んで来たらしい。
彼らが言うには騙されて奴隷労働を強制されていたらしく、そこから逃げてきたところを通りがかりの同心に保護されたそうだ。
「奴隷労働させられていた人足が逃げてきたというところまでは分かりますけど、どうして浜町に?」
菊花の疑問は当然だった。
浜町は日本橋を通る人々のざわめきすら聞こえてくるほどの、いわば江戸の中心にある地域だ。
江戸の郊外では建材となる木材の切り出しや石材の運搬などの肉体的に過酷な作業を行っている場所が多くある。
そんな辛い仕事をする男たちは大抵博打で大きな借金を背負った野郎か、重罪を犯した犯罪者たちで、そういった者たちが仕事の辛さに耐えかねて、親方の監視が緩んだ隙をついて逃げ出したという話は茶受けの話題にもならないほどありきたりな話だ。
そんな彼らが作業場の山間を抜けて江戸の郊外にあたる多摩や品川あたりにまで逃げてきたというのなら何の違和感もない普通の出来事なのだが、奴隷たちはいきなり江戸の中心に湧いて出てきたのだ。
その奴隷たちはいったいどこで働かされていたのだろう?
「それなんだがね……働かされていたのはこの下らしい」
そう言って片桐は自分の足元を指差した。
「この下?」
「そいつら、どうやら江戸城に忍び込むための地下通路を掘らされていたらしいんだよ。その地下通路の出入り口が浜町の番屋からほど近いところにある瓶底寺で、奴らはそこから出てきたんだと」
「瓶底寺? 伝試練寺ではなく?」
菊花の問いに片桐は「伝試練寺?」と眉を寄せて記憶を確かめた。
「……いや、確かに瓶底寺だと聞いた。そもそも伝試練寺はそいつらが駆け込んだ浜町の番屋からそれなりに距離があるよ」
菊花が佐吉とやりあったのは伝試練寺だ。菊花は直感でこの集団脱走の件と愛姫の件が重なっているんじゃないかと内心で結び付けていたのだが、どうやら別件らしい。
菊花は背後でこの話を聞いていた柘榴に振り返って視線で『どうしますか?』と判断を仰いだ。
それに対して柘榴の答えは早くて明確だった。
「私たちがお使いを頼まれたのは伝試練寺です。興味を引くお話ではありますが今は頼まれたお使いを済ますことを優先しましょう」
「おや、お女中さん方は伝試練寺にお使いを頼まれてたのかい。なるほど、それで伝試練寺かって訊いたのか。……そうだねぇ、これから瓶底寺へ行くってなら今は危険だから止めたが伝試練寺なら大丈夫だろう。でも気をつけて行くんだよ」
「お気遣いありがとうございます。では、」
柘榴は淡々とした口調で礼を述べると、未だに戸惑っている菊花を連れて門を通った。
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