この溺愛は極上の罠

日向そら

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1巻

1-3

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 教えてもらった欠品商品を頭に叩き込み、代替品を再注文して電話を切る。そして更衣室に駆け込み、ロッカーを開けて鞄を引っ掴んだ。
 キャッシャーにいたスタッフに聞けば、相良さんはもう店を出たらしい。

「ごめん! 一番外で取るから何かあったら電話して!」

 ちなみに一番とはお昼休憩。二番は夜休憩で三番はトイレだ。
 店を出て左右を見回し、この通りでは珍しいスーツの背中を見つけて追いかける。

「相良さん!」

 足を止めた相良さんに、私は首にぶら下げていたネームプレートを頭から引き抜きながら詰め寄った。

「どういうことなんですか!? 相良さんが新しいオーナーなんて」

 私の勢いにひるんだ様子もなく、彼はゆっくりと身体ごと振り返った後、肩で息をする私を見て苦笑した。

「ごめんね。驚かせちゃって」

 そりゃ驚きますよ!

「お家を訪ねて名刺を貰った時に気がついたんだけど、驚かせようかと思って」

 え、そんなノリ?
 くすくす笑う相良さんに複雑な気持ちになる。あの時言っておいてくれれば、いくらか心の準備ができたのに……!
 私は胸を押さえて、息を整えてから口を開いた。

「私、オーナーが代わるって全然聞いていなくて」

 ちなみに店長室から出た後、すぐにオーナーへ電話をかけてみたものの、呼び出し音もなく留守電に切り替わってしまった。一応『またお電話します』とだけメッセージを入れたけれど、店長の『信頼されていない』っていう言葉が引っかかって、何度もしつこくかけることはできなかった。

「そうなんだ? 以前から話は進んでいたんだけどね」

 相良さんはそう言って肩をすくめてみせる。どこか白々しらじらしく聞こえるのは気のせいだろうか。

「あの……」

 中途半端はんぱに呼びかけたものの、次の言葉が出ない。悩んで黙り込んでしまった私に、相良さんは穏やかに微笑んだまま言葉を重ねた。

「前から本業のコンサルとマーケティングの総仕上げとして、アパレルをやってみたかったんだ。今この業界は失速しているから、業績を右肩上がりにできたら本業の実績になるし……あの店は帰りに寄れるくらい家に近いしね。ああ、ここからも見える。あそこの十二階だよ」

 釣られるように見上げた彼の指の先には、駅直結のマンションがあった。お店のポストにも何度か広告が入っていたから知っている。確か完成したばかりで、一番狭い部屋でも億に近かったはずだ。分かっていたけれど、やはり本物のお金持ちなのだと改めて思う。

「立地的にも、規模や環境条件的にも、ちょうどいい物件だったんだ」

 相良さんは全く自慢することもなく、目を細めてそう続ける。
 ……いや、うん。マンションの値段はとりあえず置いといて。
 本業の一環としてお店を買い上げたってことなんだよね? そうか、そういう人も服屋のオーナーになるんだ。私はずっとアパレル一本で来たから、知識も視野も狭くて恥ずかしくなった。

「本当に凄い偶然だよね。僕もあんまりびっくりしたから、どうせならサプライズにしようと思ったんだけど、オーナーが代わることを知らなかったなら、悪いことしちゃったね」
「いえ……」

 言われなかったのは、こっちの事情だし……
 オーナーのことを思い出して少し暗い気持ちになったその時、相良さんが何か思いついたように声を上げた。

「もしかすると乃恵さんが引き合わせてくれたのかな」
「え? あ、そう、かもしれませんね……?」

 不意に出てきたお母さんの名前に一瞬驚いたものの、そもそもこの人との出会いのきっかけは、お母さんだった。

「それとも、いっそ運命にしてみる?」

 ……ん?
 軽い口調で言われた内容を反芻はんすうして、私は眉をひそめた。
 何か含みがありそうな視線。つ、と一歩近づいて顔を覗き込んできた相良さんは、ふふっと声を立てて楽しそうに笑う。その綺麗な笑顔に、何故か肌がゾクリと粟立あわだった。

「黙り込まれると悲しいな。僕はそうだったらいいと思ってるのに」

 距離を詰められ、明らかに甘い声音でささやかれて、目をしばたたく。
 ――ちょ、突然何を言い出すんだこの人!
 運命なんて甘い言葉が自分に向けられたものだとは思えなくて、一瞬思考が停止してしまった。しかも、ここ真っ昼間の道のど真ん中!
 相良さんの淡い色の瞳に、驚いた私の顔が映っている。それが分かるくらいに距離が近い。
 そんな二人の間に、シンプルな携帯の呼出音が響いた。メールだったのだろうか、相良さんは鞄から取り出したスマホの画面を一瞬だけ確認して、ポケットにしまい込んだ。

「じゃあまた明日。しばらくは毎日顔を出すつもりだから、よろしくね」

 さっきとは違う、万人受けするさわやかな微笑みでそう言い残し、きびすを返す。

「あ、ちょっと……!」

 相良さんはあっと言う間に人混みの中へ消えていき、私は完全に置いていかれてしまった。しばらくその場で立ち尽くしていた私は、後ろから歩いてきた人にぶつかって舌打ちされる。

「す、すみません」

 ふらふらと道の端っこに移動した後、店から一番近いコンビニに寄り、二階のイートインスペースで味のしないサンドイッチをもそもそと食べる。
 その間にようやく頭に血が巡ってきて、状況を把握できた。
 ――からかわれた。それはもう盛大に。

「~~~~っ!」

 運命とか、そうだったらいいとか! なんであんなナチュラルに言葉にできるんだろう。
 えっ、口説くどかれている? なんて一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしい。あれだけイケメンなら黙っていても女の子は寄ってくるだろうから、私なんか口説くどく必要なんてないはずだもの。さっきまで相良さんに見惚みとれていたうちのお店のスタッフにだって、モデルみたいにスタイルのよい子や、可愛い子が揃っている。
 オーナーのことを黙っていた件といい、もしかして軽い性格なのかもしれない。もしくは、百歩譲って過剰なリップサービス……。ある意味、そっちの方がタチが悪い。
 相良さんにもイラッとするけれど、それより何よりイイ歳なのにさらっと流せず、小娘のように固まってしまった自分に腹が立つ! あー……、三十分前に戻りたい。そうしたら『何言ってるんですか。お店の若い女の子だったら真面目に受け取っちゃいますよ?』なんてクールに言い放ってやるのに!

「しかもオーナーについて、ちゃんと聞けなかったし」

 誰もいないのをいいことに、ぽそりと呟いてカウンターに肘をつき、溜息をらす。
 そして手早く昼食を済ませ店に戻ると、店長から命令されて、残ってくれたスタッフと一緒に二階を片づける。恐らく先程のカフェスペースの話を店長も了承したのだろう。
 掃除している間に小耳に挟んだところによると、今日来たバイトの子達にはきちんと時給を支払うように、と相良さんから店長に指示があったらしい。
 ただでさえイケメンぶりに浮き足立っていた女の子達の彼への評価は天井知らずで、話題は新しいオーナーのことばかりだった。


 そして――勤めるお店のオーナーという絶対的な位置に立つ彼に、私はこれからいい意味でも悪い意味でも、振り回されることになるのである。



   二


「ありがとうございました」

 最後のお客さんをお見送りしてから、お店の扉にクローズの札をかける。時間は十九時を過ぎたところで、ビルの合間に見える夜空には、綺麗なお月さまが浮かんでいた。
 お給料日前の閑散期かんさんきだからスタッフの数を減らしたのだけど、別口の来客が多かったせいで今日もなかなか忙しかった。
 昨日の言葉通り、今日も相良さんは店に顔を出した。
 一緒にやってきたのは、改装工事の業者さんだ。二階に作ることになったカフェスペースのため一緒に来ると、あらかじめお店の方に連絡があったのである。
 なかなか仕事が早い……なんて感心してしまう。急遽きゅうきょ二階に作ったミーティングスペースで、その業者さん二人と、相良さんと私と店長の五人で打ち合わせをした。
 昨日の今日だから、隣に座った相良さんに私はかなり身構えていたけれど、本人はいたって普通の態度だった。最初から最後まで仕事の話で、私にも意見を求め、まとめてそれで終了。
 そしてそのまま業者さんと一緒に店を出ていったのである。それはもう、こちらが拍子抜けしてしまうほどあっさりと。
 ちなみに、バレンタインが近いからと、スタッフ全員に有名ショコラティエの限定ショコラを差し入れとして置いていくという心遣いもあった。
 ……相良さんへの好感度はきっと天井をぶち抜いてしまったのだろう。スタッフのSNSグループでは、新オーナーについてハートつきのコメントが飛び交っていた。ヤバい。彼女達があの甘いマスクを巡って争い始めないことを祈ろう。
 夕方休憩が取れなかったので、空腹を誤魔化すために私も綺麗なプラリネチョコを一ついただいたのだけれど、凄く美味おいしかった。ほろ苦くて甘いチョコレートの味を思い出しながら、最低限まで照明を落としてレジの金額を確認していると、奥から店長がやってきた。

「ねぇ堤さん、まだ終わんないの?」
「……もう少し待ってください」

 あからさまに不機嫌な声音で尋ねられて、心の中で溜息をつく。最終確認をして手早くポーチに現金をまとめて、今日の売り上げを店長に預かってもらう。
「お疲れ様でした」の言葉に「遅い」という性悪な返事をした彼を、心の中で舌を出して見送った。
 基本的に一日の売り上げは、こうして毎日、夜間金庫に持っていってもらうことになっている。
 そして何故ここまで店長の機嫌が悪かったのかというと、打ち合わせの前に相良さんから車で来ないでくださいね、と注意されたからである。恐らく業者さんが駐車場に車を停めた時に気づいたのだろう。
 注意とも言えないくらいのやんわりとした口調だったのに、店長は完全な膨れつらだった。まるで叱られた小学生みたいな態度にも呆れつつも、私は心の中でこぶしを握りしめていた。
 よっし! 私がいくらお客さん用の駐車場を使うなって言っても、聞かなかったんだよね!
 さすがにオーナーに言われたら停めなくなるはず。相良さんがオーナーになってくれてよかったと、初めて実感した。
 しかし――案の定というか、その後の店長は打ち合わせ中も終始苛々いらいらしていて、投げやりだったのだ。それはもう業者さんが苦笑してしまうほどで、これが身内と思うと私も恥ずかしくなってしまった。その分、相良さんが愛想よく穏やかに進行してくれたので、打ち合わせそのものに支障はなかったけれど。最後には予算の範囲内で、大体のイメージを詰めることができてほっとした。
 新設するのはカウンターと簡易キッチン。ダクトの問題があるので、工事には一か月ほどかかるらしい。営業許可証の取得や食品衛生責任者の講習を受けてもらうスタッフのスケジュールなんかもあるので、ちょうどよかったかもしれない。
 ロッカーで着替えて最後にお店の中を点検して回る。今日のバイトのシフトは六時までだったので戸締まりは一人だ。しんと静まり返った店の中は、ちょっと不気味である。

「……早く帰ろっと。今日の晩ご飯は何にしようかな」

 わざとらしいくらい大きな声で独り言を呟く。一度怖い、と思ったら普段見慣れたトルソーすら怖くなるのだ。
 足早にドアに向かおうとしたところで、鞄の中のスマホが鳴った。ぎくんっと跳ねた心臓を落ち着かせてから、ポケットのスマホを取り出して固まる。

「……げ」

 見下ろした画面には相良大貴の名前と、どこかの海のアイコン、メッセージのお知らせ通知が表示されていた。
 夕方の打ち合わせついでにメッセージアプリのIDを交換したのである。
 どうせ電話番号は知られているし、と諦め半分で教えたことを今更やんでも遅い。

『家に戻ってきてから気づいたんだけど、車のキーが落ちてなかった? 多分二階だと思います。まだお店にいるなら見てきてもらえないかな?』
「車のキー?」

 その内容を最後まで読んで、若干拍子抜けして呟く。
 落とし物、か。……びっくりした。
 うん、昨日から私はちょっと身構えすぎだ。
 会議で使ったテーブルの上には特に何もない。机に手をついてテーブルの下を覗き込んでみるけれど、何も落ちていなかった。

「ないなぁ……」

 最後に相良さんが座っていたパイプ椅子を引いてみる。すると座面に渋い茶色のレザーのキーケースがあった。
 拾い上げて柔らかいレザーをひとでして驚く。ブランド名はぱっと見て分からないけれど、物凄く手触りがよい。
 キーの刻印は日本の有名自動車メーカー。外国産の左ハンドルが似合いそうな風貌だったから、意外に感じた。
 だけど相良さんってば、見かけによらずおっちょこちょいだ。車のキーを落とすなんて、仕事に響かなかったのだろうか。

「ありましたよ、っと」

 ちょっと迷って一言だけ送る。
 すると、またスマホが鳴った。

『悪いんだけど、取りに行きたいから待っててくれないかな?』
「えー……」

 読むなり思わずぼやいてしまう。
 夕方休憩をチョコ一個で済ませてしまった私のお腹は、もう限界である。
 何分くらい待たなきゃいけないのかな、と、スマホの右上に表示された時間を見て、すぐに思いついた。
 駅前のあのマンションなら、ここで待つより私が持っていった方が早いんじゃないかな? どうせ駅までの通り道だし、玄関先で渡してさっさと帰ればいい。それに相手はオーナーである。下手に逆らってクビにされたら困る……っていうのは言いすぎだけど、最低限の心証は守っておきたい。

『持っていきましょうか』

 そう伝えると相良さんは迷ったのか、少し時間を置いて『いいの?』と返してきた。

「『どうせ通り道ですから』っと」

 そう送信すれば、今度はすぐにマンション名と部屋番号が返ってくる。
 私は車のキーをポケットにしまい込むと、電気を消してから階段を下り、お店を出て駅に向かった。
 いつもの癖で他のお店のショーウインドウをチェックしながら歩けば、あっという間に相良さんが住むマンションに到着した。
 目の前にどおぉんとそびえ立つ伏魔殿ふくまでん……いやいや高級マンション。そんなに階数はないけれど、外壁やデザインが豪華だ。
 乳白色にゅうはくしょくの大理石がかれたエントランスに入り、部屋番号を入力して呼び出しボタンを押す。すぐにスピーカーから相良さんの声で返事があり、名乗る前に濃い木目の自動扉が開いた。
 戸惑っている私へ『どうぞ』と言った後、通話が切れる。
 ……これは持ってこいと?
 インターホンのスピーカーからは、もうウンともスンとも聞こえない。恐らく向こうはカメラで私の姿を見たのだろう。
 というか、ここまで取りにきてくれたらいいのに。
 そう思って口を尖らせたものの、もう一度呼び出しボタンを押す勇気はなく、私は閉じかけた扉にかされ、その中に身体をすべらせた。
 広いロビーには上品な装飾品とソファセットが置かれていて、まるでホテルみたいだ。
 私が住む築二十九年の団地型マンションとはエライ違いである。
 私はすぐに開いたエレベーターに乗り込み、十二階のボタンを押した。
 囲われた空間にちょっとほっとしたのもつか、驚くスピードで目的階に着いてしまい、気持ちを落ち着かせる時間もなかった。
 部屋番号を確認しながら歩いていく。扉と扉の間隔がやたらと広くて遠い。
 ようやく目指していた部屋に辿り着き、インターホンを再び押すと、こちらが話す前にガチャリと扉が開いた。

「こんばんは。真希ちゃん」

 ……廊下と玄関の明暗差も手伝って、相良さんに後光が差しているみたいだ。
 端整な顔立ちに浮かんだ神々こうごうしい笑みを拝みたくなる。三日連続でもこの美貌には慣れない。美人は三日で慣れるとか言うけれど、あれはきっと嘘だ……
 一言くらいの嫌味は許されるだろう、なんて思っていたのに、圧倒されて言葉を呑み込んでしまった。
 アースカラーのざっくりとしたセーターにチノパンという普通の格好なのに、足が長いためか恐ろしく格好よく見える。至近距離だけどいつもの香りはなく、その代わりに、物凄く美味おいしそうな香りが鼻をくすぐった。
 うわぁ、今から晩ご飯かな。いい匂い……!
 途端に空腹を思い出す。
 早く帰って夕食にしたい……そうだ、叔父おじさんの野菜を使わなきゃいけないし、鍋にしよう。
 鳴りそうなお腹に慌てて力を入れて、相良さんにキーケースを差し出した。

「ありがとう。助かったよ」

 私からキーケースを受け取った相良さんは、それを玄関の小物入れらしき引き出しにしまった。
 そして再び私に視線を戻す。

「お礼って言えるほどのものじゃないけど、よかったら晩ご飯を一緒に食べていかない?」
「……え?」

 さすがにこの状況で、「喜んで!」なんて言えなかった。
 昨日、相良さんにからかわれたことは忘れていない。そんな男の部屋に無防備に足を踏み入れるほど馬鹿ではないのだ。たとえさっきからお腹を刺激するこの匂いが、どれだけ美味おいしそうでも。

「いえ。お構いなく」
「スタッフの女の子に、今日は忙しかったから、真希ちゃんが夕方の休憩を取っていないって聞いたんだ。お腹いてない?」

 やだ。一体いつの間にそんな話をしたんだろう?

「きっと食べてくれると思って二人分用意したんだけど……無駄になっちゃうな」

 そういうのは作る前に、あらかじめ聞いておいてくれませんかね!?
 だめ? と顔に書いてあるような悲しげな表情に、ぐっと言葉に詰まる。物凄い既視感。だけど今度こそ、ここで負けてはいけないと視線を逸らした。

「あの、ダイエット中なので夜は抜くことにしてるんです。こんな時間に食べちゃうと太りますし、……はは」

 なんとか角を立てずに断ろうとした私に、相良さんは小さく首を傾げる。

「ダイエットの必要は感じないけどね。……うーん、じゃ、この手は使いたくなかったんだけど」

 相良さんはそう言うと、意味深な視線を向けてきた。ニッコリと笑う彼の背中に悪魔が見えたのは、多分気のせいじゃない。

「オーナー命令って言ったらどうする?」

 思わず固まってしまった私に、相良さんは笑みを深くする。
 オーナー命令、って……?

「はい!?」

 逆らったらクビってこと!?
 ぱっと頭に浮かんだ『無職』という言葉のダメージが大きすぎて、言葉が出ない。
 ぽかんと口を開けて茫然ぼうぜんとしている私の顔があまりにも間抜けだったせいか、相良さんは口元にこぶしを当てて、くくっと喉の奥で笑う。そして上機嫌でくるりときびすを返し、私を室内にうながした。

「どうぞ」
「……あ」

 事態が呑み込めないまま明るい玄関に眩暈めまいを覚えていると、相良さんに「こっちだよ」と声をかけられる。
 足元に用意されていたスリッパに、最初からそのつもりだったのか、と今更気づく。
 どこだ。どこで私は選択を間違った? 面倒がらずにお店で待っていたらよかったの? それともマンションのエントランスに着いた時に、もう一度呼び出すべきだった?

「……」

 ああもう!
 ヤケクソ気分でふわふわのスリッパに足を突っ込み、相良さんの後を追う。
 油断しちゃ駄目だ、と自分に言い聞かせながら廊下の奥の扉を開けた途端、とてつもなく美味おいしそうな匂いが胃を直撃した。

「あまり料理をしないから、美味おいしいかどうか分からないけど」

 扉の前で立ち尽くす私にそう言って、相良さんはキッチンスペースに入っていく。
 かっこいいオープンキッチン……そして立派なソファが二つ並んでいるにもかかわらず、まだ余裕のある広いリビング。
 え、あの壁かけのテレビ、何インチあるの。後ろにあるのはホームシアター的な……?
 そんな風に油断していたせいか、結構な大きさでお腹が鳴った。

「……っ」

 ばっとお腹を押さえるものの、後の祭りである。
 そろりと相良さんをうかがえば、ばっちり聞こえたみたいで彼は口元を手でおおってうつむいていた。その肩は細かく震えている。……恥ずかしさに軽く死ねるかもしれない。この前も思ったけれど、今日で確信した。相良さんは絶対笑い上戸じょうごだ。

「……っ、たくさん食べてね」

 隠しきれない笑いに声を震わせてそう言った相良さんは、黄金色の焼き目も美しく香ばしいグラタンをダイニングテーブルの中央に置いた。
 恥ずかしさに顔を赤くしながらも、吸い寄せられるようにテーブルに近づいた私は、そこに並ぶ料理に思わず歓声を上げる。
 サーモンと白身魚のカルパッチョにいろどり豊かなサラダ、華奢きゃしゃでお洒落しゃれなカトラリーとランチョンマット。ホテルのケータリングですか? と聞きたくなるような、綺麗かつスマートな食卓に、生唾を呑み込んでしまう。

「これ全部作ったんですか……?」
「サラダは千切ってえるだけだし、作ったって言えるのはラザニアくらいだよ」

 なるほど。真ん中で一際私のお腹を誘惑するのは、グラタンじゃなくてラザニアだったらしい。
 確かに、透明の耐熱皿の横は綺麗な層になっていた。
 イケメンで料理が上手くてお金持ちとか、これがうわさのスパダリか。再び拝みたい気持ちになったけれど、目の前のこの人は、オーナーの地位を利用して私をおどした極悪人である。

「最初はシャンパンでいい?」
「シャン……」

 お洒落しゃれだ……! 未だに飲み会の乾杯は生ビールなことが多い私は、そんなところにもおののいてしまう。
 お酒は嫌いじゃないけれどあまり強くないので、できれば遠慮したい。でも断るのも角が立つし、多分シャンパンくらいなら平気だよね?

「大丈夫です。あの、何か手伝いましょうか」

 とりあえずそう申し出てみる。だけど「もう終わったから」と断られてしまった。それどころかグラス二つとボトルをテーブルに置いた相良さんは、私に椅子を引いてくれる。
 わあ、ジェントルマン……

「さぁ食べよう」

 にっこりと微笑まれて、目の前のグラスにシャンパンが注がれる。見たことのない高そうなボトルだ。

「乾杯」

 目の高さまで上げたグラスの向こうの相良さんは笑顔だった。
 初めて会った時から、彼は常に微笑んでいる。いつも笑っている人の方が怖い、って何かで読んだことがあるけれど、相良さんもそういうタイプな気がする……
 しかも、さっきみたいにおどされても、笑顔で冗談めかすせいでイマイチ危機感が持てないのだ。これは、逆に危険かもしれない。なぁなぁのうちに思惑通りに動かされて、意識しないままにズブズブと深みにはまってしまいそう……やだ怖い。
「乾杯」と、とりあえず同じ言葉を返して様子を見る。相良さんがシャンパンを口にしたのを確認してから、私もめるように口をつけた。きっ腹に炭酸はキツイかと思ったけれど、むしろ食欲を呼び覚まされて、またお腹が鳴りそうになった。

「頂きます」


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