オオカミ部長のお気に入り

日向そら

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1巻

1-3

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「っお願いします。今日で最後にしますから見逃してください!」

 副業をしていた女子社員が、停職になったことがあると、以前松岡さんから聞いた。しかも、結局居づらくなってそのまま辞めてしまったとか……
 そろりと顔を上げると、大神部長の顔にはわかりやすく、楽しそうな表情が浮かんでいた。

「あの……?」
「どうするかな。支店長とは昔からの知り合いなんだ。あの人の査定にも響くだろうし……」
「そ、そこのところをなんとか…!」

 まずい。このままじゃ職なしだ。自分はともかく、カイとモコを飢えさせるわけにはいかない……!
 頭の中をフル回転させると、なぜか脳内でモコが追いかけてきた。ふわっとしたその尻尾を掴むように、ぴん、とひらめいた。
 そうだ!

「あ、あの! 良かったらウチに遊びに来ませんか!」
「え?」
「さっきも言ったとおりウチにも猫がいます! えっと、ほら! こういう場所にはやっぱり来づらいですよね? うち、一匹はものすごく人懐っこくてお客さん好きなんで、好きなだけスキンシップできると思います!」

 名付けて『猫で気を引いて仲良くなってしまおう』作戦!
 ぐっと拳を握り締めて力説すれば、大神部長は私の勢いに驚いたらしく、数回目をまたたかせた。
 そして戸惑ったように顔を傾ける。

「……家に遊びに行ってもいいってことか?」
「え? そう言ってるつもりですけど……」
「……まぁ。そうしてもらえると嬉しいが」

 ――お、いけそう!
 確かなごたえを感じて、心の中でガッツポーズをしかけたその時――がしゃんっとガラスが割れる音が店の中に響いた。

「きゃあ!」

 次いで聞こえた悲鳴に、慌ててそちらを見る。
 いつのまにか猫スペースに入ってきていた女子高生が、猫スペースと飲食スペースの間にある扉を、開けっ放しにしていたらしい。猫が飲食スペースに入り込んで、食器を引っ繰り返してしまったようだ。再び、がしゃんと食器が割れる音とお客さんの悲鳴が聞こえ、私は慌てて立ち上がった。

「すみません! 続きはまた!」

 そう言って大神部長を残して駆け出し、猫スペースの扉をきっちり閉める。
 出ていったのは悪戯いたずら好きな猫が三匹だった。
 受付の女の子が一匹確保するのを確認してから、飲食スペースを見回してあとの二匹を探す。
 騒ぎに気付いて出てきた麻子がもう一匹を確保し、残りの一匹は苦労の末、私が確保した。
 その後、猫達の可愛い肉球を傷つけるわけにはいかないので、すぐに掃除道具を取りに行く。
 お客さんに対してはすでに麻子がフォローしており、女子高生のグループはそそくさと逃げるようにお店から出ていった。本当に最後まで人騒がせなグループだ。

「ガラスが刺さってないか、チェックしてくるね」

 一旦三匹をゲージに入れ、怪我をしていないかチェックをすると、幸いなことに上手に避けたらしく傷らしきものはなかった。ひっくり返したのはコーヒーカップだったので、火傷やけどしてないかも確認するけれど、ぬるくなっていたようで、そちらも大丈夫そうだった。
 だけどコーヒーを直接被ってしまったので、毛色はすっかりまだらに染まっている。もちろんそのままにしておくわけにはいかず、給仕係のスタッフと二人がかりで手早く洗い上げた。
 そうこうしているうちに、いつのまにか閉店時間になっていたらしい。
 麻子にドライヤーのある場所を聞こうと一旦飲食スペースに戻ると、後片付けをしていた麻子が手を止め、にやにやしながら近付いてきた。

「もう和奏が驚かせるから焦ったけど、うまいこと話はついたみたいね。彼、最後まで和奏のこと待ってたわよ~」

 ……すっかり忘れていた大神部長の存在。
 そういえば話も途中でほっぽり出したままだった。
 だけど最後まで待っていた――なんて、よほど家に来る話を詰めたかったのだろうか。
 思わず考え込んでしまった私の隙をつき、バスタオルで包んでいた猫が、急に暴れて腕から飛び出した。

「いたっ!」

 おそらくシャンプーが不本意だったのだろう。腕に派手な猫パンチを喰らってしまった。袖をまくっていたせいでき出しだった腕に薄く血がにじむ。
 ……まさに踏んだり蹴ったり。
 そんなことを思いながら、私は再び捕まえた猫を宥めて、丁寧に水分を拭きとっていったのだった。


     †


 ――ありえない場所で、ありえない人と鉢合わせてしまった翌日は月曜日で、ただでさえ気が重い。その上ガラス越しに見える雨にやむ気配はなく、いっそう気分が滅入ってきた。
 お昼少し前の今は、お昼休みにやってくるお客様に備えるようにすっと波が引く時間帯だ。
 手持ちの仕事を終え、手持ち無沙汰ぶさた気味に机の上を整理していると、松岡さんが声をかけてきた。

「ねぇ、あの子。本社から出向してきた新人じゃない?」

 耳元でぽそりと呟いた松岡さんの視線を追う。すると、階段脇のATMコーナーに、ワンピースにノーカラーのジャケットを合わせた清楚な雰囲気の女の子がいた。その首には名札がかかっている。
 確かに松岡さんが言うとおり、今年本社から出向してきた新卒の女の子だ。
 確か渉外部しょうがいぶに配属された子で佐々木ささきさん、だったと思う。本社から出向してくる新卒は、一年後には本社に戻る有名大学出身ばかりのエリートさん達だ。そういえば、今年の新人女子はとても可愛いと男性社員が盛り上がっていたっけ。

「あの子、就業時間内だっていうのに堂々とATM使ったわよ。部長に見つかる前にさっさと行けばいいのに」

 松岡さんの言葉に少し驚いて、私は背後を振り返る。
 そこに部長の姿はない。そういえば、上役達は会議でこの場にいないんだった。
 ほんと、いなくて良かった。窓サ部長は怒鳴って叱るタイプなので、聞いているこちらも嫌な気分になるし、職場の雰囲気も悪くなるので見つからないに越したことはない。用事が終わったのなら、早めに業務に戻ってほしい。
 だけどこちらの心配をよそに、佐々木さんはその場で、仲がいいのだろう窓口の派遣の女の子とおしゃべりを始めた。……バレたら結構な問題になるのだけれど、もしかして二人とも知らないのだろうか。

「――大神さんが――」

 不意に彼女達から聞こえた名前に、ぎくっと心臓が跳ねた。
 きゃあきゃあ騒いでいるところを見ると、どうやら彼の話で盛り上がっているらしい。
 一瞬無言になった私はそろりと松岡さんを見て、さりげなく尋ねてみた。

「あの、相変わらず大神部長モテモテですね……」

 松岡さんは「お」と笑顔を作って私を見る。

「ナニナニ? 宮下さんもオオカミ部長に興味出てきた?」
「……単なる好奇心です」
「またまたぁ。オオカミ部長がモテるなんて今更よ? 赴任した時の騒ぎ以降みんな表立ったアプローチはしてなかったけど、ここ最近の活躍がまたすごいしね。新しく入った派遣の子達は前の騒動を知らないし――」

 ふと、松岡さんの言葉が止まった。視線が一点に向かっている。そちらを見ると、階段から誰かが下りてきたところだった。会議室は二階にあるから部長かと思ってぎくりとしたけれど、やってきたのは長身のパンツスーツ姿の若い女の子だった。
 後ろ姿だけでもわかるスタイルの良さに感心していると、その子が佐々木さんの前で立ち止まる。仲のいい雰囲気から、どうやらあの子も新卒の出向組らしい。横顔しか見えないけれど、確かに彼女にも見覚えがある。

「ああ、ホラ。あの子、榎本えのもとさん。あの子も大神部長狙いらしいわよ」
「へぇ」

 改めて見ると、遠目にもわかるくらい美人で背が高い。
 ツンとした感じがノアールのミルクちゃんに似てるなぁ、なんてつい明後日あさってなことを考えていると、殊更声をひそめた松岡さんの言葉に一気に現実に引き戻された。

「特にあの榎本さん。大神部長と同じ法人営業部に配属されてさぁ、やっかみがすごかったらしいけれど、誰に対しても物怖じしない気の強さと優秀さで全部ね除けたっていうんだから、最近の若い子は強いわよね」
「えぇ⁉ すごっ! ホントですか」

 もちろん、私にはそんな気概も優秀さもない。
 美人の新人が大神部長と同じ部署になっただけでやっかまれた、っていうのはなんとなく聞いた記憶がある。すぐに更衣室の話題に出なくなったのですっかり忘れていたけれど、そんな経緯があったのか。
 ……あんな美人なら、お似合いだと誰もが納得しそうなのに。
 うわぁ。彼女でそれなら、地味な私が大神部長とわずかでも接点なんて持とうものなら、面白おかしく噂されるか、嫌がらせされるか……想像すらつかない。

「なんかすごいですね……」

 もはや私の口からは、乾いた笑いしか出てこない。榎本さんのきれいな立ち姿を茫然と眺めていると、その肩越しに、楽しそうにしゃべっていた佐々木さんと目が合った。私と松岡さんを交互に見つめて、長い睫毛まつげをぱちぱちとまたたかせる。
 それからふっと鼻で笑ったかと思うと、ちょっと内緒話をするみたいに二人に顔を近付ける。こちらを指差して何か言っているのがわかった。その口元はゆるく弧を描いていて、明らかに悪口を言われている雰囲気だ。……わかりやすく感じが悪い。
 こっちも噂話をしていたからお互い様だけど、松岡さんも私も一応先輩だ。むしろ勇気があるなぁ、と感心してしまった。……佐々木さんも、榎本さんに負けず劣らず気が強そうだ。

「……先輩に向かっていい度胸だわ、あの佐々木って子。清楚っぽく見せてるけど、女の子達の評判は悪いわよね。就業時間内にATM使ったの、チクってやろうかしら」

 笑顔で物騒なことを言い出した松岡さんを「まぁまぁ」と宥めているうちに、三人はそれぞれ散り散りになった。榎本さんは、そのまま営業に出るのだろう。二人と別れて外へ行き、派遣の女の子も自分の定位置に戻った。呑気に二人に手を振っていた佐々木さんも、入ってきたお客様の流れに乗るようにエレベーターに乗って、自分の部署へと戻っていった。

「いらっしゃいませ――」

 それから続々とお客さんがやってきた。十二時を過ぎるとさらにどっと増え、発券機の番号が溜まっていく。それをさばきながらも、頭の隅っこに昨日見た、猫とたわむれる大神部長の顔がちらちらとよぎって、なんだか集中できなかった。
 その後――私はお昼休憩を使い、他の女子社員からさりげなく大神部長についての情報を集めて回った。
 その結果、わかったことは大神部長は思っていた以上にモテるということ。
 この支店だけではなく、本社にもファンがいるらしく、取引先でも大人気。松岡さんに聞いた新卒の二人、特に榎本さんはかなり本気らしく、積極的にアプローチしているらしい。……私が大神部長を家に呼んだなんてバレたら……

「……」

 終業時間まで思い悩んだ末、私は申し訳ないと思いつつも、彼とは関わらない方がいいと結論付けた。つまり、ノアールで大神部長に会ったことを綺麗さっぱり忘れることにしたのである。
 なぜなら情報収集している途中で、ふと思い出したからだ。彼が私のことを知らなかったことを。
 ……幸いなことにあの時、私は名乗ってはいないし、所属先も言っていない。うちの支店は派遣や外交員を合わせたら結構な数の女子社員がいるし、その上あの時、私はすっぴんの伊達だて眼鏡だった。それに屋内だったからヒールも履いていない。目線が変わると印象も変わるはずだし、顔を合わせることがあっても、声を聞かれない限りは気付かれないのではないだろうか。
 そう思い付いてしまえば、後はもう楽な方へと流されるのが私という人間なのである。
 いや、うん。わかる、わかるよ⁉ 自分から猫見に来ますか? なんて申し出ておいて、知らないふりをするなんてありえないってことは。
 だけど、今日ちらっと大神部長の名前を出しただけで、「いいよね~!」とか「憧れる」とか夢見がちに語った女の子達の多いこと! ある意味『オオカミ上司』はアイドルみたいな存在なのである。そんな中、大神部長と仲がいいなんて噂にでもなったら、一人抜け駆けしたように思われてしまうだろう。
 ……そもそもあのモテっぷりなら、私じゃなくても、猫を飼っている女の子の一人や二人簡単に見つかると思うんだよね。ホラ、榎本さんが猫飼ってるかもしれないし!
 心の中で罪悪感を薄めるための言い訳を繰り返し、普段どおりのちょっと忙しい月曜日を何事もなく過ごした私。その日の夜には、すっかり肩の荷を下ろした気分になっていた。
 しかし、その次の日。

「わっ、オオカミ部長……!」

 誰かが呟いた声に、窓口の後ろで事務作業をしていた私は、咄嗟とっさにその場にしゃがみ込んだ。
 そう。なんと朝から、滅多に窓口に来ないはずの大神部長が顔を出したのである。
『誰か』を探すように窓口を見回し、すぐ近くにいたコンシェルジュが、そんな彼に用件を聞こうとすると「いい」と断り、すぐに立ち去った……らしい。
 これはしゃがみ込む私に「……何してんの?」とげんそうに尋ねてきた松岡さんから聞いた話だから、どこまで真実かはわからないんだけど。

「ケーブルに足引っかけちゃって!」

 なんて苦しい言い訳をしつつ、跳ね上がった心臓を宥めるべく胸を押さえる。
 た、たまたまだよね……? と自分に言い聞かせたものの、あろうことかその次の日も、大神部長はロビーに顔を見せたのである。
 今度は顔見知りらしい営業に話しかけ、そのまま結構な時間、ロビーにいた。
 その後、大神部長が帰ってから女子社員がその営業に何の用事だったのかと聞くと、法人のお得意様の会社で仲良くなった人が、個人的に投資信託を申し込みたいという話を持ってきてくれたらしい。
 今月の投資信託の目標契約数が足りていなかったから、営業も窓口ももちろん感謝し、大神部長の株はますます上昇した。もちろん私も営業目標のプレッシャーから解放されたけれど……正直、別のプレッシャーがすごい。
 その次の日も大神部長はやってきた。その仕草や視線から、確実に『誰か』を探していると確信する。
 こわいこわいこーわーいー!
 気分はまさしく、狼に捕食される前のウサギである。
 しかも他の人達も大神部長の動きには気付いており、オオカミ部長の探し人は誰だ、なんて噂になってしまった。幸いなことに大神部長は具体的に、銀行で働いている女の子を探しているとか、その探し人がチビだとか童顔だとかは口にしていない。だから窓口では、彼の探し人は今のところ『お客様の誰か』ということになっている。ちなみに窓口に来るのは、法人・渉外しょうがいには新人以外に若い女の子がいないからだろう。
 ……あえて私の身体的特徴をあげて探さないのは、彼が自分の女子社員への影響力を知っているからかもしれない。
 もちろん毎回隠れることなんてできるわけもないから、おそらく何回かは顔を見られている。
 だけど身長と化粧、そしてバイトの時に無造作に下ろしていた前髪をきっちり分けて斜めに流し、後ろもひっ詰めているおかげか、いまだその鋭い瞳が私を捉えることはなかった。……前髪の印象はやっぱり大切である。ババくさいわよ、と松岡さんに言われてもやめることはできない。


 そうして、のらりくらりと大神部長をやり過ごすこと数日。

「そうそう。昨日もオオカミ部長が窓口に来たのよ。今日来たら五日連続ね!」

 朝礼が始まるまで担当の窓口に座っていると、すでに準備をしていた松岡さんが、朝の挨拶もそこそこにそんな言葉をかけてきた。大神部長の窓口来襲は、今ではちょっとしたイベントごとになっている。
 ちなみに私は昨日、有給休暇を取っており、ここ最近の心労をいやすべく通販で買ったばかりの新しい玩具おもちゃで、モコとカイと思う存分遊んできた。そのせいかもしれない、大神部長にやけに後ろめたさを感じるのは。

「……へぇ」

 引きった顔を見られないように、机の上を整理するふりをしながら、さりげなくうつむく。

「ちょっとでも話すために、ロビーのコンシェルジュを担当したい、ってみんな取り合いよ。窓口はお客様がいると話せないからって」

 そういえば今朝の更衣室は騒がしかった。
 朝からどうしてじゃんけんをしているのかと思っていたけれど、そんな事情があったとは。
 そして本日も大神部長来襲。
 早速、じゃんけん女王となった女の子が果敢に話しかけに行くけれど、クールに追い払われていた。私は窓口でうつむき、仕事をしているふりをしてやり過ごす。
 そしてそんな心臓に悪い時間を乗り越え、迎えた開店時間。一番にやってきたお客様は、常連の呉服屋さんの奥さんだった。かなりお年を召しているけれど、シルバーグレイのつやのある髪を綺麗にまとめ、その季節にあった着物を身につけていて、所作も美しい素敵な女性だ。

早乙女さおとめさん。では判子をお預かりしますね」

 今はもう滅多に見ない象牙の判子は、モダンな縮緬ちりめんのがま口に入っていて、それだけでセンスの良さがうかがえる。万が一にもそれが汚れないよう、使った後は、綺麗に朱肉を拭いてお返しした。
 地方の支店ならではなのか、先祖代々続いている会社の経理さんと窓口が仲良くなることも多い。早乙女さんもそんな中の一人だ。

「ありがとう」
「いいえ。今日も素敵なお召し物ですね。帯留めもすごくお洒落しゃれ

 季節をそのまま映したような鶯色うぐいすいろの訪問着が爽やかで、溜息をついてしまう。フロアに早乙女さんしかいないので、これくらいのおしゃべりは許されるだろう。
 そもそも振り込め詐欺の防止のためにも、うちの支店では積極的にお年寄りに声をかけるようにしているのだ。

「あら。若い人に褒めてもらえると嬉しいわねぇ。ありがとう」

 そう言ってきちんと口紅を引いた唇を指先で隠し、上品に微笑んだ早乙女さんにちょっと心がいやされた。
 いつ見ても素敵なおばあちゃんだ。あんなふうに年を重ねられたらいいなぁ。
 しゃんと伸びた小柄な背中を見送っていると、後ろから肩を叩かれた。
 振り向いた先にいたのは、松岡さんだ。

「今日、桐谷きりたに課長が投資信託の上半期目標達成したから、食堂でおごってくれるらしいわよ」

 昨日私が休んだ時に、そんな話になったらしい。
 桐谷課長というのは、私と松岡さん、そしてもう一人、私から見て後輩にあたる田中たなかさんの直属の上司である女性課長だ。
 うちの支店の窓口には部長が一人、課長が三人いて、それぞれの課長に二人か三人、私のような平社員がついている。桐谷課長は厳しい面はあるものの、優しく頼りになる上司で、他の窓サのグループからは結構うらやましがられていた。
 やった! お昼代が浮く――能天気にそう思ったのは一瞬。
 すぐに、今このタイミングで食堂に行って、大丈夫だろうかと心配になった。
 そう。食堂イコール共用スペースだ。大神部長と鉢合わせする可能性がある。
 でもせっかく誘ってくれたのに、断るのも気が引ける。
 そもそも窓口はともかくとして、法人や渉外しょうがいの営業は外回りが多いので食堂で昼食を食べることはほとんどない。私も週に二回は食堂に行くけれど、これまで大神部長を見たことは一度もなかった。
 ……うん、まぁ大丈夫だよね?
 決して目先のえさに釣られたわけじゃない。それに大神部長が窓口に来た時に何度かすれ違ったけれど、まったく気付かれなかったので、妙な自信もついていた。
 その後、お客さんが多かったこともあり、あっという間に時間は過ぎ、時計の針は一時半。
 グループみんなで行く、ということなので、先にお昼休憩を取っていた他のグループと交替して席を立った。
 地下にある食堂は人気があり、通常のお昼休みはいつも混んでいる。でも、今の時間はそうでもないみたいだ。早めに来ていた田中さんが席を取ってくれていたので、そこに腰を落ち着けた。
 観葉植物で区切られ独立した形になっている四人テーブルに座り、課長が奮発してくれたA定食を前に手を合わせる。A定食は会社の食堂なのにお刺身がついていて、千円近くもするもセレブメニューなのである。
 ほくほくしながら課長にお礼を言って、久しぶりのお刺身の味を噛みしめる。
 お刺身美味しい……。家ではカイが食べたがるから、落ち着いて食べられないんだよね。
 世間話をしながら和やかにお昼を食べていると、一足早く食べ終えた課長がお茶を飲みながら口を開いた。

「本当は呑みにでも誘おうかと思ったんだけど、そんな時代じゃないしねぇ。せっかくの金曜日に上司に付き合わせるのも悪いかと思ってランチにしたのよ。でも食堂でごめんね」

 申し訳なさそうに眉尻を下げた課長に、お刺身を頬張っていた私よりも早く、松岡さんが首を振った。

「むしろ夜だと子供の預け先に困るし、ランチ会の方が助かりますよ」

 最近の若手は上司との飲み会を嫌がる子が多いらしい。私も呑むのは嫌いじゃないけれど、あまり酔わないせいか介抱役にまわることが多いので、こうしてランチをおごってもらえる方が気楽で嬉しい。お酒は麻子や気の置けない友達と、猫を愛でながら呑むのが一番美味しいし楽だ。
 お刺身を呑み込んで「私もです」と同意する。田中さんも頷いて口を開いた。

「私はどっちでもいいですけど、明日朝早いので、今日はランチの方で嬉しいです!」
「どこか行くの?」
「はい。横浜まで遠征です」

 今時の若い子は遠くでやるライブに行くことを、遠征というらしい。彼女とは三つしか変わらないはずだけど、こういうところにちょいちょいジェネレーションギャップを感じる。

「三連休だもんね。宮下さんは?」
「私は特に何もないですよ。家でゆっくりしようと思って」
「猫と遊ぶんでしょ」

 いつもどおりの遠慮のなさで松岡さんに言われて、むっとしつつも頷く。

「猫と一緒にのんびり過ごしますよ。あ、昨日撮った写真見ます?」
「いらんわ」

 いつもの一連の流れを披露すると、それを見ていた二人が噴き出すように笑った。
 ……休みに好きなことをして何が悪いのか。課長と後輩の、微妙に可哀想な子を見る目が痛いんだけど。
 まぁいいか。こっそりと溜息をついたのと同じタイミングで、背中側からちょっとハスキーな女の子の声がした。

「――大神部長はどう思われます?」

 一瞬、頭が真っ白になる。
 投げかけられた問いに淡々と答える声は間違いようもなく、あの大神部長のものである。
 ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちなく振り返った私の視線の先には、なんと避けに避けていた、あの大神部長が鎮座していらっしゃった。
 最初に座った時には、人が多いこともあって気付けなかった。
 どうやら向こうはランチミーティング中らしい。忙しい部署は大変ですね! と、慌てて顔を戻そうとしたところで、ばちっと目が合った。
 大神部長が目を見張ったような気がして、ぱっと顔を元の位置に戻して――すぐに後悔する。
 やばっ……今の、すごい不自然だった!
 せっかくのお刺身を味わう余裕もなく水で流し込んで、私は食べ終わったトレイを持って立ち上がった。

「課長すみません! あの、歯医者に予約の連絡入れるの忘れちゃってて、先に戻ってますね」

 食べている間に考えた言い訳を口にしながらも、どうしても後ろが気になってしまう。声を聞かれると本当にバレるかもしれないので、音量を抑えて言ったけれど……大丈夫かな。
 今も歯が痛いと思ったらしい課長が「大丈夫?」と気遣ってくれる。その優しさに良心の呵責かしゃくを感じつつ「大丈夫です。ごちそうさまでした」と頭を下げ、その場からそそくさと離れた。
 食堂を出て、少し迷ってからエレベーターじゃなく、普段あまり使わない非常階段へ向かった。
 まぁ、まさか追いかけてはこないと思うけど……
 人気ひとけがないせいか階段スペースの冷えた空気に身体を震わせ、両腕をさする。少し気合を入れて階段を上ろうとしたその時。

「……っ!」

 大きな手に肩を掴まれ、思わず叫びかけてしまった。
 ……心当たりは残念ながら、ある。
 逃げてしまおうとする本能を抑え込んでゆっくりと振り向くと、そこにはこめかみに青筋を浮かせたまま器用に笑顔を作る大神部長の姿があった。
 全身から噴き上げる捕食者のオーラに、今度こそ悲鳴を上げた。慌てて口を押さえたけれど、いっそ誰かに聞かれて助けてもらった方がよかったかもしれない。

「やっと見つけたぞ。月曜からちょこまか逃げ回って、いい度胸だな?」

 いっそ甘いと錯覚するほどの声でそうささやかれるけど、その底には剣呑な響きがある。
 めちゃくちゃ怒ってる――!
 私の肩に置かれた手が器用に動いて、くるり、と身体を返された。
 距離の近さに驚き後ずさると壁へと追い詰められる。背中に伝わるコンクリートの冷たさが、否応なしに緊張感をあおった。
 猫カフェで話した時は、もうちょっと柔らかい雰囲気があったのに、今はもう別人かと思うほどの禍々まがまがしさだ。むしろコレがオオカミ部長の真の姿かもしれない。何が彼をこんな風に変化させたのか――いや、考えるまでもない、私への苛立ち一択だ。

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