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第1章
ヴァティカンの青年枢機卿 1
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「どうやら賭けは私の勝ちのようですね、サヴォイア枢機卿」
名前を呼ばれ、背の高い若者は振り向いた。ほぼ黒に近い暗褐色の彼の髪は、光の角度によって時どき表面が虹色を帯びて見える。
レオナルド・ディ・サヴォイア――わずか十九歳の枢機卿だ。
「ずいぶん捜しましたよ」
四三四段もある長い階段を鐘楼等まで昇ってきたばかりのヴィドー枢機卿が、少し息を弾ませながらそこまで話して呼吸を整える。
「えっと……」
戸惑いを隠しつつ後ろの鐘楼台を見返すレオナルド……。
誰かに聞かれたのかとヴィドー枢機卿の顔に一瞬恐怖が走った――が、鐘つき男は食事を取りに降りて行った後で、そこには誰もいなかった。
「また私をからかいましたね。あなたには……、あなたには罪の意識はないのですかサヴォイア枢機卿?」
「ああ……まぁ、コンスタンティノポリスがオスマンに攻略されるかどうかに賭けているなんて、そんなこと見つかったらおそらく……」
「おそらくどころか絶対に破門されます。ヴァティカンの枢機卿という立場をわきまえるべき……」
「あれ? 最初はペテロの間(ま)の扉に鍵をかける当番を代わるのが褒賞だったよね。でも、『神に仕える役目を賭けるなんて神聖な任務を汚(けが)すことだ』って言い出したのは誰でしたっけ?」
「ぅぐ……ぐう」
「だから金貨にしたのに」
まあ、いずれにせよ賭けなんて神への冒涜には違いないし、罰せられても当然だが。
ただしレオナルドたちの場合は、教皇ユリウス・シルウェステルに見つかるよりも、反対派閥の誰かに知られるほうが罰が重くなるという特殊な立ち位置にいる。何しろこのレオナルドは教皇の甥で、ヴィドー枢機卿は三十半ばにして教皇の片腕と噂されるほどの人だ。たとえローマ・カトリック総本山の座にある教皇にバレたところで、たぶん叱責を受けるだけですむ。だがもし反対派の者に見咎められたりでもしたら、二人とも破門に追いやられる。あげくの果ては教皇までもが反ユリウス・シルウェステル派から責任を問われ、その座を失ないかねない。そう、この無欲な聖職者の中枢であるはずのヴァティカンだが、実は腹黒いエゴイストの固まりなのだ。
そんな渦の中に、去年いきなりユリウス・シルウェステルが訪問先から連れ帰ったわずか十九歳のレオナルドを、慣例をぶっちぎって枢機卿に叙階(任命)した時は、さすがのヴィドー枢機卿でさえ驚きで言葉をなくしていた。
「私も大聖堂のドームには幾度となく昇るのですが、ここには久しく来たことはありません。あなたは、どうしてこんなところまで?」
「……ん、街が見たかったから……かな」
だけど、本当に見たかったのは、ローマなんかじゃない。
「大聖堂の天井から眺めても、視界に入ってくるのは教会の敷地ばかり……、でもこの鐘楼は、ヴァティカヌスの丘の端に建っているから」
だから市内を一望できる。しかも誰にも邪魔されずに。
ローマの七丘――。
北に盛り上がる丘陵地は、春になって松の木々の緑がいっそう鮮やかに青空に映えるピンチョの丘だ。
南東のパラティーノの丘の手前には、古代ローマの政治の中心だったフォロ・ロマーノが見える。紀元前からガイウス・ユリウス・カエサルが整備を始めたそれらの石造りの建造物は、十五世紀の年月を経て今や埋もれかけていた。フォロ・ロマーノからポツンと隔離されたように佇んでいるのは、かつてグラディエイターたちが戦った円形競技場(コロッセオ)だ。紀元前にはもっとたくさんの建物が集合していたそのあたりは、もう何百年も使われていない。
西暦一四五一年、ユリウス・シルウェステル六世が教皇を務めるこの時代、教皇領の首都として政治の中心となっているのは、フォロ・ロマーノから少し西へ坂を登ったカピタリーノの丘に広がる建物だ。
さわやかな風が、真紅の法衣の足元をふいに揺らしていく。
「で、どうして俺の負けなんだろう? それってつまり……東ローマ皇帝の使いが、ついにこのヴァティカンまで来たってこと? ……ですか?」
「いえ、皇帝コンスタンティヌスからは書簡だけ……と私が申し上げてしまっていいのでしょうか。とにかく聖下(せいか)は、あなたをお呼びするようにと」
書簡の中身なんて読まなくてもわかっている。とうとう皇帝コンスタンティヌスが、我らがローマ教皇に頭を下げる気になったらしい。
「それはお手数をおかけしました。珍しいなと思った。だってこんな高い鐘楼塔までわざわざ灰色の枢機卿が昇ってくるなんて」
「だっ、誰が灰色ですって?」
「いえ、髪のことじゃなくて聖下の黒幕って意味で」
灰色の枢機卿はむしろ褒め言葉だ。
去年レオナルドがヴァティカンにくるまでは最年少の枢機卿だったヴィドーは、何年も教皇の側近を務めていた凄腕だ。さすがに自分の賭けの勝算が高くなってきたことを告げるためだけに、わざわざこんな古びた鐘楼塔までやってくるほど暇な人間ではない。
「デットはいつでも払う準備があるんだけど」
レオナルドが笑って金貨を一枚見せてからかうと、誇らしげな笑みがヴィドー枢機卿のまじめな顔に広がっていった。
「ふふふ、ベット(賭け金)ではなく、デット(負債)とおっしゃった時点で、私の勝ちは決まったようなものです」
「あれ? 賭け用語にずいぶん詳しいんだ?」
そこでヴィドー枢機卿はげふげふ咳をした。
「い、いえ……あのですね、そんなことより」
「ふぅ、せっかく七丘が見下ろせるとこまで昇ってきたのに……」
とはいえ、たとえ身内でも教皇命令だから、そろそろ降り始めたほうがいい。
階下に降りる前にレオナルドは、名残惜しい眼下の景色を再び見やった。
すぐ目の前にあるのに手が届かない、ローマの青い空。ポプラの鳴る音が聞こえてきそうなほど……。
今にも掴めそうなのは、呼びかけてくる風だけだ。
けれど触れたいのは、手に入れたいのは風なんかじゃなくて……。
気持ちを振り切って昇降口に向かうと、ヴィドー枢機卿も後ろに続いた。レオナルドは長すぎる前髪を弾ませ軽快に降り始めた。
「薄暗いから気をつけて」
言いながら念のため先輩枢機卿を振り返る。
「大丈夫ですよ、サヴォイア枢機卿。足を踏み外したりなんかしませんから」
なんだかんだ言ってもこの人の前では、不思議なほどありのままの自分でいられるような気がする。
たとえサヴォイア王家の後ろ盾があっても、こんな若輩の急昇進を面白く思わない者は少なくない。そういう居心地の悪い視線をずっと感じてきたレオナルドだった。だがヴィドー枢機卿だけは少し違う。彼が友好的に接してくれる理由は、教皇の縁者だから? それとも義務か、出世のための打算だろうか?
けれどもしそれだけなら、賭け事を持ちかけた時に、乗ってこなかったはずだ。神に仕える者に許しがたい遊びなんて、断るときはきっぱり反対することのできる人なのだから、この枢機卿は。
階段の下から微風が二人の額を心地よく撫でていった。
名前を呼ばれ、背の高い若者は振り向いた。ほぼ黒に近い暗褐色の彼の髪は、光の角度によって時どき表面が虹色を帯びて見える。
レオナルド・ディ・サヴォイア――わずか十九歳の枢機卿だ。
「ずいぶん捜しましたよ」
四三四段もある長い階段を鐘楼等まで昇ってきたばかりのヴィドー枢機卿が、少し息を弾ませながらそこまで話して呼吸を整える。
「えっと……」
戸惑いを隠しつつ後ろの鐘楼台を見返すレオナルド……。
誰かに聞かれたのかとヴィドー枢機卿の顔に一瞬恐怖が走った――が、鐘つき男は食事を取りに降りて行った後で、そこには誰もいなかった。
「また私をからかいましたね。あなたには……、あなたには罪の意識はないのですかサヴォイア枢機卿?」
「ああ……まぁ、コンスタンティノポリスがオスマンに攻略されるかどうかに賭けているなんて、そんなこと見つかったらおそらく……」
「おそらくどころか絶対に破門されます。ヴァティカンの枢機卿という立場をわきまえるべき……」
「あれ? 最初はペテロの間(ま)の扉に鍵をかける当番を代わるのが褒賞だったよね。でも、『神に仕える役目を賭けるなんて神聖な任務を汚(けが)すことだ』って言い出したのは誰でしたっけ?」
「ぅぐ……ぐう」
「だから金貨にしたのに」
まあ、いずれにせよ賭けなんて神への冒涜には違いないし、罰せられても当然だが。
ただしレオナルドたちの場合は、教皇ユリウス・シルウェステルに見つかるよりも、反対派閥の誰かに知られるほうが罰が重くなるという特殊な立ち位置にいる。何しろこのレオナルドは教皇の甥で、ヴィドー枢機卿は三十半ばにして教皇の片腕と噂されるほどの人だ。たとえローマ・カトリック総本山の座にある教皇にバレたところで、たぶん叱責を受けるだけですむ。だがもし反対派の者に見咎められたりでもしたら、二人とも破門に追いやられる。あげくの果ては教皇までもが反ユリウス・シルウェステル派から責任を問われ、その座を失ないかねない。そう、この無欲な聖職者の中枢であるはずのヴァティカンだが、実は腹黒いエゴイストの固まりなのだ。
そんな渦の中に、去年いきなりユリウス・シルウェステルが訪問先から連れ帰ったわずか十九歳のレオナルドを、慣例をぶっちぎって枢機卿に叙階(任命)した時は、さすがのヴィドー枢機卿でさえ驚きで言葉をなくしていた。
「私も大聖堂のドームには幾度となく昇るのですが、ここには久しく来たことはありません。あなたは、どうしてこんなところまで?」
「……ん、街が見たかったから……かな」
だけど、本当に見たかったのは、ローマなんかじゃない。
「大聖堂の天井から眺めても、視界に入ってくるのは教会の敷地ばかり……、でもこの鐘楼は、ヴァティカヌスの丘の端に建っているから」
だから市内を一望できる。しかも誰にも邪魔されずに。
ローマの七丘――。
北に盛り上がる丘陵地は、春になって松の木々の緑がいっそう鮮やかに青空に映えるピンチョの丘だ。
南東のパラティーノの丘の手前には、古代ローマの政治の中心だったフォロ・ロマーノが見える。紀元前からガイウス・ユリウス・カエサルが整備を始めたそれらの石造りの建造物は、十五世紀の年月を経て今や埋もれかけていた。フォロ・ロマーノからポツンと隔離されたように佇んでいるのは、かつてグラディエイターたちが戦った円形競技場(コロッセオ)だ。紀元前にはもっとたくさんの建物が集合していたそのあたりは、もう何百年も使われていない。
西暦一四五一年、ユリウス・シルウェステル六世が教皇を務めるこの時代、教皇領の首都として政治の中心となっているのは、フォロ・ロマーノから少し西へ坂を登ったカピタリーノの丘に広がる建物だ。
さわやかな風が、真紅の法衣の足元をふいに揺らしていく。
「で、どうして俺の負けなんだろう? それってつまり……東ローマ皇帝の使いが、ついにこのヴァティカンまで来たってこと? ……ですか?」
「いえ、皇帝コンスタンティヌスからは書簡だけ……と私が申し上げてしまっていいのでしょうか。とにかく聖下(せいか)は、あなたをお呼びするようにと」
書簡の中身なんて読まなくてもわかっている。とうとう皇帝コンスタンティヌスが、我らがローマ教皇に頭を下げる気になったらしい。
「それはお手数をおかけしました。珍しいなと思った。だってこんな高い鐘楼塔までわざわざ灰色の枢機卿が昇ってくるなんて」
「だっ、誰が灰色ですって?」
「いえ、髪のことじゃなくて聖下の黒幕って意味で」
灰色の枢機卿はむしろ褒め言葉だ。
去年レオナルドがヴァティカンにくるまでは最年少の枢機卿だったヴィドーは、何年も教皇の側近を務めていた凄腕だ。さすがに自分の賭けの勝算が高くなってきたことを告げるためだけに、わざわざこんな古びた鐘楼塔までやってくるほど暇な人間ではない。
「デットはいつでも払う準備があるんだけど」
レオナルドが笑って金貨を一枚見せてからかうと、誇らしげな笑みがヴィドー枢機卿のまじめな顔に広がっていった。
「ふふふ、ベット(賭け金)ではなく、デット(負債)とおっしゃった時点で、私の勝ちは決まったようなものです」
「あれ? 賭け用語にずいぶん詳しいんだ?」
そこでヴィドー枢機卿はげふげふ咳をした。
「い、いえ……あのですね、そんなことより」
「ふぅ、せっかく七丘が見下ろせるとこまで昇ってきたのに……」
とはいえ、たとえ身内でも教皇命令だから、そろそろ降り始めたほうがいい。
階下に降りる前にレオナルドは、名残惜しい眼下の景色を再び見やった。
すぐ目の前にあるのに手が届かない、ローマの青い空。ポプラの鳴る音が聞こえてきそうなほど……。
今にも掴めそうなのは、呼びかけてくる風だけだ。
けれど触れたいのは、手に入れたいのは風なんかじゃなくて……。
気持ちを振り切って昇降口に向かうと、ヴィドー枢機卿も後ろに続いた。レオナルドは長すぎる前髪を弾ませ軽快に降り始めた。
「薄暗いから気をつけて」
言いながら念のため先輩枢機卿を振り返る。
「大丈夫ですよ、サヴォイア枢機卿。足を踏み外したりなんかしませんから」
なんだかんだ言ってもこの人の前では、不思議なほどありのままの自分でいられるような気がする。
たとえサヴォイア王家の後ろ盾があっても、こんな若輩の急昇進を面白く思わない者は少なくない。そういう居心地の悪い視線をずっと感じてきたレオナルドだった。だがヴィドー枢機卿だけは少し違う。彼が友好的に接してくれる理由は、教皇の縁者だから? それとも義務か、出世のための打算だろうか?
けれどもしそれだけなら、賭け事を持ちかけた時に、乗ってこなかったはずだ。神に仕える者に許しがたい遊びなんて、断るときはきっぱり反対することのできる人なのだから、この枢機卿は。
階段の下から微風が二人の額を心地よく撫でていった。
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