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第3章

夜襲

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「陛下、一刻も早く夜襲をかけるべきです! 少人数で……。今のうちなら、金角湾も奪還可能です」
 作戦会議の席で、トレヴィザン将軍はコンスタンティヌス十一世に強く主張した。
「閣下のおっしゃる通り、ここは全艦隊を動かすのではなく、数隻で夜襲をかける戦略が効果的かと存じます」
 他の者たちも計画を推す。皇帝が同意を示すと、トレヴィザンは「では指揮は私が」と申し出た。
 今回のメフメトの攻略によって、これまで全面的に防御の必要の無かったところに、敵に入り込まれてしまったわけだ。危険な芽は、一刻も早く摘み取る必要があった。
 ただしオスマンが、湾の入口から六キロに渡る東ローマ帝国海軍基地に入って来ることだけはできない。内側は完全にコンスタンティノポリスとガラタに挟まれた港だ。それでもメフメトが無理に艦隊を、こちらの港より内陸側に移動したら、即座に外側からも挟み撃ちとなって、東ローマ帝国は一気に火の海と化してしまう。早いうちに予防措置を取り、後で取り返しのつかないことになるような不安の芽は摘んでおくに限るのだ。
「あのまとまりのない艦隊が、戦歴のある陸の部隊と近づいたことは、誠に先行きの危険を予感させる……。ガラタの後ろにいるサガノス・パシャの力が、海軍にも及ぶことになれば、もう脆弱(ぜいじゃく)とも言えまい。直ちに夜襲を決行せよ!」
 コンスタンティヌス十一世の声は力強く、皆の意思は固く団結した。

 夜襲は実行されたが、ガラタのジェノヴァも加わりたいと言ってきたので「早急に」とはいかず、準備に一週間も費やすはめになった。
 その夜、水面に映る光すら見えない闇を、ただ一つの明かりもないヴェネツィア艦隊が音もなく滑り出す。
 誰もが心音さえためらう緊張の中、いよいよ攻撃の瞬間――という時だった。気が急いたのかガレー船の船長は、トレヴィザン将軍の命令を待たず砲撃に出た。
「放てぇ!」
「待てっ! 機を待たぬか、貴様……」
 ……と、その直後、オスマンから凄まじい大砲が鳴り響く。ガレー船は息もつけぬほど続けざまにオスマンの砲撃を受け、瞬く間に炎に包まれた。
 真っ暗な夜の闇に、激音と炎が走る。
 耳をつんざく轟音は、すぐ傍だ。
「こ、これはっ、敵に動きが読まれている……」
 凄まじい叫び声が飛び交う中、ヴェネツィアのガレー船は炎上して沈んで行った。
「方向転換っ!!」
 戦略を急遽変更させられるはめになったトレヴィザンの船も集中砲撃に捕らえられる。
(撃沈直前に何とかボートで避難するしか道はない!)
 二時間に渡る戦闘の末、トレヴィザンは左腕に創傷を受け、夜襲は東ローマ帝国側の惨敗に終わる。
 損失はヴェネツィアの小型艦船二隻と、兵士の数は八〇人もにのぼった。
 皇帝メフメトは見せしめとして、捕らえたビザンティン軍の兵士を、コンスタンティヌス十一世によく見える場所で斬り殺すという残虐な処刑を執行した。
「陛下もしや……いえ、これは杞憂であってくれればと願うばかりですが……、なぜガラタのジェノヴァ人は、あれほど準備に時間を要したのでしょう?」
 無残に失ったトレヴィザンの部下の命を考えると、苦虫を噛み潰したような顔で、ノタラスは皇帝に心に秘めていた疑惑を打ち明けた。
「つまり、故意に……か?」
「断言はできませんが」
 この悲劇は東ローマ帝国を打ちのめしたばかりか、襲撃の準備に長くかかり過ぎたのは、オスマンに密告するためにわざとガラタのジェノヴァ人が時を遅らせたのではないかという疑惑が持ち上がった。特にトレヴィザン将軍の痛々しい包帯が取れるまで兵士間の言い争いは続き、ヴェネツィアとジェノヴァの関係に、深い亀裂が入り始める。

 そしてさらに、メフメト二世は、いよいよ魔王(サタン)の名にふさわしい戦略に打って出る。よりにもよって、ガラタ地区の壁の後ろとコンスタンティノポリスのブラケルナエ宮殿の城壁の外を結ぶ、浮き橋の建設を始めたのだ。
「こんなことをされては、メフメトやハリル・パシャの軍とサガノス・パシャの軍が連結してしまう……」
 いまいましい敵の作業を見つめるビザンティンは、敵軍の行き来が容易になったばかりか、橋の上からコンスタンティヌスの皇宮を狙って攻撃することまで可能になってしまったことに気づく。
 この橋は船と樽を固く縄で縛り、三メートル以上の幅がある。にもかかわらず人手が有り余っているオスマンは、わずか一日で完成した。
 チェックメイトをかけられた!
 そこに橋があるというだけで、ブラケルナエ宮殿と敵の距離が目と鼻の先にも思われるくらいに、迫り来る圧力……。そしてその湾側の壁はテオドシウス城壁と違って一重しかない。金角湾はそれを牛耳っている限りは強みなのだが、いったん敵に入り込まれると途端に弱点になってしまう。
「実は二五〇年前に、第四回十字軍の攻撃を受けてこの街が落とされたのも、この湾と皇宮の角からだったのです」
 そんなささやきが密かに流れ始める。東ローマ帝国の人びとは、もはや自分たちは魔王の手中に収められてしまったのかと、聖ソフィアに問いかけるのだった。
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