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最終章

コンスタンティヌスの子供たちよ、この地から離れ去れ

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 ドーム型の天井に並ぶ窓を通して聖堂に差し込んでくる夜明けの光は、北東から少しずつ南の窓へと移動して、今はすっかり朝の光に変わっている。聖堂の二階に描かれている聖ミカエルの金色の髪と右手の長い槍が、陽光を帯びてきらめき始めた。
 敵は、テオドシウスの壁だけでなく、金角湾側の城壁からも、四方八方から次々に東ローマ帝国に侵入してきた。ここへやってくるのも、時間の問題だろう。騒がしい外の様子は、聖ソフィア大聖堂の中にいても、戦の終わりを人びとに告げんと……。オスマン兵士の叫びだけでなく、港の方へ逃げて行く味方の兵士たちの混乱さえも、ギリシャ語ではっきりと聞こえてくる。
 その時扉が空いて、真紅の法衣の若き枢機卿が戻ってきた。肩に何か大きな物を担いでいる。レオナルドを待っていたかのように、アサナシウス総主教は信徒たちに呼びかけた。
「民たちよ、コンスタンティヌス大帝の子供たちよ、金角湾の船に乗る時が来た!」
 だが避難を促されても、立とうとしない人びとがいた。
「私たちは、皇帝と共に天に召されます。そう神に誓いました」
 戦に向かう前、皇帝コンスタンティヌスに「この地から離れ去れ」と命じられたのに、それでも運命を共にしようと決意した皇帝の崇拝者たちの返事が、レオナルドの心にさざめき立つ。西欧の者だけではなく、ギリシャの民も揺れていた。ユージェニオは「どこにいっていた」と、もの問いたげに彼を振り向く。担いでいた荷物をフィリベルトに預け、枢機卿は祭壇に進み出た。
「皇帝は、亡くなりはせぬ……。コンスタンティヌス十一世は、たとえ戦いに敗れても、その身体は神によって大理石の彫刻と化せられる。月日が過ぎて混沌がおさまったら……、やがて大天使ミカエルが降り来て彼を自由にするであろう。そして皇帝は、必ずやこの街を異教徒から取り戻す。だから……、いつかまたここへ戻ってきて共に暮らしたい者は、たとえ今は意に反しても一時的に避難せねばならぬ」
 レオナルドの言葉は、人びとの心に深く浸透していった。
 そして腰に手をかける。――あれほど酷使しても、刃こぼれひとつない鋭い刃(やいば)が鞘を抜け、空を切る音が聖堂に響き渡った――
「一人の天使が降下し、一人の男に剣を差し出して仰せられる。『この剣を取りて、神の民の復讐をせよ』と……」
 それはまさしく、ヨハネの黙示録に綴られた預言の言葉そのものだった。悪魔に襲われた街を救うため、天使ミカエルが彼に剣を与える……。
 キリストの預言をこの聖堂にいる信者の願いに置き換えて解釈すれば、天使ミカエルが復讐の剣を与えるのは、蘇ったコンスタンティヌス十一世その人だ。
 レオナルドはトマに頷いて見せた。
「今だ。今がその不思議な力を使う時だ!」
 キリ・テ・カナワが、リュートから湧き上がる泉にも似た音色で溢れだす。音色はまさに信徒を率いる天からの使いの声だった。
「おお……!」
 人びとは、立ち上がった。
「早く、金角湾へ!!」
 聖ソフィア正面の扉が、大きな音を立てて開かれる。この街を「去る」ために!

 西暦一四五三年、五月二十九日。この日コンスタンティノポリスの街は、オスマンの手に堕ちる寸前の騒然とした煙に包まれていた。生き延びるためには、ここから逃げるしかない。堰(せき)を切ったように、人びとは一斉に流れ出す。
「急がれよ!」
 アサナシウス総主教とゲオルキオス司教は、この聖堂と運命を共にする意志を示した。
「聖職者である我らは、ここに残ってもオスマンに処刑されることはない」
 固い頷きで応えると、荷物を担いだレオナルドは大聖堂を後にした。小姓の家族を伴った枢機卿は、ミケーレの遊び仲間のギリシャ人やイタリア移民たちの後に続く。
 外はごった返していた。避難する市民、逃亡する兵士、怒りの絶叫、悲鳴……、その人ごみの中にはオスマン兵もいたが、幸い彼らは教会や富豪の邸宅にある宝を我先に手に入れようとしていたため、港へ向かう逃亡者たちには見向きもしない。この街には宝飾を秘めた教会が数多く建てられている。港に停泊した船の中には、財宝など無いことは明白だったから、船に向かうことが一番安全な逃げ道なのだ。
 西の空には、メフメトの上げさせた城壁突破の成功を告げる狼煙が、幾つも幾つも次から次へと黒い煙の筋を引いている。温まり始めた明るい朝の空気を巻き上げて空高く上昇していくどす黒い筋は、金角湾の外側にいるオスマン海軍にも知らせるため、テオドシウス城壁外の陣営から長い時間に渡って、いつまでも繰り返し打ち上げられた。
 金角湾は、船に乗って逃げ出そうとする人で溢れかえっている。
「天の使いが、終末を告げている……」
 角笛の形をした港では、その時天使によって、まさにこの世の終わりを告げるトランペットが鳴らされていたのが、人びとにははっきりと聞こえた。
 逃げ出そうとする五〇〇〇の人で、船着場はひしめき合っている。避難するのは、住民だけではない。ギリシャ兵士の姿もある。オスマンの上げた城壁突破の狼煙の後、東ローマ帝国軍の将官たちは皆に退却命令を出した。港に面したこのあたりの城壁は敵の砲撃を受けることがなかったため、まだ崩れていない。船着場への門は開かれ、人びとは船を目指した。
「早く!」
 船に乗ろうと急ぐあまり、足を滑らせ水に落ちる者がいた。
「俺に掴まれ!」
 エーゲ海の戦士ジロラモは水に飛び込んで、必死で泳いでいるイタリア人を助け上げる。湾の中で、浮き橋より外側にはオスマン海軍の船もいたが、幸い彼らの目的はブラケルナエ宮殿や市内の教会の宝なので、このあたりには、敵の兵士は来ない。一方の金角湾からマルモラ海峡への出口には、まだ重い鎖が水面に張り巡らせてある。だから東からも敵海軍は入ってくることができないのだ。バルトグルはイライラしながら、金角湾入り口の外で待っている。メフメトの命令に従うにしても、将軍として自ら判断するにしても、彼にはそれしか道はなかった。
「猊下!」
 聞き覚えのある声に呼ばれレオナルドが見上げると、ヴェロッキオ船長が船の上から手を振っている。
「エルネスト、家族を先に乗せろ」
 避難民に続いてユージェニオ、フィリベルト、そして自分も乗り込む。フィリベルトが担いでいた荷物を受け取ると低いうめき声がした。
「猊下、これ以上はこの船には無理です」
 定員の五〇〇人を若干超えて、船は満員になってしまった。
「ミノット大使が、まだ……」
 言いながら彼はエルネストと伯爵夫人を振り返る。
「……おそらく、待つ必要はございません」
 夫人は、苦しそうに声を絞り出して答えたが、それ以上言葉を続けられず目をふせる。
「父は……、ここには来ないでしょう」
 母に代わって、エルネストが話を引き取った。
「守備位置は、金角湾側の宮殿付近なのです。狼煙が上がってからここまでくるのに、聖ソフィアにいた私たちよりずっと近い場所です。だから、もう……」
 ローマ・カトリックの小姓の赤いパヌエラが風に揺れている。白いレースのケープは、いつもは幼さを感じさせるのだが、父との決別を覚悟したエルネストの瞳は障壁を乗り越えて深みを増し、輝いて揺れている。
「昨夜、私たちに『待つな』と父は言いました。自分は、この帝国とともに最後まで戦うからと……」
 エルネストの言葉は、レオナルドだけでなくヴェロッキオ船長にも向けられ、構わず船を出して欲しいと訴えていた。それが父の意志なのだと……。
「出航せよ」
 エルネストの肩に腕を伸ばして枢機卿はそっと抱き寄せる。
「ギリシャ船はまだ、こんなにも残されている。大使がどれかに乗ってくれることを祈ろう」
 苦渋の決断に従い、船の錨は上げられた。
 同時にコンスタンティノポリス側につないであった、金角湾の入口の鎖を結んでいた紐も切って落とされる。重い鎖を浮かせていた筏の幾つかは沈み、残りは多数の船体が進む波に蹴ちらされるように、ガラタの対岸へ引いていく。湾の入り口南寄りをジェノヴァ船七隻、ヴェネツィアのガレー船二隻、続いてビザンティンの船が四隻滑り出す。
 と、外側からバルトグル将軍率いるオスマン海軍が湾内に入り込んできた。船に乗っていた者が全員息を飲む。背筋に恐怖が走り抜けた。
 次の瞬間に起こったのは、かつて見たこともない光景だった。
「アラー・イル・アラー! ジャグマ、ジャグマ」
 これまで鎖を挟んで戦闘態勢にあったオスマン軍は、その境界線が切られた途端、「略奪」を叫びながら、驚いたことにビザンティンの船とすれ違って行った。宝物を略奪するため、コンスタンティノポリスの市内にいち早く駆け込んだのである。
 メフメトの与えた三日間の略奪許可が、こんな功を奏するとは! おかげで敵は、避難する我われになど構わずひたすら宝を追いかける。
 人びとは戦闘を免れ次々と港を離れて行った。金角湾を出てボスポラス海峡を左に曲がり、マルモラ海へと南下を始める。この時港にはまだ十五隻の船が停泊していたが、コンスタンティノポリス市内にも、未だ二万人以上が残されていた。
 街に残ると決意した者たちは、建物の中に隠れ留まっている。特に何代にも渡って住んでいるガラタのジェノヴァ人は、ヴェネツィア人に比べてこの地を離れる者は少なかった。
 実は逃げた者と、街に残った者とでは、後になってその運命は大きく分かれてしまう。オスマンたちの略奪の手順というのは、占領した屋敷の前にまず自分の旗を立てることから始まる。そうして財宝を奪い、持てる限りの宝石や金貨を袋に詰めると、今度は奴隷にするために市民たちを捕らえた。だからその時点まで街に残っていた住民は、捕まるか殺されるかのどちらかに身をゆだねなくてはならない。奴隷にされた市民は、縄や薄手の衣服で手首を繋がれ、数珠つなぎにされてオスマン兵の前を歩かされる……、そんな不条理な運命が彼らを待っていた。
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