玲香哀愁

矢野 零時

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7志願

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 相変わらず玲香は学校にくることはなかった。そして、真治が見た玲香のことを誰にも話しはしなかった。
 やがて、学期末が近づき、定期試験の時期がやってきた。高校生であれば、その嵐から逃れることはできない。真治も毎日十二時近くまで勉強を続けた。
 その成績は職員室前の表示板に各学年の一番から五十幡まで点数とともに紙に書かれて張り出される。真治は三十二番だった。点数も自分の行きたい大学ならば合格できる範囲内にいる。だが、両親はこれでいいとは思ってくれない。できることなら公立大学、私立ならばもっと有名な大学を望んでいるからだ。
 だから、やってくる夏休みには、塾の短期講座を受けるように両親から言われた。だが、昼間は自分で勉強をするからと言って、夜に行く一週間だけのコースにしてもらった。
 だが、それを選んだのには、理由があった。
 真治は人体強化訓練所に申し込んでみようと思っていたからだ。
 やがて、夏休みが始まった。
 
 夏休み一日目。
 昭のところで勉強をしてくると母に言って真治は家を出た。勉強する気がはないのだから、いつものリュックを持っては行かない。
 手にバッグを持った真治は歩き出した。車が二車線で走る南大通りに出るとバス停でしばらく待った。やってきたバスにのると、後部座席のシートに腰をおろし、窓からの風を感じながら、街をながめた。街の家はだんだんと高い建物に変わり、やがて中央区にある官庁街の高層ビルが見え出してきた。
 バスが自衛隊入江口本部前のバス停で停まった。真治はバスをおりると顔をあげた。
 自衛隊入江口本部の弟のように並んで人体強化訓練所が立っている。
 人体強化訓練所の建物は少しブルーがかったタイルが貼られ、青ビルと呼ばれていた。三十二階建てで途中から大きなドーム状に膨らんでカタツムリの背中を思わせた。
 ビルの前に貼られた石板の通路をとおり、真治はビルに近づいた。玄関口は回転扉がついていて、真治はガラス戸を押して廻しながら中に入る。
 一階は広いロビーになっていた。壁際に受付カウンターがある。真治はそこに近づき、薄黄色の制服をきた受付嬢に人体強化研究所への行き方を聞いた。
「まず、ここで一般受付をしていただきます」
 そう言って受付嬢は受付簿に真治に名前と住所を書かせ、光るパネルの上に手をのせさせた。どうやら、指紋、さらに手の細血管網を写し取っているようだった。
「これを付けて行ってください」と言って、受付嬢は真治の胸にバッジをつけてくれた。
 それが終ると、受付嬢は左の方に見えるエレベーター昇降口を指さし、十五階でおりるように教えてくれた。
 真治はエレベーター昇降口に行き、そこで待ってやってきたエレベーターにのり込んだ。
 エレベーターには真治以外に誰ものってくる者はいなかった。そのおかげで、途中で止まることなく十五階まであがることができた。
 エレベーターのドアが開き、真治は十五階でおりた。
 十五階のエレベーター昇降口は円筒形のガラスで囲まれていた。だが、真治がつけたバッジの効果だろう。ガラスについているドアが開いたのだ。
 真正面に受付カウンターがあり、そこに受付嬢と思える女性がすわっていた。その後ろは学校の体育館を思わせるフロアが広がっている。そこには、運動機器が並び二十人ぐらいの人たちが器具を使って体を動かしていた。
 ある者はトレーニングベンチに腰を下ろして両手にダンベルを持って動かしている。スポンサーに吊りさがって懸垂をしている者やウオーキングマシンの上にのり走っている者。フィットネスバイクにまたがりペダルをこいでいる者もいた。
 思わず、真治はスポーツジムに来てしまったような気分になった。
 真治は受付カウンターにすわっている女性に近づく。
「あの、すいません」
「はい、なんですか?」
「募集ポスターにあった人体強化訓練を受けたいのですが」
「そうですか。ちょっとお待ちください」と言って、女性は手元のインターホーンで誰かと話をしていた。
 すると、フロアの右端でダンベルを持つ男を指導していた男が近づいてきた。手にスマホを持っているのを見て、それで女性と話をしていたのだろう。
 頭は髪を短く刈り上げている。上に着たランニングシャツでは上半身を隠すことはできない。筋肉が分かれて浮き出している。普段から訓練を積んでいる体だ。それを誇示しているようだった。男はカウンターをはさんで真治に向かい合う席の椅子にすわって、顔をあげている。
「きみが、ポスターを見てきてくれた人か。まずは椅子にすわってくれる」
 真治はバッグを足元に置いて近くにある椅子を引き寄せて、それにすわった。
「学生さんかね。下でも聞かれたかもしれないが、まず名前を聞こうか?」
「はい、竹内真治です」
「年はいくつ、それにどこの高校?」
「年は十七。島元高校に通っています」
「島元高校ね。ここは国の特別機関だから、十五を過ぎていれば、親の承諾なくて参加ができる所だよ」
 親の承諾なくここにきて、その者の親が断りにきたことが過去にあったのだろう。
「親に何か言われることはないですよ」と言って、真治は肩眉をあげた。虚勢をはっていたのだ。本当は、両親に黙ってここにやってきた。もし、真治がここにきたことを父母が知ったならば、すぐに取り消しにくるに違いなかった。
「誰でも受け入れてあげたいのだが、それを決めることは私にはできないのでね。まず、検査室に行って、検査を受けてもらうかな」
 男は、エレベーター昇降口と並んでいる部屋の一つを指さした。その部屋の上に検査室という表示板がつけられ板目模様のドアがついていた。
 真治は椅子から立ち上がると、ゆっくりとドアに近づいた。
 ドアを開けて中に入り、真治は、部屋の中を見廻した。どこにでもある病院の診察室を思わせた。
「失礼します」と言って、空いている丸椅子に腰をおろして、手に持っていたバッグを足元に置いた。
 白衣を着た男が肘掛け椅子にすわり、机に向かっていた。机の上にはパソコンの大画面が開かれている。何を見ているのだろうか? 真治には分からない。
 しばらくして、白衣の男はゆっくりと真治の方に顔を向けた。
 笑いかけているが目は笑ってはいない。演技をしている感じだ。
「きみが竹内真治くん」
 髪の短い男と話をした真治の個人情報はすでにデータ化されているようだった。
「はい、そうです」
「まず血を採らしてもらうよ。きみが訓練に向いているかどうか、まず確かめさせてもらわなければならないからね」
「だめな場合があるんですか?]
「人によるよ。訓練に耐えられない人がいるからね。だが、今日の分については、支払いがちゃんとされるから心配をしないでいい。それに検査は三〇分ですぐに結果が出る。それまで待っていてもらうよ」
 白衣を着た男が金の話を言い出した。ここにくる人たちの中にはお金をもらえるかどうかをすぐに心配する人がいるのだろう。
「どこで、待てばいいんですか?」
「検査室の前に長椅子がある。そこに、すわっていてくれたまえ」
 検査室に入る前、通路をはさんで反対側にソファ風な長椅子が置かれていたのを真治は思い出していた。
「そうですか」
 カーテンがひかれた。
 すると、カーテンで隠れていた検査室の奥が見え出した。そちら側に二人の看護師が立っていた。そこには治療台、検査器やレントゲン装置が置かれていた。
「こちらにすわってください」
 看護師が指さした台は白い布で覆われ、その前に丸い椅子が置かれていた。看護師に言われるままに、近くに置かれた篭の中にバッグを入れ直して真治はその椅子にすわった。
「好きな方の手を載せてください」と言われ、真治はワイシャツの袖をまくり上げ左手を台の上に載せた。
 看護婦は指先で真治の静脈をさぐり、空の注射器を血管に刺していた。注射器のガラス管の中に血が溜まり出し、その血が赤くなっていく。ガラス管に目いっぱいに血が溜まると、そのガラス管をぬき、看護婦はもう一本別のガラス管を注射器にセットし、その中にも血を溜め出した。そのガラス管にも血が溜まると、まずそれをぬき、最後に注射針をぬいて、注射針で開いた穴の上に白い四角の絆創膏をはっていた。
「では、しばらくお待ちくださいね」
 真治は言われるままに検査室から出ると、長椅子の上に腰をおろした。
 すぐに腕時計を見た。三十分なら、かなり時間がある。少し動いて見ることにした。まずエレベーターにのらないで他の階に行けるかどうか調べてみることにした。そこから玲香がいる所に行けるかもしれない。さらに、剛がいた所が分かるかもしれない。通路を歩き、非常階段を示す表示板がある所に行った。だが、そこに立つと警戒音が鳴り出した。
「何をやっているのです?」と声をかけられた。真治は声の方に顔を向けると受付カウンターにすわっていた女性が立っていた。
「他の階に行けるかと思って」
「ダメですよ。人体強化訓練所では、勝手に他には行けないことになっています」
「そうですか。トイレは?」
「行きたいのなら、ご案内しますよ」
「それはいいです。ぼくと同じ高校の玲香がここで訓練を受けているはずなんですが、どこにいるんですか?」
「申し訳ありません。他の方のことは個人情報ですのでお話できない規則になっております。さあ、元の所にお連れします」
 言われるままに、真治は検査室の前に戻り、長椅子にすわり直した。
 やがて、三十分が経った。
 看護婦に声をかけられ、真治は再び検査室に戻った。真治は白衣の男の前にすわらせられた。
「合格ですよ。Bレベルだね」
「Bレベル」
 真治は玲香がその言葉を言った時のことを思い出していた。同時に玲香の困ったような顔も脳裏に浮かんだ。
 白衣の男は真治の頭の中までは分からない。真治が知らない言葉を聞いたので不審げな顔をしたと思ったのか、白衣の男はBレベルついての説明を始めた。
「人のDNAを調べさせてもらい、その結果を区分しているんですが、その中の一つにBレベルがある。Bレベルの人たちは、運動訓練を積み重ねていけば、筋肉増強が図られ、運動神経が良くなる。つまり、重たい物が持てるようになり、早く動けるようになる。そのために、私どもは体の活性化をはかる注射液を訓練とともに打たさしてもらう。このレベルの人たちが訓練を続ければ、優秀な自衛隊員になることができる。もちろん、訓練終了後に、防衛大学への入学推薦もさせてもらいますよ」
「AとかCとかもあるんですか?」
「あるが、それがどうかしたのかね?」
「それらについても教えてくださいよ。ちなみに、どうしてぼくはAではないんですか?」
「きみは、珍しいタイプだね。Aは、特殊な遺伝子を持っている人たちなんだ。その違いは私たち専門の者でないと分からない。新発見だからね。ともかく非常に数が少ない。だが、それを持っている人たちは傷の直りが早く体の適応力も以上に高いことも分かっている。そういう人には、私の実験に協力をして
もらう。いろいろ無理をしていただくので、その代わりできるかぎりの協力金を払うことにしている。Cはね。本当は体が悪い人なんだ。腎臓病や心臓に疾患などがある人たちだね。でも、私の持っている薬が効く人がいるんだ。その人たちだけに当該訓練所入ってもらい、軽い運動をした後に私の持っている薬を注射してあげる。それだけで健康になって暮せるんだよ。その代わりにお金を貰っている。そういう人たちは、私たちにとってありがたい資金提供者だからね」
 真治は人体強化訓練所の本当の姿が見え始めたと思った。だから、不審げな表情をくずせないでいた。すると、白衣の男は、「そうそう私は検査担当の医師で伊藤道彦だよ」となのったのだ。真治は改めて、伊藤をみつめた。
 この男が伊藤なのか!
 伊藤は少し気障な感じはするが、どこにでもいる会社員にしか見えない。だが、こいつが剛さんからクローンをつくり出し、つくったクローンを抹殺し続けてきた。
「これから、人体強化訓練所に毎日通ってもらいますが、訓練を始める前、訓練を終えた後、必ずここにきて、体調を見させてもらいます」
「ところで、この後、どうすればいいんですか?」
「今日ですね。これで終わりです。この後、飯田さんから支給金をもらってください」
「飯田さん?」
「受付の所にいた女性ですよ」
 伊藤に手を振られたので、真治は篭からバッグをとると椅子から立ちあがり、検査室を出た。
 すぐに受付カウンターにいた女性、飯田がやってきた。
「それでは支給金です」と言って、白い封筒を差し出した。受け取った真治が封筒を開けると、中に一万円が入っていた。真治はその袋をバッグの中に入れてしまった。
「明日から、午後二時までに人体強化研究所に来てください」
「ここに来て、何をするんですか?」
「まず検査をさせてもらいます。次に運動器具を使ってだいたい2時間程度の訓練をしていただきます。その後、再び検査を受けてもらいます。それから訓練計画は前もって、こちらで用意をしておきますので」
 真治はフロアで運動をしている人たちの方に視線を走らせた。誰もが同じようなジャージを着ている。
「じゃ、運動着とか、着る物を持ってくることが必要ですね?」
「大丈夫です。こちらで用意しておきます」
「ぼくの体のサイズは分からないでしょう?」
「大丈夫です。竹内さんの体形はすでに映像で写させて頂いておりますので、こちらで用意しておきます」
 思わず、真治は顔を上げて天井を見廻した。天井のかどすみに監視カメラの丸い目がこちらに向けられている。
「それに汗を拭くタオルもこちらで用意しておきますし、汗を流せるシャワー室もありますのでお使いください」
 何か、聞かなければと思い、真治は頭をかしげた。そんな真治の前に飯田は、鍵を差し出した。鍵には三〇一という数字が刻まれている。
「なんですか、これは?」
「ロッカーの鍵です。その番号があなたのロッカー番号になります。ロッカー室はそこです」と言って、飯田が指差した先にロッカー室と表示のついた部屋があった。
「それから、胸につけているバッジは一階の受付で返して下さい。これからは、ロッカーの鍵がここに入るパスワードになりますので、ここに来る時は必ずお持ちください」と飯田は言い添えていた。


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