玲香哀愁

矢野 零時

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8訓練開始

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 次の日。午後一時四十五分。
 真治は定刻に間にあうように青ビルの中に入り十五階のエレベーター昇降口でおりた。少し早めに人体強化訓練所にやってくることができた。
 もちろん、親にはいつものように昭の所で勉強してくると言っている。それに昨日の夜、昭には、ここに通い出したことを話しておいた。これで何かあったら、昭がつじつまを合わしてくれるはずだ。
 受付カウンターにすわっている飯田が近づいてきた。
「お待ちしていました。昨日お話いたしましたように、まず検査を受けてください」
 ともかく、伊藤に会うしかない。
 真治はドアを開けて検査室の中に入る。
 思っていたように伊藤が肘掛け椅子にすわっていた。看護師に言われて足元の篭にバッグを入れ伊藤の真正面にある丸椅子にすわった。
「今日は先に血圧を測ってから、血も少しとらしてもらおうかな」
 伊藤がそう言うと、看護師たちは真治を治療台の方に連れていった。そこで真治の腕にゴムのバンドをまいて血圧をはかり、その後に血を採られた。再び伊藤の前に真治を連れていき、丸椅子にすわらせた。
「君の体調は良好だよ。それに合う訓練計画を作ってみた。これをもとに日々訓練を始めてください」と言って、伊藤からA五判の大きさの紙を渡された。真治が目を通すと、そこには使うべき運動器具とそれを使って行う運動内容、さらに回数が書かれていた。篭から左手でバッグをとると、真治は立ち上がった。
「ちょっと、待ちなさい」と言って、伊藤は机に向かった。
「飯田さん、来てください」と、机の上にあるインターホーンで呼んでいた。やがて、飯田が検査室に入ってきた。
「お呼びでしょうか?」
「竹内さんを塚本の所に連れて行ってやりなさい。そして、この計画書を塚本に渡して」
「はい、わかりました」
 検査室を出た後、飯田は真治をまずロッカー室に連れていった。
「ロッカーの鍵はすでにお持ちのことと思いますので、それを使ってお荷物をそこに入れてください。また、中にこちらで用意をした運動着が入っていますので、それに着替えてください。私はここでお待ちしております」
 真治はうなずき、ロッカー室に入った。
 ロッカー室は、幅五十センチ、高さ二メートルの鉄製の箱がすきまなく並んでいた。どの箱にも表示欄が正面にあって、そこに番号が書かれていた。真治は三〇一と記載のある箱を見つけ、その箱のドアを開けた。中にあるジャージや置かれている下着を取り出し床の上に置いた。空いたところにバッグを入れ、ワイシャツやズボン、さらに今まで着ていた下着を脱いで入れた。次に、足元に置いていた下着やジャージを着るとドアを閉めて鍵をかけた。その後、鍵をなくさないようにジャージの胸ポケットに入れた。

 真治はロッカー室から出てくると、外で待っていた飯田と目が合った。
「よろしいですか?」
「はい」
 飯田は真治の先に立って歩き、運動器具のおいてあるフロアの方に連れていった。
 飯田は一人の男の前に立った。真治が初めてここに来た日に会った男だ。
「塚本コーチ、新しく指導をしてもらう訓練生を連れてまいりました」と言って、飯田は
伊藤から預かった真治の訓練計画書を塚本に手渡していた。
「竹内真治くんだったね。ぼくは塚本芳郎。Bレベルのコーチをしている。先週、私が育てた五人たちが出兵している。ニュースになっていたから知っていると思うが。パレスチナの紛争解決のために我が国からも応援を出さなければならなくなった。しかし、我が国は兵隊を出すことができない。そこで、あくまでボランティア義勇兵として出兵をしてもらったんだ。次にも同じことが起きえると思うので、ちゃんと訓練をしてもらうよ」
 真治は困ったなと思っていた。顔にこそ出してはいないはずだが、その気持ちを塚本に見抜かれてしまったようだ。
「ともかく伊藤医師がBレベルとしたのであれば、それにあう強化剤を注射してくれると思う。まずは頑張ってもらうしかない」
 塚本は、そこで両腕を後ろに組んで、胸をそらした。
「これで、私が指導するのは二人になった。お互いに自己紹介をしておいてもらうかな」
 すると、先に塚本の指導を受けていた男が口を開いた。
「宮本正夫。十七歳。働いておりませんし、学校にも行っておりません」
 そっけない挨拶だった。だが、真治と同年齢だ。彼の人生を知りたいわけでないが、この後一緒に訓練をしていくことになる。それに、真治より先にここで訓練を受けていて人体強化訓練所について教えてもらえることがあるかもしれない。そう思うと笑顔を彼に向けておいた。
「ぼくは竹内真治。育成高校です」
 そう言ってから高校名は言わない方が良かったかなと思っていた。
「前もって渡されている計画書にのっとって、運動器具を使い、訓練を行ってもらう。器具の使い方が悪い場合や、付加のかけ方が足りない場合には、私から指導をさせてもらう。計画どおりに訓練が終ったら、シャワーを浴びたい人はシャワー室にいってもらう。その後、着替えてから検査室に行って伊藤医師の診察を受けて帰ってくれ。以上だ。さあ、始め」
 すべての運動器具が初めて使うことになったので、塚本から真治はみっちりと指導されることになった。
 ともかく、この日から真治は筋肉を鍛える日々が始まった。

 すぐに宮本の訓練の仕方をまの当たりにするようになる。宮本は、訓練計画の数値よりも一割ほど多く行っているのだ。計画通りでないのを塚本が見ているのに何も言わない。計画の報告が本当の結果とは違う数値が書かれ続けていることになる。
 それに引き換え、真治は決まった計画数値どおりにやるが、それ以上のことをやりはしない。だが、そんな真治の態度に対しても塚本は何も言おうとはしなかった。
 ある日、ロッカー室で訓練終了後、真治は宮本を待っていた。どんな気持ちで人体強化訓練所にいるのか知りたくなったからだ。
「どうして、そんなに体を鍛えようとするのさ」と、真治は思わず聞いた。
「ちゃんとした兵士になりたいからね」
「兵士?」
「そうだよ。兵士になって戦いたいんだよ」
「ゲームじゃない。戦いって戦争に行くってことだよ」
「でも、Bにいれば、間違いなく出兵ができるんだよ」
「出兵に行って戻ってきたという記事は新聞にのったのを見たことがない」
「たぶん戦士しているんだろう」
「このままでは、きみも死ぬことになるんじゃないのか」
「だから?」
「きみが死ぬことを悲しむ人がいるだろう」
「いないよ」
「いない」
「生きていたら、かえって悲しむ人たちがいると思うけどね」
「馬鹿な」
「俺ね。学校でいじめにあっていた。いつの間にか、学校に行けなくなった。いじめた奴らは、俺が死ねばいいと思っていたさ」
「だから、学校をやめたんだね」
「そう、次は引きこもりになった。だが、引きこもりを始めると、世話をしてくれる親父やお袋がうとましくなりだした。だから、親父も殴り、お袋も殴ったよ」
 そこで宮本は真治の方に顔を向けた。
「あんたは、親と住んでいるんだろう?」
 真治はうなずいた。
「それに憎しみに襲われことはないだろう」
 真治はまたうなずいた。
「だが、俺は違った。どうして俺を産んだのか。親父もお袋も死ねばいいと思いだしていたんだ。だから、出刃で親父とお袋を襲いだしたのさ。すると、殺されたくない二人は自分の家から逃げ出していったのさ」
「そんなことがあったんですか」
「そのままでは家にひきこまってはいれない。一人になっては、生きていく方法をさがして
外へ出た時に、ここへのチラシをもらってここに来ることになったのさ。これは運命なのさ。俺が戦地で死んで、その理由ならば、親父もお袋も泣いてくれるような気がするんだよ」
 もはや、真治は黙って宮本をみつめるしかない。
「それに、いつまでもここにいてはまずいんじゃないのかな。きみも腹に隠した物があるような気がするよ」
「そんなことはないさ」
 真治は慌ててロッカー室を後にした。


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