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一、
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「決まったよ、小説ドラマ」
マネージャーからの電話を切った奏が、弾んだ声で言うのを聞いて、由莉は顔をほころばせた。こんな夫を見るのは久しぶりである。
「おめでとう」
由莉は長身の夫を見上げて微笑みかける。
そのドラマは半年に渡って毎日連続で放送されるシリーズで、国民的番組とも言われている。一回につき十五分の短さながら視聴率が非常に高く、俳優の多くが端役でもいいから一度は出たいと願っているものだ。
女性主人公の半生を描くのがシリーズの定番で、多くの場合、若手女優をヒロインに起用するのだが、脇をかためるのは実力派であることがほとんどで、もし視聴者の目を惹きつけられれば知名度や人気がグンと上がる。
由莉の夫である俳優の高宮奏は三十二歳。舞台出身で演技力には定評がある。
テレビドラマの役柄としてエリート男性を演じることが多いせいか、今のほうが若いころより人気があるようだ。最近はそのイメージを壊したいとアウトロー的な役を求めたりもしているが、所属事務所の意向もあってなかなか難しいらしい。
「役どころは?」
「ヒロインの兄。この歳で学生から演じるのは照れくさいけど、初回から最終回まで長く出番があるんだ」
奏は嬉しそうな表情を隠さず、由莉に近付くと両手を伸ばして抱き寄せた。
「舞台は東北地方。撮影はじまったらロケで留守にすること多くなるけど、いい?」
由莉の髪をやさしく撫でる夫の手は優しい。
「だめって言ったら降板してくれるの?」
いたずらっぽく由莉が言うと、奏は妻の額にチュッと軽い音を立ててキスした。
「俺の由莉はそんなこと言わない」
「そうね」
由莉は夫の腰に手を回し、その胸に顔をうずめた。
地道な努力で鍛えられた体は適度にたくましく、しなやかで若々しい。
「でも、寂しくないわけじゃないわ」
「都内のスタジオで撮影する時もあるさ」
由莉の顔を片手で上向きにして、奏はそっと唇を重ねた。表面を押しつけるだけの軽いキス。
「かなで」
由莉は家でも外でも夫を本名で呼ぶ。
「愛してる?」
「愛してるよ」
奏ははっきりした声で言うと、由莉の顔を両手ではさみ、もう一度、今度は濃厚に唇を重ねた。熱い吐息がもれる。
「子供……」
キスの合間に由莉がつぶやく。
「子供がいれば、寂しくないかも」
奏は微笑んだが返事はせず、再び情熱的に由莉の口をふさいだ。
二人が結婚してから、由莉はずっと奏の赤ちゃんを産みたいと思っていた。だが、奏はまだいらないと先送りにしてばかりで、その話題を避けている様子だ。
「打ち合わせあるから、事務所に行ってくるよ」
長いキスを終えると、奏は足もとがおぼつかなくなった由莉をソファに座らせ、いそいそと出かける仕度をはじめた。
「遅くなる?」
火照った体をもてあましてイライラする心を、由莉は必死に隠した。
「たぶん。先に寝てて」
奏は白いシャツに上質な紺色のジャケットを着ていた。黒より紺が似合う男だった。ノーブルで清潔そうな雰囲気が漂っている。
――不潔なくせに。
由莉は目を閉じる。
いつも事務所に行く時のラフなスタイルではなかった。妻に気付かれないとでも思っているのか、奏はほのかに香水までまとっていた。
「行ってくる」
「気をつけて……」
座ったまま見送る由莉の目に、奏の左手の薬指にはめられた指輪がキラッと光って見えた。
「言っちゃえばいいのに」
市田カオルはワイングラスを揺らしながら言う。
ダイニングテーブルには生ハムとブラックオリーブ、チーズ、オレンジの乗った皿。由莉が用意しておいたものだ。
夫の職業柄、あまり自宅へ他人を入れないようにしているが、かつて由莉が所属していたモデル事務所の跡取り娘であるカオルは、気安く招くことのできる数少ない友人である。年齢は一回り離れているが、お互い駆け出しのころ苦労を共にしたせいか、腹を割って話せる関係だ。
「浮気してるでしょって?」
由莉はキッチンに立ってパエリアを作っている。炊き上がる間にジャガイモの入ったトルティージャを焼くつもりで、材料を手際よく下ごしらえしながらカオルと会話する。
「違うわよ。若い女の尻追いかけるのやめなって言っちゃえ。三十過ぎたおっさんのくせにみっともないってさ」
「ふふっ……どんな顔するか見てみたいかも」
歯に衣着せぬカオルの言葉に由莉は笑った。
「高宮さん、浮気がバレてるって知らないの?」
「うまく#騙__だま__#せてるつもりでいるんじゃないかな」
「男って馬鹿だね」
カオルは濃い赤紫色のワインを口に含む。
「あ、これ美味しい」
「リオハワインよ。マルケス・デ・カセレスのガウディウム」
夫の好むワインはスペイン産が多い。由莉があれこれ試飲させてわかったことだ。
「ガウディと関係あるっぽい?」
「ないんじゃない? ガウディウムって、スペイン語で満足とか喜びって意味らしいから」
由莉は皮肉な気持ちで口にした。
夫はこのワインを由莉に教わった時、結婚に満足して喜んでいたのだろうか。
「またそんな顔して」
カオルはオリーブをつまむ手を止めた。
「あんなに熱烈に求愛行動してた高宮さんが浮気なんかすると思わなかった」
「求愛行動って、鳥じゃあるまいし」
「だって実際そうだったでしょ。由莉にふり向いてもらいたい一心で、ファッションとか必死で勉強したんじゃない。最初すごいダサダサだったの、あたしも覚えてるわよ」
「俳優志望だったんだから仕方ないと思うけど」
「それ偏見! 芝居やってる全ての人に謝れ」
由莉は声をあげて笑った。
夫は今でこそ人気俳優だが、二十歳過ぎまでは目立たない劇団員だった。素材は悪くないのに自分を良く見せる工夫をしていなくて、そのへんでてきとうに買ってきた服を着て近所の千円カットで髪を切るような無頓着さがあった。
「俳優・高宮奏は、あんたが育てたようなもんなのに」
「そんなことないよ……私の方が四つも下で、芝居のことなんか全然わからないのに」
「見た目も中身も、魅力的な男に育てたのは由莉じゃないの」
カオルは悔しそうに言った。
「こんなことになるんなら、由莉の引退に賛成なんかするんじゃなかった。高宮さんと結婚したら幸せになれると思ったから……」
「カオルには感謝してるよ」
由莉は口角を上げる。
「愛されて結婚して、幸せになれたもの」
小さめのフライパンで焼き上げたトルティージャをナイフで切り分ける。パエリアは鍋ごとテーブルに置いた。
「それに、モデル続けてたらこんな料理も食べられないし」
由莉はエプロンを外してカオルの向かいに座った。
「どうぞ、召し上がれ」
「美味しそ……由莉、また腕上げたね」
「乾杯しよう」
グラスを合わせ、女二人の宅飲み会がはじまる。
由莉はアルコールに強い方で、あまり顔色も変えず飲める。カオルも弱くはない。ワインはあっという間に空いて、今度はカオルがたっぷりの氷を入れたボウルにパンチボウルを重ね、中をジンと炭酸水で満たした。ライムを搾ってテーブルの真ん中にドンと置く。
「すごい。どんだけ飲む気?」
由莉は笑いながらレードルですくってグラスに入れた。
「こんなのジュースみたいなもんよ。高宮さんは泊まりロケなんでしょ? 今夜はとことん飲もう」
奏は単発ドラマの撮影で北陸地方へ行っていて、明後日まで帰って来ない。
「そういえば由莉、ライター業は順調なの?」
由莉がライターの仕事をはじめたのは結婚してからだ。もともと本好きで、文章を書くのも得意だった。ネットの記事書きからスタートして、今は雑誌の仕事も受けている。
「とりあえず途切れない程度には。今、ちょっとした企画が進んでるんだ。名前が出るやつ」
「へえ、どんな?」
「だんだん子どもじゃなくなってきた子役とか、旬を過ぎつつあるアイドル、飽きられたお笑い芸人とか、そういう転機を必要としてる芸能人に密着して、彼らの再挑戦を取材するっていう趣旨で……」
「ずいぶん攻めた企画ね。そういう落ち目な人に向き合う取材なんてメンタルに来そうじゃない」
「一人あたりにかかる時間は長くなるかな。すぐ結果出して見せなきゃいけないことが多い世界で、こんな長いスパンでじっくり取材なんて企画、ちょっと珍しいかもね」
「由莉なら自分も転機経験してるから、取材自体はうまくいきそうだけど」
「そうかな」
由莉は小首をかしげる。
「転機ったって、私の場合ただ結婚して引退しただけだし」
「立派な転機よ。あれだけ人気絶頂の時に引退したんだから。それに、これからだって転機は来るかもでしょ」
「離婚はしないよ?」
「誰もそんなこと言ってないわよ」
カオルは顔をしかめる。夫の浮気に苦しんでいるのを知っていても、カオルは別れろとは言わない。由莉にその気が全くないことをわかっているからだ。
「子どもが出来たり、ライターの仕事で何か大きく動くかもしれないって意味よ。それより、その企画って取材対象はもう決まってるの?」
「候補が何人か。でもまだはっきりとは」
「じゃあ、初回はうちの事務所の子にしてくれない?」
仕事の面では、今までお互い紹介したり干渉することなど一度もなかった。
「カオルさんも次期社長らしいこと言うようになったね」
「何よ、嫌味のつもり?」
カオルは口を尖らせる。それから自分のスマートフォンを手に取った。
「ほら、この子」
見せられた画面には、カオルの事務所で本格的なショーモデルとして活動している男性モデルの画像があった。
「ショーンじゃない」
彼は子どものころからモデルとして活動していて、由莉が現役のころは事務所の後輩でもあった。
「モデル一筋の彼に転機なんか関係ないんじゃ?」
「関係あるのよ。これから俳優に転向すること考えてるんだから」
「え、今さら?」
由莉は思わず言ってしまった。最近の動向はよくわからないが、彼が#頑_かたく_#なにモデル以外の仕事を受けないことだけは知っている。
「世界で活躍っていってもトップモデルとは言えないし、英語フランス語イタリア語しゃべれてもネイティブじゃないからね、そろそろ日本で仕事して暮らしたいんだって」
「それで俳優……ね」
「芝居経験ないけど、あの派手な見た目じゃチョイ役なんか無理でしょ? だから迷ってるのよ、本人も事務所も。かといってテレビのタレントなんか、もっと無理だもの」
「ショーン君、しゃべれない子だもんね」
由莉はカオルの話にうなずき、希望が通るかどうかわからないが担当編集と話してみると約束した。
マネージャーからの電話を切った奏が、弾んだ声で言うのを聞いて、由莉は顔をほころばせた。こんな夫を見るのは久しぶりである。
「おめでとう」
由莉は長身の夫を見上げて微笑みかける。
そのドラマは半年に渡って毎日連続で放送されるシリーズで、国民的番組とも言われている。一回につき十五分の短さながら視聴率が非常に高く、俳優の多くが端役でもいいから一度は出たいと願っているものだ。
女性主人公の半生を描くのがシリーズの定番で、多くの場合、若手女優をヒロインに起用するのだが、脇をかためるのは実力派であることがほとんどで、もし視聴者の目を惹きつけられれば知名度や人気がグンと上がる。
由莉の夫である俳優の高宮奏は三十二歳。舞台出身で演技力には定評がある。
テレビドラマの役柄としてエリート男性を演じることが多いせいか、今のほうが若いころより人気があるようだ。最近はそのイメージを壊したいとアウトロー的な役を求めたりもしているが、所属事務所の意向もあってなかなか難しいらしい。
「役どころは?」
「ヒロインの兄。この歳で学生から演じるのは照れくさいけど、初回から最終回まで長く出番があるんだ」
奏は嬉しそうな表情を隠さず、由莉に近付くと両手を伸ばして抱き寄せた。
「舞台は東北地方。撮影はじまったらロケで留守にすること多くなるけど、いい?」
由莉の髪をやさしく撫でる夫の手は優しい。
「だめって言ったら降板してくれるの?」
いたずらっぽく由莉が言うと、奏は妻の額にチュッと軽い音を立ててキスした。
「俺の由莉はそんなこと言わない」
「そうね」
由莉は夫の腰に手を回し、その胸に顔をうずめた。
地道な努力で鍛えられた体は適度にたくましく、しなやかで若々しい。
「でも、寂しくないわけじゃないわ」
「都内のスタジオで撮影する時もあるさ」
由莉の顔を片手で上向きにして、奏はそっと唇を重ねた。表面を押しつけるだけの軽いキス。
「かなで」
由莉は家でも外でも夫を本名で呼ぶ。
「愛してる?」
「愛してるよ」
奏ははっきりした声で言うと、由莉の顔を両手ではさみ、もう一度、今度は濃厚に唇を重ねた。熱い吐息がもれる。
「子供……」
キスの合間に由莉がつぶやく。
「子供がいれば、寂しくないかも」
奏は微笑んだが返事はせず、再び情熱的に由莉の口をふさいだ。
二人が結婚してから、由莉はずっと奏の赤ちゃんを産みたいと思っていた。だが、奏はまだいらないと先送りにしてばかりで、その話題を避けている様子だ。
「打ち合わせあるから、事務所に行ってくるよ」
長いキスを終えると、奏は足もとがおぼつかなくなった由莉をソファに座らせ、いそいそと出かける仕度をはじめた。
「遅くなる?」
火照った体をもてあましてイライラする心を、由莉は必死に隠した。
「たぶん。先に寝てて」
奏は白いシャツに上質な紺色のジャケットを着ていた。黒より紺が似合う男だった。ノーブルで清潔そうな雰囲気が漂っている。
――不潔なくせに。
由莉は目を閉じる。
いつも事務所に行く時のラフなスタイルではなかった。妻に気付かれないとでも思っているのか、奏はほのかに香水までまとっていた。
「行ってくる」
「気をつけて……」
座ったまま見送る由莉の目に、奏の左手の薬指にはめられた指輪がキラッと光って見えた。
「言っちゃえばいいのに」
市田カオルはワイングラスを揺らしながら言う。
ダイニングテーブルには生ハムとブラックオリーブ、チーズ、オレンジの乗った皿。由莉が用意しておいたものだ。
夫の職業柄、あまり自宅へ他人を入れないようにしているが、かつて由莉が所属していたモデル事務所の跡取り娘であるカオルは、気安く招くことのできる数少ない友人である。年齢は一回り離れているが、お互い駆け出しのころ苦労を共にしたせいか、腹を割って話せる関係だ。
「浮気してるでしょって?」
由莉はキッチンに立ってパエリアを作っている。炊き上がる間にジャガイモの入ったトルティージャを焼くつもりで、材料を手際よく下ごしらえしながらカオルと会話する。
「違うわよ。若い女の尻追いかけるのやめなって言っちゃえ。三十過ぎたおっさんのくせにみっともないってさ」
「ふふっ……どんな顔するか見てみたいかも」
歯に衣着せぬカオルの言葉に由莉は笑った。
「高宮さん、浮気がバレてるって知らないの?」
「うまく#騙__だま__#せてるつもりでいるんじゃないかな」
「男って馬鹿だね」
カオルは濃い赤紫色のワインを口に含む。
「あ、これ美味しい」
「リオハワインよ。マルケス・デ・カセレスのガウディウム」
夫の好むワインはスペイン産が多い。由莉があれこれ試飲させてわかったことだ。
「ガウディと関係あるっぽい?」
「ないんじゃない? ガウディウムって、スペイン語で満足とか喜びって意味らしいから」
由莉は皮肉な気持ちで口にした。
夫はこのワインを由莉に教わった時、結婚に満足して喜んでいたのだろうか。
「またそんな顔して」
カオルはオリーブをつまむ手を止めた。
「あんなに熱烈に求愛行動してた高宮さんが浮気なんかすると思わなかった」
「求愛行動って、鳥じゃあるまいし」
「だって実際そうだったでしょ。由莉にふり向いてもらいたい一心で、ファッションとか必死で勉強したんじゃない。最初すごいダサダサだったの、あたしも覚えてるわよ」
「俳優志望だったんだから仕方ないと思うけど」
「それ偏見! 芝居やってる全ての人に謝れ」
由莉は声をあげて笑った。
夫は今でこそ人気俳優だが、二十歳過ぎまでは目立たない劇団員だった。素材は悪くないのに自分を良く見せる工夫をしていなくて、そのへんでてきとうに買ってきた服を着て近所の千円カットで髪を切るような無頓着さがあった。
「俳優・高宮奏は、あんたが育てたようなもんなのに」
「そんなことないよ……私の方が四つも下で、芝居のことなんか全然わからないのに」
「見た目も中身も、魅力的な男に育てたのは由莉じゃないの」
カオルは悔しそうに言った。
「こんなことになるんなら、由莉の引退に賛成なんかするんじゃなかった。高宮さんと結婚したら幸せになれると思ったから……」
「カオルには感謝してるよ」
由莉は口角を上げる。
「愛されて結婚して、幸せになれたもの」
小さめのフライパンで焼き上げたトルティージャをナイフで切り分ける。パエリアは鍋ごとテーブルに置いた。
「それに、モデル続けてたらこんな料理も食べられないし」
由莉はエプロンを外してカオルの向かいに座った。
「どうぞ、召し上がれ」
「美味しそ……由莉、また腕上げたね」
「乾杯しよう」
グラスを合わせ、女二人の宅飲み会がはじまる。
由莉はアルコールに強い方で、あまり顔色も変えず飲める。カオルも弱くはない。ワインはあっという間に空いて、今度はカオルがたっぷりの氷を入れたボウルにパンチボウルを重ね、中をジンと炭酸水で満たした。ライムを搾ってテーブルの真ん中にドンと置く。
「すごい。どんだけ飲む気?」
由莉は笑いながらレードルですくってグラスに入れた。
「こんなのジュースみたいなもんよ。高宮さんは泊まりロケなんでしょ? 今夜はとことん飲もう」
奏は単発ドラマの撮影で北陸地方へ行っていて、明後日まで帰って来ない。
「そういえば由莉、ライター業は順調なの?」
由莉がライターの仕事をはじめたのは結婚してからだ。もともと本好きで、文章を書くのも得意だった。ネットの記事書きからスタートして、今は雑誌の仕事も受けている。
「とりあえず途切れない程度には。今、ちょっとした企画が進んでるんだ。名前が出るやつ」
「へえ、どんな?」
「だんだん子どもじゃなくなってきた子役とか、旬を過ぎつつあるアイドル、飽きられたお笑い芸人とか、そういう転機を必要としてる芸能人に密着して、彼らの再挑戦を取材するっていう趣旨で……」
「ずいぶん攻めた企画ね。そういう落ち目な人に向き合う取材なんてメンタルに来そうじゃない」
「一人あたりにかかる時間は長くなるかな。すぐ結果出して見せなきゃいけないことが多い世界で、こんな長いスパンでじっくり取材なんて企画、ちょっと珍しいかもね」
「由莉なら自分も転機経験してるから、取材自体はうまくいきそうだけど」
「そうかな」
由莉は小首をかしげる。
「転機ったって、私の場合ただ結婚して引退しただけだし」
「立派な転機よ。あれだけ人気絶頂の時に引退したんだから。それに、これからだって転機は来るかもでしょ」
「離婚はしないよ?」
「誰もそんなこと言ってないわよ」
カオルは顔をしかめる。夫の浮気に苦しんでいるのを知っていても、カオルは別れろとは言わない。由莉にその気が全くないことをわかっているからだ。
「子どもが出来たり、ライターの仕事で何か大きく動くかもしれないって意味よ。それより、その企画って取材対象はもう決まってるの?」
「候補が何人か。でもまだはっきりとは」
「じゃあ、初回はうちの事務所の子にしてくれない?」
仕事の面では、今までお互い紹介したり干渉することなど一度もなかった。
「カオルさんも次期社長らしいこと言うようになったね」
「何よ、嫌味のつもり?」
カオルは口を尖らせる。それから自分のスマートフォンを手に取った。
「ほら、この子」
見せられた画面には、カオルの事務所で本格的なショーモデルとして活動している男性モデルの画像があった。
「ショーンじゃない」
彼は子どものころからモデルとして活動していて、由莉が現役のころは事務所の後輩でもあった。
「モデル一筋の彼に転機なんか関係ないんじゃ?」
「関係あるのよ。これから俳優に転向すること考えてるんだから」
「え、今さら?」
由莉は思わず言ってしまった。最近の動向はよくわからないが、彼が#頑_かたく_#なにモデル以外の仕事を受けないことだけは知っている。
「世界で活躍っていってもトップモデルとは言えないし、英語フランス語イタリア語しゃべれてもネイティブじゃないからね、そろそろ日本で仕事して暮らしたいんだって」
「それで俳優……ね」
「芝居経験ないけど、あの派手な見た目じゃチョイ役なんか無理でしょ? だから迷ってるのよ、本人も事務所も。かといってテレビのタレントなんか、もっと無理だもの」
「ショーン君、しゃべれない子だもんね」
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