感情は伝染する。

志月

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発覚。

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散乱した間取り図や数字の羅列が酸素の回らない頭の中をぐるぐると逡巡しては消えていく。
数ヶ月前に整理し、なるべく整頓してしまってきたはずの文具が視界を歪ませる。
使い慣れた鉛筆は歪に削られ、消しゴムは偏った方向に消耗していた。
蓋の内側から己の色を主張する絵の具は真ん中あたりを凹ませ、有象無象に転がっている。
昔、思い描いた作家や表現者はこんなにみっともなく生きては居なかった事を思い落胆のような吐息が部屋に消えていく。
いつから私はこんなにだらしなく、みっともない形で生に縋り付いていたのだろうか。
そんな思いも全て重たい缶チューハイが消してくれる。
まだ昼と夕方の境である時間にもかかわらず開けてしまった自分の自我の弱さと手にあまる人生の失望を胸に肩の力を抜くと想像していたよりもずっと血流が巡っていく。
あぁ、私はまだここでも気を張っていたのか。
きっと、私が思い憧れた人々はこんな風に他人に怯え常に肩の力が抜けないような人ではなかっただろう、と絶望する。
きっとそれぞれ苦悩や悲しみ、絶望を抱えて、それでも前を向いて生きているのだ、こんな風に卑屈に考えるのは私の性格が悪く、打たれ弱いだけだと、もうずっと前から分かっていた。
持ち慣れた缶が軽くなった頃、私は頬が火照っていることにも、考えや思考が支離滅裂になっているのも理解し、文字を刻む手を止めようとしているのに関わらず書き続ける事を諦める気はなく、タイピングを続けた。
「表現者でいたい。」
悲鳴にも似た叫びは再び肩に力を入れる。
タイピングのスピードも文章力、構成も全てが鈍っている事も無視してただ、キーボードを叩き続けた。



容量以上に詰め込んだ胃が限界の根を告げるように腹痛を訴え苦痛で目を覚ましたのは最後に時計を見てから2時間後だった。
部屋は月明かりを受け入れても尚光量が足りず、感覚を頼りに電気のリモコンを探る。
手元でうっすらと光る液晶画面は未だ県外の文字を写している。
「自分で選んだくせに。」
そんな自嘲を漏らしても、慣れひたしんだ携帯端末のネットワークが繋がらない事に不安を覚えた。
辛うじて電気と水道は未だ機能している為、電気ケトルにスイッチを入れると、次第に沸沸という音が水槽の濾過に混ざり大きくなっていく。
冬は本格的に部屋を冷やし、澄んだ空気は田舎の虫や時折聞こえる自動車の音を鮮明に形を保ったまま鼓膜を揺らす。
実家にいた頃は意識しなかった自分以外の生物が生きている音に不快感を覚えたのはここに越してきてすぐだった事を思い出した。
希望も何もない、ただ人生の選択として選んだ郊外のこの地は数人の老人がゆっくりと死を待ち、若者、と呼ばれる私のような存在をはじめこそ歓迎してくれては居たが次第に私自身の社交性のなさに飽いたのか今でほとんど干渉する事は無くなっている。
カチリ、と沸騰を知らせる音が響き、紙コップにかぶせたコーヒーフィルターに湯気と熱湯を注いでいくとタバコの匂いしか感じなかった部屋にほのかに香ばしい香りが充満した。
朝一で仕上げた原稿を送信する為WiFiをつないでPCを立ち上げると、青白い光を放ちながらデスクトップが明滅する。
真っ白なドレスに身を包んだ20代の女性は全身に幸福を纏い、はにかむように笑みを浮かべている。
脱色を知らない黒髪は和装の方が似合うかも知れない、と告げた時の担当の顔を思い出し口の中に苦味が広がった。
一般的なもので、とまとめた彼にはきっと私とは違う普通という感覚が染み付いているのだろう、と感じ心を押し殺して先方の顔を眺める。
小柄な女性は薄黄色のカーディガンに浅葱色のワンピースを纏っていて、袖口をせわしなく握りしめていた。
彼女が本当に望んでいたのはこれだったのだろうか、そう思いながらも、出来上がったデータを一刻も早く手放してしまいたく思い、紙飛行機のマークを力強くクリックする。
これでこの件と関わる事もない、彼女の幸福は私を介さない場所で進んでいく、そんな惨めったらしい気持ちに蓋をするようにコーヒーを飲み干した。

本当に私はこの仕事がしたかったのだろうか。

空を仰ぐように背もたれに体重を投げ出すと、ギィ、と鈍い金属が軋む音が聞こえる。
窓の外では雨がみぞれに変わっていた。




夕方と夜の境を駆けるバスはゆっくりと駅を目指して徐々に増え始める交通量を横目に地面を踏み殺していった。
時折揺れるバスの中は帰宅に向かう為の人を順々に乗せ、薄らと熱気を増していく。
『11月3日
あああああああああああこれは私のもの。お前らの気持ちじゃない。
あの時より変われたと思っていたが何一つ変わらなかった自分。何一つ変われていない。いつからこの思考になった?わからない。
生きたい、もっと綺麗に。それができないと知ったから死にたい。
全て誰かのせい。でも自分が悪いと理解している。死にたい。この気持ちは誰にも負けない気がしていた。私より不幸な人が許せない。
自分が一番可哀想なんだと   といた時よりも多くの自由を手にしたのにどうしてこんなに辛いの?
自分が何もできないと洗脳するのは  のせい。愛して欲しい。手離さないでほしい。
何が間違っているの。私も唯一無二が欲しい。もう全部大嫌いだ。
私の自由だろう。責任の持てない人は全員黙っていて。私はどうしようもなく死にたいんだ。全部全部大嫌いだ。
未だ、スーパーの陳列順もレイアウトも全て覚えている。そんな私も大嫌いだ。
何でお前らが生きて笑ってられるの?どうやったらそう考えられるの?何一つ理解できない。あーーーーー
いいよね、そうやって傷つける側の人間は。私には1ミリも理解出来ない。全て覚えている。全部全部。
私よりお前らが死ね、私は、悪くない。』

一番最後のページに乱雑に、横線も無視したミミズが這ったような文字の羅列はどこかに彼女の匂いを残したまま僕の知らない乱暴な言葉で書き殴られている。
これが彼女の書いた文字で思考だと納得していても理解ができなかった。
どうしてこんな、と小さく呟くと車内アナウンスが終点を告げる。
エンジン音が小さくなり、乗客が外へと吸い込まれるように霧散していく。
花火のように散り散りになっていく様を窓越しにぼんやりと見つめ、最後の一人が降りた事を確認すると重たい腰を上げ、蒸し暑い外へと身を投げた。
街灯や屋内から漏れる光に顔を背けるようにして階段を上っていくと歩道橋の下ではおもちゃのように見知らぬ人々が交差していく。
きっとすれ違った他人など、皆興味がないだろう。
けれど、今の僕には一つでも多くの情報が欲しかった。
覚えていてくれたら、良かったのに。
そんな気持ちを胸に隠し舗装されたコンクリートの上を蹴るように歩き続けた。

街明かりが遠ざかり、住宅街が家族を迎える電灯を灯した先に、一つ、寂しさを含んだような蛍光灯がポツリと立ち尽くしている。
【相田】と彫られた表札までも夏に取り残されたように冷たかった。
備え付けのインターフォンを鳴らし数秒後に女性の声が機械音となって夜空に反響する。
「はい?」
問いかけた女性の声はどこか疲弊しているようだ。
「真島です、こんばんは。」
簡潔に挨拶をすると、女性は玄関先まで迎え出てにっこりと笑い、
「どうも、毎日ありがとうね。今日も帰ってないの。」
そう告げると室内の明かりをとじ込めるようにして中へと戻ってしまった。
今日は特段調子が良くないのだろう、仕方ない。
そう言い聞かせて僕も自宅へと戻った。




僕がこうして相田家を訪れるのはもう半年程日課として行ってきた日々の項目の一つだった。
高校二年の夏から春まで所属していた部活の大会や合宿、引き継ぎで日々を消化していた僕は母が告げた幼馴染の充が家を出たことも会話の一つとなって記憶の端に消えてしまっていた。
美鶴はより4つほど年が上で県外の私立高に通うため中学の卒業式を最後に実家を出てしまっていてそれまで毎朝嫌でも顔を合わせていたのがピタリとなくなりはじめこそは寂しかったけれど高校に入って初めての夏にはもう、慣れてしまっていた。
だからこそ、僕にはどうしようもなく遠い話に聞こえ、そのうち帰ってくるだろう、と思っていたのだ。

けれど、半年経った今でも連絡を断ち切り、それまで住んでいたワンルームを手渡してどこかに越してしまったそうだ。
生死の確認は彼女が仕事で扱っているデザイン告知のサイトと時折更新する仕事のブログのみだった。
生きている、と分かっているからこそ何か理由があって連絡を寄越さないのかと、彼女の両親は捜索願を出すこともなく彼女の意思を待っているようだ、
けれど、僕にはとても不穏な空気が感じられそれを僕に託した彼女を推し量るとどうしても両親に相談することはできなかった。
彼女から郵便物が届いたのは初夏、住所はなく優作へ、とだけ書かれた茶色の封筒が自宅のポストに投函されていた。
それは、一冊の黄色いノートだった。
中身は日記のようで、手書きで綴られた彼女の葛藤を見るとどうしても、両親に託すことはできなかった。
これは、僕に向けた美鶴はの人生だ。
だから僕が彼女を見つけなくてはならない。そのための手がかりを今日も探している。
部屋の隅に放り投げた携帯は今日も鳴ることがなかった。






朝露が開けっ放しの雨戸の桟を伝い窓ガラスへと滑り落ちる。
小さな水滴は音を発するはずもないのにどこかで水の悲鳴が聞こえたような気がした。
一定間隔で振動するスヌーズを止め、固まった背筋を伸ばしたところでまた、作業机で寝てしまったことを理解した。
頭は未だ鈍くしびれうまく覚醒しない意識が鬱陶しい。
深々と冷え切った床に足をつけると接した面から体温を奪われる。
いつか、母に足ぐせが悪い、と怒られたが治すこともなく未だ椅子の上であぐらをかいてしまうため、足を下ろした際にブランケットが床に落ちた。
柔らかい毛布の感覚が心地よく、そのまま引きずるようにしてヒーターまで歩くと、外では雪が降っているのがすりガラス越しにぼんやりと見える。
通りで寒いはずだ、と納得し石油ヒーターが温まる匂いに安心感を覚えた。
どこかで、鹿が鳴いたような声がしてこの世界に生きているのが私だけではないと考えさせる。
生きていたい。死にたくない。
だから努力を積んで人が当たり前にできることを精一杯こなして、生きていかなきゃいけないと考えていたのがもう昔のことに感じる。
重く固まった四肢を引きづりながら、私は浴槽に向かった。








鬱陶しいほどのセミが鳴き始める頃、2限目の授業を終えるチャイムがなった。
小学生の頃は行間休み、として20分与えられたこの時間は今の僕に与えられることもなく、そもそも20分で何が出来るのか僕にはもう想像も出来ない。
一生懸命にボールを追った時間も今の僕にはきっと、ぼんやりと窓の外を眺めて終わってしまうだろう。
「優作!」
まただ。
その甘ったるい声に嫌気が差しつつも、その後に告げられる言葉を理解していたからこそ、僕は2限で使用したノートを前川に差し出した。
「わかってるじゃん!ありがとー!」
この女はまともに話せないのか、と悪態でも付いてみようと考えたが話すのも面倒で顔を背けたまま手をピラピラと振って返事をする。
「放課後には返すね!」
どうせ今の授業も寝ていたかアプリゲームで時間を消耗したのだろう。
こいつの未来は大丈夫なのか?
多くの人間が未来を決め、仕事を決め、これからの人生を紡ぐための準備に費やす三年の夏だというのにこの有様で、数ヶ月後の未来すら心配になる。
きちんと決めないと、前川も美鶴みたいになってしまうのに。
そんな考えが浮かんだ自分が嫌になり、3時限目は机に伏して終わった。

「優作ー!!!!」
こいつは本当に声量のネジがぶっ飛んでるんじゃないか。
「ここ図書室、静かに。」
手元から視線を外さない僕に不服だったのか前川はドン、と目の前に水色のリュックサックを下ろした。
「またそんな堅いこと言って!おじいちゃんみたい!」
昨日とは違い長居するつもりなのか前川は机に薄紅色のポーチを広げた。
「さっきはありがとね!」
ポーチから幼児向けのキャラクターが描かれたキャンディを取り出し、僕が先ほど貸したノートに乗せ机を滑らせる。
前川は数回目の脱色を終えた薄茶の髪を耳に掛け向日葵のように笑った。
「どういたしまして。」
色白で派手な見た目から男女問わず人気な前川が、僕のような目立たない人間に毎日しつこい程声を掛けるのには何か理由があるのだろうか、それとも万人にこう言った態度をとるから前川の悪口を聞いたことがないのか、ふと考えながら僕はノートを受け取った。
「んで、なにしてるん?」
相変わらずまともな日本語を話せない呪いにでもかかってるのか。
「探し物。」
僕は手短に伝えると、前川は身を乗り出してノートを覗き込んだ。
「これ優作の字じゃないね、誰の?」
告げる彼女の目つきはどこか獣のような鋭さで、肩が竦む。
「知り合いの。」
僕の返答に不満だったのか、ふうん、とそっぽを向いた前川は遠くを見つめていた。
隣接するグランドでは野球部が白球を追って走っている。







次に前川が口を開いたのは秋口に差し掛かった9月の終わりだった。
僕は未だ彼女の残した言葉の意味を知らず、残されたノートはただ劣化していった。
あの日から前川は僕を避けているのか、何かに遠慮しているのか、あえて僕に近づくのを控えているようで少し気味が悪い。
僕はいつも通り放課後を知らせるチャイムと同時に教室を抜け出し図書室へと足を運ぶ。
はめ込まれた木製の扉をスライドし、見知った顔ぶれの中所定と化した窓際の席に腰を下ろした。
肌寒くなってきたこともあり、何人かは既に冬服のワイシャツへと変わっているようで、夏と冬が混在する空間はどこかちぐはぐに思える。
「真島、隣いい?」
いつから付いて来ていたのかわからないがパイプ椅子を引き、足を組んで座る前川は少しだけ大人びた表情を浮かべている。
「どうぞ。」
数週間ぶりの前川に僕は努めていつも通りに返したつもりだったが、表情はどこか浮かないようだ。
使い古し幾つかの傷が目立ち始めたスクールバッグからノートを取り出すと、その手を前川が止めるように握った
初めて触れた前川の肌はびっくりするほど冷たく、心臓を掴まれたように肩が跳ねる。
「なに?」
前髪で表情はよく見えないけれど、薄い唇が震えているのが見えた。
「それ、急ぎでしょ。」
視線を僕に向けた前川の瞳はどこか潤んでいるようだ。
「私、ずっと真島のこと見てたからわかるんだ。
それ、多分急がないといけない。でも真島じゃ多分わからないから」


「手伝わせて。」
僕が知っている前川はいつもヘラヘラと笑っていて、何をするにもふざけたように不真面目な女の子で
可愛いものが好き、可愛い自分が好き。そんな10代特有の普通の女の子で、僕が今向き合っている悪意や憎しみなんてものとは違う世界に生きていると思っていたのに。
前川のキラキラしたペンはものすごい速さで僕の歪な円を追い抜いていく。

「ねえ、この人、今この街にいない、それで真島は探してる。
それで合ってる?」
僕が前川に教えたのは僕が知っている彼女の性格、生い立ち、そして現在どこにいるか分からない状況とこのノート。
それだけの情報しかないにもかかわらず前川は無言で頷き、視線をノートの落としたまま纏めるように問いかけた。
「うん。」
僕ら二人包んでいた蜩はもう鳴くことはなかった。

夕日が落ち、帰宅を促すチャイムが鳴っても前川はノートから離れる気配はなく、手持ち無沙汰になった僕は彼女を眺め続ける。
彼女は何者なのだろうか、手元に広げた飴玉をガリガリと嚙み砕き、時折眉間に皺を寄せる彼女はどこか美鶴に似ているような気がした。
「この人の言葉は、痛い」
暗鬱な気分が何ページにもわたって綴られたノートを、彼女は完結な言葉で表すとまた一つ、飴を噛み砕く。






僕が手に入れた彼女の時間は高校を卒業して暫く経った頃からの数ヶ月。
所謂鬱のような状態の彼女が自分の人生と意思に向き合った時間。
僕が半年をかけて理解できなかった過程を、彼女はこの日半分まで理解したようだった。


初めは小さな悩みだったはずが幾つかの種を孕んだ不安は彼女を蝕み、侵食していった。
『4月28日 快晴
少しづつ仕事に慣れてきたものの、私に合っているのかと言われれば分からない。
上司の言うことがきっと正しいはずなのに理解仕切らない自分がいた。私は何を求められ、どういった返しをしたらいいんだろうか。
学生とは違う、答え合わせが即座でない環境はわかりにくい。一つの糸を解くのは簡単だけれど、いくつも絡まった糸を解くのは容易ではないと知った。
晩御飯に食べた鯖の骨が喉につっかえているのか、うまく息ができない。
私は魚すらうまく食べれなかったのだろうか。』
仕事の悩み。
『5月4日 晴れのち曇り
彼氏ができた。高校のときぶりなので半年ぶりだ。
  はいつだって私に正解を教えてくれた。
  は私の答えのように感じる。
けれど、これでいいのだろうか。今日は特売だったコーヒーを買った。あまり美味しくは無いけれど   と同棲をすることを考えたら、
今は節約しておきたい。』

『5月27日 雨
これが正解なのか、分からない。
腫れた頬が痛い、何より、みっともない。
マスクで隠してみたけれど、涙が止まらない。今日は休んだ。』
恋愛の悩み。



『殴られる方にも原因はある、と彼は言った。
先程まで覚えていた言葉を忘れる。
頭の中にスポンジでも飼い慣らしているのか、ふわふわとして落ち着かない。
希死念慮を埋める為、手頃な自傷行為を繰り返すだけの日々。』
芽生えた希死念慮。
僕はその言葉の意味を知らなかった。
自殺願望と似たものとしか認識していなかった僕に、前川は
「具体的な計画、実行はないけど、現場の息苦しさから逃げるために自分の死を望むこと。」
と、大人びた声で告げた。

彼女の希死念慮、自傷行為は多岐に及んでいたようだ。
僕には、何1つ知らない行動だった。
けれど前川は僕にも分かりやすいように色を変えて丸をつけて行く。

赤丸
『リストカット』
黄丸
『ボディステッチ、ピアス、刺青』
緑丸
『絶食、過食』
青丸
『オーバードーズ』
紫丸
『瀉血』

付箋にまとめられた言葉で、僕が知っているのは精々赤丸のリストカット、黄丸のピアス、刺青くらいなものだった。
そもそもピアスが自傷行為に部類されることも、このとき初めて理解したことは気恥ずかしくて黙っていることにする。

「1つづつ説明するね、」
窓の外では秋の近づく足音が葉に乗って落ちていった。
僕が想像していた事よりも目の前に横たわった事実は重く、暗鬱な気分にさせる物のようだ。

「初めの方は赤丸が多くて、この日記みたいなノートを書く前から黄丸のピアスとかは多分あったと思うんだけど、緑、赤、紫ってどんどん増えてる。」
前川はどこか遠くを見つめるようにして言葉を紡いでいって、一つ一つの言葉は僕が理解しやすいように噛み砕いてくれているのに、僕とは違う世界のように思えた。
「絶食、断食までは一回で死んじゃうことってなかなか無いんだけど、青と紫は運が悪いと死んじゃったりすることがあって。」
運、腹の下辺りに石が落ちたように痛んだ。
運なんかで人の人生が左右されていいものなのか。
殺人も戦争も全て人間のエゴだと何度も授業で覚えたはずなのに、手の届く範囲の命だとどうしてこんなにも息苦しくなるのか。
人間のエゴというものを僕はこの時改めて思い知らされた。人が望んだ結果ではない、と何度も授業で習ったはずなのに目の前に手の届く範囲にある命だとどうしてこんなにも納得できないのか。
悲哀だとか慈愛だとか、そんな感情の類はきっと人類の生みだしたエゴでしか無いことを僕はこの時始めて知った。
「それで、あの。」
その言葉は、どこか気づいていたもので、直視できない僕が逃げてきた言葉だった。
「多分、死にいった。」
理解できない、と検索することを避けていたのも、あえて見ないようにしていた直接的な言葉をまとめたノートは付箋でびっしりと埋まっていて
僕のものでは無い色鮮やかな紙切れはどこか不穏な空気を纏ったまま秋風に身を擦っている。



「前川、僕は。」
いつもは一人で乗るバスを、今日は二人で停留所に影を落としている。
「まだ、間に合うかもしれない。」
前川の言葉は僕を安心させるためのものか、本心か、光の見えない瞳の向こう側に、僕は答えを見つけることができなかった。




月曜まで、と期限をつけて貸し出したノートは前川の手の中で死期を待つ野良猫のように見えた。
金曜の夜はいつもより長く感じてなかなか寝付くことができない。
答えを待つだけの僕はこんなに無力で、前川と同じだけの時間を過ごしてきたのに、どうしてこんなにも出来損ないになってしまったのか。
いつもの教室と逆転したような違和感に、自嘲した。
学力だとか、成績表なんかではなく、この世には立ち回りが上手く、頭のいい人間がいてその対象が僕ら学力しかない人を持ち上げている。
ふと、同じような内容をノートで見たような気がした。
きっと誰しも何かに悩んでいて、発端は違えど根本は似ているのだろう。
月曜の僕に待ち構えているのはなんだろうか。
ゆっくりと押し寄せてくる睡魔に僕はほんの少しの自我でぶら下がっていた。
僕の分しか受け入れてくれない温もりの向こう側では冷気が充満していて鼻先を否応なしに冷やしていく。
突如、心臓を掴むように鳴り響いた着信は空間を揺らす。
振動に交えて鳴り響く電子機器に嫌気がさしながらタップして耳に当てると聞き覚えのある声が聞こえた。
「前川だけどぉ、優作?」
いつもと変わらない前川の声は深夜の部屋には似つかわしくなく、それでも僕の心臓を抑えるように落ち着かせて行く。
「地球を見た飛行士は、言いました。
こんなに大きく青い星の下、僕の悩みなど微粒子にも満たない、と。」
何かの小説の一句なのだろうか、前川は抑揚のない声で続ける。
「私ならこう綴る。
充たなくとも充満した悩みや嫉妬、感情に僕は嫌気が差す、と。」
先ほどまで僕を支配していた眠気の中、溶け込むようにして消えていった言葉の意味を僕は知らなかった。


定期的に刻まれている時計の針がゆがんでいるのか、不定期に聞こえる。
ああ、きっと世界はこうやって歪んでいってそれに気づいてしまったから美鶴は、死んだのかもしれない。



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