感情は伝染する。

志月

文字の大きさ
上 下
3 / 4

予感。

しおりを挟む
随分と長い時間が掛かった。
過去の僕は、この答えを見据えていただろうか。
鳴き続けるセミはいつの間にか再び土へと還り静寂が枯れ果てた木々を包み込んでいる。
「さあ、行こうか。」
僕は少女の手を取り気配のない線路を進んだ。


車内は時折二人の影を揺らし、昼を過ぎたばかりだと言うのにすでに薄橙の日は僅かながらに体温を上昇させるばかりで深々と冷え切った指先は未だ冷たい。

ーーーの街を訪れるのはこれで2回目だ。
学生だった僕には途方もない旅費だったが、今となっては大した額にもならず何処か寂しい気持ちは焦燥感と名がつくことも知った。

木々を揺らすのはセミではなく霙に変わり焦らすような一駅間隔も少しだけ懐かしい気持ちになる。
僕は手に入れたばかりの黄色のノートを二人で見つめた。
隣に座る少女は頼りない細腕を伸ばし、大丈夫、と呟くばかりで虚な目が移す先は何処に定まったのか分からない。

「ねえ、前川は大丈夫?」
そう、捻り出すと少女は頷いて見せたものの不安に満ちた瞳が揺れた。





ただ、点滅を繰り返すカーソルを眺めていた。
答えは出きっているが、それをどう伝えればいいのかわからない。
昼間との差に体を壊すクラスメイトを数人見かけたが、同じように私もまた、自分の感情のコントロールが出来なくなっている。
この現状をどうやり過ごせば朝が来るのか分からない。
けれど、伝えなくてはいけない、そう思い携帯電話を手に取った。


あの夜、電話の向こうで前川はこう言った。
「もう亡くなってるかもしれない。」
そして伝えられたのは、ーーーと聞いたことのない地名のみ。
僕はその地に足を踏み入れた。

澄んだ空気を肺いっぱいに取り入れ、吐き出すと前川は僕の先を歩き始めた。
見慣れたはずの背中は頼もしくもあり、女子特有の骨の細さが不安感を煽る。
いつも数歩先を歩き続ける同級生の背中を、どこか懐かしく思い、幼稚園に戻ったような感覚で埋め尽くされていく。
「前川はさ、何になりたいの?」
僕はあの夏の日聞けなかった事を今更ながら問うた。
不覚にも、僕はあの日君を下に見たんだ。
そんな考えだから、君は僕には敵わない、そう思ってしまった事への懺悔とこの数ヶ月で分かった前川の本質的な頭の良さ。
そして、今まで僕がどれだけ小さな世界で生きていたかを、知った。
だからこそ、僕は君にこの質問を投げた。
「なにー?なにかー、うーん。」
前川は振り向くこともなく先を見据え言葉を探した。
「ケーキ屋さんになってたくさん美味しいものを作りたいなぁ、お花屋さんで毎日違うお花の髪飾りを作るのも楽しそう。
それに、宇宙飛行士にもなりたい!」
教室にいる時と同じ声の前川はあの夜の前川ではない、そう、きっと違う人物なんだ。
そう思うことができたらどれだけよかっただろうか。
「なんて、そう言うの求めてるわけじゃないよね。」
遥か昔遊具に登り、片手に持った縄跳びよりもはるかに重いノートのコピーが僕ら二人の手には握られている。
それこそが、この人生の答えなのかもしれない。
そして、僕が知らない世界の本質なのかもしれない。
「私はね、特殊清掃員になりたいんだ。」
特殊清掃員、聴き慣れない言葉を反芻するよりも先に前川は続けた。
「自殺や病気で一人で死んだ人の部屋を掃除する人。」
どうして、と言う言葉も僕の胸の中につっかえて上手くいえなかった。
きっと、そんな質問すら前川の足音にも及ばないチープな疑問でしかないのだから。
「私ね、死ぬのが怖い。
怖くて怖くてたまらないの。
でもね、知っていれば、ある程度の予測ができれば怖くないことって沢山あるでしょう?
例えば、90センチの段差から飛び降りたことがある人は70センチを恐れない。
1メートルの高さを知っていれば、怖くない。
それはどれほどの衝撃を足が受けるか、どの程度で死ぬのか、そうやって怖いところまでの道筋を知っているからここまではセーフって思えるの。
怖いことの先には死ぬことがある。
だから死ぬことが一番怖いの。」

風が、僕ら二人を包み前髪を攫う
前川のおでこには二つ、見慣れない内出血が見えた。
季節に似合わない蚊のような痕を眺める僕に、前川は気に留める様子もなく続ける。

「だからね、死ぬことに触れて沢山の感情や残されたもの、ある程度の見通しを作りたいんだ。」

慣れたい、と小さな声で呟いた前川に映っていた世界を僕は未だ知らなかった。


少女と歩く道のりは幾分か慣れ、これが慣れることなのか、と心のどこかで思ってしまった僕を自嘲していると、空からいくつかの霙が降り注いでいく。
木々を染めることもなく雨露のように溶けていく様を眺めながら道を急いだ。
二人の間に、会話はなかった。
世界に言葉が存在しなければ、僕はどれだけの苦労を代償にして、消耗した感情を手の内に収められたか
そんな答えの見えない思いを馳せていた。
「優作、ねえ、」
消え入りそうな声が聞こえた。
反射的に振り向いた先には、一人の少女。
小さな口は震えるようにして言葉を形にする。
「感情は消耗品だ。そう考えた事って、ある?」
胸の内を見透かされたような感覚に居た堪れなくなり目を伏せた。
「あるよ。
沢山の感情が溢れ出すような感覚も、日々なくなっていくような気がして、大人になるってこういうことなのか。
僕は前川にそれを教えて貰った。」

僕ら二人は、随分と寂れた街に取り残されたおもちゃのようだ。
遊び飽きられ、手放された残留物の中に、息を潜めて立ち尽くす。
目の前に広がる廃墟と呼ばれるに相応しい空間は、ついさっきまで人がいたようなぬくもりを残したままただ朽ちていた。
足元に転がったままのプラレールは確かに見覚えがあった、
だが、一つ違うとしたら随分と砂ぼこりを被った、それだけだ。
「着いた。」
木造住宅が枠だけを残し佇み、大きな門のように僕ら二人を待ち構えている。
足の裏にわずかに異物感を残す石ころは冷たく、無機質というに相応しいだろう。
君ならこれらをなんと表現してみせるのか、そんな感情も、僕にはもう残ってはいなかった。
ただ待ち受けているであろう、事実を飲み込むため固唾を飲んで門をくぐり更に先へと進んで行く。
元々は民家であったはずの建物は天井がカビや雨水によって朽ち果て面影を残すのはせいぜい窓枠に残った花瓶のようなガラス片。
人というものが生み出し、利用し捨て去ってしまった空間はまるで消耗しきった感情のように中身のない、ただの枠組み。
僕という人間とこの廃屋の違いはその枠組みが骨であるか、木であるか、その程度の違いだろう。
風が一層冷たくなり、村に足を踏み入れる僕達を異物として排除しようとしている。
そんな妄想が膨らんだ。
「この先に、本当に住んでいる人がいるのかしら。」
秋口に買ったセーターの裾は幾つかの毛玉が浮かび冷気によって身を揺らしている。
「進もう、日和を探さなきゃ。」
折り重なった木々を踏み、時折聞こえる足音のような何かを踏み潰す音が日和であるように。そう願いながらただ前を見て進んだ。
「ねえ、前川って本当に存在するの?」
胸の中に秘めた謂わば触れていいものなのかもわからない、そんな問いに、静まった。
その瞬間、木々の向こうにかろうじて形を残す建屋を一つ、見つけた。
あの日僕ら二人を結んだノートが今、すべての答えを見つけ、悩み抜いた数え切れない日々が、1つにつながる。
そんな予感を握りつぶすようにして手のひらをきつく結ぶ。
不思議と怖い気持ちはどこにもなかった。
答えだと知ってしまえば、幾らか楽になる気がしたのだ。
僕は震える少女の手をとって前へと進んだ。
酷く、頭が痛い。



緩やかな坂道は枯れ果て土になることを望んだ生命が横たわっている。
踏み潰した時のなんとも言い難い柔らかさが酷く不愉快で押し込んだはずの胃液がベタベタと這い上がってくる。
きっと後ろを歩く少女さえもこの恐怖と憎悪を含んだ空気に圧倒されているはずで、気の利いた会話すらできない自分が惨めになった。ああ、そうだ。
前もこんな感じだった。
記憶というものはなんともなれない感情を無数に持っていて意識的に掘り起こし味がしなくなるまで反芻した記憶よりも、こうして唐突に蘇る記憶は苦しさ以外の感情を持ってはいない。
あの日、僕は確かにこの景色を見ていたんだ。
「ねえ、風土病って知ってる?」
その言葉も、僕は知っている。
古くからある土地では呪いや神、そう言った可視化できないものの力を信じ疫病の類をそう言った干渉できないもののせいにしたがる。
僕はそんな考えをする前川が嫌いだった。
そんなものあるはずがない、僕は目に見えたものしか信じないんだ。
そう言った僕はこの廃村の中に消えてしまったのか。
「開けるよ。」
坂を登りきった先にあったのは木造二階建ての古びた民家だった。
正面に位置した引き戸は半分ほど開き、真冬にもかかわらず中からはどこかぬくもりさえ感じた。
きっとそれは僕の幻覚なのかもしれない。
僕はこの先にいる人間の温かさを、知っていたから。
不意に覗き込んだ引き戸の向こうには大きな秒針のように揺れる影が一つ。


「前川!!!!!!!」


しおりを挟む

処理中です...