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3日目:当日素泊まりご新規

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カシャーン

スマホカバーのせいでやけに高い音が響いた。

「おおおゴメン、ちょっとちょうど、落とした」
ひとまずスマホを拾ってポケットにしまった。向井をそーっと見たが、まだ俯いたままだった。

顔は無表情だったけど、テーブル越しに見えた手は、よほど力が入っているのか指は赤く、爪先は白く変色していた。絶対痛い。
思わず向井の手に自分の手を乗せた。安心は手当てからだ。

「大丈夫。分かったけどどのタイミングで言ってんの?」
シキさん…」

顔を上げた向井の表情で、さすがにこれは冗談じゃないんだろうと悟った。
その気持ち、分かるよって言いたいような、簡単に言っちゃいけないような、自分なりに高度な気遣いを試みはした。

(一応先輩?だし、何とかしてやらないと)

「それで、どうした?何かあったの?」
「…へ」
「いや、隠しておきたいのにバラされたとか、誰かに何か言われたとか」

高度な気遣いを試みはしたが、こんな経験も無い自分には何をして欲しいか分からなかった。

「いや、そういうのは、無いです。誰も知らないです、バイト先みんな」
「あ、そうなの…」

(え?じゃあ自分にだけ教えてくれたんだ)

はちゃめちゃにナメられていると思ってたけど、意外と信頼してくれていたのかと思うと、急に嬉しくなってしまった。
さっきの暴言もきっと色々あって、さぞひねくれたんだろう、と許せる気がしてきた。年下だもの。

「じゃあ、誰にも言わないから、心配すんな。ね?」
「はい…え?それだけですか?」

今度は向井の方から質問されたが、こっちが知りたいことだった。

「え…うん、相談とか乗るけど、何か悩んでることとかある?ごめん、初めて言われたもんで分かんなくて…」

「いや、無いです…ただ言いたくなっただけで」
「あぁ、ありがと。何かあったら言ってね。じゃあ帰ろうぜ」

先輩風を吹かせながら向井と肩を組んだものの、店を出て早々に口をついて出てしまった。

「あのー向井君、ちょっとわたくしめの方には相談があってですね…」
「はい?」

-----

向井君を連れて帰宅した。

当日予約の素泊まり客を見越して、使い捨て歯ブラシなどアメニティも揃った素敵な環境だと自負している。

「あ、どうも」
「いいや、こちらこそだよ、向井君~」

向井君に小綺麗なグラスでお茶を与え、自分は茶シブだらけのお気に入りカップにコーヒーを注いだ。

「いいっすよ愛想よくしないで。どうしたんですか?急に」
「うん…」

勢いでこいつを呼んでしまったが、これを人に話すのか?ついに話すのか?

(なんて話すんだ?)

「えー、高校からの友人がいまして。泊まりに来たりもして、結婚してからも仲いいんですよ、向こうがね。ええ」
「はい」

話し始めたら案外いける気がしてきた。

「それでですね、ある酔った日に、その、あれしてしまったんですよね?ええ、その」
「既婚者の友達とオセッセしてしまったと」
「…はい」

足がしびれてきたと思ったら、自分でも気付かないうちに正座していた。

「…あの、最低だと思ってます。配偶者の方にも恋人がいてお互いどうぞな夫婦だというのは言い訳にならないとは思ってるんですが、その」
「今も続いてる感じですか?」
「…はい…」

誰にも相談できないまま、半年。
自分でも気持ち悪いと思っているのに、人からはどう見えるのか想像すると怖かった。

「…それで?」
「?」

いつもと変わらない調子で続きを促されて、ドン引きや罵倒を予期していた自分は驚いて向井君を見た。

「どうしたいんすか?俺に言ったってことは、何か言って欲しいってことっすか?」

「確かに、そもそも来てくれるとは思わなかったから…てか良く来たね」

「そうっすよ本当…失言かましまくった後なんで全然いいんすけど、にしても俺よく来たと思いません?22時っすよ」
「思う…」


(もう二度と向井君に先輩面できない気がする)

「で、その人のこと、好きなんすか」
(好き?か…)

向井が足を崩したので、何となく自分も足を伸ばした。

「何か…何か、そもそもありえないと思ってたことが急に起きたから。奇跡だと思って飛びついたら沼だったというか」

その先を言うのが怖かった。

「…既婚者じゃなくても、結婚なんて望んでなかった人で」

不倫よりも言うのが怖いことってあったのか。
「そいつは、女が好きな、男だから」

言った。神様、言いました。この静けさ。

人のカミングアウトを利用した誘発アンサーカミングアウトに、自分は何て言われるのか。向井君の握りしめた手や、この世の終わりみたいな顔がよぎった。

たすけて…

「いや、何となく分かってました、俺」
(え?)

「そうなの!?え、何が?不倫してんなこいつって?」
「いや、俺と同じなのかなって。それでちょっとしつこく聞いちゃったのもあるんで」

やっぱり、そっちか…

「そういうもんなの…?え?どのへんが?」
「話し方というか価値観というか。今それはいいじゃないすか」

向井君がすごく大人に見えた。名探偵には見えてた。

「それで、同性愛者じゃないからって諦めてた同級生と急にヤれて、向こうの奥さんも恋人アリの自由な方針なもんで関係が続いてると」
そしてまとめ上手だった。

「その通りです…あ…お茶飲む?あったかいのだと紅茶もあるけど」

ずっと話し続けておかまいもしてなかった。

「あ。じゃあ紅茶いいですか?てか入れますよ自分」
「あぁ大丈夫よ、お湯入れるだけだから」

立ち上がった向井を制して、台所からいくつかお茶の素を持って来た。

「どれがいい?個人的にはこれオススメ」
「あ、じゃあいいですか、こっちで」

気に入っているお茶を飲んでもらえてちょっと嬉しくなった。あいつは冷たいものしか飲まなかったし、女っぽいかなと思って外でも飲まなかったから。

さっき沸かして魔法瓶に入れたお湯を比較的きれいなカップに入れ、マスカット&グレープティーを向井に差し出した。

「あざす。俺この溶かすやつ好きっす」
「本当?休憩室に置こうかな、ピーチティーもあるよ」

向井君!君は「こういうの飲むんだw女子ww」とか言わないって信じてた!昨日まではむしろ言いそうと思ってたけど!

「…ごめん、ちょっと浮かれた。すみませんでした」
自分はそんな楽しいトークをするために彼の時間を奪った訳では無かった。

「いや…うーん。でもそれ、別に奥さんもお互い様なら問題なくないっすか?」
「…そうかな…」

そう。正直、自分もそう思ってた。

「問題あるってことは、織さんはその人が好きで、この関係が辛いってことですよね」
「………」

難しかった。
今まで恋だのなんだのとは無縁だったから。

友達に抱かれたいと思う自分が怖かった。
誰かに気付かれるのが怖かった。
だからって出会いの場に行くのも怖かった。


「好きも何も、一生、相手なんてできないと思ってたから…」
だから自分は諦めた振りをして、目先のアクシデントに逃げた。

「頭ではわかってて、割り切って性欲だけ満たせたら問題ないじゃんって…でも」

行為を重ねる度に、もしかしたら?少しでも、と期待する。
その度に勝手に裏切られた気になって傷ついて、後悔する。

だから、期待しないように期待しないように努力した。
でも、どんなに努力しても、心が動くのを止められなかった。

限界だった。

「疲れちゃったかも…って、なってる」


答えになってない答えを聞いて、向井君は甘いお茶を静かに飲んだ。

「相手は、識さんの気持ち知ってるんですかね?」
こんな話は終わりにして寝るか、と言おうとしたところで、向井君が飲みさしのカップに目を落としながら呟いた。

「え…どうなんだろう…?言ってはないけど」
「俺、多分ある程度わかってると思ってて」

そこで向井の顔が歪んだ。
(人の怒った顔ってほんとこわい…)

「たまに来てはヤッて寝て、しかも約束もないって、好きな人にする行為じゃないでしょ?」

返事はできなかった。
そうだね、としか言えないから。

「…怒りました?」
「え、何で?」

怒ってるのはそっちじゃないの?と思って向井君の目を見たら、もう怒ってなさそうだった。

「いや、嫌なこと言うじゃないすか、俺が」
「全然よ。むしろ、ありがとう」

親身に話を聞いてくれた証拠だから、むしろいい奴だと思った。今日は本当に向井ストップ高だった。

「なんすかそれwww 織さん、ごめんとかありがとうのタイミング掴めないっすね」
「は…もう笑ってくれよ」

そこで、自分が空腹だったことに気付いた。向井君にも気付かれた。

「適当に冷蔵庫の中使ってよければ、何か作りましょうか?風呂でも入って休んでてくださいよ」
「向井くん…」
「腰でもいたわっといてください」
(ぐぅぅぅぅぅぅ)
「そのイジり絶対店でやんなよ」
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