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2.ルーカス
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夕暮れの中、家路を急ぐ僕の足はだんだん速くなり、ついには駆けていた。道の角では曲がり切れずに、馬車の前に飛び出しかけて慌ててよける。怒鳴る馭者に顔だけ向けて謝るが足は止めない。
何とか無事に家までたどり着くと、カバンを漁り鍵を取り出す。玄関の鍵を開けるのももどかしく、鍵が回るとノブをひっつかみ、勢いよく室内に飛び込んだ。
「グレース、お医者様は、なんて言ってた!?」
切れ切れな大声を上げて肩で息をする僕に、キッチンに立っていた妻のグレースが驚いたように振り返った。
「びっくりした。おかえりなさい、今日はずいぶん早いのね」
ここしばらくグレースの具合が悪かった。あまり眠れていないようで顔色も悪く、食事もあまりとれていないようなのだが「大丈夫」の一点張り。それでも心配した僕が何度か説得してようやく今日、診察を受けに行くといってくれた。本当は一緒に付き添いたかったが、仕事に行かないのなら行かないといわれ渋々引き下がったのだ。
「君のことが心配で、仕事にならなかったんだ。今日は使い物にならないからさっさと帰れって追い出されたよ……それで具合は?」
「心配性ね、大丈夫だったわ」
そう言って笑うがやはりまだ顔色が悪い。血の気が引いた青白い顔に心配になり、近寄って手を伸ばす。だが、僕の指が触れる前にグレースは顔をそむけた。行き場の無くなった手が宙に浮く。グレースは僕の様子には気づかないようで、鍋をかき回しながら楽し気な声を上げた。
「あのね、お医者様のところへ行ったでしょ。それでね、診てもらったら……私、妊娠しているんですって」
にんしん……妊娠?
悪い想像ばかりしていた僕は、予想外の単語に頭の中で意味を理解するのに少しの時間が必要だった。間抜けな顔をしていたからか、グレースが悪戯が成功した子供のように「びっくりした?」と笑う。そこでようやく、じわじわと実感が湧いた。
「本当かい!」
「本当よ。最近体調が悪かったのもそのせいみたい」
「あぁ、ありがとう。ありがとうグレース! 良かった。何か悪い病気だったらどうしようかと思っていたんだ」
思いっきり抱きしめると、苦しいと背中を叩かれて慌てて少し力を緩めた。
「ごめん。でも、本当にうれしいよ」
「だから今日はお祝いに御馳走にしたのよ」
そこでようやく僕はテーブルに目を向けた。
テーブルにはレースと花柄のテーブルクロスがかけられ、その上には厚切りのステーキとサラダ。パンはいつもの黒パンではなくめったに手に入らない白パンだ。特別な日に飲もうと二人で買っていたワインまで並んでいる。
緊張が解けたからか、食欲をそそる匂いも僕の元へ漂ってきた。
「スープも、もう出来るから座って待ってて」
「それぐらい僕がやるよ?」
あまり無理はさせたくないと申し出たがあっさり断られる。
いいからと背を押され渋々椅子に座ると、スープを持ったグレースがほどなくしてやって来た。
「私は飲めないけど、ルーカスはいっぱい飲んでね」
「せっかくのお祝いなのに、僕だけ飲むのもな」
「大丈夫よ。この子が生まれたらもっといいワインを買ってもらうから」
悪戯っぽく笑って、グレースは僕の方のグラスにワインを自身の方には水を注いだ。濃い赤紫色が揺れ、ラズベリーのような甘酸っぱい匂いが広がった。二人でグラスを持ち上げる。僕はのどの調子を整えて、口を開いた。
「新しい家族を祝して、乾杯」
ワインと水の入ったグラスを合わせる。一口含んだワインは当たり年だけあってビロードのような滑らかさだ。だが何かざらりとした後味の悪さを感じ、思わず眉をしかめた。澱も一緒に飲んでしまったのだろうか。
「このお肉、ワインと一緒に食べたら最高だってお勧めされたの。食べてみて」
少し残念に思いながらも、勧められるままに手を伸ばす。厚切りの肉は普段食卓に並ぶものよりも柔らかく、一口かむたびに肉汁が広がる。
他の料理も素晴らしくおいしくて、かすかな違和感は祝いの雰囲気に流れて消えて行った。
食事をしながら予定日やこれから気を付けることはないか聞いた。男か女か分かるかとたずねると生まれてくるまでは分からないと呆れられた。
準備するものや両親への報告で忙しくなるなと笑うとおもむろにグレースが姿勢を正す。
「ルーカスには感謝しているの」
「なんだい、改まって」
和やかな雰囲気から一転、真剣な表情で言うグレースに戸惑う。
「こんな時でもないといえないでしょ。
……ダンが死んだ時、生きるのが辛くて私も一緒に死んでしまおうって思ってた。止めてくれた貴方にも、酷いことを沢山言ったのにずっとそばで支えてくれて」
「やめてくれよ」
ダンの名と共にあの頃の情景が思い出され思わず表情が強張り、誤魔化すようにワインを飲み干した。
ダンは彼女の前の恋人で、僕の親友でもあったが、もういない。
ある日突然、何の前触れもなく死んでしまった。いつものように商品を荷馬車に積んで出かけて行った彼は、道中の坂道で荷馬車もろとも転落して死んでしまった。死体も酷い損傷で、彼の両親と共にその知らせを受けたグレースはパニックを起こしひどい取り乱し方だったそうだ。
後から知らせを聞いて僕も駆け付けたが、そこには僕の知る明るいグレースはいなかった。目もうつろで、いつの間にか儚く消えてしまいそうだった。だから僕は心配でずっとそばにいた。
「あの人が亡くなってからは周りもそっとしてくれた。でもしばらくするともうあの人のことを忘れた方がいいとか、いつまでもふさぎ込んでいたらダンも安心できないなんて勝手なことを言っていたわ。だから拒絶して、引きこもって……
でも貴方だけは、好きなままでいてもいいと言ってずっと寄り添ってくれた。
だから私、少しずつダンのことを思い出にすることが出来たの」
話の流れに僕は肩に入っていた力を抜いた。そばにいて何となく感じたことはあったが、グレース本人から聞くのは初めてだ。
「そうしていつの間にか貴方のことを好きになって、一緒に生きていきたいと思ったの」
あまり聞けない、グレースからの告白に頬を緩める。だが、続く言葉には甘さも何もなかった。
「それなのに、どうしてダンを殺したの?」
あまりに唐突な言葉に場の空気が固まる。疑問の形をとっているが確信して言っているのはその強い眼差しから分かった。
何とか無事に家までたどり着くと、カバンを漁り鍵を取り出す。玄関の鍵を開けるのももどかしく、鍵が回るとノブをひっつかみ、勢いよく室内に飛び込んだ。
「グレース、お医者様は、なんて言ってた!?」
切れ切れな大声を上げて肩で息をする僕に、キッチンに立っていた妻のグレースが驚いたように振り返った。
「びっくりした。おかえりなさい、今日はずいぶん早いのね」
ここしばらくグレースの具合が悪かった。あまり眠れていないようで顔色も悪く、食事もあまりとれていないようなのだが「大丈夫」の一点張り。それでも心配した僕が何度か説得してようやく今日、診察を受けに行くといってくれた。本当は一緒に付き添いたかったが、仕事に行かないのなら行かないといわれ渋々引き下がったのだ。
「君のことが心配で、仕事にならなかったんだ。今日は使い物にならないからさっさと帰れって追い出されたよ……それで具合は?」
「心配性ね、大丈夫だったわ」
そう言って笑うがやはりまだ顔色が悪い。血の気が引いた青白い顔に心配になり、近寄って手を伸ばす。だが、僕の指が触れる前にグレースは顔をそむけた。行き場の無くなった手が宙に浮く。グレースは僕の様子には気づかないようで、鍋をかき回しながら楽し気な声を上げた。
「あのね、お医者様のところへ行ったでしょ。それでね、診てもらったら……私、妊娠しているんですって」
にんしん……妊娠?
悪い想像ばかりしていた僕は、予想外の単語に頭の中で意味を理解するのに少しの時間が必要だった。間抜けな顔をしていたからか、グレースが悪戯が成功した子供のように「びっくりした?」と笑う。そこでようやく、じわじわと実感が湧いた。
「本当かい!」
「本当よ。最近体調が悪かったのもそのせいみたい」
「あぁ、ありがとう。ありがとうグレース! 良かった。何か悪い病気だったらどうしようかと思っていたんだ」
思いっきり抱きしめると、苦しいと背中を叩かれて慌てて少し力を緩めた。
「ごめん。でも、本当にうれしいよ」
「だから今日はお祝いに御馳走にしたのよ」
そこでようやく僕はテーブルに目を向けた。
テーブルにはレースと花柄のテーブルクロスがかけられ、その上には厚切りのステーキとサラダ。パンはいつもの黒パンではなくめったに手に入らない白パンだ。特別な日に飲もうと二人で買っていたワインまで並んでいる。
緊張が解けたからか、食欲をそそる匂いも僕の元へ漂ってきた。
「スープも、もう出来るから座って待ってて」
「それぐらい僕がやるよ?」
あまり無理はさせたくないと申し出たがあっさり断られる。
いいからと背を押され渋々椅子に座ると、スープを持ったグレースがほどなくしてやって来た。
「私は飲めないけど、ルーカスはいっぱい飲んでね」
「せっかくのお祝いなのに、僕だけ飲むのもな」
「大丈夫よ。この子が生まれたらもっといいワインを買ってもらうから」
悪戯っぽく笑って、グレースは僕の方のグラスにワインを自身の方には水を注いだ。濃い赤紫色が揺れ、ラズベリーのような甘酸っぱい匂いが広がった。二人でグラスを持ち上げる。僕はのどの調子を整えて、口を開いた。
「新しい家族を祝して、乾杯」
ワインと水の入ったグラスを合わせる。一口含んだワインは当たり年だけあってビロードのような滑らかさだ。だが何かざらりとした後味の悪さを感じ、思わず眉をしかめた。澱も一緒に飲んでしまったのだろうか。
「このお肉、ワインと一緒に食べたら最高だってお勧めされたの。食べてみて」
少し残念に思いながらも、勧められるままに手を伸ばす。厚切りの肉は普段食卓に並ぶものよりも柔らかく、一口かむたびに肉汁が広がる。
他の料理も素晴らしくおいしくて、かすかな違和感は祝いの雰囲気に流れて消えて行った。
食事をしながら予定日やこれから気を付けることはないか聞いた。男か女か分かるかとたずねると生まれてくるまでは分からないと呆れられた。
準備するものや両親への報告で忙しくなるなと笑うとおもむろにグレースが姿勢を正す。
「ルーカスには感謝しているの」
「なんだい、改まって」
和やかな雰囲気から一転、真剣な表情で言うグレースに戸惑う。
「こんな時でもないといえないでしょ。
……ダンが死んだ時、生きるのが辛くて私も一緒に死んでしまおうって思ってた。止めてくれた貴方にも、酷いことを沢山言ったのにずっとそばで支えてくれて」
「やめてくれよ」
ダンの名と共にあの頃の情景が思い出され思わず表情が強張り、誤魔化すようにワインを飲み干した。
ダンは彼女の前の恋人で、僕の親友でもあったが、もういない。
ある日突然、何の前触れもなく死んでしまった。いつものように商品を荷馬車に積んで出かけて行った彼は、道中の坂道で荷馬車もろとも転落して死んでしまった。死体も酷い損傷で、彼の両親と共にその知らせを受けたグレースはパニックを起こしひどい取り乱し方だったそうだ。
後から知らせを聞いて僕も駆け付けたが、そこには僕の知る明るいグレースはいなかった。目もうつろで、いつの間にか儚く消えてしまいそうだった。だから僕は心配でずっとそばにいた。
「あの人が亡くなってからは周りもそっとしてくれた。でもしばらくするともうあの人のことを忘れた方がいいとか、いつまでもふさぎ込んでいたらダンも安心できないなんて勝手なことを言っていたわ。だから拒絶して、引きこもって……
でも貴方だけは、好きなままでいてもいいと言ってずっと寄り添ってくれた。
だから私、少しずつダンのことを思い出にすることが出来たの」
話の流れに僕は肩に入っていた力を抜いた。そばにいて何となく感じたことはあったが、グレース本人から聞くのは初めてだ。
「そうしていつの間にか貴方のことを好きになって、一緒に生きていきたいと思ったの」
あまり聞けない、グレースからの告白に頬を緩める。だが、続く言葉には甘さも何もなかった。
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