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秋の課題編
第七話 老男爵の教え
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アダムス男爵はとても物腰の柔らかい方だった。私たちの言葉に静かに耳を傾け、時に真剣に、時に冗談っぽく、自分の経験を語ってくださった。
男爵に関する本はほぼ読了しているとはいえ、中には初めて聞く話も多く、興奮を抑えきれなかった。一言も聞き漏らすまいと、前のめりになって傾聴する。そんな私を見て、男爵は目を細めて優しい笑顔を浮かべた。そのお姿にますます胸が熱くなってしまう。
アダムス男爵が気難しいなどと言ったのは誰なのかしら。全く、噂というのは当てにならない。
「アメリア嬢は非常に熱心な方だ。君たちのような素晴らしい若者がいることがわかっただけでも、王都に来たかいがあるというものだ」
「そんな、もったいないお言葉です……」
お褒めの言葉をいただき、思わず頬を染めてうつむく。
顔がにやつくのをどうしても止められない。隣に座る男二人から異物を見るような視線を感じるけど、そんなこと気にしていられない。猫かぶりだと思われようが、普段とキャラクターが違うと言われようが、構うものですか。
とはいえ、男爵に気味悪く思われたくはないので、必死に真面目な顔を作る。そんな私を尻目にクラークが温和な声で言った。
「参考になるお話もたくさん聞かせていただいたし、そろそろ行こうか」
「えっ、もうそんな時間ですか?」
慌てて顔を上げると、約束の一時間が過ぎようとしていた。急に現実に戻され、肩の力が抜ける。明らかに落胆する私を見て、男爵は声を上げて笑った。
「この老人の話にそこまで夢中になってくれるとは、有難いかぎりだな。せっかくだ、まだ何か聞きたいことはあるかね?」
鳩の飾りのついた杖に両腕を預け、覗き込むように私の目を見つめる。用意してあった質問はすべて回答をもらっていたので、一瞬言葉に詰まってしまった。
「……いえ、お聞きしたいことは全て伺いました」
「別に君個人が聞きたいことでもいいんじゃないか?」
それまで黙っていたチェイサーが急に口を開いたので、驚いて横を見る。
「アダムス卿に会えるのをすごく楽しみにしてたじゃないか」
その顔はいたく真剣で、私を揶揄うような様子はない。目線をチェイサーから男爵に戻すと、卿は優しい顔でにっこりと笑って、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「何か聞きたいことはあるかね?」
「……課題とは、全く関係ないことなのですが」
「構わんよ」
男爵はうなずいて続きを促す。そこで私は、ずっと聞いてみたくて仕方なかったことを口にした。
「五十年前に流行った疫病のことです」
アダムス卿が爵位を授かって間もなくのころ。彼の領地の小さな村で発生したその病は、瞬く間に広がり、いくつもの集落をあっという間に飲み込んだ。当時は致死率が高く、罹患したらまず助からないと言われていたのに、若き男爵は少数の医師と動物学者を連れて現地へ赴き、病の原因を突き止めた。
「アダムス様は、どうして、集落を見捨てるという選択をなさらなかったのですか」
尋ねる声の端が震えているのが自分で分かる。私の言葉にアダムス卿は目の光を鋭くした。
「アメリア嬢なら違う方法を取ったと?」
「……わかりません。結果を見れば卿が取られた策が一番いいのはわかります。ですが、いざ自分がその立場になった時、同じ判断ができるかどうかがわからないのです」
男爵の目を見ていられなくなり視線を落とすと、ふむ、と考え込む声が聞こえた。
「なかなか答えに困る質問だな」
しばらくの沈黙の後、男爵は淡々とした声で話し始めた。
「一つ言えるのは、あの頃の私は若かったということだ。無謀だったとも言える。自分が死ぬはずないと、どこかで思っていたんだろう。あれはたまたま上手くいっただけのことだ」
思いもかけない言葉に息が詰まる。私はどこかで、確実な判断基準を教えてもらえることを期待していたのだ。ショックを受ける私を見つめながら、男爵は言葉を続けた。
「アメリア嬢も自分が信じるようにやればよい」
「でも、もしも判断を間違ってしまって、家門に泥を塗ってしまったら? 多くの民の命を失ってしまったら?!」
ただでさえ評判の悪いサリバン家の名前を、私がさらに貶めてしまったら。そしてそんな私たちを信じて従ってくれている領民たちを傷つけてしまったら――。そう考えると、怖くてたまらない。
「どんな名君でも失策を犯さないという保証はない。結局は覚悟を決めるほかないんだよ」
「……っ!」
男爵の穏やかな瞳の奥には、幾度も決死の覚悟を繰り返してきた凄味があった。これ以上は私が何を言っても薄っぺらくなる気がして、言葉を紡げずに黙り込む。
「……そろそろ本当にお暇する時間だよ」
クラークの諭すような声で我に返る。見上げると、こちらを見つめる緑の瞳と目が合った。いつもの彼とは違う温かい目線に、ゆるゆると腰を上げ、アダムス男爵に向かい頭を下げた。
「本日は本当にありがとうございました」
「気を付けて帰りなさい」
男爵の声は、先ほどまでの厳たるものとは違い、優しい音に戻っていた。当初の予定時間より延びてしまったことをお詫びして扉に向かう。
「そうだ、一つだけアドバイスをしよう」
後ろから追いかけてきた柔らかく低い声に振り返ると、全てを見透かすような瞳と目が合う。
「先入観は全ての敵だ。色眼鏡など通さず、己の眼でしっかりと見つめなさい」
私は世間で言われているほど偏屈じじいではなかっただろう? と笑いながら手を振るアダムス卿に、私たち三人はもう一度深くお辞儀をした。
男爵邸を出た後、私とチェイサーは馬車の中でクラークを待っていた。男爵家から資料を借りられることになったため、クラークが一人で受け取りに行っているのだ。車内はうっすら肌寒く、恐ろしいほど静かだった。
「すごい方だったな」
ぽつりとつぶやくようにチェイサーが口を開く。
「穏やかな語り口なのに何故か気圧されるようで、俺なんてほとんど何もしゃべることができなかった」
「……」
私は放心状態で、言葉が返せなかった。座席の背もたれに体を預けてそっと息を吐く。胸がぽっかりと空いたような、逆にいっぱいになったような不思議な感覚だった。
『色眼鏡をかけてはいけない』
別れ際の男爵の言葉を思い出す。私はまだまだ若輩者で、到底彼の域に達することはできないけれど、その言葉に復すれば少しでも近づけるのだろうか。
「サリバン嬢」
名前を呼ぶ声に顔を向けると、チェイサーがひどく真摯な瞳でこちらを見ていた。
「さっきの男爵の言葉を聞いて思ったんだ。あの、『色眼鏡』ってやつ」
話題にするタイミングがあまりにも良すぎて、一瞬心の中をのぞかれたのかと思った。ぴくりと体を震わせた私には気づかず、チェイサーは足元に視線を落とすと言葉を続けた。
「俺は、君に偏見を持っていた」
そこでチェイサーは一度言葉を切り、もう一度私の顔を真正面から見た。
「俺は子供のころからレオと一緒に過ごしてきて、あいつの親友だと自負してる。だから君がレオと対立するたび、あいつの肩を持ってきた」
「……そうですね」
他に何も言えず、相槌を打つ。
そんなことわかってる。彼らは仲の良い幼馴染で、どちらかが窮地に立てば迷わず助けに入るんだろう。そして、私にはそういう人はいない。だから私はいつも独りでチェイサーと言い争いをしていたんだ。
「レオの主張が間違っていたとは思わない。だからあいつを庇ったことは今でも後悔はしてない。でも……君には君の立場があるんだよな。そのことに頭が回らなかった」
そこまで言って、チェイサーは口端をきゅっと結んだ。辛そうな顔を見せる彼に目を見張る。まさか彼が私のことを慮るなんて、誰が想像できただろう。
驚きすぎたせいか、気抜けした私は小さく息を吐いた。或いは、男爵の言葉がまだ自分の中で響いていたのかもしれない。とにかく、その時の私はずいぶんと素直な気持ちでチェイサーを見返したのだった。
「私もこれまでの言葉を後悔していません。なのでおあいこです」
何故か涙腺が緩みそうになり、無理にこらえたら今度は口が変な形に曲がりそうになる。
「……でも、そう言ってもらえると報われる気がします。ありがとうございます」
チェイサーに感謝を述べるのは、おそらく初めてだ。こんなにもすんなりと口を突いて出たことに自分でもびっくりだけど、チェイサーはそれ以上に驚いたように目を丸くした。
それがおかしくて思わず頬を緩めると、呼応するようにチェイサーが相好を崩した。
「君は、もっと笑った方がいいな」
「え?」
唐突な物言いに目をぱちぱちと瞬かせると、チェイサーは急に決まりが悪そうな顔をしてあさっての方向を向いた。
「き、君は誤解されやすいから、ちょっとでも愛想よくしたほうがいいんじゃないかと思っただけだ」
チェスナットの髪からのぞく耳が赤い。
(なによ、真っ赤な顔しちゃって)
そんな彼がおかしくて、いつもならカチンとくるセリフもその日はなぜかおおらかに聞くことができた。
そして、「善処します」と笑って返すことができたのだった。
男爵に関する本はほぼ読了しているとはいえ、中には初めて聞く話も多く、興奮を抑えきれなかった。一言も聞き漏らすまいと、前のめりになって傾聴する。そんな私を見て、男爵は目を細めて優しい笑顔を浮かべた。そのお姿にますます胸が熱くなってしまう。
アダムス男爵が気難しいなどと言ったのは誰なのかしら。全く、噂というのは当てにならない。
「アメリア嬢は非常に熱心な方だ。君たちのような素晴らしい若者がいることがわかっただけでも、王都に来たかいがあるというものだ」
「そんな、もったいないお言葉です……」
お褒めの言葉をいただき、思わず頬を染めてうつむく。
顔がにやつくのをどうしても止められない。隣に座る男二人から異物を見るような視線を感じるけど、そんなこと気にしていられない。猫かぶりだと思われようが、普段とキャラクターが違うと言われようが、構うものですか。
とはいえ、男爵に気味悪く思われたくはないので、必死に真面目な顔を作る。そんな私を尻目にクラークが温和な声で言った。
「参考になるお話もたくさん聞かせていただいたし、そろそろ行こうか」
「えっ、もうそんな時間ですか?」
慌てて顔を上げると、約束の一時間が過ぎようとしていた。急に現実に戻され、肩の力が抜ける。明らかに落胆する私を見て、男爵は声を上げて笑った。
「この老人の話にそこまで夢中になってくれるとは、有難いかぎりだな。せっかくだ、まだ何か聞きたいことはあるかね?」
鳩の飾りのついた杖に両腕を預け、覗き込むように私の目を見つめる。用意してあった質問はすべて回答をもらっていたので、一瞬言葉に詰まってしまった。
「……いえ、お聞きしたいことは全て伺いました」
「別に君個人が聞きたいことでもいいんじゃないか?」
それまで黙っていたチェイサーが急に口を開いたので、驚いて横を見る。
「アダムス卿に会えるのをすごく楽しみにしてたじゃないか」
その顔はいたく真剣で、私を揶揄うような様子はない。目線をチェイサーから男爵に戻すと、卿は優しい顔でにっこりと笑って、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「何か聞きたいことはあるかね?」
「……課題とは、全く関係ないことなのですが」
「構わんよ」
男爵はうなずいて続きを促す。そこで私は、ずっと聞いてみたくて仕方なかったことを口にした。
「五十年前に流行った疫病のことです」
アダムス卿が爵位を授かって間もなくのころ。彼の領地の小さな村で発生したその病は、瞬く間に広がり、いくつもの集落をあっという間に飲み込んだ。当時は致死率が高く、罹患したらまず助からないと言われていたのに、若き男爵は少数の医師と動物学者を連れて現地へ赴き、病の原因を突き止めた。
「アダムス様は、どうして、集落を見捨てるという選択をなさらなかったのですか」
尋ねる声の端が震えているのが自分で分かる。私の言葉にアダムス卿は目の光を鋭くした。
「アメリア嬢なら違う方法を取ったと?」
「……わかりません。結果を見れば卿が取られた策が一番いいのはわかります。ですが、いざ自分がその立場になった時、同じ判断ができるかどうかがわからないのです」
男爵の目を見ていられなくなり視線を落とすと、ふむ、と考え込む声が聞こえた。
「なかなか答えに困る質問だな」
しばらくの沈黙の後、男爵は淡々とした声で話し始めた。
「一つ言えるのは、あの頃の私は若かったということだ。無謀だったとも言える。自分が死ぬはずないと、どこかで思っていたんだろう。あれはたまたま上手くいっただけのことだ」
思いもかけない言葉に息が詰まる。私はどこかで、確実な判断基準を教えてもらえることを期待していたのだ。ショックを受ける私を見つめながら、男爵は言葉を続けた。
「アメリア嬢も自分が信じるようにやればよい」
「でも、もしも判断を間違ってしまって、家門に泥を塗ってしまったら? 多くの民の命を失ってしまったら?!」
ただでさえ評判の悪いサリバン家の名前を、私がさらに貶めてしまったら。そしてそんな私たちを信じて従ってくれている領民たちを傷つけてしまったら――。そう考えると、怖くてたまらない。
「どんな名君でも失策を犯さないという保証はない。結局は覚悟を決めるほかないんだよ」
「……っ!」
男爵の穏やかな瞳の奥には、幾度も決死の覚悟を繰り返してきた凄味があった。これ以上は私が何を言っても薄っぺらくなる気がして、言葉を紡げずに黙り込む。
「……そろそろ本当にお暇する時間だよ」
クラークの諭すような声で我に返る。見上げると、こちらを見つめる緑の瞳と目が合った。いつもの彼とは違う温かい目線に、ゆるゆると腰を上げ、アダムス男爵に向かい頭を下げた。
「本日は本当にありがとうございました」
「気を付けて帰りなさい」
男爵の声は、先ほどまでの厳たるものとは違い、優しい音に戻っていた。当初の予定時間より延びてしまったことをお詫びして扉に向かう。
「そうだ、一つだけアドバイスをしよう」
後ろから追いかけてきた柔らかく低い声に振り返ると、全てを見透かすような瞳と目が合う。
「先入観は全ての敵だ。色眼鏡など通さず、己の眼でしっかりと見つめなさい」
私は世間で言われているほど偏屈じじいではなかっただろう? と笑いながら手を振るアダムス卿に、私たち三人はもう一度深くお辞儀をした。
男爵邸を出た後、私とチェイサーは馬車の中でクラークを待っていた。男爵家から資料を借りられることになったため、クラークが一人で受け取りに行っているのだ。車内はうっすら肌寒く、恐ろしいほど静かだった。
「すごい方だったな」
ぽつりとつぶやくようにチェイサーが口を開く。
「穏やかな語り口なのに何故か気圧されるようで、俺なんてほとんど何もしゃべることができなかった」
「……」
私は放心状態で、言葉が返せなかった。座席の背もたれに体を預けてそっと息を吐く。胸がぽっかりと空いたような、逆にいっぱいになったような不思議な感覚だった。
『色眼鏡をかけてはいけない』
別れ際の男爵の言葉を思い出す。私はまだまだ若輩者で、到底彼の域に達することはできないけれど、その言葉に復すれば少しでも近づけるのだろうか。
「サリバン嬢」
名前を呼ぶ声に顔を向けると、チェイサーがひどく真摯な瞳でこちらを見ていた。
「さっきの男爵の言葉を聞いて思ったんだ。あの、『色眼鏡』ってやつ」
話題にするタイミングがあまりにも良すぎて、一瞬心の中をのぞかれたのかと思った。ぴくりと体を震わせた私には気づかず、チェイサーは足元に視線を落とすと言葉を続けた。
「俺は、君に偏見を持っていた」
そこでチェイサーは一度言葉を切り、もう一度私の顔を真正面から見た。
「俺は子供のころからレオと一緒に過ごしてきて、あいつの親友だと自負してる。だから君がレオと対立するたび、あいつの肩を持ってきた」
「……そうですね」
他に何も言えず、相槌を打つ。
そんなことわかってる。彼らは仲の良い幼馴染で、どちらかが窮地に立てば迷わず助けに入るんだろう。そして、私にはそういう人はいない。だから私はいつも独りでチェイサーと言い争いをしていたんだ。
「レオの主張が間違っていたとは思わない。だからあいつを庇ったことは今でも後悔はしてない。でも……君には君の立場があるんだよな。そのことに頭が回らなかった」
そこまで言って、チェイサーは口端をきゅっと結んだ。辛そうな顔を見せる彼に目を見張る。まさか彼が私のことを慮るなんて、誰が想像できただろう。
驚きすぎたせいか、気抜けした私は小さく息を吐いた。或いは、男爵の言葉がまだ自分の中で響いていたのかもしれない。とにかく、その時の私はずいぶんと素直な気持ちでチェイサーを見返したのだった。
「私もこれまでの言葉を後悔していません。なのでおあいこです」
何故か涙腺が緩みそうになり、無理にこらえたら今度は口が変な形に曲がりそうになる。
「……でも、そう言ってもらえると報われる気がします。ありがとうございます」
チェイサーに感謝を述べるのは、おそらく初めてだ。こんなにもすんなりと口を突いて出たことに自分でもびっくりだけど、チェイサーはそれ以上に驚いたように目を丸くした。
それがおかしくて思わず頬を緩めると、呼応するようにチェイサーが相好を崩した。
「君は、もっと笑った方がいいな」
「え?」
唐突な物言いに目をぱちぱちと瞬かせると、チェイサーは急に決まりが悪そうな顔をしてあさっての方向を向いた。
「き、君は誤解されやすいから、ちょっとでも愛想よくしたほうがいいんじゃないかと思っただけだ」
チェスナットの髪からのぞく耳が赤い。
(なによ、真っ赤な顔しちゃって)
そんな彼がおかしくて、いつもならカチンとくるセリフもその日はなぜかおおらかに聞くことができた。
そして、「善処します」と笑って返すことができたのだった。
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