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秋の課題編
第八話 悪役令嬢の辞書に平穏という文字はない
しおりを挟む「……どうしてあんなことしちゃったのかしら」
自室のベッドの上で仰向けになり、じっと天蓋を見つめて誰に言うわけでもなくつぶやく。
過ぎたことをいくら悔やんでも仕方ないけれど、あの日の私はどう考えても普通じゃなかった。だって、チェイサーと笑いあうなんて。数日前までの私なら考えられなかったはず。
「あーもう!」
湧き上がるむずがゆさにじっとしていられず、手足を投げ出してバタバタと振り回す。ベッドの上で転げ回るなんて物語の中の人物しかやらないと思っていたのに、まさか私がやる日が来るなんてね。お父様が見たら眉をひそめるに違いないわ。
何度も回転したせいで、体にブランケットがまとわりつき身動きが取れなくなった。振りほどく気力もなく膝を抱えて丸まると、ほのかなラベンダーの香りが鼻孔をくすぐる。お気に入りのリネンウォーターの香りだ。
ゆっくりと匂いを吸い込むと、ほんの少しだけ気分が穏やかになった。柔らかい肌触りのブランケットも、心を落ち着かせるのに一役買ってくれる。
(本当にどうかしてたのよ)
心の中でもう一度つぶやいた。あの日のあの時間だけ、別の何者かが私の身体を乗っ取ったんじゃないかとすら思える。じゃなきゃ、仇ともいえるチェイサーを、あんなにすんなりと受け入れられるわけがない。
彼に対してもう一度同じように振る舞えと言われても、到底無理だ。自分で言うのもなんだけど、私の意地の強さは並大抵のものじゃないんだから。大体、そんなにすぐ性格を変えられるのなら、『悪役令嬢』になんかならなかったはずよ。
そう、私自身は何も変わらない。でもあの日以来、私と彼の間では何かが変わった。
例えば、チェイサーは学園で私を見かけるとわずかに口元を緩めるようになった。それはたぶん、私しか気づかないくらいのほんの小さな変化で、でもそれがすごくこそばゆくてたまらない。
ある朝なんて、私に声を掛けようとするものだから、慌ててその場にいた教師を捕まえて質問するふりをしたりもした。それ以来、ずっと朝の登校時間をずらしている。
私はいつのまにか、チェイサーを避けるようになっていた。
* * *
課題の締め切りを間近に控え、ここ数日は放課後に集まることが多くなった。すでに大詰めを迎えているので、個別の作業はほとんどない。それはつまり、チェイサーとも、もちろんクラークとも二人きりになる必要がないということだ。集団での作業はわずらわしいけれど、それだけはありがたいと心底思った。
空き教室に全員が揃い、それぞれが作成したレポートを並べ始めた。矛盾する点があれば訂正し、最後に並べ替えて一つのレポートにまとめる予定になっている。あとは表紙をつけて綴じれば、教授に提出するだけだ。私の担当分は完璧に仕上げていたので、訂正する場所なんてひとつもない。特にすることもなく、窓際の席で他のメンバーの作業風景を眺めていた。
ここで変に目立って、チェイサーの目がこちらに向くのは避けたい。ちらりと盗み見ると、彼は少し離れた場所にいた。いつものようにクラークの横に立ち、二人で何か意見を交わしている。
そんな中、周りの人間は私とチェイサーがいつものように衝突しないのが不思議で仕方ないようだった。私たちの二人の間を、不躾な視線がいくつも往復する。
「サリバン嬢、どうしたのかしらね。ずいぶんと静かだけど」
「レオナルド様とアルバート様についに愛想を尽かされたんじゃないの」
「あははっ、あり得る!」
ちょっと、全部聞こえてるわよ。それで声をひそめているつもり?
別に私だって理由もなく彼らと言い争ったりはしない。というか、課題がもうすぐ終わるというのに揉める要素なんてどこにもないじゃないの。
馬鹿らしくて怒る気にすらならず、冷たい視線だけを送ると、意地の悪い笑顔を浮かべていた集団は急に押し黙った。ふん。今のあんたたちのほうが、よっぽど悪役みたいな顔してるわよ。心の中で悪態をつき、目線を窓の外に向ける。
左手で頬づえをつき、中庭を歩く学生たちを目で追っていると、離れた場所から様子をうかがっていた男たちから感嘆の息が漏れた。
「なあ……こうやって見ると、サリバン嬢ってやっぱり美人だよな」
「確かに」
地獄耳な令嬢たちにはしっかりと耳に入ったんだろう。彼らの意見に悔しそうな声を上げる。
「外見に惑わされちゃうなんて、ほんと男の人ってバカよね」
「少しはレオナルド様を見習えばいいのに」
またもひそひそと喋っているつもりで、全く声が隠せていない。最高学年の学生がこのレベルだなんて、この学園大丈夫なのかしら。
呆れて表情すら無くしたそのとき、私の前に歩み出た人間がいた。マリー・コレットだ。
「どうしたんですかぁ? なんだか元気がありませんね」
コレットは顔に笑みを張り付けて、首をかしげて見せる。でもその瞳はちっとも笑っていない。こちらが無言で見返すと、わざとらしく鼻がかった声で彼女は続けた。
「アメリア様がそんな様子だとみんな心配しちゃいますよぉ?」
一体誰が心配するというのだろうか。
ひねりのない嫌味に、周りの令嬢たちがくすくすと笑う。私は冷ややかな気持ちで彼女を見遣った。
チェイサーから距離を取ろうと思ったら、今度はコレット。私の辞書に平穏って文字はないみたいね。そう考えると少しやるせなくて、小さく息を吐いた。
でも売られた喧嘩は買うわよ。それがアメリア・サリバンなんだから。
「まあ、コレット様、ありがとうございます。でも心配なさらないで。アダムス男爵を訪問した日のことを思い出していましたの。とても素敵な夜だったものですから」
そう言って頬を染め、目を潤ませてはにかんでみせる。途端にコレットの顔つきは険しくなった。
「は、はしたないですよ、アメリア様!!」
「あら、何がですか? 私はただ、男爵のお話が素晴らしかったことをお伝えしたかっただけですけど」
私の言う『素敵な夜』がクラークとの時間だと思ったんだろう。期待通りに食いついてくれたことにほくそ笑む。悔しそうに顔を真っ赤にしたコレットに満足して席を立つ。
「そうだわ、クラーク様が借りてくださった男爵領の石高表がありますの。よかったらご覧になる?」
ダメ押しでクラークの名前を出すと、胡桃を殻ごと噛み砕いてしまいそうなほど、コレットの顔が酷く歪んだ。そんな彼女を尻目に資料の置かれた机に向かおうとした。そのときだった。
「きゃあっ!」
急に足元に何かが現れ、バランスを崩す。一瞬のことで何の反応もできず、そのまま床に倒れこんだ。
混乱した頭で状況を整理する。足に触れたのは、物などではなく人の体だった。立ち位置から考えれば、コレットが足を引っ掛けたに違いない。
(この女……!)
振り返ってこちらを見下ろすコレットを睨みつけた。
「コレット様、いくらなんでもあんまりですわ!」
怒り心頭の私とは正反対に、コレットはぽかんとした顔でこちらを見つめている。
「コレット様、聞いていらっしゃいますの!?」
さらに詰問する私の頭の真後ろで、やや低めの声が響いた。
「サリバン嬢、無事ならそろそろ退いてくれないか」
思った以上に近い距離で聞こえた声に、驚いて振り返る。
「…っ?!」
グレーの切れ長の瞳と視線がぶつかる。
そこにはチェイサーがいて、私を抱え込むように床に座り込んでいた。彼の両方の手が、かばうように私の腕に添えられている。
「なっ、えっ、チェイサー?!」
頭の中が真っ白になった私を見上げ、チェイサーはヘラリと笑った。
「いや、揉めてるみたいだから止めようと思ったら、君が派手に倒れこんできたんだ」
だからって、何で私の下敷きになってるの?!
いろいろ言いたいことはあるはずなのに、何故か言葉が出てこない。口を開けては閉じるのを繰り返す私を見て、チェイサーは目をぱちくりとさせた。が、次には笑いをこらえるようにさっと顔を逸らす。
「……!」
ぷるぷると震える横顔を見ながら、私は羞恥で死んでしまいそうだった。顔から火が出るってこういうことを言うんだわ。
慌てて立ち上がり、両の指をぎゅっと組む。するとチェイサーも腰を上げ、自分の制服の埃を叩いて払った。そして何もなかったかのように、うつむき沈黙する私を覗き込むように話しかけてくる。
「どこかぶつけたのか? 医務室に行くなら、」
「そ、そうですわね! 医務室にいってまいりますわ!!」
チェイサーの言葉を途中で遮って叫ぶと、あたりは静まり返った。部屋中の視線が私に注がれているのを感じる。
唖然とするギャラリーを極力見ないように努めながら、私は足早に教室を出た。
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